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「雪国」 [reading]

 孤独な人生だったんだな。
 て言うのが私の川端康成に対する感想。本人もその孤独に悩まされながら生きていたんだろうなと、彼の人生の簡単な描写から思った。父母を亡くし、二人きりの兄妹の妹を亡くし、育ての祖父母の最期を看取った時まだ15歳だった。一番愛情を受けたい時期に肉親を一人づつ、そして一人残らず亡くしていくのをただ受け入れるしかなかった。そんな悲しい人生がそれでも川端康成という美しく研ぎ澄まされた孤高の魂を作ったわけだから、それを考えるとやるせない。不幸がその人の才能を開花させたというならそれより不幸なことがあるだろうか。康成は皮肉にもその孤独を囲って文壇を上りつめていく。それでも最後はやはり自ら死を選んだことを考えると、結局孤独に自分を明け渡してしまったんじゃないかと思う。
 康成は幸せだったかな。人を遠ざけ、また人の営み自体を蔑むような彼の生き方を後悔したりはしてないだろうか。宝塚のレビューのように用意されたきらびやか階段をただ昇りつめて行くような彼の功績とは裏腹に、焦点を彼個人にあてると、その情景はなんだか急に色を失ってしまう。見ない方がよかったんじゃないかという罪悪感すら漂わせて。

 実は川端康成の作品読んだの初めてだ。と思う。少なくとも私の学校の授業では扱わなかった。ひょっとしたら何かしら抜粋みたいな形では教科書に載ってはいたのかもしれないけど。でもどうだろうな。この人は大人の関係の生々しいところを書きたがるんで、生徒に読まる内容じゃないと思うし。

 きれいな文章だ。品があって、凛としてる。康成の文章の物静かな美しさは、ちょっと梶井基次郎の文章を思い起こさせた。

  「それは夜深く海の香をたてながら、澄み透った湯を溢れさせていれ渓傍の浴槽である」

 康成と梶井の文章や描き出す世界から受ける印象は実際には異なる。だけど、二人の文章から呼び起される清涼感が似ている。基次郎は、弱い体を引きづりながらも命を燃やして生きているから静かな中にも自然の躍動感が感じられる。血の通った温かみのある清涼感だ。自分が享受したものを素直に、開け広げに表現する。だからそこに計算とか、打算みたいなものはない。子供じみているといえばそうかもしれないけれど、子供に美しさを言葉にする技術はない。康成は、直接語らない。美しさや、そこから受ける喜びを努めて隠す。文字にはしない。なぜしないのかしら。自分の心が感じ取る美は表現しない。目に見えるもの。形とか、音とか、色とか、匂いとか。実際にそうしてそこにあるものについては敬意をこめて丁寧に表現する。けれどそこからどれほど自分の心が乱されたか、動かされたかと言うことについては触れない。当時社会的にそう言う風紀だったのだろうけれど。そもそも康成の扱う恋の形や人間関係は社会から疎まれるはずのものだから、きっとそこに生々しい感情を入れてしまったらただのポルノになってしまっていただろう。大事にしたい気持だったからこそ美しくだけ見えるように形を整えたんだろう。宝石を研磨するみたいに。
 あったことを書かないという、贔屓目に言ってじれったいほどの奥ゆかしさは、そこに隠した秘め事を康成が大切にしたいという表れなんだと思うことにした。

 いずれにしても、彼らの表現してきた美に共通して言えるのは、それが今の文学が真似しようと思っても出来ない類のものであることだ。例えば色。たくさんの聞いたこともないような色が出てくる。

 濃深縹色(ふかはなだいろ)…濃い藍色
 玉蜀黍色…とうもろこしみたいな色なんだろうな
 檜皮色(ひわだいろ)…檜の木の皮のように黒みががった赤茶色
 桑染色(くわぞめいろ)…桑の木の汁で染めた薄い黄色
 紅葉の赤錆色(あかさびいろ)…モミジの赤が濃いやつなんかのことかな

 桑の木の汁で染めた色なんて見たことある?注解読んで思ったのは、説明されても結局損な色は見たことがないということだった。実際に目に映るどんな色のことをさしてこんな名前を付けたんだろう。想像つかなくない?大体、木を見て「あれが桑の木だよ」って言える?私は言えない。
 
 それでも桑の木は私が生まれた時から家の前にあった。ただそのことを知ったのはつい最近で、お父さんにそう言われたからだった。その桑の木は手入れする人もないまま、もう育ちすぎて、通りに体が半分覆いかぶさってた。雨が降ると顔の前まで枝が垂れてきてて、私はそんなふうに旺盛に茂ってる木が身近にあることをうれしく思ってた。お父さん曰く、この辺の人たちも昔蚕を飼ってて、その木はその名残りなんだと言っていた。私は思いがけなく、自分の住んでる場所の知らなかった歴史に触れて感動すら覚えた。けれど、そんな喜びも束の間、雨の日に顔の前まで枝をしならせていた桑の木は、交通の便のためにある朝突然なくなっていた。よく思うんだけど、お父さんが生まれてからの50年、こんな田舎のこの地域でさえその変貌はめまぐるしいものだったに違いない。その殆どが偽善的な近代化という名目のために、昔の姿をかなぐり捨てるという方法で。

