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「黒い雨」 [reading]

 暗いんだろうなと思って大分覚悟して開いたけれど、意外にも抵抗なくすいすいと読み進められた。
時代のせいなんだろうけど、とにかく漢字がいっぱいで、読みづらかったのはそういうところくらい。表現として読みにくかったところは思い返す限りそうなかったと思う。
 戦争小説、それも被爆体験をつづったものであるという予備知識からしたら、拍子抜けするほどのこの読みやすさ、親しみやすさとすら感じ取れる印象は、おそらく井伏自身の人間性のなせる技なんだろう。あとがきで井伏の人物紹介をしている人の意見と比べてみても私の印象はそう間違ったものでないなと思った。
 私自身は井伏の作品は初めて読んだのだけれど、読み始めてすぐにこれは「井伏らしい話なんだろうな」と思った。本人と知り合ったら好きになっていたかもしれない。好きって、好意を抱ける人という意味でね。素朴で、嘘ついたり、見栄を張ったりすることのない人なんだろうなと思った。彼の上司とのやり取りを見ていては、世渡りもそれほど器用そうでないのがますます好印象だった。とにかく「狡猾」って表現から闘争縁遠いような人柄に思えてそれが好きだったの。もちろん、この話はフィクションということになってはいるけれど、それでも本人がこれからさほど遠くない人柄であろうという考えはずっと離れなかった。奥さんもいい人で、用意された言葉なんかはどれも実務的なことしか言わないんだけど、それでもなんだかとてもかわい人であることが否応なしに想像させられた。印象的だったのが、結婚前も結婚後も目立って恋人らしい仕草をしたことのない二人が、原爆症に苦しむ姪のためにそんなことも忘れて手をつないで、それも奥さんのほうが手を取って庭へ出ていく場面。それに気付いてうろたえるのは、重松の方なのが余計にかわいらしかった。大恋愛なんて、それが経緯で結婚したって犯罪みたいに思われている世の中だから、結婚は親や親戚やら、とにかく周りの人が決めたりするもので、本人の気持ちががどうとかなんてことではまずなかったであろうご時世に、こんなに心からお互いを気遣えるような夫婦がいるなんて奇跡だなと思いながら読んでいた。私だったらまず無理だろうと思う。その気もないのに添い遂げる誓いをするなんて。それだからこそ、この重松とシゲ子夫婦は私には清く、尊いものに見えて羨ましかった。しかし驚いたことにこの作品にはたびたびそんな夫婦愛の深い組がちらほら出てくる。どうしたことか。他人の決めた縁組でそんなに素敵な夫婦が出来上がるなら恋愛しないほうが幸せに暮らせる確率は高いんじゃないかとさえ疑った。まあとにかく、そんな献身的な奥さんに恵まれた旦那衆を私は羨ましく思いながら読んでいた。

 「ジェノサイドの丘」を読んでいたせいか、残酷な描写には「ジェノサイド」程の抵抗は受けなかった。もちろん凄惨な描写は物語の中にたくさんちりばめられている、けど、この物語の伝えんとしているところは、被爆者がどんなに人間離れした外観になってそぞろ歩いていたかをつぶさに語ることではなくて、重松が、重松の一家がどうその中を、その後を生き抜いたかである。だから、重松がそんな中に出向いても景気はさながら電車の車窓を流れるがごとくに語られる。重松が周りのそういった風景に気を取られまいとしているのがよくわかる。だから読者もその風景を流れるがままに見ているだけで立ち止まっていちいち皮膚の焼けただれ方がどうとか、指があるとかないとか、興味半分に検証することはできない。それでさえ、そうして風景の中をわき目もふらず突っ切るようにしているにもかかわらず、目にしたくないもの、してもにわかには信じられないような風景がごろごろ、というより、そんな風景ばっかりだ。そんな非現実の中を正気を保って突っ切るには周りに気をとらわれないことだ。重松の歩調は厳しい。生き地獄を地獄とも思わず、彼の言うとおり、そこにあるがままを受け止めてとにかく目的地に向かって歩を進める。そんな、普通の人から見れば、のんきともとれる気丈さが重松を、重松一家を助けた。私にはそんな風に思えた。とにかく重松は、重松一家はこんなことになってもパニックを起こさない非常にできたというか、肝の据わった一家だった。しかし、その出来具合が矢須子の命を蝕むことになったのだろうけれど。

 一番不愉快だったのは、軍人の横柄で不遜で無知蒙昧な態度、ハルキなら「想像力が足りないせい」と言うところだろうけど、よりも、戦後重松一家が移住した村での差別だった。被爆者が養生しているのを「いい御身分」だと揶揄するばばあ、敢えてばばあと言わせてもらうが、がいて、読んでる私の方が悔しい思いをした。
 どういうことなの。どうしたらそんな卑しい考えが持てるの。一億総玉砕とかいう、居間でならとんでもない迷信と言いたくなるような話を当然の予定のように民間人同士が話し合う世の中で、国のために働いていた人が、敵に襲撃されて負傷した人がなぜそんな差別的な言葉に晒されなければならないの?何も言い返さない重松に私は頼りなさを感じたけれど、読み進めるにつれ、その土地では重松はよそ者であることに気が付いて、重松が自分の「意見」を自重する姿勢も理解できた。悲しいけど、日本て、そういうところだっていうことも今の私には痛いほど分かる。よそ者はよそ者として扱われる。権利とかっていうのは、まるで土着の人間にしかないみたいに。重松一家はどんなにか肩身の狭い思いだったろうなぁと思う。そんな状況だからこそ、人のいい矢須子が自分の病状を言い出せなかったのも私には納得がいった。原爆症がただの怠け者としてしか理解されていないような無学な土地で、一家に二人も原爆症が出たらそれこそなんて思われるだろう。矢須子は尊くて、そして清かった。幸せは、彼女にこそ訪れるべきだったと思うけれど、重松の言うとおり、きっとそれは難しかっただろう。そして聖処女みたいな矢須子が原爆症で失われても、卑しい婆の考えを改めることはできなかっただろう。そのことを憎いと思った。矢須子や重松のために。王国は、彼らのような人たちの元にこそ訪れるべきだと、今思う。

 実際、この話は駆け足するみたいに読めた。それは重松の焦燥感が乗り移ったせいだとも入れるけれど、それが可能だったのは、井伏と私の波長があったからだろうなと思う。物語の屋台骨は二重にも三重にもなっていいて、さながらマトリョーシカみたいな入れ子状態なんだけど、そのどれもが焦燥感に駆られているので否応なしに駆け抜けるように読み進める形になった。
 フレームの一番外枠は、終戦後数年断って、重松たちが小畠村に住まう、逃げ延びたという表現を使ったほうがふさわしいかもしれない、現時点。矢須子が被爆の疑いから縁談が危うくなっていきていることから重松は「原爆日誌」の完成を急いでいる。
 二層目のフレームは、その重松が描く「原爆日誌」だ。この中では文字通り、焼け野原を右往左往しながら逃げ惑っている。重松はそのたびに明確な目的地を持っているものの、無駄骨ばかりだ。というか、その時生きている人間の血道をあげていることのほとんどが意味のないことなのに、彼らは盲目的に、というか、それまでの世界はまだ失われていないと当然のように信じ込んでいて、以前と同様な生活を維持しようと躍起になっている。それが私の目には異常に映った。町が、広島市全体が一瞬で吹き飛んだのに、工場を今までどおりに操業することが最優先事項だと本気で考えているなんて。言っておくが、その工場が操業を続けることで助かる人間は一人もいない。にも関わらずだ、操業を続けるための石炭を死に物狂いで確保しようとする。そういう姿勢が当然のように語られて実行される。その風景の物語るものに戦争の、当時の日本の「統制」ってやつの巨大さと、薄暗さを垣間見たような気がした。ここで断っておかなきゃならないのは、私はこの作品を読んでもそれをあくまで垣間見たにすぎない。実際にそれがどれほど暗く、巨大で、有無を言わせないものだったかいまだに理解できないでいる。理解したくないという気持ちも作用しているのかもしれない。でも、最近戦中の話を読んだり聞いたりする上で私が思うのは、そういうことをつぶさに調べて理解しなきゃいけないってこと。どうしたらそんな「統制」が可能だったのか、解明して、みんなで理解する必要がある。同じことが二度と起こらないようにするためには、どんな事件や事故でもそうだけど、事実を正確に理解することだ。普段の生活で犯罪が起きれば、不当な事件が起きれば、はみんな当然のように真実を追求するくせに、それがこと戦争になると急に口をつぐむ。そして口をつぐむのは、公的組織と言うよりもむしろ民間人の間にも顕著な現象になっている。なぜだと思う?なにか後ろ暗いところがみんな大なり小なりあるからだと私は思う。けど、それは本当に個人が問われる罪なんだろうか。分からない。一体どんな経験を潜り抜けたら、そんな風になってしまうんだろう。そんな風にみんなで口を閉ざしている中で、国と国の間ではまことしやかな数字を口にして保障がどうとか、責任がどうとかいう話だけがどんどん独り歩きしていく。黙っているだけそんなのではないだろうか。いや、もしかしたら世に噂されている異常にひどいことを日本軍はしていたのかもしれないけれど、でも、むしろそれだからこそ、それではたして世の中に真実なんてありえるんだろうかと考えてしまう。思うに、戦争責任者は本当に責任を追及するなら、殺してしまうべきではないね。その戦争の全貌を根本のところで把握しているのはそいつしかいない。だからつまり、連合国側だって口封じのために東条英機なんかを殺したんだと思われたって仕方ないよね。真実を追求する権利は、私たち日本人にもあったはずなのに。
 話がそれたけど、物語は主にこの二層目と、小畠の一層目を行ったり来たりする。それでちょっとめまいみたいなものを感じる。戦火の中から急に平穏な農村へ無理やり引き戻されて、一瞬周りが分からなくなる。それくらい唐突に現実に引き戻される。「ごはんですよー」みたいな声に重松が我に返っている瞬間だ。つまり、私も文章を書いている重松くらい熱心に戦火の中に捕らわれてしまっていることになる。重松はまだいい、「ごはんですよー」と言われている本人だから、我に返りようがるってもんだが、私はちょっとうろたえる。『なんだ、なんだ、急に話はどこにいっちゃったんだ』とあわてる。
 さらにその第二フレームの中に、シゲ子の「お料理日記」やら「看病日記」、重松が入手した他の被爆者の体験記などが層をなしている。重松は矢須子の被爆の疑いを晴らそうと躍起になって「原爆日誌」に飛びついたのだが、それを書き進めるにつれて重松が改めて発見したことは、皮肉にも矢須子もまた被爆したの者のうちの一人だという事実だった。確かに原爆が投下されたその日に矢須子は市内にはいなかったかもしれない。けれど、矢須子のように広島市の被災を知って駆け付けた人もみな原爆症にかかり、悪くすれば死んでいった事実を振り返るにつれ、重松は茫然としたに違いない。今まで矢須子が丈夫でいたからそんなことは露ほども考えに過らなかったけれど、確かに矢須子も被爆したのだ。一緒に被災した町の中を逃げたのだから。クラゲ雲の下、黒い雨を受けたのだから。

 最近、戦時中の「統制」っていうのが実際どんなものだったのかということに興味がある。どうして「一億玉砕」なんてのがあり得ると思っていたのか。どうしたらその一億の頭にそんなばかばかしいことをまことしやかに植え付けられたんだろう。「黒い雨」には他にもとんでもない迷信が真実見たいにみんなの間で交わされるが、みんながそう言ってるんだから、みんながそう思っていたってことで、それが怖いというか、もう、理解不能だった。その理解不能の迷信のひとつに、敵に占領されたら日本の男はみな去勢されるという話。 ??? そんな話し始めて聞いた。けど、みんながそう口々に言う。当時の人はきっと本当にそう考えて怯えていたんだろう。怯えてないまでも、そうなるかもしれないと覚悟をしていたんだろう。去勢してどうするんだろ頭の中を ??? でいっぱいにしていたら、その話のあたりに「民族」って言葉が出てきて、急に合点がいった気がした。この戦争は、少なくとも日本人にとっては、民族をかけた戦争だったんだということを理解した。大陸に浸入していったのも、東南アジアに進出していったのも日本の領土を広げるってだけじゃなく、そこに日本人を植えるけるという考えの元だったのかもしれない。だからレイプが当然のように横行したのかもしれない。軍人は、それも仕事と思っていたのかもしれない。しかし、どれだけ考えても私の想像の域を脱しない。けれど、もしも日本人が民族の拡大を心の底でもくろんでいたののなら、その戦争を率いた幹部がヒトラーに共感したであろうことは容易に想像がつくよね。
 それにしてもいつも不思議なのは、どうしたらあんなことが組織だててすることが可能なんだろうか。組織になる前に停められる人がいてもよさそうなもんなのに。こんなことになる前にその人を止められる機会がいくらでもあったんじゃないかと思ってしまうのは私だけだろうか。あの人たちは何で結びついていたの?何が人間が人間を理不尽に蹂躙するような社会を当然のように成り立たせられたんだろう。なにがあの戦争を可能にさせたんだろう。何が人間に憑りついていたんだろう。どの戦争でもその理由は明らかにされていない。と思う。だから何度も同じことが繰り返されているんじゃないだろうか。結局、あんなに苦しみ抜いた末に私が得たものが何だったのか、ちゃんと理解している人っているのかな。
 重松が焼け野原になった広島を彷徨しながら憎々しげに思う、「正義の戦争より、不正義の幸せのほうがいい」。罹災者のこの心からの慟哭に、それで私には素直にうなずけなかった。日本はあの戦争に負けて、誰もが願ったように今不正義の幸せのただ中にいる。全てに目をそむけた欺瞞の中にそれぞれの小さな幸せを囲っている。目の前の貧困や不幸からとにかく抜け出したくて、恥もかなぐり捨てて、なりふり構わずアメリカの尻を追いかけて、追い越して、これで私たちはよかったのだろうか。なんとなく、振り返りたくない過去に蓋をしただけのように思えるのは私だけか。代償を払うべき世代が払わなかったことで、なにも知らない世代が責められて、この先別の人たちがまた同じ轍を踏まないことを願うだけだ。

 実は「黒い雨」は読んでみたいと思っていた作品ではなかった。むしろ読みたくないr部類の本だった。戦争文学なんて、ましてや被爆体験なんて、とても軽い気持ちで手が出せたもんじゃない。けど、読んでみてよかったと思う。今まで読みたいと思ったこともなかったし、これを買ったのも、他に手にしたいと思うような本が近所の本屋にはないという情けない理由だったのだけれど。文学好きと称すからには「カラマーゾフ」を一度は読んだことがあるんだろうなと言われるように、日本人ならみんな一度は読んだほうがいい。千羽鶴の意味も分からないような大学生がいる世の中じゃ、この本が描いているものを理解できる人は少なくなってきているのかもしれないけれど。でも、作中に出てくる卑しい婆を思い浮かべるに、そんな奴は当時でもいたんだ。今の時代だから理解が少ないってことはないかもしれない。と、前向きな希望を抱いてみたりもする。

 とにかく、私は井伏の文章が私の趣味にあって、「黒い雨」を意外にも楽しめたということよりも、その基本的なところでの共通点が出来たことが素直にうれしかった。本当は「山椒魚」を読みたかったのだけれど、うちの前の本屋には「黒い雨」しか置いてなかったから。井伏の作品を「山椒魚」意外にももうちょっと読み進めてみようかなと思える出会いになった。
 けど、井伏って、画家を志してダメだったからあっさりと文学に転向して、成功している。戦争に巻き込まれ、被災しているにしても、そこから生きて戻ってこれている幸運を考えると、彼の人生はあまりのも手放しに祝福されすぎているのではと思って、はっきり言ってちょっと不愉快だが、実際そうだったんだから仕方がない。それでいて彼の生活が庶民のそれから離れなかったことが好感を持てた理由の一つかと思う。彼は幸運な人だった。そういうことだったんだと思う。
 幸運か。それは人生が終わってみないと私の場合は何とも言えないね。今のところ私もその部類に入るのかもしれないと思うけれど。


黒い雨 (新潮文庫)


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「蜘蛛の糸・杜子春」 [reading]

*** プロローグ ***

 「蜘蛛の糸」は小さい頃から好きな話だった。「まんが日本昔ばなし」で「蜘蛛の糸」を見たと言う記憶は定かではないけれど、お母さんの実家の居間と言うか、居間兼仏間と言うかに小さな本棚があって(多分あれは本来本だなとして使われるものではなかったかもしれないが)、そこに「まんが日本昔ばなし」の本になったものがあった。子供の手に収まるような小さな絵本だったと思う。
 「蜘蛛の糸」は決して子供好きのするような話じゃないと個人的には思うんだけど、でも地獄って言う暗い印象に強く惹かれた。あの独特なおどろおどろしさと言うか。とにかく、お母さんの実家に行くとよくその小さな本を夢中で読んでた記憶がある。
 多分、もともと絵本が好きな子供だったんじゃないかな。特に、珍しいどんな国か知りもしない外国の昔ばなしとか、絵本に惹きつけられて今でも、お話や絵を断片的に覚えてる。ネコが郵便局のお手伝いをするのと、なんかアラブの王子が身分を隠して豚飼いかなんかになって、女の子の期を引き様なちょっとエッチな感じのする話。題名を覚えていないのが残念だけど、今でもあるなら読んでみたいな。


【蜘蛛の糸】
 すばらしい。この文章力は子供の話にとどめておくにはあまりにも完成度が高い。こんなにきれいな敬語のつらつら出てくるお話を他に読むときがあるだろうか。敬語って美しいんだなと気づかされたよ。読んでて気分がよくなるくらい。敬語って言うのは言葉の響きの問題でもあるのかもしれない。身分の高い人の耳に雅に響くようにって。

 大人になって読み返しての感想は、やっぱ神様って気まぐれで、無慈悲なんだなってこと。思いつきで助けようなんて思うなよ。ひどい奴だな。人間弄んでいるようにしか見えない。あいつは、日がな一日庭をうろつきまわって、朝に思いつきで蜘蛛の糸を垂らし、昼にはまた違う犍陀多を違う蜘蛛の糸で助けようとするに違いない。
 蜘蛛の糸の教訓は「どんな罪びとにも慈悲の心があって、そのために救われ得る」と言うのが一般的らしいが、個人的にはもしそれが本当なら地獄に落とす前にそのチャンスをやれよと思う。
 そもそも神様って考え自体が公平性を欠いていて嫌だ。それとも、宗教とは世界に公平なものなどないと言うことをこそ知らしめるための存在なのか。宗教やってるやつらはいったいどんな世界を理想としているんだろうな。資本主義か?社会主義か?

