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「ゴールデン・スランバー」 [reading]

 これは不幸な話だ。
 伊坂の書く話はどれも不幸な話だけれど、特にこれは不幸だ。
 ハルキの書く話が「普通の人に起きるファンタジー」なら、伊坂の話は「普通の人に起こる悲しくて取り返しのつかない不幸」と言ったところだ。こう言ってしまうと、そんな話一体誰が読みたいんだと思うけど、その不幸の過程がエンタメなので、読み手の多くは、今そこで起きてるイベントの方に、つまり物語の上っ面に気を取られてしまうんじゃないだろうか。だけど、目の前で起きているイベントから一歩引いて、青柳雅春自身に意識を集中させると、その不幸の深さや、その不快不幸がどのように彼のあ愛する人々を取り巻いているかに気づく。
 それでも、そんな拭いきれない苦しみの滲む人生を、それもまた一つの選択肢であると受け入れた主人公の人生に対するひた向きさと、それと裏腹な生きることへたくましさに、読んだ人はきっと勇気づけられると思う。
 一番印象的だったのは、TVに映る虚像を他人事のように冷めた視線で眺め、それでも「負けたくないな」と呟いた青柳雅春の姿だった。
 ただ生き延びるということのためだけにすべてを失ったヒーローの歩み去る背中は重い。重くて暗くてかっこ悪かった。それでも生きていく。ヒーローとはかっこ悪いことなのかと、改めて気づかされる。それでも、彼が人目を避けて俯きながら踏み出す一歩は、とても力強いものに、生命感の溢れる物に感じた。
 「自分」を失って、それでも生きることをあきらめなかったその先に、彼なりの幸せが待っていてくれたらいいと、フィクションなのに、そう願わずにはいられないほど不幸に胸を締め付けられる話だった。私だったら、きっともっと早い時点であきらめていたと思う。そう考えると、その生に対するねばり強さが私にも欲しいなと思って羨ましかった。


 「なぜ模倣するのか」
 と言う問いを、昔比較文学の授業のレポートで自らしたことがある。
 これは模倣ではないけれど、明らかに模している。
 
 「これを一体どうしたいんだ?」
 と言うのが、第3部までを読んだ私の感想だった。
 そして、
 「なにが言いたかったんだ?」
 と言うのが、全体を読み終わってしばらくして考えたこと。
 で、
 「どの辺がゴールデン・スランバー?」
 と言うのが最後に残った疑問。

 「なぜ模倣するのか」と言うことについては、その疑問を持った当時も今も変わらないな。それはつまり、「オレならこうする」と言う同じアーティストとしての回答なんだな。真似をするくらいなんだから、その行為の根底にあるのはオマージュであり、敬意であろうと思う。元となった作品を評価しているからこそ、そのレベルへ自分を近づけてみたいという欲求なんじゃないだろうか。
 だから「模倣」はどんなアーティストにとっても基本的な練習なんだと思う。素晴らしい仕事、作品を真似ることで、その技巧や、センスを自分のものにしていくんだと思う。それが結果として自分のスキルとして昇華されていくんじゃないだろうか。

 「ゴールデン・スランバー」の場合、史実が元だから「模倣」と言うのとはちょっと違う。どちらかと言うと、史実がそうであったように、どうしたらオズワルドみたいにならずに済むかと言うことに集中したんじゃないかな。で、そこに集中するあまり、物語の問題は、首相暗殺という壮大なテーマから逸れて終わる。つまり、国家というマクロコスモスから、ずーっと視線は下って行って、結局青柳雅春をいかにして逃げ延びさせるかというミクロコスモスで終わる。
 まあ、それが悪いという気はないが、個人的には、20年後の社会が、そんな胡散臭い事件を経てあるその後の政治とか社会をどう評価してんのかなと言うのが気になった。伊坂のアイディアとしてのその辺の展望をもう少し楽しませてほしかったと思う。
 結局、どの事件の決定的な解決に貢献しなかったセキュリティポッドは全国に普及したのか、とか、公然の目の前で国家首領を殺してまで政権を奪取した体制は一体どんな社会を気づいたのかとか、なにより、真実を知っている人間たちがその後の社会にどう折り合いを付けて生ていったのかと言うことを知りたかった。ケネディ後の社会までを真似る必要なかったと思うんだよね。その疑似ケネディ後を伊坂がどう想像したのかが知りたかったな。ただまあそれやっちゃうと、ボリューム的には軽く倍だわな。