 話が逸れたけれど、つまり、昔の人たちは、実際に桑の木の汁で染ったものを見たことがあるから使える表現なわけで、元禄袖(げんろくそで)や袷(あわせ)、絣(かすり)、伊達巻(だでまき)や元結い(もとゆい)、一重の襦袢(じゅばん)と言った生活様式自体を文化として失ってしまった私達にはもはや想像することすらできない。それらの美しい響きのものが既に失われてしまった時代のものなんだと言うことが改めて悲しく思われた。
 いまを生きる私たちが彼らの紡ぎだす雰囲気を美しいと感じる心を持っていて、彼らの表現をなんとなく理解できたつもりにはなれたとしても、実際の景色が失われてしまっていては康成と同じ地平に立つことすらかなわない。つまり彼らの表現した美は既に失われた時代にのみ属する、失われてしまった文化なんだ。康成が見聞きし、嗅いで、感じたその距離感で私たちがそれらをとらえることはもうできない。私たちは私たちの時代の普遍的な美の表現と言うのを見つけなければならない。しかしそんなものが今この時に存在するのかどうかも甚だ疑問ではあるけれど。
 
 雪国はその出だしの一文が、作品を読んだことのない人でも知っているくらいに有名だ。だけど私の心に響いたのはその後に続く短い文章の方だった。

 「夜の底が白くなった。」

 文学はメタファーなんだと康成を読んでて改めて思った。文学は「言葉に表す」という行為だと思う。気持ちを言葉に表す。景色を言葉に表す。美しさを言葉に表す。難しいことだ。必ずしも自分の表現したい気持ちや情景を表せる言葉があるとは限らない。それは哲学者が何千年も前から取り組んできた限界だ。だからメタファーって言うのがある。
 小説には、「しゃべっているだけ」という作品もある。エンターテイメントな作品は大体そうだと思う。東野圭吾とか、伊坂幸太郎かさ。技巧や構成上のトリックはあってもそう言うのって文学ではないと思う。文学ってそこに書かれている言葉が読んでいる人に何かを思い起こさせる力のあるものだと思う。星を想像させ、痛みを伝える力のあるものだと思う。だから、手軽で口当たりのいいだけのレトリックの恋愛小説とか、プロットに気を取られてストーリーやキャラに深みの出ないミステリーなんかとは格が違う。文章を表現とたエンターテイメントの種類ではあるけれど、文学と思ったことはあまりないな。

 物語の出だしが好きだ。冬の山奥の田舎の厳しい寒さと、暖房で暖められた汽車の中のコントラストが幻想的なまでだ。闇に浮かび上がる雪のほの白さ、汽車の明かりが灯す温かいオレンジ。島村の視線だけで追ってゆく描写は、一人ものが旅をしている情景を物静かに浮かび上がらせる。

 きっと康成自身が清潔感を好むが故に、作品全体に襟元を正したような清潔感が漂っている。作品中に何度も「清潔」、「清潔」と出てくる。康成が「清潔」という印象を受ける景色を私も実際に見てみたかったなと思わせるほどだった。
 そのくせ康成は生臭いテーマを書くのが好みらしい。島村が汽車の中で気を取られている女の顔が映る車窓に駒子を見て慄然としたりする場面には、ホラーの臭いさえ強く漂って、私はちょっとそこが好ましかった。それで思い出したのは、「源氏物語」だった。いつの世も人の心を捕えるのは情、怨念なんだなと思って。けど、これは私の印象だけど、たぶん康成は基本的に女の人が好きなんだと思う。それも駒子たちみたいに影のある。つまり、意地悪く言えば、付け入る隙のあるタイプの女性が。そう言う都合よく振り回せそうなのが。冒頭の汽車の中でも、そのあと温泉場についても葉子が気になってしょうがない。傍目に見ても駒子の方が見た目とかじゃなく、人の気質としていい女そうなのに、駆け落ちでもして駒子との縁を無理やりに切ろうかしらと妄想すらする。その過程で結局この葉子の気性がおかしいなと言うことに気付いて島村の葉子に対する気持ちもしぼんでいくわけだけれど、そうでなければ島村はいつまでたっても葉子の『悲しいほど美しい声』や子供をあやす無邪気さに捕らわれていたことだろう。