 あとがきの中の解説に面白い研究の話がある。「蜘蛛の糸」の原案を見つけたと言うものなんだけど、芥川が依ったであろう同じ原案をロシアでトルストイが翻訳している。その名も「カルマ」って話で、どうやらアメリカ人作家の作品が元ネタのようだね。こういう研究面白そうだなって思う。「抱擁」ってアーロン・エッカートとグウィネス・パルトロウが出てる映画を見てからそう思うようになった。あんなことだけが仕事で生きていけるなんて羨ましい。新しい発見なんてそうそうないだろうに。それどころか多分、重要な情報はきっとそれと気づかれずに日々捨てられていっているに違いない。
 研究っていいな。私も大学院に進めていたら誰か自分の好きな作家を研究したいって思ってたけど。


【犬と笛】
 ダンジョンもの。そんな感じ。

 「髪長彦は横笛を手に入れた」

 みたいな。
 1つの冒険で1つのアイテムを手に入れて、次のステージに移り、そこではその新しいアイテムを使うようなドラマが待っている。RPGの基本でしょ?やったことないけど。
 
 髪長彦は草食系だ。それでいて、両手に花とはいやらしい。オチに、

 「どちらの姫様が、髪長彦の御嫁さんになりましたか、それだけは何分昔の事で、今でははっきりとわかっておりません」

 だって。今までこんだけ詳細に語っておいて、そんなことだけは昔扱いかよ。
 もちろん両方嫁にもらったにきまってる。神が一夫一婦制だなんて、まさかそんな。気に入ったのはみんな嫁にするにきまってる。産めよ増やせよなんだから。

 芥川自身がもやしっ子であったためか、主人公が男気溢れるみたいな精悍なタイプに出会ったことがない。なぜ髪長彦がこんなビジュアル系みたいなほ容姿である必要があったんだろう。その女男みたいな外観がストーリー上重要な役割を担っているという訳でもないのに。
 変なの。


【蜜柑】
 解説によるとこれは別に童話といことではないらしい。でも、芥川の鬱々とした性格がよく分かるよ。そんなに気になるなら声掛けたらいいじゃん、その女の子に。
 「三党車両は向こうですよ」
 とか
 「煙が入るので窓を開けないで貰えますか」
 とか。
 龍之介とは名ばかりで、とんでもない意気地なしだ。だから死んじゃうだよ。自分から何も言うこと、聞くことなしに娘の大度を厚かましいとか、卑しいと蔑んでいる。
 けれど、だからこそ、まだ娘と言うにはあまりにも子供じみた女の子が、窓から蜜柑を放り投げた時のこの男の胸に去来する感動は大きい。

 彼の心の中もこんなふうに、普段は暗く沈んだ中に一瞬の鮮烈な印象を見るようなものだったのかなと、そう思った。


【魔術】
 『これ、芥川の話だったんだ』
 って、読んでて気がついた。
 昔、中学生の頃だったか、高校生の頃だったか、近代文学のミステリーだけを集めたアンソロジー本があって、「不思議な物語」とか言うタイトルだったと思うんだけど、今記憶を頼りに調べてみたら「幻想文学館〈2〉なぞめいた不思議な話」だった。そうそう、所蔵作品がこんなんだった。
 聞いたこともない外国文学ばかりだったけど、もともと外国文学に抵抗がなかったし、結果的に私個人の文学史にとってかなりいい重要な出会いとなった。
 私が最初に読んだ漱石の「夢十夜」はこれに納められていたから。

 そこにこの作品も入っていたんだ。今改めて目録を見ると日本人作家の作品は漱石と芥川しか納められていないんだね。おそらく私がこれを読んだ当時の年齢よりも下を狙って編集されたと思わしきアンソロジーではあるが、日本人作家以外の作品はかなり難易度が高いものであったという記憶。
 かなり気に入っていた本だから捨てたはずはないけれど、どこかにあるにしてもホイと手の届く所にはないだろうな。

 最初の一行を読んで、降りしきる雨音と共に記憶が襲いかかってきた。提灯を付けていても暗くて何も見えない洋館の前、雨音で他の音は何も耳に聞こえないくらいの大雨。そう言った映像が、水の匂いもするかと思うくらい鮮烈に思い出された。
 これほどまで異様に生々しく雰囲気を感じさせる話はない。暗い室内、ランプは灯っているけれど闇が濃くて、燃えている炎意外に明るくなるものがない。男が二人小さなテーブルをはさんで向かい合って、葉巻の紫煙が湿気で重くなった空気の間をくゆっている。私にも雨の音が聞こえそうになってくる。

 話はね、オーソドックスではあるけれど、無駄がなくてむしろ小気味いい。そこに芥川なりのスパイスが効いていて、ありきたりのプロットを絞めている。カードのキングがニヤリと笑うところなんか悪趣味で作品の雰囲気に合っていると思う。
 「魔術」はそこに描かれている世界を読者の目に鮮やかに映して見せる。キングも小説とは、そこにないものを見せることが出来ると言っている。そういう力が最大限に引き出されている感じがする。
 確かにこの作品には「魔術」があるかも知れない。


【杜子春】
 これは有名なんで、読んでみたいと思っていたけれど、思ったほどのものでもなかったな。 
 特に杜子春が再三再四財産を破産する姿はあきれる。なんでもっと大事にして生きれないんだ。それをこそ教えてやれよ。何度身の程知らずな財産を与えても、一昼夜にして散在する杜子春に、湯水のようにチャンスの与えられることが私には信じがたかった。杜子春のどこにそんな価値が?得られた財産を管理もできず、付き合う友達も選べず、一文無しになるはまったく杜子春の甲斐性のなさが招いたものなのに。こいつにんどんな徳があったらこんな度重なる助けが得られるんだと私は杜子春を妬んだ。
 と言うことで、むしろこの話は私にとっては不愉快だった。
 だって、最後には希望通り人里離れて静かに暮らしちゃうんだよ?それも、家具調度一揃いの一軒家付きで。
 世の中ってやっぱ不公平なんだなぁ。


【アグニの神】
 ヒーローもの。拳銃持ってるし。ドア蹴破って入ってくし。相手はお嬢様だし。
 信じられないけど、書生が自分の主人の娘を探すのに、現地当局が信じられないからと言って、拳銃一つ持って知らない街をさまようと言う、その姿をもっと一生懸命掻いたら立派なハードボイルド小説になったと思うんだけど。しかし、拳銃は最後まで火を吹かなかった。それもまたもやしっ子の芥川らしいけど。
 個人的には、アメリカ人が日米間の戦争の開戦を占いに来る辺りが、逆に現実味を帯びていて好ましかったな。


【トロッコ】
 これは、私が男の子でないせいか退屈な話であったけれども、良平がおびえて急き立てられるように走りぬく様子はどこか自分にも身に覚えのあるようなノスタルジーと焦燥感が感じられた。そして良平が走り始めると同時に周りの物が急に色彩を帯びてくる。良平が疾風の如く駆け抜ける景色、町並み、驚きの表情で良平を振り返る顔、顔。そんなもの達に急に色が付き始める。
 けれどその鮮烈な印象もひとしきり治まると、物語は急速に熱を失い、なんの脈略もなく良平の18年後に飛んでゆく。芥川はこんなにも幼年期の思い出を色鮮やかに引き出すことに成功しているのに、なぜそこへ苦々しいサラリーマンの生活なんかを振り返えさせたかったのだろう。不思議。

 でも、子どもにとっての知らない人って往々にしてこうだよなと、私自身も身に覚えのあることとして思いだした。親切にしてくれているのかと思ってなついていると、実はあしらわれていただけだったりしてさ。それで子供の心がどれだけ傷つくことか。見ず知らずの人にそんなふうに扱われることに。そうして他人に対して用心深くなっていくのかも。
 でも、不思議と自分の親をそんなのと同列にみたりしたことはなかったな。やっぱり別人と思っているんだろうか。良平も大人にあんな目にあわされて最初に駆け込んだのはお母さんの胸の中だった。


【仙人】
 これは突拍子もない話で好きだった。
 私も松の枝から権助が「どうも有難うございます」と言って空へ昇って行く姿を見たかった。
 ただ、そんな昔から転職エージェントってあったんだと言うことを知って驚いた。
 ふうーん、いつの世も人間の考えることって一緒なのね。人って賢くなってんのかなと思わず首を傾げたくなる。


【猿蟹合戦】
 これはパロディなんだけど、子供が素直に喜ぶ鳥獣の勧善懲悪ものを、なにもこんな厭な話に仕立てなくてもいいのにと気持ちがやつれた。
 ほんと根暗だな、こいつ。
 ただ、連合軍側に「卵」って言うのが出てきて驚いた。私は猿蟹合戦に生モノが出てくるという記憶はなかったから。でも、解説を読んだら、連合軍側には「栗」がいたとする説と「卵」がいたとする説があるそうな。しかしいずれも囲炉裏に落ちて爆発したのが猿に飛び掛かるということらしいんだけど、卵っが囲炉裏に落ちて爆発するかなぁと思ってちょっと怪しく感じた。電子レンジならまだしも。


【白】
 白が黒くなっただけなのに自分の飼い犬と気付けないなんて、その飼い主に白の努力ほどの価値があっただろうか。私ならジョディが黒くなったってジョディだって気が付くけどな。
 このフィクションはなんだか滑稽だった。コメディというより滑稽。白の活躍を新聞が報じるあたりとか。
 それよりも「犬殺し」なんていう職業が大っぴらにあったことが憎まれる。それくらい当時は野良犬も自由に暮らしてたって言うことなのかもしれないけど。でも、そんなに町に犬が溢れている様子が想像つかないよ。ましてやそれを人が首に縄ふんじばって連れてく様子なんて。
 関係ないんだけどさ、この前テレビで桃太郎侍が三味線には猫じゃなくて犬の皮を使うんだと言って私を驚かせた。犬皮(けんぴ)って言ってそっちのが高級なんだって。猫の皮のは練習用なんだって。
 そしたらさあ、そうやって連れてかれちゃった犬猫はみな同じ運命だったのかなぁとか考えちゃった。
 犬の皮で楽器って……。今でもそうなのかしら。

*** エピローグ ***

 「まんが日本昔ばなし」はなんかテープでも持っていたように思う。「髪長姫」とか。そんでそのテープを聞きながら絵本に見入っていた記憶がある。
 「まんが日本昔ばなし」は大分大きくなっても録画して家族みんなで観てた。連載の最後の方はさすがにネタ切れ、内容もマンネリ化してきちゃってて、観る方もダレて来ちゃってたけど、それでも夢中になってみてた頃は、画像も、ストーリーテリングも子供の見る番組にしては質が高かったと思ってる。今質よりもお手軽さが好まれるような世の中じゃ、望むべくもないクオリティだったと思ってる。それは多分あの頃のアニメ全般に言えることなんだろうなと最近昔のアニメを見返してて思うよ。どうしてこんなにチャライキャラクターの薄っぺらいドラマのアニメばっかりになってしまったんだろうな。あれじゃ子供の心も育たんわね。
 それほどに高品質な子供向け番組がDVDはおろか、再放送の目途も立たないなんて悲しい話だわな。大人が目の前の利権にうつつを抜かしている間に子供は育ってしまうよ。再放送やDVD出版が決まってからまた小さくなるってことはできないんだよ?世の中には取り返せないものがあるってことに気が付かんかな。
 ただもうそんな風にして、今ではもう希釈な娯楽にどっぷり浸かってしまっている子供たちが、こんな骨のある文章を読んで何か感じたり考えたりできるのかな。
 いろんなことが悪い方にしか進んでいないような気がするのは私だけかな。



蜘蛛の糸・杜子春 (新潮文庫)


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「伊豆の踊子」 [reading]

【伊豆の踊子】
 なるほど。青春小説とはこういうものかと感心した。
 27の時に書いたにしては、解説を書いている人もそう言っているように、あまりに瑞々しい。あんなに傷つきやすくきれいな感情や情景をいったいどうやって27まで囲ってこれたんだろう。
 二十歳にもなって世間知らずにもほどがるというほど健全な男子、いや、いっそ男の子と称した方が相応しいくらいまだ精神的に幼い主人公の心の動きを鮮やかに描いていると思う。その心が捉えて描く世界は清廉で鮮やかだ。康成自身が好きであるように、「清潔」、そんな感想が相応しい話だと思う。

 「伊豆の踊子」の舞台を私も個人的に知っていて、好きな場所であることが作品の評価を高めていることは否めないけれど、彼の描写が私の想像や思い入れを超えて優れているからこそでもある。雨が霧となって麓から迫ってくる様子は、静かな迫力に満ちていてまさに息をのむ思いだった。ほんの束の間目にとまっただけの情景を、その時の鮮烈な印象を、または静かに胸に迫る抒情を、余すとこなく美しい響きの文章で綴っている。川端の自然描写は「高級品」という感じがする。嫌みのない清楚な高級感だ。それは川端自身のつつましさの中にある美意識そのものなんだろうと思う。

 私は明治や昭和中頃までの作品、近代文学って言うのかな、を最近よく読むけど、一世紀も前ってわけでもないのに既に社会常識が馴染めなかったりする。
 高度経済成長期の国民総中産階級とかいう現象を経て、バブルを創造し、崩壊させてなお、資本主義を追求することで見せかけの経済回復をなしえたかに見えかけた途端、その見せかけを繕っていたからくりが瓦解して、100年に一度とかいうおとぎ話みたいな枕詞のもと未曾有の景気後退を招き、見せかけの経済回復の本質であった二極化という不可逆的な社会制度が既成事実として存在する今、川端の作品を読んで思う。

 人間て、言うほど平等であったことなんてないんじゃないの?

 私は団塊の世代の子供で、「いじめ」と言う言葉以外で差別と言うことを実感したことは殆どない。自分が女性であることや、雇用形態それ自体が差別の対象であるということに気が付いたのは、もっと後になって、私が社会人になって仕事で活躍できるようになってからだ。
 それまでに私が聞いて知っていた差別って言うのは、子供の「いじめ」を除いたら、「同和」だった。部落ということを考えるといつも後ろ暗い気持ちがする。同じ人間により卑しいものがいるという考えだから。極論を言えばさ、いると思うのよ。「卑しい人間」と言うのが。ニュースを見てたらそんな人間のクズの話で持ちきりじゃん。けど、同和と言う差別は質が違うと思う。明らかに人間性を否定する考えだ。中世ヨーロッパがそこらじゅうでやってたユダヤ人の隔離政策と一緒だ。隔離される側に人権なんてない。果たしてそうなのか。同じ人間じゃないのか。「ヴェニスの商人」でもアル・パチーノがそう言って吠える。本当の悪はシャイロックなのか。
 話が逸れたけど、つまりそんな差別に私が感じる後ろ暗さが、この見た目は太陽のようの元にキラキラとのびのびと四肢を伸ばす若木のような「伊豆の踊り子」の物語にそこはかとなく付きまとう。村の入り口の立札を読んでその気持ちは固くなった。踊り子って、旅芸人てどうしてそんなに卑しい目で見られなくちゃいけなかったんだろう。乞食と同列に扱われているんだけど。托鉢僧なら功徳を説いてくれるからいいけれど、唄やお囃子はありがたみがないってそういうことなのかな。違うよね。きっと、盗みとか、売春なんかをするグループもいたんだろうな。
 まあだから長い話を短くすると、旅芸人と言うのがそんなふうに疎まれる存在であったということがショックだったのよ。考えてみれば、昔は流れ者ってこと自体が人に警戒される要素だったんだよね。「村の入口」っていう表現にもちょっと動揺を隠せない。だって、今、町とか地区の境目が分かる?「ここからどこどこ町です」みたいな。そんな区画を示す看板が出てるのは今時商店街くらいだよね。
 昔お父さんがこの辺の読み方が独特な地域のことを「読めない人をよそ者と区別したんだよ」と言うのを聞いて少なからずショックを覚えた。なぜよそ者と区別する必要が???してどうするの??
 「踊子」に出てくる「村の入口」にこの時の話を思い出した。「村の入口」自体が差別の象徴のように思えた。ただその反面、当時彼らがそうしてまで守ろうとしていたものが分かるような気もするんだ。彼らは自分たちの生活を守りたかっただけなんだろうと思う。つまり、誰かよその人を受け入れる余裕がないんだよ。自分の生活を守るんで精一杯で。その生活を脅かす恐れのあるものは極力排除したかったに違いない。彼らの自衛の力は弱かっただろうから。リスクは負えなかったんだよ。それでもさ、やっぱりそんな汲々とした姿はなんとなく悲しく映る。誰も誰かのこと思いやれないなんて。
 そう思うとさ、今も昔も対して変わらないんじゃないかって思うんだよね。それが動物の本能としても正しいと納得できたりもする。けれど、きっとだからこそ、利害を超えた思いやりが「人」として尊ばれるのだと思う。 