 それでいておそらく伊坂の一番書きたかったことは、現状の体制に対する警鐘とか、性犯罪の糾弾とか、そう言う社会的なことじゃなくて、やはり「ゴールデン・スランバー」なんじゃないだろうか。
 つまり郷愁だ。「今はもうあの頃には戻れない」という郷愁がこの作品の影のテーマというか、根底にある。そもそも、バーチャルな社会構造を打ち立ててまで首相暗殺というモチーフを使ったどっから見てもパッと見ハードボイルドな作品が、なぜ「ゴールデン・スランバー」、黄金のまどろみなどと言う甘いタイトルなのか。
 繰り返しになるけど、伊坂がこの作品で本当に言いたかったことは、情報社会とか、監視社会とか、ミステリーのレトリックとか、プロットとかそう言うことじゃなくて、もっと別のところにあるんじゃないかと思った。なにか多分もっと根源的で、普通のことだと思う。この人の伝えたいことはいつもキャラの中にしまわれている気がする。絶対にそれを口にしない。キャラを観てれば分ることだけど、絶対にそれを文字にしない。口にしたらそれが壊れてしまうとでもいうかのように大事にしまっている。「今はもうあの頃には戻れない」なんていう陳腐な表現に自分の本音を隠している気がする。
 今になって考えてみれば、この「郷愁」というテーマは伊坂のどの作品にも共通する。個人的にはそれこそが伊坂作品のファンダメンタルな要素だろうと思っている。この首相暗殺の容疑者にされるというクリティカルな場面において、そんな郷愁なんて感じる余裕があるのはおかしいと思うし、こんな状況で昔語りにうっとりするなんてどうかしてると思うけど、でも、それが伊坂の書きたいことなんだと、最後まで読んでみて分った。
 読んでる間、ずっと気になってしょうがなかった。なんでこんな場面でこんなにしつこく学生の頃の思い出に捕らわれて、あまつさえ浸ってしまう心境が理解できなくて悩んだ。だってもうみんな30過ぎのいい大人なのに。いまさらそんな郷愁を持ち出すなんておこがましいってくらいみんな他の奴らのことなんて忘れて勝手に自分の人生を散々生きてきた後で、昔に戻れないのが寂しいだなんて。一体何の寝言なんだと首を捻らずにはいられない。
 伊坂には自分の過去に必死になって失くしたくない何かがあるのかもしれない。その何かが失われたり、色あせて行ってしまうことを恐れているのかもしれない。そうでなかったらこれほどまで話の筋として不自然なほどセンチメンタリズムを持ち出したりはしないんじゃないかな。

