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「宇宙の果てのレストラン」 [reading]

 映画の出来がよかったので、敢えてそれにあたる小説は読まないことにして、続編ぽいこれから始めることにした。

 冒頭すごいテンポで話しが進んでいくので舌を巻いてたんだけど、4人が2人づつに分かれた辺りから物語はいきなり泥沼に足を突っ込んだみたいになって、ハルキもびっくりなくらい唐突に終わる。「ヒッチハイク」シリーズが5作からなる3部作といわれる意味がよく分かる気がする。つまり単に3作で収め切れなかったというだけなんだな。

 小説を読んでみての最初の印象は、元が脚本家のせいか、かなりアクロバティックでフィジカルな表現をする人だなと思った。たとえば「脳がとんぼ返りする」とかね。まあそれは多分にこの訳者の技術によるところも大きいとは思うけど。
 私はこの翻訳者がすごく気に入った。まずは、とにかくちゃんと日本語にするあたりが。それから、主人公たちの会話の下地に英国独特の文化がある場合はそれを注釈で入れてくれる。気が利いてるなぁと思って感心した。本来翻訳の仕事ってこれくらいやってくれなきゃいけないと思う。最近、「敢えて訳さない」といってはばからない訳者にばかり縁があったから翻訳という仕事に違和感があったけど、この人の仕事ぶりを見てたらなんか感激してしまった。この作品がとっても好きで、その作品の背景にある文化によく精通しているということがよく分かる。本来翻訳って言うのはそれほどの知識がないとまかりならないもんなんだよね。やっぱり。

 「ヒッチハイク」の小説版に対する私の勘はよかったと思う。「宇宙の果て」は2作目にあたるんだけど、ここからでちょうどよかったと思う。映画を見てたおかげでかなり入りやすかった。物語は映画の内容を、もしくは1作目の内容を度々復習しながら進む形をとった。
 作者はイギリス人らしさを愛するイギリス人らしく、そういうエピソードは小説の中にも尽きなかった。降霊術をやり出すところなんて、イギリス人て本当にそんなことやるんだって吹き出しちゃうくらいだった。でもやっぱり一番好きだったのはお茶のエピソードかな。みんなの命を省みずに宇宙船がその能力のすべてを注ぎ込んで作った紅茶。なんだかすごくおいしそうで、ちょっと飲んでみたかった。ただちょっと気になったのが紅茶を銀のティーポットに入れるんだよね。それがフォーマルなスタイルなのかしら。でも銀のティーポットなんて、お湯冷めちゃわないのかしら。私のイメージではフォーマルなティーウェアって、ウェッジウッドなんかの白地の磁器っていうイメージがあったんだけどな。紅茶について正しい知識のない調理コンピュータやエディ(船載コンピュータと訳していることもあった)にアーサーが紅茶のおいしい入れ方のノウハウや歴史やら背景なんかをかいつまんでではあるけれど、我慢強く語って聞かせる辺りなんかに紅茶に対する並々ならぬ執着が見えて好感が持てた。おいしい一杯を淹れるのにかくも複雑なプロセスがあり、そこには血なまぐさい史実が絡み合っていたりする。コンピュータがそれを彼らなりに一生懸命学び取って具現化しようとする様子(は実際には書かれてなくて単に黙りこくっているだけなんだけど)はいじらしくさえあった。

 「宇宙の果て」の原題はこうだ、"The Restaurant At The End Of The Universe"。私は最初この”At”は場所をさしているんだろうと思っていたのだけれど、つまり、宇宙の広がりの端っこにあるレストランなんだろうと思っていたのだけれど、本を読んでみてびっくりこの”At”は時間をさすものだった。つまり時間軸的に宇宙の終焉するまさにその瞬間に居合わせることの出来るレストランなんだな。んなバカなと思うんだけど、彼らはタイムトラベルが出来るので宇宙が消えたその瞬間に時間軸をまたしかるべきところへ戻すらしい。はー。
 で、物語はそっからおかしな方向へと転がり始めて戻らないまま終わってしまう。
 ゼイフォードはこの宇宙を作った人に会いに行くとか言いだしてというか、言い出されて、しかもそれが自分で自分の頭を封印したことに端を発するらしいんだけど、どういうわけかオリジナルなゼイフォードは今のゼイフォードを作って自分は第二の頭の奥へしまい込み、以来表には出ないように自分自身を意識化では届かないようなブラックボックスへ閉じ込めてしまったらしい。これを今のゼイフォードは「自殺」と呼んでいた。あまりにもすべてが唐突な話で何を言ってんだという、誰かに説明を求めたくなるような混乱振りで、いまだに私はその辺はよく分からない。オリジナルのゼイフォードに関わったとされる人々が節々で現れるけど、ゼイフォードはその人たちにオリジナルとゼイフォードとどういう関係だったのかということは問い詰めない。んな暇ないと言えばそうなのかもしれないけれど、でも、大事なことだよねえ?自分の生き死にに関係があるのに。ましてや「自殺」した自分なんかに振り回されたくないとか言ってるならなおさら。で、結局オリジナルのゼイフォードが何を企んで今のゼイフォードを宇宙の支配者なんかに会いに行かせたのかは分からずじまいだった。宇宙の支配者は一貫してクールで猫を飼っていた。この飼っているのが猫というところに好感を持った。この宇宙の支配者はなんか嫌に現象学的な人だった。つまり自分の主観では絶対に物を言わないということだ。だから支配なんてこの人には出来ないと思うのだけれど。なんとなくこの自分ではこうしたほうがいいと言う考えを持ちながら、その一方で、でもそれが本当にベストなのかしらと悩む様子に親近感を持った。私自身はあまりそういうことで悩まないタイプだと思うのだけど、私の周りに何人かそういう人がいて。ましてやなんとかウープとくだらない言葉尻の取り合いをしている間にトリリアンとゼイフォードが彼を置いてこっそり宇宙船で飛び立ってしまうのを、手助けするためにエンジン音をごまかそうとさらにおばかな言葉尻の応酬をいたずらっぽい姿にも好感が持てた。ゼイフォードの曾おじいちゃんくらいに。

 で、どういうわけかゼイフォードとは別れ別れになったアーサーとフォードは大昔の地球にすっ飛ばされて、地球の先祖を作ったのは他でもない自分たちだったということを知る。ここんとこの物語がまた間延びしている。不時着した土地をなんの目的もなく歩き出したかと思えば、隣の行でいきなりもう何週間も過ぎている。なんだそれ。そんなにストーリーを動かさないなんてどういうつもりだ。で、やたらその道の土地の美しさをあげつらう。結果半年見知らぬ星の見知らぬ土地をうろうろと歩き回りそして自分の運命を知る。自分たちの不時着がオリジナルな先祖を殺し、自分達が連れて来たこの愚にもつかないアホな連中が自分の先祖になってしまうことを。生命に対する究極の問いが九九であったことを。その解の得方にはかなり強引なところがあるけどそれ以前に既に強引なところはいろいろあった。これだけを問題にするのはばかばかしい。
 最後ガイドを川に投げ捨ててしまうところは作者自身の行き詰まりを、アーサーたちの自暴自棄に代弁させているような気もする。だって、地球がこの世のすべてではないし、ナンセンスで満ち溢れているガイドを今更捨てる理由は皆無な気がした。だって、ナンセンスなのはガイドじゃなくて現実のほうなんだから。あと、地球に落ちてからフォードが急に人道主義者っぽく振舞うのが腑に落ちなかった。彼は享楽主義的な人物だと思っていたから。なので、そういう知識人おいさを振りかざす彼の姿はなんだかそれまでの彼のキャラに合わない気がした。

 そんな風にして物語は唐突に終わる。思わずどこかに「続く」と書いてないかしらと思うくらいだった。
 けど訳者あとがきは後半の無秩序というか、混乱というか、を取り返すくらいのよい内容だった。やはりこの人自身とてもこの作品のことが好きなようだ。背景にも精通しているし、やっぱりこういう人が翻訳すべきだよなと改めて思った。その作品に思い入れのある人が。大森望の翻訳を読んでるとよくそう思った。
 ダグラス・アダムスは2005年になくなっている。まだ若い。もっとおじいちゃんかと思っていたけれど、80年に一作目を出版したときで28歳だったというから53歳で亡くなってるのかな?映画の完成は見なかったそうである。惜しいね。あんなにいい出来なのに。
 日本では「ヒッチハイク」シリーズは長らく絶版になっていたらしい。20年とか言ってたかな。私の買ったのは2002年の新訳だ。それを考えるとこの作品が日本ではかなりカルトな存在であることはまず間違いないけど、本国ではかなり愛されている作品だということを訳者のあとがきを読んで知った。最初はラジオドラマから始まって、ノベライズされ、舞台化され、ドラマ化され、最後は映画化された。どおりで映画の質がいいわけだよ。これだけ愛されている作品だもん。作る側の思い入れもあれば、既にそこに裏切れない大きな期待があるわけだ。そら手間もお金もかけるわな。