 大分脱線したけれど、瑞々しさの裏にそんな暗いものも渦巻いているということだよ。
 あと、基本的に古い時代の話は当然風習が違うので、他にも色々驚かされることがある。旅館のお風呂が混浴だったりとかね。『ありえねー……』と思ってびっくりした。そう言えば、男湯に入ってきた10歳の女の子を盗撮して捕まった人がいたけど、それは女の子の父親に8割がた罪があると私は思う。お父さんと一緒にお風呂に入るのはいいと思うけど、公衆浴場はまずいんじゃないの。お母さんと一緒に入れないやむにやまれぬ事情があったのかもしれないけれど、そうでないならお父さん保護者として認識が甘いよ。
 ついでに言うと、冷静になって考えてみれば、「伊豆の踊り子」はハタチの学生が14歳の子に惚れると言う、今だったらそれもどうかと思う色恋話ではある。
 ただ、学生の目当ては踊り子ばかりでもなかったんだろうとは思う。きっかけは彼女であったかも知れないけれど。孤児根性に歪んだ彼の精神が、親子で連れ立って歩く旅芸人の陽気な姿に惹かれたとしても何の不思議もない。人一倍さみしがり屋で、それを言うこともできない(もしかするとそれが寂しさであることにさえ彼は気づいていなかったかもしれないけれど)不器用な川端の若い強がりや、身の程知らずな見栄っ張りも物語の中には随所に伺える。しかし、後年これを書いている彼自身はそれが世間知らずゆえの不作法であることをよく分かっているようで、そうした様子を素直に描ききれている。そこが小気味よかった。
 それに、この踊り子は、ハタチの寂しい学生が一目惚れしてしまうほどの魅力を十分持っているように描かれていた。綺麗な女の子が、何の得もないのに、自分になついて言葉少なげにただひたうなずいたり笑ったりする様子は、男なら誰だって心を動かされるはずだ。「仕草がかわいい」という思う男の気持ちを、学生に対する踊り子の様子を見てたら理解できたような気がする。
 14て言うのは特別な年頃だ。萩尾望都もそう言っている。本人が望むと望まざるとにかかわらない、ドラスティックな(なんか春樹みたいな表現だな)身体的な変化が起きる時期だからだろうと思う。そう言う否応ない人の心身の成長としての変化は、この後にも先にもないだろうから。踊り子は、そんな時期に、自分ではそうとは知らないうちに手に入れ、また理不尽に奪い去られる透明性とその美しさの権化のようでもある。「ダンス・ダンス・ダンス」 のハルキほど露骨に詳細に書いてはいないけれど、川端の言いたかったことも大体そこなんではないかと思った。おそらく「孤児根性で歪んでいる」心の学生には、かつて持ち得なかったもので、それを自分でも知らぬ間におおらかに謳歌する踊り子はさぞ彼の眼にまぶしく映ったことだろうと思う。

 踊り子たちに別れて、相模湾を望む船上で涙を流れるに任せる様子は川端の個人的な悲しみや寂しさをよく表していると思う。彼の孤独は一生を通じての彼のオブセッションであり、それこそが彼に文学を書かせたんじゃないかと思う。そしてその才能は、泣いてる理由を気遣われて

 「今人に別れて来たんです」

と、なんのてらいもなく言い放つ姿に、未来の文学士の初々しくも頼もしい勇士を見たような気がした。


【温泉宿】
 「温泉宿」はまたぎょっとするほど卑しい話だった。私こういうのダメなんだよ。読んでる間中気分が悪くてしょうがなかった。「ああ、野麦峠」みたいな、古いモラルの悲劇を見せつけられる後ろ暗い印象のする話だった。女の子たちが虐げられているって言うのも、イメージがダブる要素なんだろうけど、もともと私は性を弄ぶような話が苦手だ。その内容がレイプみたいに理不尽に奪われるものであれ、援交みたいに自ら投げだすものであれ、または純粋にとんでもなく歪んだ性癖であれ、生理的にそう言うドラマが受け付けられない。分かりやすく言うと、個人的にそんな世界はあり得ないと思っているからだ。追い詰められると結局女って性を弄ばれることでしか生きていけないんだなという様子に吐き気を覚えつつも、そこはかとない悲しさを感じた。

 それで、こういう話を読む度に思うんだけど、なんだってまたこんな話が書きたくなるんだろう。どうせ書くなら楽しい話の方が、素敵な話のほうがいいじゃんか、と思うのは私だけか。それでまた、こんな話を川端みたいな研ぎ澄まされた美しさを表現できる人が描いているというのが意外だった。
 でもね、振り返って考えてみると、川端君はこういうちょっと道から逸れた影のある女性を好む傾向にあるみたいだから(「雪国」の駒子しかり、踊子が卑しい身分であるのは作中でも記してあるし、この後に出てくる「禽獣」の千花子も舞踊家とか言いながらその素姓はかなり怪しい)、そんな彼が彼女らの生活やその背景に興味を持ったって何の不思議もない。
 しかしそれがあまりにもマニアックで、そんなとこまでつまびらかにしなきゃいけないかねと読んでて苦しくなるほどの女中の悲しい習性を描いてる。意中の男性の残した料理を持って帰って食べるとか、朝食の残りの生卵を後片付けの最中に、これまた残り物の鉄瓶で茹でるとか、仲間同士での盗みとか、貧しさに追い詰められてという以前に、彼らのそもそもの考え方が、とにかくもうあからさまに浅はかで卑しい。その姿に当てられちゃうのよ。
 自分の精神が彼女らに比べたら高尚なもんだとかそういうことを言いたいわけではないんだけど、やっぱり教育って大切なんじゃないかって思うのよ。彼女たちを見てると。それとも、そう言う生き方をしている女の子たちは、形こそ違え、今でもいっぱいいるわけだから、例えそう言う人たちに教育を付けたところで、結局は永遠に分かり合えない仲なのかな。価値観にしているものが違うような気もするし。

 「温泉宿」は川端君の作品には珍しくキャラクター小説になっている。女中たちの性格をちゃんと描き分けて、核となるキャラにはその背景も付けている。お滝は男勝りのかなり強烈なキャラだ。「中学生か」と、自分の中学生だった頃を思い出しながら突っ込みたくなるくらい極端なキャラだ。単純にもう、血の気が多いというか。そのお滝が可愛がってる頭の弱いお雪。上昇志向のつもりで、どんどん身を堕としていくお時。男と寝ることが生きがいのお咲。
 しかし、ここまでキャラクターを描き分けられるのなら、その実力はこんなおぞましい話(に私には聞こえる)ではなくて、もっと愉快な話にしてほしかった。
 けど、この時期笑える小説ってきっと書かれてないんだろうな。昭和初期頃って今と変わらぬ金融不況だったらしいじゃん。そこから軍国主義に傾倒して、没頭して、怒涛の太平洋戦争に突入すんのよね。そんな恐怖政治下で冗談なんてよう言わんわな。


【抒情歌】
 個人的には、これが一番川端の綺麗で悲しい「もの」が最高潮に研ぎ澄まされた、結晶みたいな作品だと思う。それだけ私に思うところのある話だったからというのももちろんある。所詮、映画も小説もどこまでシンパシーを感じられるかというあくまで個人的な酌量によって善し悪しが決まるもんだと思ってる。

 川端君は超常現象に並々ならぬ興味をお持ちのようだね。死にも興味があるようで、小さい時にいろいろと身近な人の死に目に遭ってきたせいかなと思った。

 お父さんは、私が小さい頃、
「死んだら何もないんだ。あの世で死んだ奴がうろうろしてたらあの世が窮屈でしょうがないだろ」
と非の打ちどころのないことを言っていた。
 私は……、どうかな。死んだ後のことなんて分かんないと言うのが感想。みんなが勝手に想像するみたいに、魂だけになって自由に飛びまわれるならしてみたいと思うことはあるけれど、それに意味があるのかどうか。しばらくやってみてダメだったら諦めるだろうな。
 転生するならそれでもいいし、あの世のきっと今では拷問に近いであろう人口増加の中に加わんなきゃいけないなら、それを嫌と思っても仕方がない。ただ、知らない人の中で一人でやって行くのは心細いだろうなと言う気がするから、きっと家族を探すと思う。あと、みんなで静かに落ち着ける場所を。そう考えたら、死んでまで心休まらないなんてやだなと思った。
 死んだんなら、もう何も気にせず、心配せず、のびのびとしたいよ。

 滝枝は悲しくて美しい。その美しさに、その悲しさがいっそう引き立つ。婚約者を友達に奪われるなんて、聞いてる方だって聞くに堪えない醜聞を、自分自身だって耐えられないような恥ずかしい話を、そんな居た堪れないような気の毒な印象も払拭するほどに彼女の精神の健気さは美しい。

 悲しいのは、友達に寝捕られたからじゃない、婚約者に裏切られたからじゃない、自分が運命と信じてこの身を賭けたものが勘違いであったと思い知らされたからだ。核心はそこで、恋人の裏切りも、その相手が親友であることも付随的なものでしかない。きっと滝枝はそれを知ったとき呆けてしまっただろうなと思った。私の今までってなんだったんだろうと思って。この時代の人間にしてはよく死ななかったと思うよ。

 私は「抒情歌」の話を「ヘドヴィク」と重ね合わせた。テーマが同じだ。ヘドヴィクも最初は恋人の裏切りを、自分の運命の勘違いを受け入れられなくて苦しむけれど、最後はその運命そのものと対峙して受け入れる。

 気持ちは分かる。私もそうだったから。滝枝たちほどでないにしろ、偶然の廻り合わせみたいのを運命と思って勝手に喜んで舞い上がって。好き合ってる者同士のテレパシーだとか思うこともあった。
 けど、そうじゃない。そうじゃないんだよ。
 偶然なんかない。テレパシーもない。偶然と思えることもみんな本当は潜在的に計算されたことなんだよ。価額でむりくり理由をつけようと思えばいくらでも説明のつく行動理論なんだよ。
 と、最近は思うようになった。そう思う方が自然なら、それを受け入れてもいいって。
 運命は勘違いだって。

 で、気になったことに、川端や芥川を中高生で読破したって自慢げに話す人を見かけるけれど、こういう話は子供には分からないあんじゃないかなぁって思った。
 三島をしてうなるほどの作品なのだから。
 小説ってさ、ある年齢、ある経験を経ないと理解できないものがあるんじゃないかなと思う。


【禽獣】
 川端康成の動物好きは「理想の国語教科書」でちょっと触れて知っていた。確か、二葉亭四迷の随筆かなんかの解説にあったんじゃなかったか。太宰はあの陰湿な性格から動物が大っきらいで、川端はその孤児根性から物言わぬ生き物に大変な関心があったようだ。
 しかしこいつはマニアだ。それも私からすればかなり倒錯してる質の悪い奴。まず、飼ってる数が尋常じゃない。食卓に鳥かごを乗せたりするし、人間の男とは付き合えないとか、だから犬も雌ばかり飼っているとか、いや、雌を好んで飼うのはそればかりじゃない、出産や子育てが楽しいのだと言っておきながら、仔犬を間引くと言ってはばからない。
 もしも主人公に川端の人生観が映っているのだとしたらかなりぞっとさせられる。あの冷淡さは異状だ。生きてる間は見てる方も眉をひそめるほどの可愛がりようなのに、死んでしまうとまるで関心がない。文字どおりゴミ扱いだ。押入れに放り投げとくなんて。仔犬が死んでも1mmだって心は動かない。仔犬を誤って殺してしまう母犬をして、「人間の愚かな母と同じである」と言わしめる。繁殖家がゴミ箱に捨てたヒナ鳥を、そうとは知らない最初は拾って飼おうかとも思うが、ブリーダーが間引いたものだと考え付くと、一転して「そんな屑鳥」と呼ばわって捨て置く。
 こいつが菊戴にしたことなんてもう人間とは思えないよ?

 ここまで読んできて、この美文とは裏腹な卑しさは川端自身に潜む物かと突然気づく。言われてみれば「雪国」の時からあったけれど、川端の書く男は大抵自分の方が優位に立てる女性と付き合っていて、それでも彼女たちには音のに手の出せない才能や境遇を持っている。それを男は明らかに妬んでいるのに、自身はそんな感情が自分にあることすら気付かなという傾向があるように思う。

 いやあ、愛情を知らずに育つとこんなに屈折するんだなと思って恐ろしかった。


【解説】
 ちなみに解説を三島君が書いている。二人は仲が良かったらしい。二人の文通の様子が本としてまとまっているらしいので、それも見てみたいと思った。親友の死を止められなかった川端がその後世の中に絶望してしまったとしても何の不思議もない。

 三島君の言っていることは高尚過ぎて、私のような知恵の浅いものには意味することろが分からなかったりもするんだけど、それでも、解説を読んでいると結構三島君とは解釈が大筋のところで合っていそうだったのでそれがうれしかった。「伊豆の踊子」を「真の若書」と言っているし、私が一番気に入った「抒情歌」を「川端康成を論ずる人が再読三読しなければならぬ重要な作品」とも評している。
 なんだか答えが合ってて褒められた生徒のようにすがすがしい気分だ。

 しかし、昭和の文壇て、考えてみると、今では他に望むべくもないような才能を湯水のように抱えていた割には、そんな才能が一滴残らず手のひらからこぼれていくような亡くし方をして。それって相当異常な状態だったんじゃないのかな。
 この才能たちを生んだのも、また自ら滅ばせたのも、時代の負うところがあったんじゃないのかなと、そんなことも考えた。


伊豆の踊子 (新潮文庫)

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「マーブル・アーチの風」 [reading]

 大森望が「二十年経ってから再読して」なんて読者を突き放すような解説の仕方をするのは、私が知ってる限りでもこれが2回目のような気がする。多分、前のは「ヒッチ」の最終巻だったんじゃないだろうか。どうやら大森望は歳とっておセンチになっているようだ。元気出せ望。君の持ち味は生活感を感じさせない毒舌ぶりとテンションの高さじゃないか。嘘でもいいからそのキャラを突き通して見せてよ。

 でも、やはりこの人の仕事は丁寧だ。ひょっとしたら単にモノ好きのお節介なのかもしれないが、しかし大森望自身が編集、翻訳しているだけあって、あとがきの情報量と質が他の翻訳作品に比べて格段に高い。大森望がコニー・ウィリスの作品を手掛ける時は特にそうだと思う。まあ、要はその作品の編集に翻訳者がどれだけ関われるかと言う地位というか、権威の問題だと思うけど。だからこそ思うんだけど、本当にその作品や、作家を愛しててそれに携われることってほんとに稀のかもね。
 今、大森望でググったら「下読み王」って書いてある。そうか、私この人、翻訳が仕事の人と思っていたけれど、違うんだ。「出版社」の人なんだ。それで、「メッタ斬り!」みたいなのを書いてるわけね。おーほー。その望みが長嶋有のことを「今や押しも押されぬ」と評している。本気なのか?私にはあんな大賞を受賞しているにもかかわらず、なんか扱いが小さいとしか思えないのは一重に有がサブカル系の題材ばかりを好んで扱うからではないのか。いや、ま、いいんだけど。有は有らしくあってほしい。ただ、「押しも押されぬ」って、それはつまりあんなテーマでもぽんぽん本が出せてしまうことを言っているのだろうか?と思ってね。

 話が大分逸れたけど。
 「ウィネベーゴ」(あまりのショックに未だ感想を書いていない)の印象があったからちょっと用心していたんだけど、どの話も割合楽しめた。

 「白亜期後期にて」
 すごい短い作品。ちょっと驚くよ。これは400字詰め原稿用紙換算にした何枚なんだろう。
 ライト博士は「航路」のジョアンナを彷彿とさせた。きっぱりしていて、自分の直感に素直で、決断が早い。学部の統廃合を「あと5年は心配しなくていい」と分った時には、既にパイロット養成学校に入学金を振り込んでしまった後で「もう手遅れ」だったという短絡さには、自分を重ね合わせないでもないけど、ライト博士と私とでは持ってるものが違うからな。 それでも、あっさりすぎる程の抵抗で状況を見限って、さっさと外へ飛び出してしまった博士の背中は(実際にはそんな描写はない)まぶしかったし、最後にガラパゴスのカメみたいな印象を残すオスニエル教授の描写がなんとも対照的で印象に残った。
 胸がスカッとする話だよ。

 「ニュース・レター」
 -あなたに起こる小さなSF-
 そんな感じ。なんだか人の生活を垣間見るような、そんなあったかい雰囲気のある作品だった。これも主人公はジョアンナみたいな、ライト博士みたいな女性だった。個人的には会社にスニーカーを置いてる所に好感が持てた。コニー・ウィリスの描く女性は皆頭が良くて機転が利く。短編だし、かなり結論に飛躍的なアプローチをするので、単純に読んでると、思わず伏線を見落としてしまう。 なので、ナンがどうしてサーモスタッドの温度を上げて回るのかの理由を理解するのに、戻って読み直してしまったよ。あと、ジムって何者だっけ?とかね。
 コニー・ウィリスは先生らしく、話の筋に文化を絡めて描くのがうまい気がする。もっとも、私の考えすぎかもしれないけど。でも、この前の作品なんかもそうだけど、こんなちょっとの話をするのに、古生代のことを調べたりするわけでしょ?進化論なんかを勉強するんだよねえ?そういう話を書くために、そういう文字にならない、物語の表面に出てこない、下地のリサーチをちゃんとする人をすごいなと思ってしまう。私にはちょっと真似できないっていつも思う。
 クリスマスにそんな手紙をやり取りする習慣があるなんて知らなかったな。クリスマスカードでなくて、そんな面倒くさい長ったらしい話を書いてさ。クリスマスカードも年賀状みたいなもんなんだろうけどさ、私は何年か前から年賀状すらあくのをあきらめてしまったよ。
 ここに描かれる家族の肖像が好きだった。口やかましいお母さんと、いつまでも恋人のできない主人公と、常に犯罪者の恋人がいる妹とか、その他自分のことでワイワイする親戚連中。ナンは台風の目で、そんな喧騒からは距離を置いている。そのスタンスにも親近感が湧いた。気になってた人とのロマンチックな瞬間が訪れてもナンは冷静さを失わない。その芯の強さというか、見極める力というか、が私にもあればいいのになと思った。