 伊坂の作品はロックと男前を抜きにしては成り立たない。そこには常に男前がいて、ロックがある。男前は細かく描写される。伊坂は登場人物を事細かに描写するほうだけど、男前キャラには余分に字数を割く。おそらく、男前であるということが最重要なんだろう。私の印象では、外国文学では、登場人物をいきなりその登場に置いて描写するというのは見たことがない。そういう描写が目立つのは恋に落ちた瞬間だな。そこを引き立たせたいためにあえて外見の描写を削っているのかもしれない。けど、伊坂は外見が重要だといわんばかりに、人が出てくるとまず形から入る。これはでも日本人には多い傾向のような気がする。ハルキもヒロインがどんな服を着ているかをしつこく描写する人だ。
 ロックの嗜好にもそのセンチメンタリズムは滲んでいる。伊坂と私は3つしか違わないのに、ビートルズだとか、ボブ・ディランだとか。そっからしてもう郷愁が煙たくて目にしみる感じだ。まあでもよく考えたら今時のバンドを持ち出されて、いかにもそっちに詳しいと知ったふうににされるよりかは、ビートルズみたいなベーシックのマニアの方がはるかに好感が持てる。そう言われてみれば、小説読んでて私の知ってる今時のバンドの名前なんて見たくない。あの書き方はおそらく、その辺の読み手の感情に配慮しているような気もする。間違ってない私見と言うか、偏った事は書いてないし、おそらく事実のみに触れるようにあ書いている気がするから、伊坂の音楽に対する描写で不快感を感じたことはない。むしろ、「ふんふん」と思って読んでいる。でも、ビートルズをちゃんと聞く人なんて私の上下3つにはもうほとんどいなかったけどなぁ。それとも伊坂も私みたいに父親から仕込まれた口かな。
 そう、家族の絆の強さもまた伊坂ワールドの重要な要素である。とくに父親だろうな。威厳があって、正義感が強くて、思いこみが激しく、堂々と間違ったことを言いきってしまう。そんな憎めない人だ。最後、両親のもとに「痴漢は死ね」の投書が届いた時は、私も喉が熱くなった。また、痴漢と言うモチーフが、青柳雅春を陥れるためだけのものではなく、彼自身、だけでなくその大事な人までもを救うきっかけになったことを理解し、ここまでの伏線を思って痛く感心したりもした。

 伊坂がこんなに社会的なメッセージの強い作品を書くのは初めてじゃないだろうか。「日本の政治は内弁慶だ」なんて日教組発言で国交省を辞任した中山成彬と同じことを言って私を驚かせた。伊坂の描く日本はかなりファシスティックな印象でそれが逆に心配なくらいだった。ケネディを殺したって体制下だって「JFK」を見た限りではそんな印象は受けなかった。むしろ私がそう言う反民主主義的な不穏な空気を感じたのはウォーターゲート事件の方だった。
 伊坂の考えで個人的に気になるのが、社会倫理とか規範の話になると、こと性犯罪においてはヒステリックな反応を見せること。今回なんて、「痴漢は死ね」とまで言わしめる。そうそう人の性質に対して死ねと言えるのは私くらいだと思ってたのに。
 いつだったか、腹違いの弟のできた理由が、レイプだったりした作品を読んだことがあったけど、そのエピソード自体、伊坂にかぶるところがあるんじゃないかって勘繰りたくなるくらい、伊坂の性犯罪に対する嫌悪感は強い。男の人で、性犯罪をそんなふうに糾弾できる人って裁判官くらいしかいないと思ってたから、個人的にそんなふうに怒りをあらわにする男性がいるのは意外な気がする。
 だって、男の人は結局、いろんな人としたいんでしょう?
 伊坂みたいな正義感の強い人はいろいろ生きにくいんじゃないかと思って、ちょっと気になってしまったりもした。

 けど、ストーリーというか、プロット自体は、やっぱり他の作品を彷彿とさせる内容だった。
 伊坂本もいくつか経験してきたから、青柳雅春含め、死人のザクザク出てくることは覚悟していたんだけど、「暗殺」とかそもそものテーマが血なまぐさい話なので、キャラがバタバタと倒れて行くことにも今回は感覚が鈍っていたかもしれない。
 この人のプロットの組み方って、やっぱり最初は一貫したストーリーを作って、そこから一番面白い組み合わせに変えて作っているような気がする。つまり、一回長い話を漫然と作るじゃん?で、それを各エピソードに分割する、そうして、作品としてまとめるにあたり、どのエピソード作品中のどこに持ってきたら一番効果的かと言うことを考えてシャッフルしてるみたいな、コラージュしてるみたいな、そう、元は同じ色なのに、わざとモザイクにしてるみたいな。そうすることで狙った効果を高めようとしてる感じ。きれいプロットの置き方が、作品としてすなわちきれいなモザイクを作る。
 そんな感じ。

  金田首相は出てきた途端死ぬなと思ったよ。首相がパレードなんて、9.11以降のVIP対応として非常識にもほどがあると思う。
 あといろいろバタバタ死ぬんだけれども、今回はそれほど惜しい人間が死んだ感じはしなかったな。
 読んでて、特に最初の方、樋口晴子と青柳雅春は全然合ってないと思って、振り回される、と言うか、疑うことを知らない青柳雅春がかわいそうだった。デートの約束を忘れるって…。まあ、伊坂はもともと男っぽいサバサバした女性が好みみたいだし。筋に絡んでくる人みんなそんなんだもんね。脇に限って甘い感じの女の子を出してくる。