 イギリスはミステリーに満ち溢れている。降霊術に、UFOに紅茶。不思議な国だ。本当はSF自体、イギリスらしいジャンルなのかもしれない。

 この作品にはイギリス人のイギリス人らしさへのこだわりを見せてもらった気がする。そしてその結果として前半ではイギリスって思ったよりもよさそうなところかもという印象を補強してくれる作品ではあったけれど、後半ではその雑然とした混乱と何の決着もつかないままの終わり方に、この先続編を読んでいくにあたって少し心配になってしまった。もうさすがに紅茶ネタでは私を繋ぎとめておけないだろうから。けど、そんなに長いわけでもないし。何とか読みきれるかな。
 願わくは違うイギリス人のこだわりを発見できるといいんだけどねえ。


宇宙の果てのレストラン (河出文庫)


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「ワールズ・エンド」 [reading]

*** プロローグ ***

 ミスチルのライブDVDを見るようになってしばらくになる。いろいろ思うところはあるけれど、桜井和寿の仕事で私がどうしても好きになれないことの一つに固有名詞の乱用がある。歌詞の中で映画の名前だったり、なんかのキャラクターの名前だったりを直接的に利用する。これ、別に歌に限ったことではないんだけれど、それやられちゃうと対象への印象とか観念が固定されてしまうし、なによりそう言う直喩が個人的には表現としてすごく安っぽい手段に思えて、極端な話、不愉快にすら感じる。
 でも桜井の書く歌にはそういう表現がなんの恥ずかしげもなく、さも当然のような顔をしてちょくちょく現れる。むしろ本人はそんな固有名詞を持ち出すことで曲にある種の魅力を与えられるとでも思っているかのようで、あくまで満足気だ。でも私に言わせてみれば固有名詞の乱用はせっかくのメロディーを、桜井の創造性に対する印象を台無しにしてると思うんだよな。
 いつの時代にも通じる作品というのは、それ自身には実は時代性がないからなんだってことを、和寿はもうちょっと学ぶ必要があるか。まあでも本人はこれで満足しちゃってそうだからな。どんなに安っぽかろうが、結局のところこの人は直接的な表現の手軽さに飛びついてしまいそうな気がする。所詮この人のやってるのはポップミュージックだから。みんなに直接伝わればいいんでしょ。ウルトラマンだろうが、仮面ライダーだろうが、「ショーシャンク」だろうが、デカプリオだろうが。

***

 「意外にも小気味いい」というのが最初の2作品を読んでの印象。文脈の向こうにリズムが透けて見えるみたいだ。ジャズだな。ハルキだから。この本は短編集なんだけれど、同じ人が書いたとは思えないほどどれも独特な雰囲気と世界観を匂わせて成り立っているのに驚く。この七色の作品をハルキが好むのかと思うとちょっと意外だな。もちろん翻訳者としてのハルキの考えとか色がにじみ出てしまっていることは否めないとは思うけど。

 最初のが既にかなりボディの効いた作品で、面食らった。『ほーほー、こういう作品か』と思って次からは結構心構えをして読んだつもりだったんだけれど、それでもその覚悟の裏をいちいちかかれるような感じで、ほんと想像以上に楽しませてもらった。

 「ワールズ・エンド」
 これ、登場人物たち以外の視点の三人称が物語を進めているような雰囲気があって、私はそこにカフカの作品に似た印象を覚えた。残酷な話を淡々と事実だけを並べて物語を紡いでいくような。あまりの救いのなさに最後唖然としたよ。あそこまで人の不幸をすました顔して描かれちゃうとホラーにすら感じるね。あまりに酷い話にロバージに同情する余裕もないほどだった。
 でも、外国だと愛人との逢引に自分の子供を連れて行くという愚行は、そのくらいの時代の女性の間では結構普通だったんだなぁという発見をした。バカにもほどがあると思うけど。

 「文壇遊泳術」
 これ面白いよ。一番ジャズっぽい。スタイルがあるって言うか。内容自体はおとぎ話に聞こえるけど、でもクールではある。ハルキが好きそうだなと思った。マイケルのしてることは、それで誰かが傷つくわけではないけれど、詐欺だよね。それを自慢げにするのはどうかと思うけれど、出てくるワインがどれもおいしそうで、その小さなパーティーが羨まいと思った。
 でもこれ、マイケルはゲイだよね?

 「サーカスと戦争」
 これも面白いよ。まだ年端も行かない少女が、降りかかる個人的な理不尽に勇敢に立ち向かう姿は、見てる(読んでる)こっちも勇気付けられるくらいだった。こういう良識があって勇敢な女性の姿、それと対照的に傲慢で愚かな男を描けるんだなぁと思ってとても感心した。多分、とてもバランスの取れている人なんだろうなと思った。

 「コルシカ島の冒険」
 この物語に到って、この人は「愚」な男の救いようのない話をもの悲しげに描くのが好きなんだなと結論付けた。この話を読んでたら「カフカ」でミミがカワムラさんをビシビシ叩いている姿を想像してしまったよ。だらしのない男のバカな発言を「アホか!」つってビシビシって叩くところ。

 「真っ白な嘘」
 white lieって誰だったか歌の中で使ってて気にはなっていたんだけれど、大体想像は付くから調べはしなかったんだが、「罪のないうそ」という他に「儀礼的なお世辞」という意味もあるみたいね。はー。歌ってたのは誰だったかな。Simple Planだったか、Hoobastankだったかな。なんか男の子のグループだったような気がするんだけど。
 これは結構グロテスクな話だった。『「愚」な男の救いようのない話』には違いないんだけど。そういうのもいけんのかと思ってまたもや感心した。その辺もカフカに通じるところを感じるな。処刑マシーンの出てくる話は結構グロテスクだよね。作中でそのグロテスクさには一切触れていないけれど。
 この作品の主人公は好きだった。多分実際にそんな奴がいたらキモイから積極的に避けただろうとは思うけど、文学的にこの主人公はかなり興味深かった。オタなんだもん。よく言えばアカデミックな人なんだけど、彼の生活が学術的なことに繋がりがなかったならやっぱりただのオタだろう。

 「便利屋」
 あまりタイトルと中身があっている気がしない作品だった。便利屋が出てくるのはほんの一瞬だし、この作品全体を通しての印象はもっと別のところにある。大学教授という実態のくだらなさだ。一応、他を知らないから文学に限らせてもらうけど。学生のころから思ってはいたけど、大学の先生ってほんとくだらないことして金貰って生きてんだなぁと思って呆れちゃった。今回はその「愚」に妻自身も含まれていた。つまり似合いの夫婦だった。夫婦が何の問題もなく中むつまじいのはこの作品だけ。お互い「愚」だから問題ないって感じだったな。

 「あるレディーの肖像」
 アバンチュールの話。アバンチュールなだけに場所がパリ。ハルキがこの作家を好きな理由がこの作品に到ってよく分かった。話の切り上げ方がハルキとそっくりだ。なんの救済も解決もなく、どこにもたどり着けないし、結局どこにたどり着きそうかという予想も出来ない。この読者を巻き込んどいて、最後に放り出すような、もしくはそこに置いてっちゃうような終わり方はハルキも昔よくやった手だ。
 しかしあれだな、この話し読んでると、パリの人間は博愛主義でバイセクシュアルが多いというのは、根拠のない言いがかりって訳じゃないんだろうなと思えてくる。

 「ボランティア講演者」
 この主人公はかなりハルキの「僕」に近い。作品自体も特にこれと言った面白みはないんだが、その特に面白味のない「僕」の日常を描いているという点においてハルキの話に似てると思った。
 ハルキの「僕」はしょっちゅう女性に迫られてるんだけど、ポール・セローの「僕」もそう。彼女の必死の誘いをなんとかかわそうとする姿なんか「ねじまき鳥」のオカダさんを思い出しちゃったよ。オカダトオルは特に断ることに必死になっていたわけではないんだけれどね。
 ハルキ曰くポール・セローのこの「僕」はこの後続編がいくつかあるらしいのでそれが気になった。続きの話は翻訳されているのかしら。作品は「ロンドン大使館」というらしい。

 「緑したたる島」
 これにはいささかうんざりさせられた。この不幸な話が一番長いんで。
 「ワールズ・エンド」の奥さんもそうなんだけど、なんでそんなアホなことすんの?というのが私の印象の大多数を占めている。他にいくらだってやり方があるだろう。なんでわざわざ一番不幸になるような道を選ぶかな。話の根本になるところで理解が出来なかったので、このうら若い夫婦(のような関係)のすれ違いになんら感情移入できなかった。

 まったく期待はしていなかったが、終わってみればポール・セローの話は総じてどれも面白かった。ギャツビー読んだあとでは尚更だった。でも、いろんな毛色の話がかけるんだなぁと思って感心したし、全部通して読み終わってみると、ポール・セロー自身に関してもうちょっと詳しく知ってもいいんじゃないかって思えるくらいだった。続編も気になるし。
 この短編集は物語の傾向こそあれ、それぞれのムード、それぞれのテンポ、それを表現するそれぞれのキャラがあって、それが音楽のように思えた。だから最初にジャズを引き合いに出したの。
 この作品が生んだ結果としてよかったことは、もう少しアカデミックな作品を読んでみようと思わせたこと。下らない大学教授の話を読んで、でもイェイツの詩を読んでみようかなと思ったの。イェイツの詩って翻訳あるのかなぁ。