 「ひいらぎ飾ろう@クリスマス」
 コニー・ウィリスはワーカホリックな女性とか、虐げられているような状況をなんとか四苦八苦しながらやりくりする女性が好きなのかな。この話は「ウィネベーゴ」に入ってた地球外生命が地球に来て和平交渉(?)をする話を思い出させた。そこに出てくるヒロインも仕事ではないが、状況に苦しめられつつなんとかうまく立ち回ろうと必死になってる。恋人と思っている相手もワーカホリックでヒロインのことをほったらかしなのも似てるし、そこへ地に足のついた理想的な別の誰かが現れるというのも同じだ。
 クリスマスは、あー、今の私には飾られてあるものを楽しむもので、自分で飾るのを楽しむものではない。つまり、自分で飾るのに一生懸命になるほどのものではないと言いたい。と言いながらやはり子供のころは飾り付けにこだわった利した時期もあった。バブルだったし、いくらでも飾りにお金をかけられた。けど、それも大きくなると意味をだんだん失ってったな。多分、飾っても飾っても毎年毎年薄汚れてったり壊れたりで使い物にならなくなるものを買い足していかなきゃいけないのを目の当たりにして、疲れちゃったんだろうな。もったいないし、きりがないって。で、飾りをしない今となっては、クリスマスはケーキを作るイベントという位置づけになっている。
 でまあ何が言いたいかというと、このウィリスがいうみたいなクリスマスの飾り熱みたいのにはちょっと私は引いてしまうなと思って。基本的にはよそんちの教義だから私が文句を言う筋合いではないとは思うけど、キリストは清貧を説いたんではなかったのか?傍から見てると、もそっと質素で厳かにクリスマスを過ごせないのかねと思う。なんでもそうだと思うんだけど、お金出し始めたらきりがないと思うのよ。本当に祝う気持ちがあるならさ、高価な使い捨ての飾りを買うより、神棚拭いてきれいにしてあげた方が、新年を迎える気持ちって言うのができると思わない?って、去年は神棚掃除をお母さんに押し付けてしまったので、今年はちゃんと自分でやって、榊も早めに買って正月支度しようと気持ちを新たにするいい機会でもあったな。
 リニーの仕事はベンチャーなんだけど、自分がこの仕事に情熱を注ぐ理由をこう述べる。
 「いまどきの仕事って、たいていすごく専門化してるけど、この仕事は違う。それに、あるひとつのアイデアを、証明やツリーの装飾にどう応用するか考えるのも大好き。」
 その様子にすごく共感できた。モノができてく過程を最初から最後まで自分がコントロールして完成させる満足感は私にも経験がある。あれは確かに病みつきになる。私もそう言う達成感が好きだった。
 架空キャラということで、「イブニング・プリムローズ」って名前が出てきた。「黒の契約者」でアンバーが組織した契約者達の計画もイブニング・プリムローズって名前だった。なんか寓話があるのかなと思ってググったけど、最初のページだけでは分らなかったな。ただ、月見草のことだということだけは分った。月見草。月見草と言えば太宰。太宰が「富嶽六景」で「富士には月見草がよく似合う」と言って、月見草の種を拾って来て泊まっていた宿の周りに勝手に撒くという件がある。それが印象的で。月見草ってどんな花だろと思って興味があったんだけど、Wikipediaに載ってるのは「ヒルザキツキミソウ」という花だった。しかし、太宰は黄色って言ってたからヒルザキツキミソウではあるまい。検索してもなかなか自分の思う答えにはたどりつけんよ、伊坂。
 で、これがウェブで見つけた月見草。

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 ワオ、こんなにおっきな花なんだ。地べたにくっつくみたいに咲くんだね。私はこの花見たことないな。これ見てみたい。
 「眺めのいい部屋」って、あのジュリアン・サンズとヘレナ・ボナム・カーターが草原でキスするシーンが、作品の中で一番印象的だって言う話は、映画作品としてだけじゃなく、文学作品としても有名な一般通念なんだね。そっか。学生の頃、よくその少女マンガ的なキスシーンの話を映画好きの友達として盛り上がったのを思い出した。きっと、そんな風にE.M.フォスターのこの話は、その昔から女の子の恋への憧れをくすぐってきたんだろうな。そう思うとおかしくもあるし、その様子をかわいいとも思う。違う時代の違う環境で育った違う少女たちが、同じひとつの作品をめぐって同じ憧憬を胸に抱くんだよ?かわいらしいじゃない。そう言う普遍的な作品を残せるってすごいなと、改めて思った。

 「マーブル・アーチの風」
 これはなかなか読みごたえがあるよ。大森望が感慨に耽ってしまったように、私も「老い」について考えをめぐらさせられた。私の場合は振り返る時間がまだそれほど長くないから、望ほどの寂寥みたいなものか、失われて二度と取り返しがつかないというような切羽詰まった感じは覚えなかったけど。ただ、考えたのは、望がそう感じたのと同じように、コニー・ウィリスも年をとって、変わっていくもののことを考えたのかもしれないってこと。もっとも理解し、愛しあっていると思っている者でさえ、時間が経ってみると思ってもみなかったような変異を自分の知らぬうちに遂げているという衝撃は私にも伝わった。ただ、うーん、私にはそれを悲しいというか、泣いて否定するほどの罪なのかと私にはよく理解できなかった。だって、不変なものなんてないよ。よく知ってる友達夫婦が浮気をしたからってなんだっていうの。そんなのいつだって、誰にだって起こりえることだよ。確かに心変りは愛しているほうからしてみれば辛くて悲しいことだけれど、そのリスクは老いにあるわけじゃない。キャスってずいぶんめでたいんだなぁと私は思った。
 ロンドンの地下鉄は萩尾望都のおかげで少し抗体があったから、それほど話についてくのに大変だったということはなかった。ロンドンを縦横無尽に年のいったおっさんが、オカルト的な現状を追いかけて駆けずり回る様子はサスペンス的な要素もあって面白かった。ウィリスはロンドン空襲の話を何度も持ち出すけれど、そのイベント自体に何か思い入れがあるのだろうか。自分がその時の生き残りっていう訳ではあるまい?
 老いって、移ろうものを受け入れられなくなるってことなんだろうか。移ろわないものなんて何一つないこの世界で。
 よく考えるんだ。お父さんが生まれたころと今ではこの辺りの景色は今ではもう完全に違う街になってしまっていると思う。それを受け入れられないなんて事が今まであったろうか。景色を一つ一つ失っていく毎に、いちいち涙を流して感傷に浸っただろうか。どんな変貌も、ある意味その時代に生きた我々自身がそう変化を望んだ結果だと思う。もっと今のありようを素直に受け止められないんだろうかと思って、私はちょっと不思議に思った。確かに思い入れのあるものをなくしたり、好んだ景色を失ったり、ましてや愛する人の心変りや、離別っていうのは悲しいけれど、だけど、止められないでしょ?すべてこの世は流転の層が見せる一つの面にすぎないんだってことを理解しないでそんな年まで生きてきたの?変わらないものなんて何もない。変わらないんじゃなくて、変わっていくすべてを自分がどう享受していくか、すなわち、自分自身も変わっていく万物に合わせて、多かれ少なかれどう変わっていくかってことが人生なんじゃないんだろうか。

 「インサイダー疑惑」
 これはすっごい面白いよ。この話が一番好きだったかな。サスペンスってわけじゃないのに、ハラハラドキドキさせられた。ロブの懐疑主義者としての決心の固さに唖然とした。ナンもそうなんだけど、自分が気持を寄せる人とのせっかくのチャンスなのに、よくあそこまで自分を見失わずにいられるなと思って呆れた。その姿勢の頑なさに、こいつら結局自分が好きなのか?と思ったほどだった。ロブの頑なさは、理想的な異性との運命的な瞬間も懐疑主義者としての信念から目をつぶって首を横に振るみたいな頑固さだった。懐疑主義者って、愛とか恋とかできないんじゃないかと思った。だって、懐疑主義者って相手の愛情や貞節を手放しでは信じない人たちのことなんじゃないかと思って。それって、付き合ってる人にとってもつらいよねえ。信じてもらえないのって。
 ロブは自分の信念からキルディを遠ざけるけど、ウィリスの巧みなプロットで最後に愛は勝つみたいなエンディングは爽快だが、ロブの根底にある人を疑う心のことを思うとやはりちょっと暗い気持ちになる。なんとなくキルディとロブはうまくいかなかったんじゃないかと思って。というか、ロブみたいな人間はきっと人を心から愛するなんて事が出来ない気がする。
 H.L.メンケンという人の引用が各章に掲げられている。望み曰く、この人は実在の懐疑主義者だ。それもかなり高名な。進化論裁判て言うのを私もちょっと読んでみたいな。メンケンという人は懐疑主義者なのか、それとも出版社の人なのか。「冷蔵庫の中の赤ん坊」というのも読んでみたいな。なんとなくすごくグロそうな話のような気がするけど。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の人がその前哨で書いたならなおさらだろう。
 そんなことをいちいち望が知ってて驚く。モノ好きが高じて知っているだけなのか、この作品を書くにあたってわざわざ調べたのか、はたまたその道で食っていくプロとしては当然の学問で、業界の人間であれば常識なのか。

 この本を読んだことで、また他の作品に手が伸びそうな機会を得られたことがうれしい。
 あとは、読みたい本が手に入るかどうかだな。


マーブル・アーチの風(プラチナ・ファンタジイ) (プラチナ・ファンタジイ)

マーブル・アーチの風(プラチナ・ファンタジイ) (プラチナ・ファンタジイ)

  • 作者: コニー・ウィリス
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2008/09/25
  • メディア: 単行本



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「ゴールデン・スランバー」 [reading]

 これは不幸な話だ。
 伊坂の書く話はどれも不幸な話だけれど、特にこれは不幸だ。
 ハルキの書く話が「普通の人に起きるファンタジー」なら、伊坂の話は「普通の人に起こる悲しくて取り返しのつかない不幸」と言ったところだ。こう言ってしまうと、そんな話一体誰が読みたいんだと思うけど、その不幸の過程がエンタメなので、読み手の多くは、今そこで起きてるイベントの方に、つまり物語の上っ面に気を取られてしまうんじゃないだろうか。だけど、目の前で起きているイベントから一歩引いて、青柳雅春自身に意識を集中させると、その不幸の深さや、その不快不幸がどのように彼のあ愛する人々を取り巻いているかに気づく。
 それでも、そんな拭いきれない苦しみの滲む人生を、それもまた一つの選択肢であると受け入れた主人公の人生に対するひた向きさと、それと裏腹な生きることへたくましさに、読んだ人はきっと勇気づけられると思う。
 一番印象的だったのは、TVに映る虚像を他人事のように冷めた視線で眺め、それでも「負けたくないな」と呟いた青柳雅春の姿だった。
 ただ生き延びるということのためだけにすべてを失ったヒーローの歩み去る背中は重い。重くて暗くてかっこ悪かった。それでも生きていく。ヒーローとはかっこ悪いことなのかと、改めて気づかされる。それでも、彼が人目を避けて俯きながら踏み出す一歩は、とても力強いものに、生命感の溢れる物に感じた。
 「自分」を失って、それでも生きることをあきらめなかったその先に、彼なりの幸せが待っていてくれたらいいと、フィクションなのに、そう願わずにはいられないほど不幸に胸を締め付けられる話だった。私だったら、きっともっと早い時点であきらめていたと思う。そう考えると、その生に対するねばり強さが私にも欲しいなと思って羨ましかった。


 「なぜ模倣するのか」
 と言う問いを、昔比較文学の授業のレポートで自らしたことがある。
 これは模倣ではないけれど、明らかに模している。
 
 「これを一体どうしたいんだ?」
 と言うのが、第3部までを読んだ私の感想だった。
 そして、
 「なにが言いたかったんだ?」
 と言うのが、全体を読み終わってしばらくして考えたこと。
 で、
 「どの辺がゴールデン・スランバー?」
 と言うのが最後に残った疑問。

 「なぜ模倣するのか」と言うことについては、その疑問を持った当時も今も変わらないな。それはつまり、「オレならこうする」と言う同じアーティストとしての回答なんだな。真似をするくらいなんだから、その行為の根底にあるのはオマージュであり、敬意であろうと思う。元となった作品を評価しているからこそ、そのレベルへ自分を近づけてみたいという欲求なんじゃないだろうか。
 だから「模倣」はどんなアーティストにとっても基本的な練習なんだと思う。素晴らしい仕事、作品を真似ることで、その技巧や、センスを自分のものにしていくんだと思う。それが結果として自分のスキルとして昇華されていくんじゃないだろうか。

 「ゴールデン・スランバー」の場合、史実が元だから「模倣」と言うのとはちょっと違う。どちらかと言うと、史実がそうであったように、どうしたらオズワルドみたいにならずに済むかと言うことに集中したんじゃないかな。で、そこに集中するあまり、物語の問題は、首相暗殺という壮大なテーマから逸れて終わる。つまり、国家というマクロコスモスから、ずーっと視線は下って行って、結局青柳雅春をいかにして逃げ延びさせるかというミクロコスモスで終わる。
 まあ、それが悪いという気はないが、個人的には、20年後の社会が、そんな胡散臭い事件を経てあるその後の政治とか社会をどう評価してんのかなと言うのが気になった。伊坂のアイディアとしてのその辺の展望をもう少し楽しませてほしかったと思う。
 結局、どの事件の決定的な解決に貢献しなかったセキュリティポッドは全国に普及したのか、とか、公然の目の前で国家首領を殺してまで政権を奪取した体制は一体どんな社会を気づいたのかとか、なにより、真実を知っている人間たちがその後の社会にどう折り合いを付けて生ていったのかと言うことを知りたかった。ケネディ後の社会までを真似る必要なかったと思うんだよね。その疑似ケネディ後を伊坂がどう想像したのかが知りたかったな。ただまあそれやっちゃうと、ボリューム的には軽く倍だわな。

 それでいておそらく伊坂の一番書きたかったことは、現状の体制に対する警鐘とか、性犯罪の糾弾とか、そう言う社会的なことじゃなくて、やはり「ゴールデン・スランバー」なんじゃないだろうか。
 つまり郷愁だ。「今はもうあの頃には戻れない」という郷愁がこの作品の影のテーマというか、根底にある。そもそも、バーチャルな社会構造を打ち立ててまで首相暗殺というモチーフを使ったどっから見てもパッと見ハードボイルドな作品が、なぜ「ゴールデン・スランバー」、黄金のまどろみなどと言う甘いタイトルなのか。
 繰り返しになるけど、伊坂がこの作品で本当に言いたかったことは、情報社会とか、監視社会とか、ミステリーのレトリックとか、プロットとかそう言うことじゃなくて、もっと別のところにあるんじゃないかと思った。なにか多分もっと根源的で、普通のことだと思う。この人の伝えたいことはいつもキャラの中にしまわれている気がする。絶対にそれを口にしない。キャラを観てれば分ることだけど、絶対にそれを文字にしない。口にしたらそれが壊れてしまうとでもいうかのように大事にしまっている。「今はもうあの頃には戻れない」なんていう陳腐な表現に自分の本音を隠している気がする。
 今になって考えてみれば、この「郷愁」というテーマは伊坂のどの作品にも共通する。個人的にはそれこそが伊坂作品のファンダメンタルな要素だろうと思っている。この首相暗殺の容疑者にされるというクリティカルな場面において、そんな郷愁なんて感じる余裕があるのはおかしいと思うし、こんな状況で昔語りにうっとりするなんてどうかしてると思うけど、でも、それが伊坂の書きたいことなんだと、最後まで読んでみて分った。
 読んでる間、ずっと気になってしょうがなかった。なんでこんな場面でこんなにしつこく学生の頃の思い出に捕らわれて、あまつさえ浸ってしまう心境が理解できなくて悩んだ。だってもうみんな30過ぎのいい大人なのに。いまさらそんな郷愁を持ち出すなんておこがましいってくらいみんな他の奴らのことなんて忘れて勝手に自分の人生を散々生きてきた後で、昔に戻れないのが寂しいだなんて。一体何の寝言なんだと首を捻らずにはいられない。
 伊坂には自分の過去に必死になって失くしたくない何かがあるのかもしれない。その何かが失われたり、色あせて行ってしまうことを恐れているのかもしれない。そうでなかったらこれほどまで話の筋として不自然なほどセンチメンタリズムを持ち出したりはしないんじゃないかな。

 伊坂の作品はロックと男前を抜きにしては成り立たない。そこには常に男前がいて、ロックがある。男前は細かく描写される。伊坂は登場人物を事細かに描写するほうだけど、男前キャラには余分に字数を割く。おそらく、男前であるということが最重要なんだろう。私の印象では、外国文学では、登場人物をいきなりその登場に置いて描写するというのは見たことがない。そういう描写が目立つのは恋に落ちた瞬間だな。そこを引き立たせたいためにあえて外見の描写を削っているのかもしれない。けど、伊坂は外見が重要だといわんばかりに、人が出てくるとまず形から入る。これはでも日本人には多い傾向のような気がする。ハルキもヒロインがどんな服を着ているかをしつこく描写する人だ。
 ロックの嗜好にもそのセンチメンタリズムは滲んでいる。伊坂と私は3つしか違わないのに、ビートルズだとか、ボブ・ディランだとか。そっからしてもう郷愁が煙たくて目にしみる感じだ。まあでもよく考えたら今時のバンドを持ち出されて、いかにもそっちに詳しいと知ったふうににされるよりかは、ビートルズみたいなベーシックのマニアの方がはるかに好感が持てる。そう言われてみれば、小説読んでて私の知ってる今時のバンドの名前なんて見たくない。あの書き方はおそらく、その辺の読み手の感情に配慮しているような気もする。間違ってない私見と言うか、偏った事は書いてないし、おそらく事実のみに触れるようにあ書いている気がするから、伊坂の音楽に対する描写で不快感を感じたことはない。むしろ、「ふんふん」と思って読んでいる。でも、ビートルズをちゃんと聞く人なんて私の上下3つにはもうほとんどいなかったけどなぁ。それとも伊坂も私みたいに父親から仕込まれた口かな。
 そう、家族の絆の強さもまた伊坂ワールドの重要な要素である。とくに父親だろうな。威厳があって、正義感が強くて、思いこみが激しく、堂々と間違ったことを言いきってしまう。そんな憎めない人だ。最後、両親のもとに「痴漢は死ね」の投書が届いた時は、私も喉が熱くなった。また、痴漢と言うモチーフが、青柳雅春を陥れるためだけのものではなく、彼自身、だけでなくその大事な人までもを救うきっかけになったことを理解し、ここまでの伏線を思って痛く感心したりもした。