 とにかくそのようにして島村は、表面上の美しさにこだわる訳だけれど、その清潔感を褒められて好かれた駒子がうらやましかった。清潔感漂わせてる人なんて周りにいる?私はちょっと思い当たらない。きっときれいな人なんだろうなと思った。駒子は情が深くてかわいらしくて、確かにいい女だと思った。島村みたいな男にはもったいない。これと言って大事にしてくれるわけでもないのに駒子は島村の何に惹かれたんだろうなぁ。第一、島村は駒子の個人的資質に関しては否定的な言葉しか投げかけない。島村の否定的な発言は、明らかに駒子の感受性の豊かさ、気質の気高さへの嫉妬から来ている。取り敢えず、100%見た目から入って行く島村が、その人の本質を知って惹かれていくという現象時に島村の自信が揺さぶられるさまもよく描かれていたと思う。しかし、日記をつけていることも、読んだ小説のメモをとっていることも、意外と文化に精通していて歌舞伎なんかに詳しく、独学で三味線や唄が島村の鳥肌を立てる程であること、つまり駒子の才能自体が島村には気にくわないようだった。こんな田舎の温泉場で芸者というか、お酌風情に身を落としているような娘はもっと憐れまれるべきというふうな差別意識がにじんでる。まあでもきっと駒子はしっかりした女性だからきっと島村のことなど振り切って新しい人生をどんどん歩いて行ってしまったろうと思うんだけど。きっと置いてけぼりを食らうのは島村の方だったろう。そう思ったら少し胸がすいたし、駒子が島村を過去のものにして自分の人生を歩んでいく姿を想像したら晴れがましかった。むしろ過去のものにされていく島村の方が気の毒に思えたくらいだった。

 島村はマニアだ。それは随所に表れている。女性の美しさを語る時には誰でも格好を付けたがるもんだから、分かりづらいかもしれないけれど、一人で山歩きするのを好む一家の主って言う時点で相当偏執的だと思ったし、その上個人的な趣味から発展して外国の舞踏などの翻訳を生業としているなんて説明された日には『オタクじゃん』という判断をするに到った。それがもっともらしく表されているのが縮(ちぢみ)のくだり。
 縮って、この地方で名産とされている麻の夏衣のこと。「雪国」の舞台はどうやら新潟のようであるけれど、注解にある「北越雪譜」に書いてある産地4ヶ所で造られるものを「小千谷縮(おぢやちぢみ)」と呼ぶみたい。駒子の住まう温泉場の近くがこれの名産地で、春になると立つという縮市の話は私も好きだった。昔の人間らしい根拠のない差別に満ちた逸話ではあるけれど、それを信じで暮らしてきた人々の文化が築いてきた逸話でもある。25歳を超えたらいい糸がつくれないだなんて。シャネルに意見しながらコレクションを作ってるおばさん達が幾つだと思ってんの。年齢に限界を作りたがるのはなぜなのかしらね。女の人の場合は健康な赤ちゃんを産むのが社会的責任と決めつけられてしまっているからなんだろうな。まあだったら女をもっと大切に扱うように社会的に優遇したらいいと思うけど。機会は均等に与えられるべきとは思う。だけど、それ以前に性における役割が全然違う。男の社会に組み入れるだけのシステムなら均等などという定義からは程遠い。命を産むことができるのが女性だけだと分っているなら、女性が自分の社会的な役割において自らする選択をもっと社会は支援すべきと思う。それがあってこその機会均等だと思う。まあだから世界は男のやりやすいようにしか出来ていないってことだな。

 話が逸れたけど。
 このように詳細に語られるこだわりには、おそらくこの小説を読んだ誰もが、『島村=川端』という印象を受けるに違いない。その証拠に、ご丁寧にも注解に下記のような補足がある。
 
 「島村は私ではありません。男としての存在ですらないようで、ただ駒子を映す鏡のようなもの、でしょうか」

 はたしてそうかな、康成君。
 島村が縮められないこの駒子との距離感は、康成自身の人生観じゃないのか。

 「駒子が自分の中にはまりこんで来るのが、島村には不可解だった。駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子に通じていそうにない」

 誰にも打ち解けることをよしとしなかった、君自身が「孤児根性」と呼ぶ気質からくる孤独じゃないのか。素直になることができなかった康成の葛藤が透けて見える気がする。

 駒子と島村はお互いの距離を縮めることはできない、これは不倫だから。それでも魂は呼応する。その二人の魂が自然に惹かれあう様が実に美しいと思った。駒子の嘘のないそのありようが、島村に美しいものを見せている。孤独な島村を暖めている。そんな気がした。だから島村は駒子を求めるのだろうと。

 物語の終わり、島村は駒子に言われるまま夜空を仰ぎ見て、体が掬い上げられそうになる程の浮遊感を経験する。ここを読んで男って女に言われなかったら空を見上げない生き物なのかしらと思った。
 きっと島村は夜空を見上げるたびに駒子を想うことになったろう。


雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

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