*** エピローグ ***

 何年か前、ミスチルの「I Love U」が出たとき、今まで一度だってミスチルのものなんか自分で買ったことなんてないのに、Amazonのトップページにおすすめ商品としてでかでかと表示されててすごい泡食ったことがあった。
 『なぜ?なぜばれた?私がミスチルのDVDを見ていることが』と思って動揺した、というか不可解に思ったというか、とにかくそんなもんをおおっぴらに勧められることが納得できなかったので、「おすすめの理由」というリンクを辿ってみたら、「過去にこのような商品を購入ていたからです」みたいなこと言われて、見てみれば、ハルキの「カフカ」が置いてある。『ハルキ???なぜハルキを読んでたらミスチルが付いて来なあかんねん』と思って、以来ずっとそれが腑に落ちないまますごいしていたんだけれど、それから大分経ったある日、また別のミスチルのライブDVDを入手した。

 それを貸してくれた人とチャットする時によくそのDVDを見ながらってことがあるんだけど、見る場所を合わせるためにチャプターを見てて戦慄が走った。

 『これやん……』

 「Dance Dance Dance」ってタイトルの曲がある。ミスチルはこれにくっついて来たんだと思った。それもこれもあの固有名詞乱用男のせいや。
 なるほど。と全てに納得がいったその後で、私は「ワールズ・エンド」という本を手にする。翻訳者は村上春樹。
 そしてDVDを見ながらチャットをする生活が相変わらず続いて、それとはまったく関係のないところで私は「ワールズ・エンド」を読了して、ある日レビューを書こうとしてふと手が止まる。

 『まてよ』

 オリジナルからリッピングしたDVDの2枚目をPCに突っ込んで、画像を映すのももどかしく、無理矢理メニュー表示に切り替えてチャプターを表示させる。そして、

 『おまえもなのか……』

 タイトルは「Worlds End」。表記上の違いこそあるけれど、それは「Dance Dance Dance」だって同じことだ。英語で書こうがカタカナで表現しようが結局は同じものをさしている。
 普段DVDでライブを観ているだけで歌のタイトルを確認することがないから気が付かなかったけど、チャットで場所あわせしてたおかげで記憶のどこかにそんな名前の印象が残ってたんだ。

 一度ならず二度までも。果たしてこのミスチルとハルキの因縁は偶然のものなんだろうか。それとも桜井和寿の意図なのか。
 またしてもハルキと和寿の距離が縮まってしまった一冊でもあった。

 
ワールズ・エンド〈世界の果て〉 (村上春樹翻訳ライブラリー (t-1))

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「グレート・ギャツビー」 [reading]

 最初、かなりの衝撃を受けた。これはちょっとしたクライシスだったと言ってもいい。読んでる最中も、そして読み終わってからも、これの何処が面白いんだかまったく分からなかった。

 読んでる間中、この空虚さはなんだろう、何処から来るんだろうと気になってしょうがないくらい、この話には中身がないような気がした。虚栄。読んでる間中そんな言葉しか浮かんでこない作品だった。ここに出てくる誰もが無駄に飾り立てている。けばけばしく飾り立てたその下に実質的なものなんて何もないから、それを隠すためにみんな余計に飾り立てる。それはもう行き過ぎて鎧みたいになってるけど、周りのみんなの誰もがそうだからそれがおかしいなんてことには気が付かない。むしろその鎧のけばけばしさを競っているくらいだ。
 そんな空虚な世界で生きている頭空っぽの少女に恋をしたのが運のつき。と言ったようなお話だった。

 この話に出てくるのは当時の、いわゆる「上流階級」と呼ばれるような人たちなんだろうけど、どっちかって言うと「ブルジョワ」って言葉の方が似合うのかな。「成金」とか。彼らの社会的地位は血統の話じゃないから。その世界が形成しているのはお金のヒエラルキーだ。その彼らの暮らしぶりたるや。悲惨だよ。別に働いているわけでもないのに、もっと他にやることないの?と思うくらいその生活様式は下らない。
 「上流階級」って言う人たちの暮らしぶりがどれだけ私の神経を逆なでするかということは、P.G.ウッドハウスの話を読んでもう嫌ってほど身に沁みて分かっているんだけど、ここに描かれているのはそれとはまた別な質の感情を掻き立てるものだった。ウッドハウスの話はイギリスの階級社会で、属する等級に応じた品位があるけれど、フィッツジェラルドの書く世界には品位なんてものは存在しない。あるのは世間体だ。そしてその世間体は売りに出ている。だからこそみんなこぞっえそれを買い上げようとする。その辺の泥臭さが「上流階級」にはない。

 最初はあまりの無感動さにショックを覚えたけど、その衝撃が薄らいで冷静に考えてみれば、なるほどハルキらしい物語かもと思う。ハルキ自身が「個人的な小説」と言うだけあって、物語の壁にハルキの影法師を見ているような気がするくらい。華々しくて中身のない虚構の世界。そこにかかわる気もないのにただ巻き込まれていく主人公。これにハルキは自分を投影したに違いない。よく考えてみるまでもなくそこにはハルキ的エッセンスがそこかしこに散りばめられている。主人公の孤立した環境や傍観的な立場、魅力的な友人の誕生と理不尽な喪失。そしてその喪失は幾重にも重ねられて、そこにいるだけの主人公に重い影を背負わせる。全ては主人公の中をすり抜けていくだけの景色に過ぎないけれど、その景観の変化に主人公は否応なく含まれいている。虚栄の下に隠されているのは、真っ黒な裏切りと不実。ギャツビーが本当は何をして身を立てているかなんてことはかわいく思えるくらいに、筋金入りの上流階級人たちは芯から腐っている。
 物事は全て主人公の周りで吹き荒れて、彼はそれに翻弄されるだけ。気付けば恋も友情も思うままにならなず、それでも彼は世間から距離を置き続ける。自ら進んで孤独を選んで生きているように思える主人公の姿は、確かにハルキの描く「僕」の印象にかなりダブって見える。

 ハルキは作中の表現の"old sport"をどう訳すかと人に聞かれて、「そのままオールド・スポートと訳すつもりです」と答えていた。私は今となってはこれはなじみの表現だからなんとも思わないけれど、知らない人が読んだらやはりこの表現に込められた親しみと敬意は伝わらないだろうな。私がこの作品を読む以前にこの表現に親しめていたという点においては、クリント・イーストウッドに感謝しないでいるわけにはいかないだろうな。
 「真夜中のサバナ」を見てなかったら私もこの言葉が表す独特の距離感はつかめなかっただろうなと思う。「サバナ」でのケビン・スペイシーとジョン・キューザックの距離感はまさにこんな感じだったと思う。夜会のホストが来客をそう呼ぶシチュエーションもそっくり同じだし、ホストがその客にただの客以上の親しみを感じているという感情の趣も似ている。色々読んだり見たりすることは他の作品の理解を助けることにもなる。そんなつもりはないところで何かを別の何かが相対的に押し上げる。そんな見えない相関関係を考えるとなかなか感慨深い。私たちが知らないだけでいろんなものがいろんなものに影響しあっている。私たちが知っていることは、多分全体の表面の、そのほんのちょびっとの部分だけなんだろうな。

 一応これって青春小説なのかな。ハルキがのめり込んだ理由の一端を知る程度にはこの作品を理解出来たんじゃないかと思う。なぜあれほどまでにという程度の問題に関しては、これはあくまでハルキの「個人的小説」なわけだから、ハルキを個人的に知らなければ分からないことだろうな。

 もう一回くらいは読んでもいいかもしれない。

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)


タグ:村上春樹
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「ノルウェイの森 ㊤、㊦」 [reading]

*** プロローグ ****

 この歳でこの物語を読むことは因縁の対決だった。
 もっと他にドラマチックな言葉があるだろうけど、今の私にはその表現以外に思いつかない。
 この本が何週も売り上げのランキング1位であるとこを、バブル期特有の中身のない夕方の情報チャンネルで頭の悪そうな女や男が騒いでいたのを覚えている。この本に関する記憶は、まだそんな私が子供だった場面から始る。
 中学生になって読書に興味を持ち始めた私は、それまでキングや、シェイクスピアや、とにかくクールで良質な外国のエンタテイメント文学を好んで読んでいた。「クールで上質」というのは、当然今から思えばということだけど。年齢から言って経験があるわけでもないのに、よく失敗もせずにそんな狭い分野ではずれを引かずに生きていたなと我ながら感心する。その目隠ししながらの平均台渡りみたいな選り好みを、そんな危険なこととも、選り好みとも思わずに、ただ自分の自然な欲求に従って本を選んでいるだけと思って実際生きていられたその純粋さをadolescenceって言うんだろうなぁとこの歳になってやっと定義できる。恥ずかしい話なのかもしれないけど、私は20代の前半までは自分はまだ青春の中にいるんじゃないかって思っていたし、つい最近まで青春ていつまでのことを言うんだろうなぁと思ってたんだよ。
 話が逸れたけど、ハルキのこの本はそんな偏見的な外国文学フリークの中学生が始めて手にした国産現代文学だった。