 伊坂がこんなに社会的なメッセージの強い作品を書くのは初めてじゃないだろうか。「日本の政治は内弁慶だ」なんて日教組発言で国交省を辞任した中山成彬と同じことを言って私を驚かせた。伊坂の描く日本はかなりファシスティックな印象でそれが逆に心配なくらいだった。ケネディを殺したって体制下だって「JFK」を見た限りではそんな印象は受けなかった。むしろ私がそう言う反民主主義的な不穏な空気を感じたのはウォーターゲート事件の方だった。
 伊坂の考えで個人的に気になるのが、社会倫理とか規範の話になると、こと性犯罪においてはヒステリックな反応を見せること。今回なんて、「痴漢は死ね」とまで言わしめる。そうそう人の性質に対して死ねと言えるのは私くらいだと思ってたのに。
 いつだったか、腹違いの弟のできた理由が、レイプだったりした作品を読んだことがあったけど、そのエピソード自体、伊坂にかぶるところがあるんじゃないかって勘繰りたくなるくらい、伊坂の性犯罪に対する嫌悪感は強い。男の人で、性犯罪をそんなふうに糾弾できる人って裁判官くらいしかいないと思ってたから、個人的にそんなふうに怒りをあらわにする男性がいるのは意外な気がする。
 だって、男の人は結局、いろんな人としたいんでしょう?
 伊坂みたいな正義感の強い人はいろいろ生きにくいんじゃないかと思って、ちょっと気になってしまったりもした。

 けど、ストーリーというか、プロット自体は、やっぱり他の作品を彷彿とさせる内容だった。
 伊坂本もいくつか経験してきたから、青柳雅春含め、死人のザクザク出てくることは覚悟していたんだけど、「暗殺」とかそもそものテーマが血なまぐさい話なので、キャラがバタバタと倒れて行くことにも今回は感覚が鈍っていたかもしれない。
 この人のプロットの組み方って、やっぱり最初は一貫したストーリーを作って、そこから一番面白い組み合わせに変えて作っているような気がする。つまり、一回長い話を漫然と作るじゃん?で、それを各エピソードに分割する、そうして、作品としてまとめるにあたり、どのエピソード作品中のどこに持ってきたら一番効果的かと言うことを考えてシャッフルしてるみたいな、コラージュしてるみたいな、そう、元は同じ色なのに、わざとモザイクにしてるみたいな。そうすることで狙った効果を高めようとしてる感じ。きれいプロットの置き方が、作品としてすなわちきれいなモザイクを作る。
 そんな感じ。

  金田首相は出てきた途端死ぬなと思ったよ。首相がパレードなんて、9.11以降のVIP対応として非常識にもほどがあると思う。
 あといろいろバタバタ死ぬんだけれども、今回はそれほど惜しい人間が死んだ感じはしなかったな。
 読んでて、特に最初の方、樋口晴子と青柳雅春は全然合ってないと思って、振り回される、と言うか、疑うことを知らない青柳雅春がかわいそうだった。デートの約束を忘れるって…。まあ、伊坂はもともと男っぽいサバサバした女性が好みみたいだし。筋に絡んでくる人みんなそんなんだもんね。脇に限って甘い感じの女の子を出してくる。

 伊坂のヒロインはみんな男っぽい性格で、それを今まで嫌だと思ったことはなかったんだけど、今回は生理的に受け付けないタイプだった。
 「小さくまとまるなよ」って、今別れようとしている恋人に言うセリフか?お前、どんだけデリカシーないねん。自分で誘ったデートを忘れ、待ち合わせ場所に他の男が運転する車で乗り付け、あまつさえその社内でまんざらでもない雰囲気を楽しんでいる。そうして青柳雅春の気遣いを「重い」と言うに至っては私は空いた口がふさがらなかった。一方、言われてそのままそれが「気遣い」だと否定しない青柳雅春にも呆れた。なぜ「愛情」だと言えないんだ?思えないんだ?気遣いだったら疲れちゃうし、誰にでもすることで、それが仕事にさえなる性質のもだけど、愛情は違う。愛情は誰にでも注げるものじゃない。愛情は10コいくらで売ってるもんじゃない。そもそも愛情は対価を求めたりなんかしない。好きな人への気持ちを「気遣い」とか言ってる時点で、このカップルはとっくに終わってたんだなと思った。「重い」って「うざい」ってことじゃん。私の経験上、気のある相手になにかしてもらうことをうざいを思ったことは一度もない。そうしてもらえることをとてもありがたいと思うし、うれしい。大事にされているんだと思うから。それが「うざい」となる瞬間は、つまりもう気がないってことだと思ってる。けど、それが毎回毎回ないと不満に思うかって言ったらそう言うわけでもない。ついうっかり忘れてしまうこともあるよ。毎日を忙しく生きてるならなおさら。結局は、お互いにどれだけ敬意を払って、その、ともすればついうっかり忘れてしまうような愛情を大事に思って育てていけるかって言うことだと思う。

 ということで、ここで愛情についての私の考察を展開してみようと思う。
 愛情ってものを理解したことがある?ヘレン・ケラーが水を理解するみたいに、名前を実態の結合する瞬間を自分の経験として実感したことがある?この話をして理解してくれる人がいるかどうか怪しいけど、それでも私の体験としてはこれが「愛情」のエピソードなのでこれ以外にいい例を持たないので。
 そんなに難しい話じゃない。小さい頃、家族でレストランで食事をしてて、お母さんのお皿に自分の好きなものが残ってたりすると、私はなんの遠慮もなく「それちょうだい」とよく言ったものだった。それでお母さんはニコニコと私にそのおいしい何かを必ず全部くれた。小さい私は思う、なぜこんなにおいしいものを全部私にくれたりするんだろう。なんで自分で食べないんだろう。ずっとそれが不思議だった。
 店を手伝うようになって、子供には安いもので済まそうとする親を何度となく目の当たりにするにつけ、やっぱり私のお母さんはおかしかったんだなと、むしろ疑問は確信へと深まっていった。
 だけど、大きくなって、ジョディーが家族に増えると、私はジョディーとよく食べ物を分け合って食べた。それはりんごだったり、石焼きイモだったり、プリンだったり、アイスだったりした。だけど私は必ずジョディーに多く食べさせた。旅館やレストランに卸しているりんごはおいしくて、私も大好きなんだけど、でも、だからこそ私はジョディーにたくさんあげた。いとしい人がおいしいものを頬張る姿が、愛してる方にとってどれだけ幸せな風景であるかを初めて知った。私はお腹を空かせても、ジョディーが満足なら私もそれで嬉しかった。満足だった。それで初めて理解した。お母さんの気持ちを。好きな人には、自分の持ってるいいものを無条件に差し出したくなるということを。私はそれが愛情ってものなんだと理解した。
 この話はうまく伝わらんだろうな。けど、まあしょうがない。
 食べ物の話で卑しいと思われるかもしれないが、これはあくまで例の一端であって、他にも色々あるよ。でも、私が初めて「愛情」ってものを理解したのが食べ物についてだったのでその通りに話してみただけ。欲しがるなら全部やれと思うかもしれないけど、動物に人間一人分と同じカロリーや栄養バランスでご飯を食べさせるわけにはいかない。それでもおいしいものや、欲しがるものはあげたいから、分け合って、時間をかけて食べさることで、食事に対する満足感を増強しようという考えだった。
 そんなだから大変だったんだよ。ジョディーにダイエットさせるの。入院食も受け付けなかったし。ダイエット用のドッグフードを嫌がって食べないで憮然としているのを、目の前に正座して座って、どうしてこれを食べなきゃいけないかをとつとつと語って聞かせ(彼女はその間始終ぶすっとしている)、最後は一粒一粒を手で取って口に運んで、ようやくしぶしぶ食べるありさまだった。そんなふうに人の手から食べさせることを覚えさせてしまったのが甘やかしになってしまったのか、入院中は病院から「ご飯を食べない」と電話があって、仕方がないから、私が毎日ごはんを持って病院に通って、一口づつ手から食べさせた。すると普通に食べる。というか、よく食べる。それを見て先生のあきれること。私が、「愛情がこもってないとダメなんです」と冗談半分で言うと、「私だって愛情たっぷりよ!」とその優秀な女医先生はムキになって言った。
 でも、今書いてて気が付いたんだけど、お母さんはひょっとしてわざと残しておいてくれたのかもしれないな。それだけ手を付けずに残しておくの不自然じゃない?私が欲しがるのを分かってたから食べずに残しておいたのかもしれない。そう思ったら、私はそこまで真似できてたかしらと、改めて敬服した。

 話が大分逸れたが、そう言うわけで、愛情とは傍から見ればかくも面倒なものだ。だけど、それは愛情故に面倒ではない。骨も折れるが痛くはない。時間もバカみたいに浪費するけど惜しむことなんて微塵もない。それを見た眼どおりに「うざい」と言って片付けるってことはつまり、もうその人の中に自分の愛情を受け入れてもらう余地がないってことだよ。
青柳雅春には気の毒だけど、青柳雅春がどれだけ愛したところで、彼の愛情はうっとーしいとしか思われない。そもそも樋口晴子にそういう愛情を評価できる能力はなかったと思う。と言うのは、後に結婚した旦那とのやり取りを見てよくわかった。樋口晴子が求めてたのは自分と同じ「自分」を持った人だったんだ。「自分」を相手に押し付け合う夫婦の姿は、『なんだ、似た者同士じゃん』と思って見てて苦笑するしかなかった。お互いが「自分」を固持して、それを相手に押し付けるしかできないくせに、それでいて放っておかれるとその寂しさを憎らしげにぶつける。私にしてみれば、どっちがうっとーしいんだよって話だけど。いずれにせよ、樋口晴子の求めていたのが自分と同じ種類の人間であった以上、青柳雅春に勝ち目はなかったよ。あそこで別れてなかったとしても。そもそも樋口晴子には青柳雅春に対する恋愛感情なんてなかったんじゃないかな。

 だけど、空に浮かぶ花火を見てはお互いのことを思い出しているかもしれないというエピソードには好感が持てた。そんなの別に伊坂でなくてもよく使われる手垢のついた口説き文句みたいなもんだけど、だけど、私自身もそう思うことがよくあるから。厳密に言えば、そうであったらいいなと思うことがあるから。夜、空を見上げて月がきれいだったりするとよく考える。離れていても、今この瞬間同じ月を見ていて、少しは私のことを思い出してくれているかもしれないと。

 人ごみに埋もれるヒーローはこの先どうやって生きていくんだろうと思った。そしてその真実を知る人たちは一体どうやって社会と折り合いを付けて生きていくんだろう。
 人生を理不尽に奪われるという恐怖。それでも生き続けようとする生命力。そんなコントラストが印象的な作品だった。


ゴールデンスランバー

ゴールデンスランバー

  • 作者: 伊坂 幸太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2007/11/29
  • メディア: ハードカバー



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「雪国」 [reading]

 孤独な人生だったんだな。
 て言うのが私の川端康成に対する感想。本人もその孤独に悩まされながら生きていたんだろうなと、彼の人生の簡単な描写から思った。父母を亡くし、二人きりの兄妹の妹を亡くし、育ての祖父母の最期を看取った時まだ15歳だった。一番愛情を受けたい時期に肉親を一人づつ、そして一人残らず亡くしていくのをただ受け入れるしかなかった。そんな悲しい人生がそれでも川端康成という美しく研ぎ澄まされた孤高の魂を作ったわけだから、それを考えるとやるせない。不幸がその人の才能を開花させたというならそれより不幸なことがあるだろうか。康成は皮肉にもその孤独を囲って文壇を上りつめていく。それでも最後はやはり自ら死を選んだことを考えると、結局孤独に自分を明け渡してしまったんじゃないかと思う。
 康成は幸せだったかな。人を遠ざけ、また人の営み自体を蔑むような彼の生き方を後悔したりはしてないだろうか。宝塚のレビューのように用意されたきらびやか階段をただ昇りつめて行くような彼の功績とは裏腹に、焦点を彼個人にあてると、その情景はなんだか急に色を失ってしまう。見ない方がよかったんじゃないかという罪悪感すら漂わせて。

 実は川端康成の作品読んだの初めてだ。と思う。少なくとも私の学校の授業では扱わなかった。ひょっとしたら何かしら抜粋みたいな形では教科書に載ってはいたのかもしれないけど。でもどうだろうな。この人は大人の関係の生々しいところを書きたがるんで、生徒に読まる内容じゃないと思うし。

 きれいな文章だ。品があって、凛としてる。康成の文章の物静かな美しさは、ちょっと梶井基次郎の文章を思い起こさせた。

  「それは夜深く海の香をたてながら、澄み透った湯を溢れさせていれ渓傍の浴槽である」

 康成と梶井の文章や描き出す世界から受ける印象は実際には異なる。だけど、二人の文章から呼び起される清涼感が似ている。基次郎は、弱い体を引きづりながらも命を燃やして生きているから静かな中にも自然の躍動感が感じられる。血の通った温かみのある清涼感だ。自分が享受したものを素直に、開け広げに表現する。だからそこに計算とか、打算みたいなものはない。子供じみているといえばそうかもしれないけれど、子供に美しさを言葉にする技術はない。康成は、直接語らない。美しさや、そこから受ける喜びを努めて隠す。文字にはしない。なぜしないのかしら。自分の心が感じ取る美は表現しない。目に見えるもの。形とか、音とか、色とか、匂いとか。実際にそうしてそこにあるものについては敬意をこめて丁寧に表現する。けれどそこからどれほど自分の心が乱されたか、動かされたかと言うことについては触れない。当時社会的にそう言う風紀だったのだろうけれど。そもそも康成の扱う恋の形や人間関係は社会から疎まれるはずのものだから、きっとそこに生々しい感情を入れてしまったらただのポルノになってしまっていただろう。大事にしたい気持だったからこそ美しくだけ見えるように形を整えたんだろう。宝石を研磨するみたいに。
 あったことを書かないという、贔屓目に言ってじれったいほどの奥ゆかしさは、そこに隠した秘め事を康成が大切にしたいという表れなんだと思うことにした。

 いずれにしても、彼らの表現してきた美に共通して言えるのは、それが今の文学が真似しようと思っても出来ない類のものであることだ。例えば色。たくさんの聞いたこともないような色が出てくる。

 濃深縹色(ふかはなだいろ)…濃い藍色
 玉蜀黍色…とうもろこしみたいな色なんだろうな
 檜皮色(ひわだいろ)…檜の木の皮のように黒みががった赤茶色
 桑染色(くわぞめいろ)…桑の木の汁で染めた薄い黄色
 紅葉の赤錆色(あかさびいろ)…モミジの赤が濃いやつなんかのことかな

 桑の木の汁で染めた色なんて見たことある?注解読んで思ったのは、説明されても結局損な色は見たことがないということだった。実際に目に映るどんな色のことをさしてこんな名前を付けたんだろう。想像つかなくない?大体、木を見て「あれが桑の木だよ」って言える?私は言えない。
 
 それでも桑の木は私が生まれた時から家の前にあった。ただそのことを知ったのはつい最近で、お父さんにそう言われたからだった。その桑の木は手入れする人もないまま、もう育ちすぎて、通りに体が半分覆いかぶさってた。雨が降ると顔の前まで枝が垂れてきてて、私はそんなふうに旺盛に茂ってる木が身近にあることをうれしく思ってた。お父さん曰く、この辺の人たちも昔蚕を飼ってて、その木はその名残りなんだと言っていた。私は思いがけなく、自分の住んでる場所の知らなかった歴史に触れて感動すら覚えた。けれど、そんな喜びも束の間、雨の日に顔の前まで枝をしならせていた桑の木は、交通の便のためにある朝突然なくなっていた。よく思うんだけど、お父さんが生まれてからの50年、こんな田舎のこの地域でさえその変貌はめまぐるしいものだったに違いない。その殆どが偽善的な近代化という名目のために、昔の姿をかなぐり捨てるという方法で。

 話が逸れたけれど、つまり、昔の人たちは、実際に桑の木の汁で染ったものを見たことがあるから使える表現なわけで、元禄袖(げんろくそで)や袷(あわせ)、絣(かすり)、伊達巻(だでまき)や元結い(もとゆい)、一重の襦袢(じゅばん)と言った生活様式自体を文化として失ってしまった私達にはもはや想像することすらできない。それらの美しい響きのものが既に失われてしまった時代のものなんだと言うことが改めて悲しく思われた。
 いまを生きる私たちが彼らの紡ぎだす雰囲気を美しいと感じる心を持っていて、彼らの表現をなんとなく理解できたつもりにはなれたとしても、実際の景色が失われてしまっていては康成と同じ地平に立つことすらかなわない。つまり彼らの表現した美は既に失われた時代にのみ属する、失われてしまった文化なんだ。康成が見聞きし、嗅いで、感じたその距離感で私たちがそれらをとらえることはもうできない。私たちは私たちの時代の普遍的な美の表現と言うのを見つけなければならない。しかしそんなものが今この時に存在するのかどうかも甚だ疑問ではあるけれど。
 
 雪国はその出だしの一文が、作品を読んだことのない人でも知っているくらいに有名だ。だけど私の心に響いたのはその後に続く短い文章の方だった。

 「夜の底が白くなった。」

 文学はメタファーなんだと康成を読んでて改めて思った。文学は「言葉に表す」という行為だと思う。気持ちを言葉に表す。景色を言葉に表す。美しさを言葉に表す。難しいことだ。必ずしも自分の表現したい気持ちや情景を表せる言葉があるとは限らない。それは哲学者が何千年も前から取り組んできた限界だ。だからメタファーって言うのがある。
 小説には、「しゃべっているだけ」という作品もある。エンターテイメントな作品は大体そうだと思う。東野圭吾とか、伊坂幸太郎かさ。技巧や構成上のトリックはあってもそう言うのって文学ではないと思う。文学ってそこに書かれている言葉が読んでいる人に何かを思い起こさせる力のあるものだと思う。星を想像させ、痛みを伝える力のあるものだと思う。だから、手軽で口当たりのいいだけのレトリックの恋愛小説とか、プロットに気を取られてストーリーやキャラに深みの出ないミステリーなんかとは格が違う。文章を表現とたエンターテイメントの種類ではあるけれど、文学と思ったことはあまりないな。

 物語の出だしが好きだ。冬の山奥の田舎の厳しい寒さと、暖房で暖められた汽車の中のコントラストが幻想的なまでだ。闇に浮かび上がる雪のほの白さ、汽車の明かりが灯す温かいオレンジ。島村の視線だけで追ってゆく描写は、一人ものが旅をしている情景を物静かに浮かび上がらせる。