 伊坂のヒロインはみんな男っぽい性格で、それを今まで嫌だと思ったことはなかったんだけど、今回は生理的に受け付けないタイプだった。
 「小さくまとまるなよ」って、今別れようとしている恋人に言うセリフか?お前、どんだけデリカシーないねん。自分で誘ったデートを忘れ、待ち合わせ場所に他の男が運転する車で乗り付け、あまつさえその社内でまんざらでもない雰囲気を楽しんでいる。そうして青柳雅春の気遣いを「重い」と言うに至っては私は空いた口がふさがらなかった。一方、言われてそのままそれが「気遣い」だと否定しない青柳雅春にも呆れた。なぜ「愛情」だと言えないんだ?思えないんだ?気遣いだったら疲れちゃうし、誰にでもすることで、それが仕事にさえなる性質のもだけど、愛情は違う。愛情は誰にでも注げるものじゃない。愛情は10コいくらで売ってるもんじゃない。そもそも愛情は対価を求めたりなんかしない。好きな人への気持ちを「気遣い」とか言ってる時点で、このカップルはとっくに終わってたんだなと思った。「重い」って「うざい」ってことじゃん。私の経験上、気のある相手になにかしてもらうことをうざいを思ったことは一度もない。そうしてもらえることをとてもありがたいと思うし、うれしい。大事にされているんだと思うから。それが「うざい」となる瞬間は、つまりもう気がないってことだと思ってる。けど、それが毎回毎回ないと不満に思うかって言ったらそう言うわけでもない。ついうっかり忘れてしまうこともあるよ。毎日を忙しく生きてるならなおさら。結局は、お互いにどれだけ敬意を払って、その、ともすればついうっかり忘れてしまうような愛情を大事に思って育てていけるかって言うことだと思う。

 ということで、ここで愛情についての私の考察を展開してみようと思う。
 愛情ってものを理解したことがある?ヘレン・ケラーが水を理解するみたいに、名前を実態の結合する瞬間を自分の経験として実感したことがある?この話をして理解してくれる人がいるかどうか怪しいけど、それでも私の体験としてはこれが「愛情」のエピソードなのでこれ以外にいい例を持たないので。
 そんなに難しい話じゃない。小さい頃、家族でレストランで食事をしてて、お母さんのお皿に自分の好きなものが残ってたりすると、私はなんの遠慮もなく「それちょうだい」とよく言ったものだった。それでお母さんはニコニコと私にそのおいしい何かを必ず全部くれた。小さい私は思う、なぜこんなにおいしいものを全部私にくれたりするんだろう。なんで自分で食べないんだろう。ずっとそれが不思議だった。
 店を手伝うようになって、子供には安いもので済まそうとする親を何度となく目の当たりにするにつけ、やっぱり私のお母さんはおかしかったんだなと、むしろ疑問は確信へと深まっていった。
 だけど、大きくなって、ジョディーが家族に増えると、私はジョディーとよく食べ物を分け合って食べた。それはりんごだったり、石焼きイモだったり、プリンだったり、アイスだったりした。だけど私は必ずジョディーに多く食べさせた。旅館やレストランに卸しているりんごはおいしくて、私も大好きなんだけど、でも、だからこそ私はジョディーにたくさんあげた。いとしい人がおいしいものを頬張る姿が、愛してる方にとってどれだけ幸せな風景であるかを初めて知った。私はお腹を空かせても、ジョディーが満足なら私もそれで嬉しかった。満足だった。それで初めて理解した。お母さんの気持ちを。好きな人には、自分の持ってるいいものを無条件に差し出したくなるということを。私はそれが愛情ってものなんだと理解した。
 この話はうまく伝わらんだろうな。けど、まあしょうがない。
 食べ物の話で卑しいと思われるかもしれないが、これはあくまで例の一端であって、他にも色々あるよ。でも、私が初めて「愛情」ってものを理解したのが食べ物についてだったのでその通りに話してみただけ。欲しがるなら全部やれと思うかもしれないけど、動物に人間一人分と同じカロリーや栄養バランスでご飯を食べさせるわけにはいかない。それでもおいしいものや、欲しがるものはあげたいから、分け合って、時間をかけて食べさることで、食事に対する満足感を増強しようという考えだった。
 そんなだから大変だったんだよ。ジョディーにダイエットさせるの。入院食も受け付けなかったし。ダイエット用のドッグフードを嫌がって食べないで憮然としているのを、目の前に正座して座って、どうしてこれを食べなきゃいけないかをとつとつと語って聞かせ(彼女はその間始終ぶすっとしている)、最後は一粒一粒を手で取って口に運んで、ようやくしぶしぶ食べるありさまだった。そんなふうに人の手から食べさせることを覚えさせてしまったのが甘やかしになってしまったのか、入院中は病院から「ご飯を食べない」と電話があって、仕方がないから、私が毎日ごはんを持って病院に通って、一口づつ手から食べさせた。すると普通に食べる。というか、よく食べる。それを見て先生のあきれること。私が、「愛情がこもってないとダメなんです」と冗談半分で言うと、「私だって愛情たっぷりよ!」とその優秀な女医先生はムキになって言った。
 でも、今書いてて気が付いたんだけど、お母さんはひょっとしてわざと残しておいてくれたのかもしれないな。それだけ手を付けずに残しておくの不自然じゃない?私が欲しがるのを分かってたから食べずに残しておいたのかもしれない。そう思ったら、私はそこまで真似できてたかしらと、改めて敬服した。