 当然、私はこの話を毛嫌いした。
 「なんじゃこりゃ。これが日本のベストセラーだって言うなら、もう二度と国内の文学は読まない」
 と、以来ハルキは私の中で多感な子供の心に固く誓わせた罪深い作家になった。つまり、そのつまらなさのショックの度合いはトラウマになったと言い得るものだったということだ。それでもね、私はまだ生徒だったし、学校やその他のふとしたきっかけで日本の古典文学に出会う機会は海外の逸れに比べてはるかに多い。小学生の頃に読んだ宮沢賢治の夢のような物語や、夏目漱石の奇跡のように美しい文章や、三島由紀夫のドラマ性には大きく心をゆすぶられた。そう言う出会いをするたびに、日本文学にもやはりすばらしいものがあるんだということを実感として認めないわけにはいかなかった。けれどそれはいつでも古典であったから、現代の日本文学に同じ賛美に値するものはないとハルキのこの話だけで中学生の私は結論付けていた。重ねて言うと、その結論に疑念を挟む余地は私が26の歳になるまで一切なかった。

 好きな人が出来ると、その人の趣味や考え、その人を成り立たせているもののことを知りたくなるものなんだということを、体験として知ったきっかけもハルキだった。つまり、それが時期的に私が26歳の時だったということになる。そもそも私の友達で趣味として本を読む人がまずいなかった。いたとしても暇潰しの程度だった。通勤の1時間を潰せればなんだっていいようなものを読んでいるわけだから、文学に対するこだわりとか、ましてや自分の考えみたいのがあるようには私には見えなかった。だから本に関して、文学に関して意見を交わすような友達というのを私はどの時代にも持ち合わせなかった。
 26になって、好きな人が出来て、好きというか、今でもよく思うけど、それは「憧れ」と呼ぶほうが相応しいようなまぶしい感覚だった。その人は本を読む人だった。本を読んで意見を言える人だった。その頃には自分の趣味がかなりアカデミックに偏ったものであることは自覚していたけれど、彼は私の読む作家も知ってたし、読んだこともあるようだった。中身は覚えてないっぽかったけれど。でも、彼には彼なりの世界観があって、文学観があった。私はその時そのありようの詳細まではまだ知らなかったけれど、でも、文学に対して自分の考えをちゃんと持った男性を私はその時初めて見た。それを自然とする人には理解が難しいと思うんだけど、本を読んで何か身のある意見を持つ人はなかなかいない。
 とにかく、そのように共通の趣味を通して、私は生まれて初めて個人的に尊敬出来る異性を身近に感じた。その感覚は、ただ単に好意とか、好感って言うのとは違っていたと私はその時から今でもずっとそう思っている。
 その人がハルキを好きだって言ったんで、そこから私のハルキをめぐる長い旅が始る。「ノルウェイ」が私にとってどういう作品かは最初にハルキの話が出たときに話してあったから、私の度はずっと「ノルウェイ」を避けてその周りをぐるぐるとまわっていった。もうこれ以上読むものがないという地点まで来て、初めてこの物語と対峙する気になった。それは、ここまで来てもはやハルキに対する考えみたいなのが決定的に変わってしまうと言う程のことは起こらないだろうという算段からだった。だってもうそれから6年も経ったわけだから。今までいくつ物作品を何回となく読み直して地道に築き上げた私のハルキに対する分析が、今更この一作品で塵となって吹き飛んでしまうような劇的なイベントは起こらないだろうという自負に近いものが持てるまでになっていたからということもある。でも万が一ってこともある。なんだかんだ言って、私が保証し得ない部分での不安はあった。なんたってこの人が私にとっては全ての現代的日本文学をあきらめさせた張本人なんだから。

***

 結果として、中学生の私が感じていたことは正しかったんだじゃないかなと結論付けられたことが読み直しての最初の印象。私は当時と全く同じ部分で、他の作品では見たこともないようなつまらなさを感じた。本当に衝動的に本を放り出したくなるような等級のつまらなさに襲われた。それも上巻の冒頭部分でだ。物語の端っこにも届いていないような部分でだ。で、当時の我慢を知らない私はその衝動のままに本を投げ出して、以来手をつけなかった。だから私は物語がその後どういう実際的な体裁を取って、どう終わるのかということを知らないままだった。知っているのは人づてに聞いた上辺だけの感想で、それは具体的な形を成さなかった。
 話が前後しちゃったけど、そんなわけで私は二度目にやはり同じ部分で同じような感覚に襲われたとき、『この話を本当に理解して面白いと思えた日本人て何人いるの?』という疑問が頭を過ぎった。これがベストセラーになれたなんて、本当に未だに、改めて読んでみても信じられない。結局世相の問題なんだろうか。バブル期のあらゆる芸術活動に対する軽薄な空気が勝手に増殖してった結果なんだろうか。結局これも意見を持たない人間たちのなし得る中身のない結果なんだろうか。村上春樹って言う同世代なら反応しないわけにはいかないブランド、恋愛という手軽で身近な印象。しかしてその実態は、ほんとにこれを最後まで読み通して理解できた人間なんているのか?と思わせるほど病んだ内容だった。これをベストセラーに押し上げた人々が一人残らずこれに感情移入できたって言うなら、尋常じゃない数の日本人が相当に心を病んだ心を抱えて生きていたってことになる。第一、バブルで毎週末浮かれ騒いでいるような人間が手に取るタイプの本じゃない。なんでみんなこれを読んだの?
 と改めて時代の現象を責めたい気持ちになった。恋愛という感情の動きを理解できる年頃ではなかったということもあるかもしれないけれど、それにしたってこの拭い切れない程の嫌悪感ははやりハルキ独特なものだと思う。
 飛行機の中の場面、特に「僕」の意識が朦朧と思い出の中をさまよい始める場面。あれがどうにも嫌い。訳も分からないまま、すごい吸引力で「僕」の鬱に引きずり込まれてしまう。そういう重苦しい感情の巻き起こる理由の一つも理解できないのに、その感覚だけが圧倒的に吹き付ける。この場面はハルキの言う砂嵐に似てる。これがなんだかはさっぱり分からないけど、この理不尽さを抜けなかったらその先にあるものには辿り着けない。物語の核心を見ることは出来ない。
 で、この時は先に進むことが出来た。この砂嵐を過ぎると、そこから先は恐ろしくフツーの世界だった。冒頭のあの感情の渦だけが他の作品には見られないパワーで、それ以降は私の知っているハルキに再び出会うようなもんだった。ただ、違う名前と違う時代なだけで、それは既に何度も違う作品の中で語られてきた話だった。帯の中でハルキは「この小説はこれまでに僕が一度も書かなかった種類の小説です。」と言っているけれど、ハルキよ、君が「違う話」なんかしたことはこれまでただの一度もないよ。これまで君が違う「僕」を一度も語ったことがないように。

 「カフカ」がハルキの作品の集大成なら、「ノルウェイ」はその組成の一部としてはかなり濃いエッセンスだったと思う。恋愛に関する心の動きは全てここに集約されているんじゃないかと思えるくらいだった。「僕」は死んでいった人々に囚われている。あきらかに「僕」がいながらそれよりも死を選ばれてしまった直接的な被害者としての心的外傷。そんな誰にでも起こりえることでない傷をこの人は信じられないくらいたくさん持っている。この人の周りには自ら死を選ぶような友達しかいない。緑がいなかったら「僕」は立ち直れなかったと、現実に自分を繋ぎとめておくのは相当に難しかったろうと思う。それでいてはつらつとした緑の存在は物語的にいまいちピンとこない。曇っている。ヒロインという感じがまるでしない。むしろ、幽霊のような直子の存在感の方がこの物語を通して圧倒的に大きい。印象も薄いし、台詞だって、現実的な登場場面だって少ないのにだ。そして「僕」の気持ちは緑を選んでおきながら、直子の方を向いている。「僕」にとっては直子こそが永遠の女性だで、緑は現実をともに生き抜くための同士みたいなもんだ。きっと緑は「僕」とのこの先の人生で何度となくその事実にぶつかって嫌な思いをするだろう。けど、現実的に二人は二人以外に分かり合えないことを知っているから離れるわけにはいかない。つまり、緑と「僕」は現実的な仲なんだね。それ以上のものを望むなんてひょっとしたら贅沢なのかもしれないけど。私が甘ったれたことを言っているだけなのかもしれないけど。けど、それは悲しくない?好きな人の心の大半は死んでしまった人が占めている。生きて今目の前にいる私でなく。そしてその永遠性は生きているものには侵しようがない。つまりその気持ちの固さに生きてる人間は勝てっこないってこと。不公平だけど、「僕」と一緒にいたいなら緑はその不公平を飲み込まなければならない。あるいは緑は現実的に「僕」には自分だけだと思えればそれで満足するかもしれない。一貫して現実的な人だから。