 きっと康成自身が清潔感を好むが故に、作品全体に襟元を正したような清潔感が漂っている。作品中に何度も「清潔」、「清潔」と出てくる。康成が「清潔」という印象を受ける景色を私も実際に見てみたかったなと思わせるほどだった。
 そのくせ康成は生臭いテーマを書くのが好みらしい。島村が汽車の中で気を取られている女の顔が映る車窓に駒子を見て慄然としたりする場面には、ホラーの臭いさえ強く漂って、私はちょっとそこが好ましかった。それで思い出したのは、「源氏物語」だった。いつの世も人の心を捕えるのは情、怨念なんだなと思って。けど、これは私の印象だけど、たぶん康成は基本的に女の人が好きなんだと思う。それも駒子たちみたいに影のある。つまり、意地悪く言えば、付け入る隙のあるタイプの女性が。そう言う都合よく振り回せそうなのが。冒頭の汽車の中でも、そのあと温泉場についても葉子が気になってしょうがない。傍目に見ても駒子の方が見た目とかじゃなく、人の気質としていい女そうなのに、駆け落ちでもして駒子との縁を無理やりに切ろうかしらと妄想すらする。その過程で結局この葉子の気性がおかしいなと言うことに気付いて島村の葉子に対する気持ちもしぼんでいくわけだけれど、そうでなければ島村はいつまでたっても葉子の『悲しいほど美しい声』や子供をあやす無邪気さに捕らわれていたことだろう。

 とにかくそのようにして島村は、表面上の美しさにこだわる訳だけれど、その清潔感を褒められて好かれた駒子がうらやましかった。清潔感漂わせてる人なんて周りにいる?私はちょっと思い当たらない。きっときれいな人なんだろうなと思った。駒子は情が深くてかわいらしくて、確かにいい女だと思った。島村みたいな男にはもったいない。これと言って大事にしてくれるわけでもないのに駒子は島村の何に惹かれたんだろうなぁ。第一、島村は駒子の個人的資質に関しては否定的な言葉しか投げかけない。島村の否定的な発言は、明らかに駒子の感受性の豊かさ、気質の気高さへの嫉妬から来ている。取り敢えず、100%見た目から入って行く島村が、その人の本質を知って惹かれていくという現象時に島村の自信が揺さぶられるさまもよく描かれていたと思う。しかし、日記をつけていることも、読んだ小説のメモをとっていることも、意外と文化に精通していて歌舞伎なんかに詳しく、独学で三味線や唄が島村の鳥肌を立てる程であること、つまり駒子の才能自体が島村には気にくわないようだった。こんな田舎の温泉場で芸者というか、お酌風情に身を落としているような娘はもっと憐れまれるべきというふうな差別意識がにじんでる。まあでもきっと駒子はしっかりした女性だからきっと島村のことなど振り切って新しい人生をどんどん歩いて行ってしまったろうと思うんだけど。きっと置いてけぼりを食らうのは島村の方だったろう。そう思ったら少し胸がすいたし、駒子が島村を過去のものにして自分の人生を歩んでいく姿を想像したら晴れがましかった。むしろ過去のものにされていく島村の方が気の毒に思えたくらいだった。

 島村はマニアだ。それは随所に表れている。女性の美しさを語る時には誰でも格好を付けたがるもんだから、分かりづらいかもしれないけれど、一人で山歩きするのを好む一家の主って言う時点で相当偏執的だと思ったし、その上個人的な趣味から発展して外国の舞踏などの翻訳を生業としているなんて説明された日には『オタクじゃん』という判断をするに到った。それがもっともらしく表されているのが縮(ちぢみ)のくだり。
 縮って、この地方で名産とされている麻の夏衣のこと。「雪国」の舞台はどうやら新潟のようであるけれど、注解にある「北越雪譜」に書いてある産地4ヶ所で造られるものを「小千谷縮(おぢやちぢみ)」と呼ぶみたい。駒子の住まう温泉場の近くがこれの名産地で、春になると立つという縮市の話は私も好きだった。昔の人間らしい根拠のない差別に満ちた逸話ではあるけれど、それを信じで暮らしてきた人々の文化が築いてきた逸話でもある。25歳を超えたらいい糸がつくれないだなんて。シャネルに意見しながらコレクションを作ってるおばさん達が幾つだと思ってんの。年齢に限界を作りたがるのはなぜなのかしらね。女の人の場合は健康な赤ちゃんを産むのが社会的責任と決めつけられてしまっているからなんだろうな。まあだったら女をもっと大切に扱うように社会的に優遇したらいいと思うけど。機会は均等に与えられるべきとは思う。だけど、それ以前に性における役割が全然違う。男の社会に組み入れるだけのシステムなら均等などという定義からは程遠い。命を産むことができるのが女性だけだと分っているなら、女性が自分の社会的な役割において自らする選択をもっと社会は支援すべきと思う。それがあってこその機会均等だと思う。まあだから世界は男のやりやすいようにしか出来ていないってことだな。

 話が逸れたけど。
 このように詳細に語られるこだわりには、おそらくこの小説を読んだ誰もが、『島村=川端』という印象を受けるに違いない。その証拠に、ご丁寧にも注解に下記のような補足がある。
 
 「島村は私ではありません。男としての存在ですらないようで、ただ駒子を映す鏡のようなもの、でしょうか」

 はたしてそうかな、康成君。
 島村が縮められないこの駒子との距離感は、康成自身の人生観じゃないのか。

 「駒子が自分の中にはまりこんで来るのが、島村には不可解だった。駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子に通じていそうにない」

 誰にも打ち解けることをよしとしなかった、君自身が「孤児根性」と呼ぶ気質からくる孤独じゃないのか。素直になることができなかった康成の葛藤が透けて見える気がする。

 駒子と島村はお互いの距離を縮めることはできない、これは不倫だから。それでも魂は呼応する。その二人の魂が自然に惹かれあう様が実に美しいと思った。駒子の嘘のないそのありようが、島村に美しいものを見せている。孤独な島村を暖めている。そんな気がした。だから島村は駒子を求めるのだろうと。

 物語の終わり、島村は駒子に言われるまま夜空を仰ぎ見て、体が掬い上げられそうになる程の浮遊感を経験する。ここを読んで男って女に言われなかったら空を見上げない生き物なのかしらと思った。
 きっと島村は夜空を見上げるたびに駒子を想うことになったろう。


雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

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「宇宙クリケット大戦争」/ 「若きゼイフォードの安全第一」 [reading]

 この回は駄作というのが定評のようだったから、当初この作品は読むリストに含めてなかったんだけど、マーヴィンとその他もろもろの内輪ネタを理解するために結局買って、開いてみれば言うほど酷い作品ではないというのが私の結論。ましてや真の最終回、5作目を読んでしまった後ではなおさらだ。あれより酷いエンディングなんてありえない。アダムスは死んでその結論を暫定的なものではなく、永遠のものにしてしまった。何度も言うが、全く罪深い奴だ。今から考えてみるとアダムスってあんまり後先考えない奴だったのかもな。これまでにも、例えば「さようなら、今まで魚をありがとう」もそうだけど、その時の個人的な気持ちとか問題によるかなり直接的な影響を作品の上に反映している節があるらしいから。しかしそれだったらそれで、編集側も編集側で止めるなり、変更させるなりできただろうに。

 話がずれたけど。
 どこまで本気かどうかはわからないけど、このシリーズを最初に読んだ時から、アダムスがイギリスのイギリス的なものにある種の執着、それが愛情であって欲しいと個人的には思うのだけれど、があるらしい。クリケットなんてどう控え目に評価したってルールが複雑で見るからに退屈なスポーツを作品の軸に持ってくるなんて、よっぽどこのスポーツが好きじゃなかったら出来ない。これまでの私のアダムスに対する印象が正しければ、やはりこのテーマを個人的に気に入っていて採用したと思うのが自然な気がするね。
 あとがきに親切にもクリケットのルールを説明してくれているんだけど、全然頭に入ってこないんだよね。ただ、作中に出てくる「イギリスのクリケットの終わり」にまつわる話が本当だとするとかなりバイオレントな歴史を背負ってるのね。クリケットって。そうしたらウィケットに火をつけようと思うかな。サッカーで言えばゴールみたいなもんでしょ?あんなに火付けたら大騒ぎじゃん。大体、そんなんに火を付けたいと思わせるような事態が起きてること自体「それってなんなの??」と思った。しかし、本当にすごいのはその後で、そのウィケットの焼け残りを「遺灰」として杯にしまって、以後その「遺灰入り杯」をチャンピオンズカップにするなんて、正直言って「気は確かか?」と思う。と言うか、そこまでさせるどんな確執がオーストラリアとイギリスの間にあったの?しかもクリケットなんてスポーツごときをめぐって。スポーツのフェアネスはどこへ。イギリスの紳士精神はどこへ。その暴力のにおいぷんぷんな歴史を淡々と語るラジオの中継者の言葉に唖然としてしまった。この話は史実に基づいているんだろうか。1883年のクリケットの試合の話なんてネットにあるのかな。そういうの信用してもいいもんだろうか。最近ネットにある情報が疑わしくて。特にWikiみたいな誰でも書き込めるようなやつ。あんなんものによってはどうにも胡散臭くて時には有害にさえ思うよ。

 みんながこの話を嫌うのは、突き詰めればこれが最終話に相応しくないというところに落ちるんだけど、なぜかと言えば、それまでの「ヒッチ」と関係性がほとんどなくなっているからということらしい。それを最終話にしてしまうのはどうかという感想なんだとしたら、実際にはこれは最終話にはならなかったわけだから、そういう意味で後の世代がこれを一つのエピソードとと思って読めばどうかと言うと、「これはこれで結構面白い。少なくとも本当の最終話よりかは」というところに落ち着くんではないだろうか。
 だって、クリキット人の性質とかよく考えられていると思って関心したけどな。特に、歌が好きで、放っておくとすぐにポール・マッカートニー級に鼻につくほど素敵な歌を歌いだしてしまうあたりがかわいらしかった。クリキット人はネズミのように小心で、家庭的な生き物で、だからこそ宇宙の大きさを目の当たりにしてみんなで肩寄せ合ってビビってるって感じだった。けど、ハクターに作られた人種だからね。ただビビってればいいだけで終われなかったのが彼らの不幸だ。というか、彼らがこの世に発生した理由そのものが酷く不幸なものだけれど。その不幸な運命から解放してあげるということがはからずしも今回の冒険の最終的な大義であったような気がする。加えて言うと、宇宙船とか、宇宙規模的に強力な殺人ロボットとかを作れるくせに、移動手段に車とかなんかその類のものを使う頭のないのも好ましかった。とにかくこの根性的にはカタストロフィ級の冷酷さの持ち主のくせに、そのくせネズミの如く小心なクリキット人がとてもチャーミングに描かれてて、アダムスはきっとこういう動物の本能的に純粋な生き物が好きなんだろうなと思った。
 例えばマットレス。マットレスはこの作品中で最も好きなエピソード、このシリーズ中で言っても3本の指に入りそうな勢いで気に入っている話だ。このマットレスは非常に「かわいい」。もうこんな生き物がいたらみんな一家にひとつは生きたマットレスが欲しくなるはず。まあ、バカなんだけどね。でも私にはアダムスやマーヴィンが軽蔑するほど頭の悪い生き物には思えなかった。多分それはマーヴィンよりも感受性に優れているからだろうなとも思うし、なによりある意味自ら進んで何百年も穴にはまったままでいるマーヴィンに「もうはっきりしたことにすれば?」「はっきりしたことにしなよ」と提言できる生き物がこのシリーズ中他にあっただろうか。マットレスとマーヴィンの会話はすごくかわいらしくて何度読んでも飽きなかった。マットレスの前からマーヴィンが唐突に奪い去られてしまった時はあとに残されたマットレスのことを思ったら胸が痛んだくらいだった。このあきれるほど素直で、世間知らずで、いちいちマーヴィンの言うことに興奮するマットレスが私にはかわいくてしょうがかなった。ちなみに、マットレスには目がある。それも大きいのが。きっとマットレスに寝た時に横についてる空気穴が生きてる時は目だったんだろうな。
 シリーズ通して振り返ってみると、アダムスはこういうチャーミングな第三者的なキャラクター(救いがたく無知で無教養だけどそれ故に無害で心優しい外野)を描くのが得意だったような気がする。直接話の筋に触れるような第二者的なキャラクターにはかなり癖を持たせるけれど、直接筋に絡まない第三者には物語のギャラリーって位置をあてがっていたように思う。

 【今日の難しい熟語】 
 「擲弾(てきだん)」: 手で投げたり、小銃で発射したりする近接戦闘用の小型爆弾
 「不撓不屈(ふとうふくつ)」: どんな困難に出合ってもひるまずくじけないこと
 「揺籃期(ようらんき)」: (1)幼少期。幼児期 (2)物事の発達の初めの時期
 「兵站線(へいたんせん)」: 戦場と兵站部を結ぶ輸送路線
  ※兵站: 戦場の後方にあって、作戦に必要な物資の補給や整備・連絡などにあたる機関

 アーサーがスタビュロミュラ・ベータに行くまでは死なないという黙示録の元はこの回にあった。アグラジャックの「この、連続おれ殺しめ!」と言うセリフが気に入った。ここで描かれているのは完全なパロディと言うか、コメディだけれど、普通に考えたらアグラジャックの背負った運命はあまりにも残酷で、それ故に普通の人間だったらいっそ気が狂ってしまうか、運命に抗うために自殺をすか、とにかく彼の辿るどの人生においても最終的には自己破壊的な行動に出るよなということは想像に難くないんだけど、「でもどうせこれはお話だから」と、超現実的になんだか超非現実的になんだか、とにかくそう思いさえすれば、このコメディが孕むおぞましい運命を真に受けて気に病むことはないと自分に言い聞かせるにあたって、ふと、「ああ、これがSEPフィールドなのかもな」と気がついた。
 あとサブキャラで無限引き延ばされワウバッガーって言うのが出てくるんだけど、これもフォード並にひねくれてていけすかない生き物だった。生き物って年取るとみんなああなるのかもしれない。一人暮らしのじじばばが頑固で人になつかない様子で描かれるのはよくあることだと思うんだけど。やたら被害妄想が強くて、それ故に自分の不幸を他人に押し付けるみたいな。それに似てるのかもな。フォードだって実際には何百年て生きてるみたいだし。
 フォードはものすごいひねくれてて、嫌な奴で、四六時中アーサーの天然な様を侮辱してるのに、それでいてアーサーから離れないのはなぜなんだろう。一緒にいれば気分が悪くなるということは分かっているはずなのに、というのが下記の表現でよくわかる。
 「フォードは不機嫌な顔の練習をしていて、しかもかなり上達している最中だった」
 そこまで不愉快な思いをさせられるとわかってるくせに、それでいていっつもフォードから向かってアーサーに会いに来る。変なの。変だけど、私にはちょっとわかる気もする。鴻上尚史だったと思うんだけど、一番愛している人が同時に最も苦しめる人なんだって。なるほど。それなら私にもよくわかる。その好意の大きさゆえに、気持ちが反対側にぶれた時の反動もそれだけ大きいってことだよ。その理論でいえば、この不条理さは納得できる。私はこの決して同じ地平に落り立つことはない二人の、それでいて改めて言葉にするんでは説明が付かない様な深い結びつき方をした友情をとても羨ましく思った。だって肝心な時にいつもそこにいるんだよ。アーサーはフォードのことをそこにいるといつも不幸を呼び寄せる呪いかなにかと思っているみたいだったけれど。でも二人でなければ潜り抜けて来れなかったものを二人で潜り抜けてきた訳だから、これ以上の友人てお互いに望めなかったんじゃないかと思う。実際にお互い以上の友人て出来なかったわけだしね。

 この回のいいところはマーヴィンが活躍するところ。それもクライマックスで。しかもあろうことか、それがゼイフォードによって褒められる。これは特筆すべきことだ。マーヴィンは4作目でかなり歪んだ時間の中をゼイフォード達のせいで生きてこなきゃいけなかったことが分るんだけど、非常に珍しいことに、その一端を彼が自らの口からマットレスに話して聞かせる場面がある。大きな眼をしたマットレスに。あの辺とかも読んでてウキウキしてしまった。私、相当マーヴィンが好きなんだなということにその時点で気がついた。なんでマーヴィン殺したかな、アダムス。マーヴィンは、アーサーの対極に位置こそすれ、この作品の双璧をなす良心でもあったと思うのに。
 アーサーもこの回ではマーヴィンに負けてなかった。節々でその場を引き締めるようなヒーローになってた。その身のこなしは一見かっこ悪いようでいて、結果的にかっこよくなってしまっているのがアーサーらしくなくてちょっと変だったと言えばそうだけど。まあ彼にもそういう他人の視線的にもかっこよくて重要と思われる場面があってよかったなと思うことにした。
 しかし、最終的にクリキットとの和平を結ぶのはトリリアンだった。それがどうにも鼻持ちならん。私は最初からこの女の子は宇宙とかいうファジイなものにあこがれている割には超物質主義的で、視野が狭くて、頭が固くて、自己顕示欲が強くて、最悪なことに自分勝手な性格に思えてどうしても好きになれなかった。のが、説教臭くも、実際にクリキット人、のみならずハクターにまで説教を垂れて改心させるという「んなアホな」というオチだった。
 ハクターの辞世の科白は本当に印象的だった。不死が、そうでなくても長生きが幸せであるとは思えない。「元気なら長生きも楽しいと思うよ」と言う友達もいるけれど。結局そういう条件がなかったら長生きしたいとは思わないということだよね。

 最後はそれまでの本筋とはまったく関係のないエピローグが2度3度続くといった印象だった。話は別の場所を転々として終わる。しかものおまけの話が、この本の原題に触れる内容なのだから面食らってしまう。作品の大部分をクリキットに割いておきながらタイトルへの核心には最後の十数ページでしか語られない。そして4巻目に引き継がれる。んだけど、その引き継がれ方も4巻目のクライマックスになってだ。話の引き継がれ方がどうにもちぐはぐな気がする。それまで散々テーマの核心とは関係のないところばかりを掘り下げていたのを突然次の展開に煮詰まっていたら、そんなのもあったねと思い出したかのように出てくるのがいかにも気になった。まあここまで読み重ねてくるとその行き当たりばったりな感じがアダムスらしいとも思えるようになった。この人はきっと考えなしに、思いつきと勢いだけで物語を書いてるんだろうな。
 生命と宇宙、その他もろもろへの回答は拍子抜けしてしまうほどかなり肩透かしな内容だった。はっきり言ってがっかりすると言ってもいい。だってそれはただの詭弁だし詐欺みたいだ。問いと答えが同じ宇宙に存在できないなんて。だったらディープソートは究極の問いを得るために地球と対になる銀河系をもう一つ別に用意したはずだ。アダムスってほんとかなり抜けている。この訳者に散々突っ込まれていることではあるけれど、きっとそういうボロは私の気が付かない個所にも山ほどあるんだろうな。特にピコった話だと、私にその真偽はわからないから。