 話が大分逸れたが、そう言うわけで、愛情とは傍から見ればかくも面倒なものだ。だけど、それは愛情故に面倒ではない。骨も折れるが痛くはない。時間もバカみたいに浪費するけど惜しむことなんて微塵もない。それを見た眼どおりに「うざい」と言って片付けるってことはつまり、もうその人の中に自分の愛情を受け入れてもらう余地がないってことだよ。
青柳雅春には気の毒だけど、青柳雅春がどれだけ愛したところで、彼の愛情はうっとーしいとしか思われない。そもそも樋口晴子にそういう愛情を評価できる能力はなかったと思う。と言うのは、後に結婚した旦那とのやり取りを見てよくわかった。樋口晴子が求めてたのは自分と同じ「自分」を持った人だったんだ。「自分」を相手に押し付け合う夫婦の姿は、『なんだ、似た者同士じゃん』と思って見てて苦笑するしかなかった。お互いが「自分」を固持して、それを相手に押し付けるしかできないくせに、それでいて放っておかれるとその寂しさを憎らしげにぶつける。私にしてみれば、どっちがうっとーしいんだよって話だけど。いずれにせよ、樋口晴子の求めていたのが自分と同じ種類の人間であった以上、青柳雅春に勝ち目はなかったよ。あそこで別れてなかったとしても。そもそも樋口晴子には青柳雅春に対する恋愛感情なんてなかったんじゃないかな。

 だけど、空に浮かぶ花火を見てはお互いのことを思い出しているかもしれないというエピソードには好感が持てた。そんなの別に伊坂でなくてもよく使われる手垢のついた口説き文句みたいなもんだけど、だけど、私自身もそう思うことがよくあるから。厳密に言えば、そうであったらいいなと思うことがあるから。夜、空を見上げて月がきれいだったりするとよく考える。離れていても、今この瞬間同じ月を見ていて、少しは私のことを思い出してくれているかもしれないと。

 人ごみに埋もれるヒーローはこの先どうやって生きていくんだろうと思った。そしてその真実を知る人たちは一体どうやって社会と折り合いを付けて生きていくんだろう。
 人生を理不尽に奪われるという恐怖。それでも生き続けようとする生命力。そんなコントラストが印象的な作品だった。


ゴールデンスランバー

ゴールデンスランバー

  • 作者: 伊坂 幸太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2007/11/29
  • メディア: ハードカバー



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