 これ読んでてめずらしいなと思ったのが、漢字をよく使っていることだった。最近の作品ではわざとひらがな表現を使っているようにすら思えるのに、この作品ではわざと常用しない漢字表現を使っている気がした。「木樵女」って言うのは有名な話らしいね。正確な読み仮名はネットでは分からなかったな。造語だったりしてね。「きこりめ」とか「きこりおんな」だろうというのが大筋か。あと「顰蹙(ひんしゅく)」とかね。書けないでしょう、そんな漢字。
 あと、めずらしいと言えば、「僕」がセックスの流儀を彼女に気遣って自粛する姿なんてこの作品以外では見られない。ので、直子との思い出を大事にしたいからという「僕」理由は今更私にしてみれば空々しくさえ響いた。こんだけ散々しまくった後で。それこそ直子にはどうでもいいんでは。おそらくだけど、セックスを誰とするかということはハルキにとってはあまり問題ではないんだろう。多分、これに関して私とハルキが見解を等しくする日が来ることはないと思う。

 この作品の中で一番好きだったのは、直子の追悼に不思議なおばさんがギターで50曲休みなく弾き続ける場面。あれは圧巻だった。その情熱。故人に対する想いの全てがそこに現れている気がした。「あんなふうに人は死んじゃいけないんだ」とメソメソする「僕」とは全く対照的である。結局、泣いたカラスがおばさんのまっすぐな情熱にほだされて、最後にはちゃっかりセックスしちゃう。物語にはあまり明確には描かれないけど、でもおばさんが「僕」にとってどれほど重要な人物かということを「僕」自身があまり気付いていないようだったのが残念だった。でも、それが普通なのかもしれない。特に自分が若いときには。「僕」はこの不思議なおばさんなしには直子という深い森を抜けてはこれなかっただろうと思う。そして森を抜けた先に緑という女性が待っていなかったなら。それこそ「僕」はバラバラと意味のない形に崩れていてしまって、そこからまた「僕」という人間に一つにまとめるあげることなんて出来なかったんじゃないだろうか。「僕」はおばさんにもっと感謝の気持ちを抱いてもいいんじゃなかと思った。
 あとは、「僕」が緑のお父さんと二人きりになってしまう場面。余命少ない病人を前に、「僕」は突如として饒舌になる。「キウリ」(キュウリとは表記しなかった)の話をしたり、デウス・エクス・マキナの話をしたり、尿瓶に尿を取ってあげたりする。人間の命の費えるときの貴重な時間を、善意を持って、あるいは敬意を持って心温まる場面にしたと思う。

 なんだかんだで、これは結局ハーッピーエンディングな物語なんじゃないかと思った。まあ、そう言う話自体、ハルキの作品の中ではかなり稀であることは確かなんだけど。一見、このエンディングはハルキ特有の、読者に投げやりなぼやけた終わり方のように思えるかもしれないけれど、これは「僕」の心の問題であって、緑は現実の人でそこにちゃんといて「僕」を見つけ出せる。「スプートニク」の時とはちょっと訳が違う。二人とも現実の人間で求め合っているということだな。
 このエンディングはむしろ贅沢すぎるかもしれない。緑という女性が出来すぎているだけに。きっとこの人がハルキの奥さんなんだろうなと読んでて思った。緑はその海のように深い心で「僕」に起きた理不尽で淋しくて不幸な別れのことをなんだって理解して許すだろう。「僕」は今目の前の失ったものの大きさに目を奪われてて、当然のようにそこにある幸運の大きさにはまだ実感が持てていない。読後にはそんな印象が残った。
 初めて「僕」を羨ましいと思った。どれだけ「僕」の周りで不幸が吹き荒れようと、最後には自分が誰を本当に必要としているのかを発見して、そしてその人を手に入れることが出来た。こんな幸運は滅多にない。そんな類稀な幸福が自分に訪れたことに気付けば、自分を置いて行ってしまった人達のことももう少し許せたんじゃないかと思った。

 それでもだ、「僕」がこのいなくなった人達、特に直子に対する「僕」の愛情や憧れは痛々しいまでに純粋で、特に二人でいるときの様子は、他の何者も入り込む隙のないほどに二人の関係が親密で特別なのがよく分かる。はっきり言って、それでよく緑の方がいいなんて思えるなというくらい「僕」の目ににも頭にも直子のことしかない。
 でもね、結局「僕」は心のどこかでは直子が自分のものにはならないだろうということを世界の真理として知っていたから緑を選んだんじゃないなとも思える。直子が死を受け止め切れなくて放浪に出た僕は思う、「おいキスギ、とうとうお前は直子を手に入れたんだな」。この辺りには「僕」の大切な人々をこの世に繋ぎとめられなかった悔しさがかなり率直に表現されていると思う。

*** エピローグ ***

 ハルキの言うとおりこれは喪失の物語だ。10代とか20代の多感な時期にこんな経験をすることをちょっと私は想像できない。なんて複雑な森を抜けてきたんだこの人はと思うと、深いため息を付かないわけにはいかないけれど、でも、ハルキは今生きているわけだから、その森を抜けたところでハルキの得た物を知りたいと思った。
 ハルキはその後の人生にどんな意味を付与するんだろう。何度も言ういけど、これまでハルキの描く話は名前と場所と時間が違うだけでいつも同じ物語だった。けど、その螺旋の描く弧も「カフカ」で閉じられた。それはハルキの意図したことではなかったかもしれないけれど、それはそれとして次のテーマに移る時なんじゃないんだろうか。「その後の僕」の話に。

 最初にこの本を放り出して20年近く経った今、読み直して最後に考えたのが、そんなハルキの新しい歩みについてだったことに今とても満足している。

ノルウェイの森〈上〉 ノルウェイの森〈下〉
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「風の歌を聴け」 [reading]

 あんまりこういう陳腐な表現は使いたくないんだけど、これを一言で評すると「マスターベーション的作品」という言葉が浮かんできてしまう。作家活動なんて結局のところみんなそうなんじゃないかと言うかもしれないけど、違うよ。ハルキのは本気で、本当に一人でこれを書いている。気がする。
 それくらい、私の思っている以上に、ハルキは相当素直に自分の話を書いているのかもしれないと思わせる作品だった。

 処女作から受ける印象は、「強がっているふり」だった。他人に無関心を装っていると言うか。若いときによくある間違った感情処理だ。それがクールと思ってるんだよ。メジャーを遠巻きに、変わった友達とだけつるんで、世界のことなんてよく知りもしないくせに、知ったふうになって斜に構て冷た目で見るように努めてる。けど、その思い込みのクールは結局人を傷つけている。何よりも一番近くにいる人を。この場合、「僕」は結果としてそのクールさが鼠を遠ざけ、いつかそのまま失ってしまうのをこの時の「僕」はまだ知らない。だからこそ、何年も経って、鼠を失ってしまって初めて、「僕」は自分がクールと信じて疑わなかった行為の招いた現実を知って泣くんだ。それをすごく切なく感じた。
 本来なら、私も物語と一緒にその変遷をたどってくるはずが、私の場合は彼らの歴史の後ろの方からやってきて、既に物語の終わりを知っていて今この物語に辿り着いている。この後に起きる「僕」の全てを知った上でこの物語を読むことはかなり感傷的な気持ちにさせられた。装われたクール。はき違えられた美徳。束の間の幸福。これから「僕」が失っていくもの。それはこれから「僕」が得るものよりもはるかに多い。
 この後の他のどの作品でも二度と繰り返されないハッピーエンディングに、これから「僕」が生き抜く人生を思うと、そのコントラストがあまりにも痛々しい。ここで私が言っている「僕」は、この三部作の「僕」に限らない。今こそ思う。ハルキの描く「僕」は全て同じ「僕」なんだ。ハルキの化身としての。

 処女作だけあって、ヒロインが他に類を見ないほど刺々しい。痛々しい。笠原メイだってここまですれてない。不幸な二人が片寄せあうのに、なぜかいつも置いていかれちゃうのは「僕」だ。みんな「僕」を置いていってしまう。ある意味何かが「僕」を見限らせているのかもしれない。みんな何か大事なことを「僕」に伝えようとしているんだけど、僕の間違ったクールさがみんなにそれをさせない。そしてみんなは決意する。「僕」に何も言わないまま、自分で大事なことを決断する。そしてそれは結果としていつも「僕」と決別するという以外の選択肢ではありえない。「僕」は「僕」であることが大切な人たちを遠ざけるという不幸にとりつかれている。大切な人を失うほかない運命なんて、私だったらちょっと生きていられないだろうなと思う。そんな人生でよく「僕」が自殺しないなと思うよ。
 一番気に入ったのは、冬休みになって「僕」がまた神戸に戻ってきたとき、小指のない女の子がいなくなってても、二人で散歩した道を何度も何度も繰り返し歩いたというところ。いなくなったと知って、彼女の思い出のために一度だけ歩いたとか言うんじゃなくて、何度も歩いたというところが気に入った。さほど踏み込んだ仲になったわけでもなかったのに、「僕」にとって小指のない女の子はもう既にそれだけの人になっていたんだなぁと思って、そこが好ましかった。ただ、「僕」自身も、そんなことをするまで自分がそれほど小指のない女のこのことを想ってたんだってことには、不幸かな、気が付いていなかったみたいだったけれど。誰が誰のことを一番想っているかなんて、ほんとに分からないよね。
 悲しみに今はまだ涙の出ない「僕」。結婚してにわか幸福にめずらしくのろけてみせたりする様子は、実際の描写とは裏腹に、その後に始まる全ての悲哀の暗示的なプロローグとなって暗い影を投げかける。ここが全ての始まりなんだと思うと、この5分で読めてしまうような手軽な小説が、やけに悪意に満ちたもののように感じられた。