 とにかく、この作品は珍しくハッピーエンディングで終わる。ハクターは永らくの望み通り無に還り、クリキットは恐怖から解放され、だから宇宙は滅びることはない。この作品を書いた時点では並行宇宙というのが考慮されていなかったためか、アーサーは地球に戻れない。その概念に気付いていたら戻れたかもしれないのに、あくまで本人は2日後には自分が見たのと同じ運命をたどる同じ地球だと思い込んでいるので地球に残らない。もしも自分が見てきた地球とは別の確立軸上にある地球だったら、しかもその可能性は大なのにもかかわらず、アーサーは再び地球での生活取り戻せたかもしれないのに。
 いずれにしろアーサーは再び故郷が破壊される場面を見るには堪えないということで、鳥が「さえずりかわし」、「その土地について思うところを歌う」場所にとどまることを選ぶ。この時は。

 とうとう全巻読み終えた。「ヒッチ」は時間と空間と確立を捻じ曲げて潜り抜けるお話だ。それをこんな風にはからずしも順番を入れ替えて読んでこれたことは、かなり前後のストーリーのつなぎ方に困惑するはめにはなったけれども、でもそれこそこの物語を読む上で最も相応しい方法だったのではないかと思って一人ごちになった。

 鳥って「さえずり」、「その土地について思うところを歌うもの」なんだな。


「若きゼイフォードの安全第一」
 これは…なくても良かったな。「ヒッチ」ファンは今回初翻訳されたこの作品をやたらありがたがってるみたいだけど、私はこの話は話と言うにも未熟にすぎないかという印象しか残らなかった。残りカスと言うか。そうでなくてもアダムスって私の知りうる限り物語の終わり方がへったくそな作家として3本の指に入るんだよね。それくらい強引な終わり方を平気でする。最初は勢いがあってテンポがあって、「快調、快調」と思って読んでいるんだけど途中から失速して、最後はズドンと落とされるというか、照明を落とされるというか、そういう終わり方をする。なんだろなぁ。
 アダムスはというか、モンティパイソンもなんだけど、以外にも政治批判的な活動に加担していたらしくてこの作品はその一端として書かれたものだという。この版は、後日その露骨に政治批判的な部分を修正されたものを翻訳にあてたらしい。なぜ修正しなきゃいけなかったんだろう。ちなみに修正された部分は、レーガンなんだけど。
 うーん、例えばさあ、手塚治の作品とかだと当時からの差別的な表現をそのまま今に残しているわけじゃない?映画とかでもここ最近は作品の芸術性のためとかなんとか言って、作品で触れられる差別的な表現を保護するようになっている。なぜ今回その流れを汲まなかったんだろう。そう言えば夏目漱石でも伏字を使われている当時だか後世だかの差別表現があった。今はもういいんじゃないの?と思えて仕方がない。小説だって芸術じゃん。文壇ってそう言うのにまだ抵抗の強い世界なのかな。なんかすっきりしないな。


*** エピローグ ***

 このシリーズを読み始めるきっかけになったのは、「ヒッチ」とは全く関係のないレンタルDVDだった。レンタルだったから予告が入ってて、「ヒッチ」はその中の一つだった。借りたのは「ライフ・アクアティック」だったかな。何を借りた時に入っていたのかはちょっと記憶が定かではないけれど。
 私の住んでる町にはレンタル屋さんがないので、私にとってDVDを借りて観るのはかなり特別な機会だ。そう言う機会をくれた人に少し感謝してる。本当はそんなこと思う必要はないのかもしれないけど、でも、その時観た映画は少なくともその人にとってはつまらない作品だったと思うんだよね。けど、そのつまらない映画に付き合ってくれたおかげで、「ヒッチ」のDVDを買おうと思ったわけだし。そしてそれこそがここに至るまでの始まりになったわけだから。
 だから、いつかその人にこの面白さが少しでも伝わる時がくればいいなと思う。それがどんな機会であれ。


宇宙クリケット大戦争 (河出文庫)

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「銀河ヒッチハイク・ガイド」 [reading]

 なぜ結局全巻読むことにしたかというと、5巻目のあとがきにあの最後がどうしても世間一般に認められずBBCが独自のエンディングを創作してラジオ番組を作ったらしいんだけど、その時復活させられたマーヴィンの言葉に「今では私も自分のバケツを持っているのです」と言って安原和見の涙を誘ったという。
 うむ。
 これまで「ヒッチ」を読んでてもどうやらそれ以前のネタに引きずられているエピソードが多々あって、まあ大体想像はついたし、大勢に影響はなかったからあまり気にしないようにと思っていたのだけれど、マーヴィンは好きだったからもうちょっと掘り下げてみることにした。すぐ読みたかったので送料がかかるのに残りの2冊だけをAmazonで買って届いた日にすぐ読み始めた。

 結論から言うと、せっかく「バケツ」の意味を求めてわざわざ映画で見た部分も読んでみようと思い立ったのに、しかし、「バケツ」の指すところはわからなかった。誰がバケツの話なんか持ち出したんだろう。バケツのエピソードなんてどこにも出てこなかったと思うんだけどな。ガッカリや。和見めー。
 1巻目だけ河出文庫のキャンペーン帯が付いてた。装丁の最後についている河出文庫の出品一覧みたいのを見る限り河出文庫ってSFものばっか扱ってるのね。ふーん。そう言うとこもあるのかー。

 中身は驚くほど映画と変わらない。寸分違わないと言っても過言ではないくらいまんまだった。まあ、もともと脚本から起してるんだから当たり前かと言えば当たり前なんだろうけど。それにしてもセリフの一言一句がそのままなんでちょっと面食らったのよ。
 でも、トリリアンの発生は結構唐突だ。映画みたいにちゃんと紹介的な登場をしない。出会いの場面の描写がないのよ。気がついたらもうゼイフォードと一緒なんだもん。だからアーサーがなぜトリリアンにそんなに執着するのかが分かりにくいので、トリリアンがなぜにヒロインの位置を占めているのかということは理屈としては伝わってこない。幕が開けたら既にそこにいたものだから。

 映画を見てて気になってたことがあるんだけど、フォードの出身の星の名前がベテルギウスってスーパーに出るんだけど、どう聞いても「ビートルジュース」って言ってるように聞こえる。うーんと思っていたらば、本の中でベテルギウスの横に「ビートルジュース」ってルビが振ってある。それを読んで私はほっとした。よかった。ビートルジュースで正しかったんだわ。あとがきに書いてあったんだと思うんだけど、ベテルギウスはギリシャ語読みで、英語だとビートルジュースなんだって。なるほどね。そっか。
 そうそう、「ヒッチ」では宇宙はその意味を真に理解する6人によって運営されているというエピソードが「宇宙の果てのレストラン」にも出てくるんだけど、それがもう1巻目に出てきてるんだけど、その6人て言うのがなんなのか、誰なのか、結局それも分らずじまいだった。

 今日の難しい熟語:「僥倖(ギョウコウ)」
             (1)思いがけない幸運。
             (2)幸運を待つこと。

 今日のひらがな表現:「逃亡しているさいちゅうなんだし、」

 「最中」を「もなか」と読まれるのを嫌ったのか。

 映画に出てこなかったエピソードで私が気に入ったのは最後アーサーがハツカネズミと対峙する場面で、ネズミが当時を回想する場面に哲学者が出てくるんだけど、それが面白かった。この宇宙観にはたびたび神様の話が出てくる。信仰というか。どうして宇宙ができたかという話になればそれは切っても切れないネタのようで。はじめに神様がいて、神様が創ったとか、いやそうではなく、最初にある特定の生き物がいてそいつのくしゃみで鼻から出てきたものが今の宇宙だからそのうちハンカチで拭き取られてしまうという、もうどうでもいいよと言いたくなる信仰もあったりする。またバベル魚みたいに「気が遠くなるほどお役立ちなもの」が実際することに神の不在を疑ってみたりする。
 まあつまり何が言いたいかと言うと、宇宙というものを考えるとき、なぜか神様を切り離して考えれないということ自明の理があるようなんだけど、それが私としてはうまく理解できないということだ。これは「コンタクト」と見た時からよく思っていたんだけれど、神というあくまで信仰がなぜ宇宙というあくまで物理的な空間に干渉してくるのか。で、思ったのは、多分私にこの問題が理解できないのはひとえに私に信仰がないからだろうなということ。「コンタクト」は科学と信仰の2つの深い溝を、溝と言うかそれこそ別の宇宙に住んでそうな概念を見事にパッチワークしてみせた。この一見性質の全く異なる2人を、取り敢えず「他人に見せられる証拠のないことを信じること」という地平に立たせてみるという試みが「コンタクト」っていう作品だったように思う。カール・セーガンはどんなことを考えながら星を見てたんだろうなぁ。この人はクリスチャンだったんだろうか。もしも私がNASAとかで働く人に話を聞く機会ができたら、自分の仕事と信仰にどう折り合いをつけているのか聞いてみたい。彼らは遠い惑星の発生や消滅に創造主の存在を感じるのかな。

 本を読んでて気がついたもう一つ。本では大きな特徴なのに悲しいかな映画では表現しきれていないものがある。それは「皮肉」だ。安原和美の訳す皮肉は本当に面白い。そう言えば、中学生のころだったか、高校生のころだったか、イギリスが皮肉を好む国だって教わったような気もする。雨が降って、皮肉が好きで、鬱々としている。みたいな感じ。安原和美の訳す皮肉には何度となく吹き出してしまった。マグラシアに無理くり降りて行こうとするときの自動応答メッセージの皮肉は映画ではすくいきれてない。「わたくしどもに揺るぎないご関心をお持ちのご様子、まことに感謝に堪えません」て、英語でなんて言ってんの?ここまで言わしめてんのは絶対安原のセンスだと思うんだけど。

 最後にアーサーが「ぼくとぼくの生き方はぜんぜんそりが合っていないように思う」とスラーティバートファーストにこぼすのを聞いて、思わず『私も…』と心の中で呟きそうになってしまったが、よくよく考えてみればアーサーほどではないと思い直して、言葉を喉元辺りで飲み込んでおいた。
 バベル魚のエピソードはDVDのおまけに入ってるし、アーサーのこの最後の発言が別の宇宙で戦争を引き起こすというカオス論は映画のエンドロールをシナトラ風の「さようなら、いつも魚をありがとう」を聞きながら辛抱強く待っていると見れる。
 私らみたいな宇宙の規模から比べたら最小単位にもみたいないような存在には、「それで世はすべて事もなし」(お前らの知らんところですべては始まっててすでに終わっている)風なエピソードで締めくくってもらえると、今日という日を心安らかに眠れるわけだな。


銀河ヒッチハイク・ガイド (河出文庫)


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「ほとんど無害」 [reading]

 なるほどスポーツクラブでランニング中に心臓発作で亡くなったという死に方はこの物語の作者にとって相応しい最期だったかもと思った。物語は突然に終わる。スイッチを切れられるみたいに。訳者も言ってるけど、通説では「ヒッチハイク・ガイド」シリーズ史上もっとも出来の悪いのは3作目だと言われているようだが、私はこのエンディングに比べたらこれよりひどいのは書けそうもない気がするんだけど。
 とにかくそんな風にして、信じられない気持で唖然としながら、これは誇張表現でもなんでもなく、続きのページを探してしまうような終わり方だった。

 5次元目って何だか知ってる?私は知らない。知らなかったというか。4次元目ってふつう時間のことを言うと思うんだけど、それだってちゃんと理解しているわけじゃないし、大抵の男の子は私にそういうファジーな不確定要素を話題に持ち出されると、なんか否定的で説教じみた反論を展開させるので、それ以上の次元についてはついぞ考えたこともなかったというか、あると思ったこともなかったんだけど、「ヒッチ」によればそれは「確立」だ。
 並行宇宙っていうのがあるよね。スーパーナチュラルな表現を借りると「ドッペルゲンガー」ってあるじゃない?あれがこれに相当するんじゃないかと思うんだよね。そう言えば、この前萩尾の新作をやっと買って、その中に「ドッペルゲンガー」を別の確立の上に存在する世界の表れと捉えた作品があったなということをこれ書いていて思い出す。ふむふむ。萩尾はかようにして私が子供の頃からこの多彩な様相を持つ世界の一面を理解させる一助となっている。こんなにイマジネーションに溢れてて、それでいて現実の学問に勤勉という貴重な漫画家をもっと世間は評価してしかるべきだと思うんだけどな。萩尾がいなかったら、私は私というこのちょっと人には理解されにくい人間を、なんとか世界と折り合いをつけてこの地上に繋ぎ止めておくのは難しかっただろうなと思う。
 話が逸れたけど、つまり、生きるって、寸分の隙のない選択の連続だと思うんだよね。けど、そのいちいち細かい選択の結果が積み重なって「現在」を具現化しているわけよ。だからよく、『もしもあの時ああしてなかったら…』的な表現とか後悔とかするじゃない?その『ああしてなかった』場合の方向に延びた人生が別世界として存在してるっていうのが「並行宇宙」。簡単に言うとそういうこと。かな。だから、私の人生を例にとって言えば、私が今知覚出来てるこの現実以外に、それまでにあった選択の分岐点における選択肢の数だけ「私の人生」が同時に存在していると考えるわけよ。具体的に言ってみると、あの時ああしてなかったら、もしくはしてたら、私は今結婚して、離婚した後で、2児の母かもしれないし、単に未婚の母かもしれないし、イギリスに住んでるかもしれないし、あるいはもうとっくに死んでいるかもしれない。そうなる理由はごまんとあるよね?とまあそういうことだね。
 「ヒッチ」の最終話はその5次元目と「終焉の予感」がテーマだったように思う。この話は、最初から最後まで終末の予感が付きまといっぱなしだ。何度その表現が出てきたことか。そのしつこさはアダムス自身の終わり方の予言だったのかと思わせるほどだった。アーサーは愛する女性を失い、途方に暮れて、本能的に安住の地を求める。辛く孤独で痛ましい長旅の末に手に入れた安息の地に突然訪れる個人的な災い。決定的に不可避的な不幸のにおいをアーサーはこれまでの経験から感じ取る。全く身に覚えのない娘の出現に、この安息の日々の終わりを感じ、次にはその娘自体も失うであろう予感に悩まされる。そして、宇宙を股にかけた数々の大冒険の経験から自分が死ぬ時を知っていて、それ故に今はまだその時ではないと常に自分に言い聞かせている。つまり、アーサーは死に時を知ってしまったが故に逆にどうしようもなくその行動のすべてを死に絡め取られてまっている。これは皮肉なことだ。運命を知っているが故に自暴自棄になってしまうんだから。まあでも、巡る方向が悪いってだけで、より必死に生きてるってことには変わりはないかな。

 最初に「ヒッチ」を読んでからずっと気になっていたんだけど、トリリアンはこのスペースオペラの唯一のヒロインでありながらその実どうしようもなくつまんない女にしか私には映らない。映画のトリリアンはとんでもなくマテリアルで(物質主義だと言いたい)軽薄な女の子だけど、この最終話の冒頭に出てくるトリリアンもまさにそんな感じの子で私をうんざりさせた。
 トリリアンは自分のしたことしなかったことをいちいち後悔して生きている。アホか。もうこういう人間に付ける薬はないなとあきれてしまう。なんでアダムスはこんなんをヒロインにしたんだろう。
 アダムスの描く別の確立軸上に存在する地球では、地球はハイパースペースを作るために破壊されずに存在し続け、トリリアンはゼイフォードの船に乗り損ねてて、それが故に天文学者だか物理学者だかでいることに絶望してアナウンサーになってるんだけど、その気持ちははまるで理解できない。次のコンタクトを待ったらいいじゃんか。大体宇宙人に会うことに憧れててそれを職業にしたいんだったらSETIにでもなればよかったんだよ。ケッサクなのが、緑色の宇宙人に(なんで外人の言う宇宙人て緑色なんだろう)第十惑星に連れて行かれる話。「ヒッチ」のなかで第十惑星はルパートって言うんだけど、うんざりするほどマテリアルなトリリアンに相応しく、通販ショッピングとジャンクフードとケーブルTVをこよなく愛す究極的にマテリアルな宇宙人だった。トリリアンは「こんなんじゃ絶対に誰も信じてくれない」と悲嘆にくれる。そこがまた私には理解できない。そのまま話したらいいじゃんか。実際はそんなもんだったって。もしくはそんなら自分ひとりの胸にしまっておいたっていい。それで地球が消えてなくなるわけじゃなし。信じてもらえないと地球がなくなっちゃうんだって言うならまだしも。ちいせえ女だなぁと思ってつくづく呆れた。
 ここ読んで感心したのは、第十惑星っていつからその存在を話されてたんだろうなぁってこと。アダムスはセドナが見つかったニュースを知ったらなんて思っただろう。第十惑星が発見されたと仮定してここに書かれた現象は実際に起きたわけだし。つまり、占い師たちは星が増えたから今度からセドナも考慮に入れて占わなきゃいけないという。「じゃ、それまでの占星術ってなんだったの?」って話。けど、今ちょっと見たらセドナは将来的には冥王星の準惑星(衛星と同じなのかな、土星の月とか4つくらいあるよね?)って扱いになるらしい。だから独立した惑星ではなくなるんだよ。エリスと一緒。読んだら、今時点ではエリスの方がセドナよりも太陽から離れた位置にあるらしい。公転の軌道の問題なんだろうけど。なんか、占星術って……と思うよねえ普通。

 この作のフォードには「ヒッチ」の当時からの読者にはなかなか受け入れがたいものがあるみたい。訳者も大森望もそう言っている。確かにフォードがエルヴィスにあんなに執着するのはどうかと思ったけど。でも、それ以外は、特にガイド本社に潜り込んで一悶着起こすとこなんかはかっこよかったけどな。二度目に窓の外に飛び出した時なんかは軽く感動さえした。それに多幸症のロボットなんかは私の全「ヒッチ」を通してもお気に入りエピソードの一つだけど。