 これで、ハルキのクロニクルを上から下まで押しなべて読んだことになる。実は、初期の作品は読まなくてもいいだろうと思っていたのだけれど、無理やり貸されて結局読むことになって、でも読んでみると、これまでハルキの他の主要な作品を読んできた人間としては、この初期の3部作を読んだことはかなり重要な意味を持ったんじゃないかと思う。

 ハルキって今何してるんだろうな。創作的なことからは離れちゃってる気がするんだけど。ちっとも創作活動しないで、エッセイやら翻訳やらでお茶を濁しているのを見せ付けられるのは落胆甚だしいけど、でも、そんなに年がら年中いいもの書けるやつなんていないだろうし。ハルキのこれまでの創作リズムみたいなのを考えると、今はエネルギー溜めてるところなんだろうなと思う。そう思いたい。
 今はゆっくり滋養をつけて、また読み応えのあるいい作品を書いて欲しい。


風の歌を聴け (講談社文庫)


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「小さな王子様」 [reading]

*** プロローグ ***

 星の王子さまミュージアムに行った記念に買った本。ミュージアムショップにはバオバブの木がなる鉢とかもあって、あのでかさに憧れはしたけれど、本当にあんなにでかくなられても困るので、それはあきらめた。

 星の王子さまミュージアム、意外にいいところだった。特に週末なのに人のいないのにはかなり好印象を覚えた。行く前からミュージアム自体はかなり小ぶりだろうと予想はしていて、実際行ってみたら間口は小さかったし、作られた街並みもかなりコンパクトなんだけれど、でもミュージアムとしては意外に見ごたえあったな。たまたまスタンプラリーなんかやっててくれたおかげで、思いがけなく館内をきれいに回れてしまったのもよかった。賞品はミュージアムの缶バッジだった。
 ミュージアム内の街並みは絵本の印象がかなり忠実に再現されてて感心した。あの小ぶりなつくりは意図的なんだろうなと思うんだけど、あのコンパクトな空間に家族連れとかがひしめいていたら印象はもっと違うものになってしまっていただろうなと思うと、人のいない日にあそこを訪れたことを幸運に思った。でも、今から思うと家族客ってそんなにいなかったように思う。カップルとか女の人ばっかりだったな。

 最初、その場に行くまでは絵本を買って帰るつもりはまるでなかったんだ。ミュージアムで絵本の要素やら、それを裏付けるサン・テグジュペリの半生やらを知るにつけて、これは読んでみるかと思えるようになった。せっかくその人を知ったわけだから。それまでサン・テグジュペリで知っているといえば、同じ郵便配達の飛行機に乗っている友達が雪山に落っこちた時の手紙の話だけで、個人の成り立ちまでは知らなかった。けど、その雪山遭難の話で感じた冷涼とした孤独感はあの作品特有のものではなくてサン・テグジュペリ自身に付きまとうものだったんだなと今は思う。文面では気分の高揚があったり、友情があったり、自然に対する敬意や感動が書かれているんだけれど、でもちょっと触るとそこはヒヤッとしている感じ。感動や友情で燃えているのは彼の中だけで、その外側や周りの空気は冴え冴えとしている。書いてることと、そこから感じ取れる印象とがこんなにちぐはぐな人は他にいないかも。

 この人は恋人を求めている傍らで、孤独も愛してしまっていたのではないかなと、そんな気がした。愛は束縛するし、自由とはすなわち孤独だから。自分に素直に生きようとするから逆に苦しくなることもある。サン・テグジュペリは意外にも超アンビバレントな人だったのかもね。

***

 「小さな王子さま」は主人公こそ子供だし、挿絵があって絵本の体裁をしているからおとぎ話だろうという先入観があったけれど、実際読んでみると子供の話という印象はまるでしなかった。むしろ、サン・テグジュペリ自身の人生の罪とか後悔とか悲しみを「王子さま」という子供の化身のその純粋さに背負わせてる感じがした。これはサン・テグジュペリの贖罪というか、反省文というか。とにかく私が予想したようなおとぎ話ではまったくなかった。なんの隠喩もなく、保留もなく、ただ直球的に現実的な話だった。子供が主役というだけのファンタジーのフィルタは、そこに転がっている社会とサン・テグジュペリの彼にまつわるあくまで限定的な悲しみと孤独に溢れた人生をくっきりと浮き立たせるコントラストの役目意外に他ならない。

 この作品にはそのタイトルと体裁とは裏腹に孤独と悲しみで全体が覆われている。その雰囲気ににちょっと嫌気がさすくらいだ。この何処まで行っても拭えないunhappyな感じに。大体、登場人物の誰にも繋がりがない。一つの星に一人の人間。それぞれがみんな個別で、よその世界を知らない。この閉塞感。地球に落ちてきても砂漠の真ん中で誰もいない。友達になりたいというキツネともつかの間の友情を約束するだけ。最後には「私」も置いて王子さまは自分の星に帰る。今ではもうバラも咲かない小さな星に。
 最後まで自分のことしか考えていない王子さまは子供らしいといえば子供らしいけれど、どんなときも王子さまの心を捉えているのは一輪のバラだ。結局バラのこと以外王子さまには関心がなかった。

 バラはやはり恋人のことだった。かなり率直な喩えだ。つまり物語の焦点をバラに絞るとこう言える。とても美しくてりっぱなバラだけれど、世話に手間はかかるし、口うるさいし、正直これと一緒に暮らすのはしんどいので、思わずそこを飛び出したが、よそのバラを見るにつけ、自分がかつて懸命に世話をし一緒に暮らしていたバラがどれだけ類稀なる美の持ち主で、自分にとって大事なものであったかということに気が付く。しかし、その時には既にバラも枯れてしまい二度と同じものを取り戻すことは出来ない。それでもバラに心惹かれる王子さまは昇天することで星に、かつてバラと暮らした場所に戻っていく。

 これにうわばみの話が絡むから惑わされるけど、話を要約すればそうなると思う。冒頭で幼年期の純真さにいかがわしい程の賛美を与えるのは主人公が王子さまなのと、現実にある大人のしがらみ、というか自分しがらみの印象を除きたかったからだろう。おそらく、子供に語らせることによっていろんなことから逃避してるんだろうと思う。端的に言うと責任とかね。あと、身勝手な態度も子供というだけで正当化出来るし。
 読み終わっての印象は、『これ、子供が聞いて楽しいかしらねえ』というものだった。そもそも楽しい感じのまったくしない話しだし。

 でも、サン・テグジュペリの挿絵は素敵。想像以上だった。ミュージアムでも原画を食い入るように見てしまった。あんなに色彩豊かに個性的にキャラが描けてるのが意外だった。サン・テグジュペリって絵の才能があったのね。なんかもったいない。だから挿絵のうちの1/3くらいはモノクロなのが残念だった。
 あと、王子さまや登場人物に関する細かな描写がかわいらしかった。これがファンタジー仕立ての絵本であるという体裁をかろうじて支えている要素だ。結局これらのこんぺいとうみたいに細々とした素敵な物の描写は、ファンタジーという逃避先への憧憬のなせる業なんだろうなと思う。誰だってファンタジーを書くとなれば、その人の考えうる素敵なものを可能な限り詰め込むと思う。人一人立っているのがやっとのサイズの星に、ミニチュアの火山と、無節操に大きくなるバオバブの木。朝が来たら火山で目玉焼きを焼いて、夕日を見たくなったらちょっと椅子をずらす。砂漠の井戸と、バラが咲き乱れる庭。素敵なものがいっぱい。けど、そんなにカラフルでかわいらしいこんぺいとうをちょっと掻き分けると、そこには硬くてなんの色気も、味も素っ気もない、ただの現実という下地にぶつかる。

 物語の本質的なところは好きになれなかったけど、装飾的な細かな部分は本当にかわいらしくて素敵だった。

*** エピローグ ***

 実は星の王子さまミュージアムに行ったのはうわばみのぬいぐるみを買うことが目的だったんだけれど、もういい大人なので大きなぬいぐるみは涙を飲んで我慢した。
 キーホルダーサイズのうわばみでもちゃんと中にゾウが入っててしっかりしたつくりだけれど、如何せんその小ささに人知れず悲しんでいたらなんとキツネがついてきた。なんて幸運。

 この二匹(三匹なのかな)が寄り添っている姿を観ると、いつも表情が緩んでしまう。お前たちはいつまでも仲良くね。

小さな王子さま
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「雷の季節の終わりに」 [reading]

 ううむ。
 と言うのが読み終わっての感想。
 取り敢えず、「風わいわい」と言う名前が気に入った。どっからそう言うの引っ張り出してくるんだろうな。

 最初のうちは、この人らしい幼年期、少年期の無意識な聡明さと無感動な残忍さがきれいなコントラストを描き出してると思って読み進んでいたのだけれど、今回、恐らくこの人がプロになって初めて描いた長編で、そう言う意味でのいくつか新しく挑戦したプロットがあっただろうと思わせるぎこちなさみたいなものも多少感じられた。