 この訳者はすごい。この手の作品を訳させるにずば抜けてセンスがいい。よっぽど作品を、作者の精神を理解しているんだろうと思う。そしてなによりちゃんと翻訳するところがいい。これは前にも話したけど。安易にカタカナに置き換えないことろが好ましい。「ディープ・ソート」を「深慮遠謀」って訳すくらいだから。「汎宇宙ガラガラドッカン」とか。後者の方は、映画見ててわかったんだけど多分言語の表現の方にうがい薬の意味合いが含まれているんだと思う。映画の字幕には「うがい薬爆弾」って表現があったから。しかしそれを直接的に訳さずに「ガラガラドッカン」とその語彙の指す行為を表現に持っていったこの人のセンスに脱帽する。うむむ。すごいぞ安原和見。
 が、このシリーズを通して読んでてこの人の仕事で1点気になるところが。結構難しい熟語を平気で使うんだよね。「無謬(ムビュウ)」とか読める?意味わかる?「推敲(スイコウ)」とかさ。常用しない熟語表現が結構出てくる。つまり、だけど、安原自身はそれを理解してるってことよね。たぶんある程度英語の表現としてもそういう堅苦しいものが使われているんだろうなという推測はできる。出なきゃわざわざこんなスペースオペラにそんな画数の多い漢字の出番がそうそう必要になるとは思えない。で、逆の面もあって、すごい単純な言葉をひらがなで表記してたりしてちょっとバランスが崩れてる時がある。どっちかって言うとそっちのほうがすごい気になった。例えば「じたい」ってことば。おそらくitselfなんだろうけど。「テクノロジーじたいに対する勝利であると同時に……」。なぜ「自体」って使わないんだ?なんか変じゃない?少なくとも私は読みづらくて躓いちゃったよ。わざわざひらがなの表現を選んでるんだよねえ。多分。

 私は、アーサーはとっぽいけど、誠実な人だから、この自分勝手で超マテリアル主義なトリリアンに翻弄されて「どこも変でないけもの」たちの住む土地を去らなければならないのが気の毒だった。というかただ単に私はアーサーが最後に暮らしたあの星が好きだった。とてもシンプルな生活をしててみんなおおむね友好的に暮らしている。「コンタクト」で元神父が言うようにテクノロジーが人を幸せにすることなんてないのかもしれないと、この本を読んでて思った。テクノロジーは人の暮らしをただ単にややこしくするだけだ。ややこしいからその管理自体をテクノロジーに任せるというバカなことになっている。アーサーのlast resortはすごい原始的な土地だったけれど平和があって友好がある。それ以上に人が求めるものってないんじゃないかな。多分、アダムズ自身、アーサーが最後に訪れた星や、そのあとにちょい寄りした世界にフロンティア的な幻想を投影しているんだろうと思う。アダムスの自然に対する愛着はかなり簡単に、直接的に読み取ることができる。直接的に「ガイド」に語らせることもあれば、バッファローの大移動を彷彿とさせる描写に託すこともある。「甘くかぐわしい空気」なんてそうそうないし、相当田舎に行かなかったらお目にかかれない。私はそれを経験として知っている。アダムスの自然に対する羨望や憧れみたいなものは本当に手に取るようにわかる。何巻目かのあとがきに彼が晩年動物保護の活動もしていたというのを読んだ時は既に特に驚くべきことでもなかった。

 なんだってアーサーを抹殺しようと思ったのか分らない。この作品自体お金に困って書いたというくらいだから「ヒッチ」は彼の生活的にそう簡単に始末してしまっていいタイプのものではなかったはずだと思う。また、執筆中は「個人的につらいことの重なった時期だったこともあり」とかなんとかって言い訳があとがきにも書いてあったけれど具体的な内容については触れられていない。父親が亡くなったとかだったかな。支離滅裂でかなり出来の悪い娘「ランダム」は自分と子供関係を表しているのかなと勘繰りたくなるくらい、これほど不幸な関係をわざわざ書き残す理由が理解し難い。アーサーの時計が壊されてしまう場面は胸が痛かった。

 すべてが消えてなくなった瞬間、なんだか長い間悪い夢をずっと見せられていたような気がした。虚無感て言うのかな。アーサーやフォードが潜り抜けてきたあれやこれや、手に入れてはことごとく失ってきたあれやこれやもすべてが虚構だったように思えて(というこの表現はおかしいな)、『こいつ(アダムスのこと)は血も涙もねーんだな』と、茫然として本を閉じた。

 そのあと大森望の解説を読んでアダムズがどのようにして死んだかを知った。そして、死ぬ前にこの5作目はひどかった、いつか書き直そうと後悔していたことも。私はそれを知って満足だった。アダムスが後悔してそれを果たせなかったことを。「ヒッチ」の呪いだ。アーサーたちのように終末の予感に対する漠然とした焦りと、もう何も取り戻せないという後悔と、さらに今持っているものでさえ失うしかないという絶望の中で死んでいったなら、きっとフォードたちも満足だろうと思った。
 存在の発生と消滅に情なんかない。分かってはいるけど、少なくともアダムスにはそれをコントロールできるものがあった。それをないがしろにしたこれは罰だ。きっと。

 大森望の解説は面白いよ。普通に仕事の愚痴が書いてあったりして。愚痴って言うかこの人の場合はもうある程度発言に責任のある立場だから「批判」と言った方が正しいか。それにしても実際活字にして残すくらいなんだから、というか出版してしまうくらいなんだから相当根に持ってんだなと思った。ただ、この人の精神状態がいつも高めのテンションに位置していることを考えると、それが単に短気のなせる業なのか、それとも純粋に仕事に情熱的なのか測りかねるけど。大森も安原もそうだけど、ほんとに本の虫なのね。若い時は相当変わり者扱いされたろうになぁ。モンティパイソンが好きなんてなかなか言えないよね。『すげーバカがいる』と思われるだけじゃん。とか、イギリスのSFが好きですとか。完全に頭おかしいよね。現在生きてるどの世代の10代、20代頃の話だったとしても。
 大森望はもうけっこうおじさんなんだろうなとは思っていたから、実年齢を知っても驚きはしなかったけど、それにしてもやっぱり感覚が若いなぁと思って逆に惚れ直したというか。
 書いてる彼らは、やたらと本国ではとかアメリカでもとか、いかにもこの「ヒッチ」シリーズが世界の誰とでも通じる人気作みたいなこと言ってるけど、「やっぱりこれってカルト作品なんだな」ということに5巻目にしてやっと気がついたあとがき&解説だった。


ほとんど無害 (河出文庫)


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「さようなら、いままで魚をありがとう」 [reading]

 なーんて楽しいお話なんだろう。オチのないおとぎ話と思って読めば、どこへも連れて行かないファンタジーだと思えば、この一連の話は「ほとんど無害」だ。「無益」という言い方をする人もいるかもしれない。

 こうしてシリーズを一つ一つ読んでみると、映画版は本当に惚れ惚れするくらいこの「ヒッチハイク」シリーズの真髄を入念に織り込んだ完成度の高い作品だということに気がつく。今回のシリーズのタイトルは映画版のオープニングテーマになっている。それこそミュージカル調に華々しくアレンジされて。ひょっとしたら舞台版でも使われているのかもしれないね。きっとこの「ヒッチハイク」シリーズはそういう風にして連綿とその時代時代で楽しんできた人が最終的には一番楽しめるようになっているんじゃないかと思う。年功序列に手厚いサービスが受けられる。それがいいことだなんて思ったのは初めてだな。ファンはうれしいだろうね。層を重ねるようにして作品を楽しんで読み進められるというのは。人気があるって作家にとっては幸運なことだと思ったのもこの作品が初めて。同じテーマを何度も繰り返し扱うってことは、表現が洗練されていくことに他ならない。けどね、それってよっぽどの理由がない限り飽きられちゃうと思うんだよね。読者はプロットを先回りするだろうし、そうなるとオチも掴まれちゃう。同じテーマは扱っても別の話になっていなきゃ読み手の興味は惹きつけていられない。だからこそ、同じテーマに何度も挑戦して読者に許されるってことが、許されるほど愛されてるって言うのがすごいなと思う。ハルキなんかはその最たる例なんだろうな。

 この作品で気がついたんだけど、この本自身がガイドになんだ。イギリスの。アーサーはこの野蛮とも取れるスペースオペラの主役に据えるにはちょっとナイーブ過ぎないかと思うくらい慎ましく、控えめで、こんな非常識な宇宙の只中に放り出されてなお正気を保ちつつ、無駄に正義感なんかもあったりする。そして私が思うアーサーの最大の美徳はその感受性だ。アーサーはごくありふれたという意味でアンチヒーローの小市民だ。自分の生活を守る程度の力しか持たない非力な動物だ。そう考えると、映画のアーサーの凡庸さはアダムスの意図に近かったんじゃないかなと思う。だけど、そんな小さな生き物の心が感じるささやかな幸せを、ほんとに、意外なまでに、うまく表現させている。アダムスはアーサーに代弁させる。イギリスの自然の美しさも、その美しさが無言のうちに要求する不便も、すばらしい文化やそうでない文化も、この作者は愛情を持って描写する。あんなに乱暴な書き方だって、その愛情が、愛着がちゃんと読み手に伝わってくるから不思議だ。雨が好き。公園が好き。アダムスは紅茶だけじゃなくてサンドウィッチも好きみたいね。最初、サンドウィッチは人が一週間の罪滅ぼしの為に口にする食べ物だみたいに言うから、てっきり自国のパブで供されるサンドウィッチのまずさを憎んでるのかと思ったけれど、後述の内容で自分で作る分にはそうでもないのかもと思えた。なぜならアーサーがサンドウィッチを自分で作って食べるから。けど、なにを挟んで食べるのか描かれていなかったのが残念だったな。参考にしたかったのだけれど。取り敢えずニシンは私が食べないので参考にはならない。
 アダムスの書き方で私が一番感心したのはそのフィジカルな表現。何のひねりもない直接的に過ぎる表現がいかに活き活きとした印象を人に与えるか、物語自体に命を吹き込むか。最近では文学っぽい小難しい表現に慣れてしまっていたけれど、主人公たちが活きていると思わせること、その動きが手に取るように感じられるということが読み手を楽しませるということを改めて思い知らされた。いい作品というのは文学的表現のウマヘタにあるんじゃない。物語が活きてるかどうかだなと考えさせられた。これは何度も話してきたことだけれど、ハルキはたとえがうまいという評判なんだが、私はそれを実感したことがない。けど、アダムスは格別だ。外国語の作品だからそこに加わる翻訳者の理解や技術も当然加味される。つまり、日本語でアダムスの作品を読んで比ゆがうまいと感じられるのは半分は翻訳者の仕事の成果なんだと思う。アダムスのたとえはハルキみたいにひねったところがなくていい。実にストレートだが、それでつまらないというところがないのがすごい。例えば、アーサーが面食らって呆然としているのを、
 「五年間ずっと自分は盲目だと思って生きてきたのに、ただ大きすぎる帽子をかぶっていただけだと急に気がついた人のように。」
 とこの人は書く。この人は現実主義なんだろうな。だから文学的なまどろっこしい、掴みどころのない、漠然とした表現はしないんだろう。
 「また引っくり返してみた。みごとな品だった。精緻な品だった。しかし金魚鉢だった。」
 とかね。私はこの作品が世界に据えているSFという大前提とは矛盾した、事実だけを淡々と積み重ねた表現が好きだった。効果的だったというべきだろうか。

 特に今回の話が活き活きして感じられたのは、アーサーが、実際にはアダムスのようだけど、恋をしているからだろうと思う。だから表紙がハートなのね。「レストラン」のアヒルはよく意味が分からないけど。アヒルの宇宙船が出てくるわけじゃないし。しかしその恋してる様子が、それこそ子供じみてて。
 「名前のついていることもついてないこともみんな彼女と二人でやりたかった。」
 とか言わしめるにいたってはこっちが赤面してしまうくらいだよ。あんたいくつ?地球が強制排除されるところを文字通り命からがら抜け出して、宇宙をさまようようになって8年。当時30歳と当の本人が語っているところからすると38じゃん。いいおっさんが子供並みの心理描写しか出来ないほど全面降伏的に恋に落ちている。その様子は冷静になって考えてみればかなりかっこ悪い。かなりかっこ悪いけど、恋してるときはみんな大なり小なりそうなんじゃないかなと思う。つまり大なり小なりかっこ悪いということ。けどね、やっぱりそこまで思われるなんて、幸せな女の人だなぁと思って正直うらやましかった。こんなに愛情深いアダムスが50そこそこで死んでしまったことを考えると奥さんの喪失感はさぞ大きかったろうと思って気の毒だった。

 物語は全般的にアーサーが美しい故郷でのびのびと恋をするということで占められている。けど、その幕間にヒヤッとするほど冷淡な描写の伏線がたびたび登場するのが気になった。アーサーが恋にうつつを抜かしてたるんだ空気を、時々挿入される厳しいけれど現実以外の何ものでもない真実が引き締めにかかる。
 私は真実って、神様に似てて、その人中に宿るものだと思ってる。だから同じ事実でもそれの意図するところ、真実はそれを受け取る、もしくはその事実にかかわったその人それぞれにあると思う。でも、私たちは現実的には集団として生きているわけで、そうなるとそこに集団心理というか、集団が生み出す真実というものが現実として存在する。それれが社会を動かすんだな。簡単に言えば多数決の真理だけど、この場合私がここで借りたい考えは厳密に言うと現象学のことだ。
 現象学では極端な話、雨が降っていて全員が濡れていても、みんなが雨は降っていないといえば雨は降っていないことになる。アーサーや正気のウォンコやフェンチャーチは地球に何があったか自分におきた事実として、またその後の社会のあり方の変化の真実として知っている。けど、残りのみんなはあれは気のせいだったと言い張る。言い張るというか、本当にそう思っているんだよ。そうなったらマイナーの彼らがどれだけ声を荒げてみたところで彼らの真実は気違いのうわ言としか取られない。それはアダムス自身もどう描写している。つまりみんなの信じていることが真実とは限らないと逆説的に訴えているんだな。真実を知っている人間が少なければ少ないほど悲劇の度合いは深まる。あとはその真実が現実世界にとってどれだけ致命的な内容かということによる。そのことを考えるといつも悩ましい。願わくは、そういうことに出くわさないまま死ねたらいいと思う。それは「ガイド」も推奨しているところだ。
 地球がどうしてか今になってちゃっかりしっかり元あったところに、それこそ『最初からずっとここにいましたよ』みたいな顔して存在すると知ったときのアーサーの気持ちを考えるとすごく気の毒だ。地球は美しいし、生きて再びこの美を甘受できるのはうれしいけど、でも、本人も言ってるけど、だったらこの8年間の放浪は一体なんだったんだってことになるじゃない。切ないだろうなぁと思って。だって、元の地球が戻っているわけじゃない。どうして地球がそこにまた現れたのかということについてはついに説明がなされなかったけど、再び現れた地球は何もかも元通りということではなかった。無理やりつぎはぎして再生したものだから当然ひずみが生まれた。それがアーサーの取り戻せない8年間であり、フェンチャーチであり、正気のウォンコなんだな。だから、なんとなくこの話は、恋に浮き足立った話というよりも、メジャーからはじき出されたマイナーな人たちだけが分かり合える世界を描いた寂しい話にも受け取れた。

 最後、唐突にマーヴィンが出てくる。壊れかけたマーヴィンをアーサーとフェンチャーチが何も言わずに両脇から抱きかかえて炎天下を歩き続ける様子には胸を打たれた。どうしてみんなばらばらになってしまったんだろう。どうしてマーヴィンを放って置けたんだろう。どうしてこんな人生になってしまったんだろうと思わせられるラストだった。
 マーヴィンが最後まで変えなかった部品て頭のことかな。どの箇所も50回は取り替えていると言うのを聞いて私は押井守が「イノセンス」で言いたかったことをマーヴィンも言おうとしているんじゃないかと思った。つまり、どこまで生身が残っていたら私は私だと言えるだろうかということ。私はオリジナルだと言い得るかということ。マーヴィンが最後までマーヴィンらしくいたことを考えると、彼は最後まで脳核には手を付けずにいたんじゃないかと思った。

 最後、あとがきで訳者が指摘するように私も度々「書き手が」と出てくるのが気になった。そういう書き方私も好きじゃないし、そんなの今までの作品では出てこなかったし、何しろスタイルが作風と合わない。それ以外にもエピローグのエピソードや、間に挿入されてたフォードがヒッチした宇宙船にいたずらを仕掛ける場面とか、「それ必要か?」と思わせる部分がいくつかあって、それも気になった。あとがきを読む限りではこの作品はやっつけで作ったらしいからページ数を稼ごうと思ったらなんだかよく分からないそいういうエピソードも入れてカサを稼ぐ必要があったのかも。どう贔屓目に見てもどのエピソードも本筋とはまったく関係がない。訳者は照れ隠しといっていたけれど、それだけでない気がする。アダムスは本来脚本家だから、シチュエーションコメディ的などたばたを描くのは得意かもしれないけど、文学的に整然と物語を書ききるには何か才能が欠けている気がする。物語の帳尻を合わせず読者に投げっぱなしにするあたりなんかがその最たる証拠だと思う。何度も言うけどアダムスの放り出し加減はハルキのそれとは比べ物にならないくらい乱暴だ。そこに作家としてのプロ意識の低さを感じる。大体、この作品だって、締め切り2週間くらい前になって描き始めたみたいな作品なんでしょ?プロなら時間管理込みでもっとちゃんとした仕事すると思う。少なくともそれが作品ににじみ出てしまうようなのは恥ずかしいと思う。新聞の連載記事じゃないんだから。

 そんな勢いで書いたせいか、終盤でかなりしんみりするものの、そこまでは当初のスピード感が貫かれていてかろうじて全体を読みやすいようになっていた。しかし、こんな調子でどうして5巻完結の3部作なんて言えるんだろう。だって、それぞれが投げっぱなしすぎて何も終わってないし、続いてさえいないのに。と考えると、5作目を読むのがちょっと心配になってくる4作目だった。


さようなら、いままで魚をありがとう (河出文庫)

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