 特に、茜が最後文字通り「飛び出して」来たのにはぎょっとした。鬼衆を監視するという行為が、穏の因習に相反するんじゃないかと思ってなかなか腑に落ちなかった。まあ良くも悪くも暗殺集団だから、いかに半ば公の組織だとしても、確かに監視は必要かもしれない。ただ、その鬼衆がなぜ「日本側」に住んでるの?そこが分らなかった。「日本」に出ることを許された穏の人間て?ましてやそんな奴らの「依頼」をなぜ鬼集が引き受けるいわれがあるんだ?また逆に、穏を出ることを許されて「日本」で暮らしてたのが、なぜある日突然鬼衆に殺されなきゃいけない?
 最後に出てきた後出しジャンケンみたいなプロットに「ああそうなんだ」と思わざるを得なかったのが残念だった。

 なぜ少年期にこだわるのか。当人でなければそのこだわりの真意は分らないだろうけど、でも「お化け」の話を描くときに主人公が大人であっては確かにファンタジーの雰囲気は作り出せないだろうなと思う。子供だからこそ、子供が子供であると言うだけで実存する世界の透明さや、そこに理不尽に降りかかってくる現実の残忍さが際立つんだと思う。つまり子供ってだけで、成人してしまった私達には既にファンタジーなんだと思わせられる。
 「夜市」にも見られる、悪い人を「成敗」するスタイル、勧善懲悪のプロットにも、ストーリの中枢に「子供」っていうテーマが据えられているからだろう。

 長編にした分、今回は作品のドラマ性と言うものに大分ページ数を裂いていると思った。ドラマ性といってもとどのつまりキャラを掘り下げると言う行為に他ならないんだけれども、それをプロットの組み方で単純にならないように工夫している。「夜市」では物語の視線が固定されていて時間の主軸が決まっていたけれど、「雷」では主人公と脇役と悪役の視点でそれぞれのドラマを掘り下げることで、時間の方向性に描いて見せた。多分この辺は新しく試みたことなんではないだろうか。ただそこに奇を衒ったということはないと思う。今時めずらしくもない構成だと思うし。ただそうでもしないと自分の語り口調からストーリーが怠惰になりすぎると思ったんじゃないかな。この辺のテクニックはちょっとこの人らしくもないと思ったから。私は「夜市」のあの平坦なストーリーが好きだった。そのほうがこの人らしい美文が生きると思う。

 「お化け」の話ってそんなに読んだことないけれど、この人は好きなだけあってさすがに「お化け」の話らしい描写が上手だと思う。映像としてはありきたりな表現も、文章で同じ様に表現しようと思えばやはりそれなりに考えなきゃいけないだろうと思う。ましてや私らみたいに視覚での認識が活字での伝達を先行する文化にあっては。なので、この人の「お化け」の表現には「へえ」と思わせられることがしばしばある。キングとかもよく読んでたのに、こういう文学的に端正な文章には出会った記憶がないな。原文で読んでないから、そう言う批評は不公平なのかもしれないけど、キングとかコニー・ウィリスなんかは表現としてはかなり直接的な気がする。アメリカ人らしいと言えばそうかもしれないし、ジャンルが娯楽に偏ってるからと言うのもあるかもしれない。

 今まで書いた宿題リストに「夜市」がなくて、「夜市」を読んだのってそんなに前だったかなぁと思ってちょっと驚いた。そうだっけ。「夜市」を買ったときホラー何とかって賞を獲ってるって帯を読んだのが理由だったと思うんだけど、「雷」のプロフィールにはその後直木賞も取ってるって書いてあって再び驚いた。へえ。まあ確かによくまとまった作品ではあると思うけど、直木賞ってもっと硬派な作品に与えられるものだと思っていたのでちょっと拍子抜け。友達からは大衆作品に与えられるもんだとも聞いているので、結構売れたのかしら。

 1stアルバムの売れた新人アーティストは2ndで必ず伸び悩む。Linkinだって4作目まで実験に実験を重ねてたみたいなもんだ。
 今後の成長を楽しみに待ちたいと思った。


雷の季節の終わりに


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「パーク・ライフ」 [reading]

 これねー。あまりのつまらなさに2ヶ月経ったら話の内容をすっかり忘れたよ。
 帯を読んでもピンと来るものはなかったんだけど、表紙の黄色いドット人間みたいな人が、そのコミカルさとは裏腹に、何気に包丁らしきものを持ってるから、そのシュールさに期待してたんだけど、この表紙から受ける印象と作品の中身とは全く関係がなかった。訴えたいくらいだよ。
 もともと芥川賞にはつかみどころのない作品が好まれるけど、これは…。なぜ?。この年はこれ以外になかったの?なきゃ無理矢理あげることないのに。本来はそうあるべきだと思うんだけどなぁ。

 これを読んで気になたのが、この作品の内容以上に、この本を買うのと前後して、どっかの雑誌が作者の新作に対するコメントを掲載していたのを読んだんだけど、そこで過剰なまでの自信を恥ずかしげもなくひけらかしていたこと。マジで?この程度の作品しか書けないような人間のそれほどまでに自信を持つ作品て?恐ろしくて手に取る気にもなれない。

 この人の描くキャラのどれにも感情移入が出来なかった。スタバみたいにすぐに風化するブランド分化を何の匿名性もなく持ち出して、しかもそれでやはりすぐに風化する時代性を描いている。なんていうか、一言で言うならば、すごく薄っぺらい作品で、何の存在感もない。そう言う時代性にすぐ左右されてしまうような、移ろいやすいテーマやディテールにばかり気を使っている様子がいちいち鼻について、音楽業界で言うところの一発屋としか私には映らなかった。そして物語は何も始まらず、何も終わらない。正直、この作品の一体なにが評価されたのか私には分らなかった。

 本編よりも更に不愉快だったのがおまけの作品で、「パラレル」からこっち、この作品に到るまではずっとこの手のテーマに当てられっぱなしだった。なぜ男の人ってこうまで性的に不実なのかと首をかしげてしまう。端的に言って、バカじゃないの?という感想しか残らない。男にはそもそもの初めから貞操観念なんてものがないのかも知れない。貞操なんて言葉とは無縁の行動をとる彼らを見る限り、きっとセックスなんて大したものじゃないんだと思わざるを得ない。セックスと言うより貞操がだな。そんなもの特に意味はないんだとしか思えない。愛してる人がいても、セックスは別腹。愛していることとセックスは別物なんだ。そしたら愛ってなんだろう。どういう性質で、どういう関係の上に成り立つもんなんだろう。貞操が妄想だとするなら、恋人なんて人間関係も成り立たないんじゃないのかな。そう考えると誰かを好きになるなんて虚しくて、割に合わない行動のように思える。

 おまけの作品では、見分不相応な夢を抱えた小市民のしょーもなく下らない、けれど逃避不可能な日常を描いている。そう言うとすごく意義のある作品を書いているみたいだけど、その概要を埋めるのは結局のところ下半身の欲望と、それを何の疑念も挟まずに行う人間の心の卑しさ貧しさだ。「ハリガネ」でも書いたけど、類は友を呼ぶ。そう言うところにいる人間は、そう言うところから出られない。例え理不尽に貶められているとしても、半分はそこから抜け出せない、抜け出すことをしない自分に責任があると言うことだろうな。

 この作品は「ハリガネ」と一緒に買ったわけだけど、わざわざこんな作品を、いくら文庫とはいえお金を出して買ってしまったなんて、読んでからかなりへこまされる話だった。

パーク・ライフ (文春文庫)


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「ハリガネムシ」 [reading]

 あまり言いたくはないが、やはり人間には性質としての品格があるということを考えさせららる作品だった。経済的な問題ではなくて、人としての品位が下流だとかそう言う話。貧しくてもつつましく、品性清く正しく、誰にも恥ずべきことなく生きている人は大勢いる。もとい、少なくないはず。だから、経済的な豊かさが必ずしも人間の品位を格上げするものじゃない。むしろ裕福そうな人間にこそ下劣な人間は多いはず。でなきゃ、世の中はいろんな意味でもっとまともだったろうと思う。

 この人は、私が思っていたよりも年配の人だったんだけど、ただそれを思わせない文体が更に以外だった。表現力っていうか、描写力って言うか、確かにこの人の文章には、年の功なのか、力があって、読んでて安心感が持てるんだけど、如何せん取り上げるテーマが…。ひどい…。これなんて言えばいいんだろう。下劣?ちょっとピンとこないんだけど、大体この吉村萬壱が好んで描く世界観自体が理解できないので表現しようがないと言うか。

 つつましく、少なくとも周りから浮かない程度に普通に生きていた高校教師の転落していく人生の様が生臭いまでに描かれている。文章にはちゃんと骨があって読み応えがあるのに、はっきり言ってそんなことには一切関心が行かないくらい、ドラマ自体は顔を背けたくなるような代物だった。私の受けた印象をそのまま言葉にするなら、「腐っていく」。そんな感じだった。この文庫にはもう一作品収められているんだけど、そっちはもっとひどい。醜い。とにかくそんな印象しか湧いてこない。
 類は友を呼ぶって言うけど、どちらの話も、醜い人たちが寄ってたかってドラマを更に醜くしていくという工程をたどる。どうしたらこんな生き方が出来るのかと、好んでするのかと、顔をしかめないわけにはいかなかった。これは堕落とかじゃない。そんな高貴なもんじゃない。最初から腐敗している何かだし、既に腐敗しているんだからよくはならない。

 そんな人間の集まりのドラマだから、性描写も尋常じゃない。文庫の帯から私が期待したのは暴力的な残忍さだったけれど、そう言うんでもなく、単純に言うと「エログロナンセンス」に尽きる。残忍さなんて気が付かないくらい、醜い性癖が作品全体を貫いている。この話の時代設定もちょうどそんな時期じゃないかと思う。帯には「残酷」がどうとかといっていたけれど、この性に対する卑しさ、醜さ、その汚濁とも取れる欲望がこの作品の、もしくはこの作家のテーマなのではないかと思った。これはどう考えても、読者に不快感をもたらすことのみを目的として書かれているとしか思えない。そんなの芥川と言うより、江戸川乱歩賞にこそ相応しいんじゃないの?歪んだ性癖をのみ生存本能としているような卑しい輩たちがひしめいているんだから。乱歩と違うのは、出演者たちがその卑しさを社会的な身分に隠しているかどうかと言う違いに過ぎない。

 主人公がカマキリをなぶりものにする場面や、職場の同僚の一挙手にいちいち動揺する様子を読む限りでは、確かにしっかりとした文章を描く才能を感じるんだけど、如何せんテーマが…。読み終わって正直気分悪くなった。こんな本を買ってしまったことを後悔したくらいだったよ。
 以後この人の作品はどんなことがあっても極力避けて生きていきたいと思う。
 
ハリガネムシ (文春文庫)


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「タンノイのエジンバラ」 [reading]

 なんだかつまんないものを何度も読まされた感じ。いや、そのまんまだけど。
 つまんないと言うか、結局ね、長編なら1冊に凝縮されているエッセンスが短編になるとバラけて、「この話にはこれが入ってる」、「別のこの話にはこれが入ってる」みたいな感じで、逆につぎはぎ感があった。本来は長編の方につぎはぎ感を感じるべきなのかもしれないけど、長編の方を先に読んでてこの短編集を後から読んだからな。
 あと、素直にこの人は短編がそんなに上手じゃないのかもと言う感想も得た。ハルキのほうが内容はくだらなくて、砕けてても、まだ作品としてまとまってるし、やっぱり総体的にうまいと思う。短編ってもののあり方、捉え方がハルキのほうが私と似てるんだろうと思う。
 他の芥川賞の作品を読んでて思うんだけど、作りすぎじゃないかな。漱石がさらっと書いた「夢十夜」みたいな世界観を必死こいて短編で表現しようとしてないだろうか。短編は必然的にそうなったものだけが短編足りえるような気がする。だって読んでて違和感があるんだよ。それだけプロットが不自然だってことでしょ?不自然だってことは、本当は短編を狙って作ってるのに失敗してるってことだよね。
 長嶋有は長編も書けないけど短編も書けない。中篇が好きなんだよ。体質的に中距離ランナーなんだろう。その距離が最も得意でいい成績を残せる。「パラレル」は長編だけど、「なんでこの話をこの尺で語りたかったかな」と思うくらいしつこいし、くどい。そしてここに収められている話のいくつかは短編と言うにはちょっと冗長なんじゃないかと思わせる疲労感が読後に残った。まあ、扱ってるテーマもテーマなら、この人の書き方も書き方なのでぜっぜん楽しくないし。楽しめない話を何度も繰り返し読まされるとさすがに「もう当分長嶋はいいです」という気持ちになれた。
 ただ、「夕子ちゃん」や「猛スピード」の良さを振り返って考えてみるだに、これらのしつこさや冗長で無駄な感じの作品を書いたのが同じ人なのかと思うとかなりのショックだ。多分、彼が本当に体調がよくて気持ちの乗ってるときの走る中篇は確かに私好みなんだろうな。

 先に言ったけど、これまで読んだエピソードの切った貼ったがそこここに出てくる。長編でなら意味を持ったそれらも、ここではしつこい繰り返しにしか響かないことにがっかりさせられる。いっそのこと書かなくてよかったんじゃないかと思う。
 同じテーマが作品をまたいで繰り返し現れると言うのはハルキを読んでて何度となく体験したことだけれど、長嶋のこれはなんていうか、ただのネタに落ちてる。ハルキのはあくまでエッセンスとか、テーマとしてある。根源的には同じものでも、その物語にあった装いで現れて存在する。ハルキの持つそのテーマやエピソードのあり方は、あたかもそのテーマに人格が与えられているようで、同じテーマが違う顔をして個々の作品に存在する。複数のテーマが潜んでいる場合もあれば、一つだけに集中して描いている時もあるように思う。だから、読んでいて『今回はこっちがテーマなのか』とにニヤリとさせられる。そして全ては「カフカ」に向かって流れていたものだと言うのが私の持論。

 「タンノイのエジンバラ」
 スピーカー屋さんなんだ。こういうのは、あー、全く分らないけど。どこがいいとか。けど自国の土地の名前を製品名してるところは好感が持てた。センスのよい国家主義だと思う。
 【TANNOY】
 http://www.teac.co.jp/av/import/tannoy/index.html
 しかし、TEACが卸しててびっくりしたんだけど。なぜ?TEACってひょっとしてオーディオメーカーなの?ま、メーカーって訳ではないのかもしれないけど、ずっとPCの周辺機器メーカーだと思ってた。なんかAV系の電器屋みたいな感じだな。変な会社。
 脱線したけど、これが一番読みやすかったと思う。好きではないけれど。そういった意味では好きな作品はこの短編集の中には見つけられなかった。
 グーフィーとプルートのネタが異様にひっかかった。どっかの映画で観たんじゃないかと思うんだけど、そう言うすぐ足のつくネタを使っていいもんかとも思った。

 「夜のあぐら」
 ひょっとしてこういうのが長嶋らしいのかもしれない。と思わせた作品だった。「夕子ちゃん」とか「猛スピード」は結局その現実の上っ面で書いたファンタジーに過ぎないのかも。つまり、この作品の方が長嶋にとってはリアルなんじゃないかと。ここに出てくるどのキャラにも感情移入できないんで、これまた読んでてそわそわと落ち着きのない感じにさせられたが、夫婦の不和と、家族の離散と、兄弟の心理的な乖離は長嶋の一番得意で描きたいものなんじゃないだろうか。つまり、家庭の歪(ひずみ)。共通してるのは、主人公はその歪に対して何もしない側にいるってこと。この次女に到っては家族のことなどどうでもいいと言うふうにすら取れる。彼女は何が理由で彼等の間に関わり合っているのかが分らない。つまり彼女自身の家族に対する主体性が見えないんだな。弟の世話も面白いからしているだけにしか見えない。両親の離婚も、姉の煩悶も、弟の無気力も、全て知っていて自分には出来ることがないと、私は無力だと言うスタンスを取っているけれど、本当はどうでもいいんだよ。家族の問題を描きながら決して核心に触れることのないこの冷ややかさは一体なんだろう。そこにメッセージがあるのかないのか。もしこれを素で描いてるんだとしたら、長嶋の家族観には相当問題があるように思う。
 あと、長嶋の作中に出てくる姉と弟という設定の距離感も私には理解できない。仲良すぎないか?気持ち悪いと思うのは私だけだろうか。長嶋の作品に出てくる弟はみんな素直でいい子だ。ただ、いい年しておねえちゃんと一緒に遊びまわったり、ましてや部屋に泊まりに行くってどういうこと?これが普通ならすごいカルチャーショックを覚えるんだけど。私が直美と仲がいいのは直美が女の子であるからであって、これが弟だったりお兄ちゃんだったりしたらまずありえない。長嶋自身がこういう構成で育ったせいなんだろうか。
 最後に、この作品にこのタイトルはどうなんだろうと思った。

 「バルセロナの印象」
 これ読んでて、友達がみんなと集まって飲んでるときにその場にいない友達から来た手紙を読んだら泣いたりしたことを思い出した。と言うくらい、なんだかOLの旅行記を読まされている気分になった。長嶋の感覚ってちょっと女っぽいところがあるからな。ただの旅行自慢だよ。それにしてもバルセロナってところが多少でもどんなんか知っててよかった。でなきゃ、よっぽどつまんないことになっていただろうな。この人、文章はきれいだけど、描写がうまいって訳じゃないのかも。

 「三十歳」
 こーれはやだった。すごくやだった。やなものがつまってる感じだった。私の嫌いな話の代表になれるかもと思った。長嶋は何がよくてこういう社会不適合のニヒルで薄情な女を描きたがるんだろう。「猛スピード」のお母さんとはまた違う。強情なりの直向さとか、愚直なまでの実直さみたいなのがない。えー、つまり日向を歩いていないという印象。「猛スピード」のお母さんは白い目を向けられても、やましいことはないというプライドがあるから津よ日差しの下を歯を食いしばっても歩いていける生きてく力みたいなのを感じたけど、これは、もやしのような感じ。この全てを分ったつもりでいるシニカルさが私にはどうしても好きになれなかった。

タンノイのエジンバラ


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