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「伊豆の踊子」 [reading]

【伊豆の踊子】
 なるほど。青春小説とはこういうものかと感心した。
 27の時に書いたにしては、解説を書いている人もそう言っているように、あまりに瑞々しい。あんなに傷つきやすくきれいな感情や情景をいったいどうやって27まで囲ってこれたんだろう。
 二十歳にもなって世間知らずにもほどがるというほど健全な男子、いや、いっそ男の子と称した方が相応しいくらいまだ精神的に幼い主人公の心の動きを鮮やかに描いていると思う。その心が捉えて描く世界は清廉で鮮やかだ。康成自身が好きであるように、「清潔」、そんな感想が相応しい話だと思う。

 「伊豆の踊子」の舞台を私も個人的に知っていて、好きな場所であることが作品の評価を高めていることは否めないけれど、彼の描写が私の想像や思い入れを超えて優れているからこそでもある。雨が霧となって麓から迫ってくる様子は、静かな迫力に満ちていてまさに息をのむ思いだった。ほんの束の間目にとまっただけの情景を、その時の鮮烈な印象を、または静かに胸に迫る抒情を、余すとこなく美しい響きの文章で綴っている。川端の自然描写は「高級品」という感じがする。嫌みのない清楚な高級感だ。それは川端自身のつつましさの中にある美意識そのものなんだろうと思う。

 私は明治や昭和中頃までの作品、近代文学って言うのかな、を最近よく読むけど、一世紀も前ってわけでもないのに既に社会常識が馴染めなかったりする。
 高度経済成長期の国民総中産階級とかいう現象を経て、バブルを創造し、崩壊させてなお、資本主義を追求することで見せかけの経済回復をなしえたかに見えかけた途端、その見せかけを繕っていたからくりが瓦解して、100年に一度とかいうおとぎ話みたいな枕詞のもと未曾有の景気後退を招き、見せかけの経済回復の本質であった二極化という不可逆的な社会制度が既成事実として存在する今、川端の作品を読んで思う。

 人間て、言うほど平等であったことなんてないんじゃないの?

 私は団塊の世代の子供で、「いじめ」と言う言葉以外で差別と言うことを実感したことは殆どない。自分が女性であることや、雇用形態それ自体が差別の対象であるということに気が付いたのは、もっと後になって、私が社会人になって仕事で活躍できるようになってからだ。
 それまでに私が聞いて知っていた差別って言うのは、子供の「いじめ」を除いたら、「同和」だった。部落ということを考えるといつも後ろ暗い気持ちがする。同じ人間により卑しいものがいるという考えだから。極論を言えばさ、いると思うのよ。「卑しい人間」と言うのが。ニュースを見てたらそんな人間のクズの話で持ちきりじゃん。けど、同和と言う差別は質が違うと思う。明らかに人間性を否定する考えだ。中世ヨーロッパがそこらじゅうでやってたユダヤ人の隔離政策と一緒だ。隔離される側に人権なんてない。果たしてそうなのか。同じ人間じゃないのか。「ヴェニスの商人」でもアル・パチーノがそう言って吠える。本当の悪はシャイロックなのか。
 話が逸れたけど、つまりそんな差別に私が感じる後ろ暗さが、この見た目は太陽のようの元にキラキラとのびのびと四肢を伸ばす若木のような「伊豆の踊り子」の物語にそこはかとなく付きまとう。村の入り口の立札を読んでその気持ちは固くなった。踊り子って、旅芸人てどうしてそんなに卑しい目で見られなくちゃいけなかったんだろう。乞食と同列に扱われているんだけど。托鉢僧なら功徳を説いてくれるからいいけれど、唄やお囃子はありがたみがないってそういうことなのかな。違うよね。きっと、盗みとか、売春なんかをするグループもいたんだろうな。
 まあだから長い話を短くすると、旅芸人と言うのがそんなふうに疎まれる存在であったということがショックだったのよ。考えてみれば、昔は流れ者ってこと自体が人に警戒される要素だったんだよね。「村の入口」っていう表現にもちょっと動揺を隠せない。だって、今、町とか地区の境目が分かる?「ここからどこどこ町です」みたいな。そんな区画を示す看板が出てるのは今時商店街くらいだよね。
 昔お父さんがこの辺の読み方が独特な地域のことを「読めない人をよそ者と区別したんだよ」と言うのを聞いて少なからずショックを覚えた。なぜよそ者と区別する必要が???してどうするの??
 「踊子」に出てくる「村の入口」にこの時の話を思い出した。「村の入口」自体が差別の象徴のように思えた。ただその反面、当時彼らがそうしてまで守ろうとしていたものが分かるような気もするんだ。彼らは自分たちの生活を守りたかっただけなんだろうと思う。つまり、誰かよその人を受け入れる余裕がないんだよ。自分の生活を守るんで精一杯で。その生活を脅かす恐れのあるものは極力排除したかったに違いない。彼らの自衛の力は弱かっただろうから。リスクは負えなかったんだよ。それでもさ、やっぱりそんな汲々とした姿はなんとなく悲しく映る。誰も誰かのこと思いやれないなんて。
 そう思うとさ、今も昔も対して変わらないんじゃないかって思うんだよね。それが動物の本能としても正しいと納得できたりもする。けれど、きっとだからこそ、利害を超えた思いやりが「人」として尊ばれるのだと思う。 

 大分脱線したけれど、瑞々しさの裏にそんな暗いものも渦巻いているということだよ。
 あと、基本的に古い時代の話は当然風習が違うので、他にも色々驚かされることがある。旅館のお風呂が混浴だったりとかね。『ありえねー……』と思ってびっくりした。そう言えば、男湯に入ってきた10歳の女の子を盗撮して捕まった人がいたけど、それは女の子の父親に8割がた罪があると私は思う。お父さんと一緒にお風呂に入るのはいいと思うけど、公衆浴場はまずいんじゃないの。お母さんと一緒に入れないやむにやまれぬ事情があったのかもしれないけれど、そうでないならお父さん保護者として認識が甘いよ。
 ついでに言うと、冷静になって考えてみれば、「伊豆の踊り子」はハタチの学生が14歳の子に惚れると言う、今だったらそれもどうかと思う色恋話ではある。
 ただ、学生の目当ては踊り子ばかりでもなかったんだろうとは思う。きっかけは彼女であったかも知れないけれど。孤児根性に歪んだ彼の精神が、親子で連れ立って歩く旅芸人の陽気な姿に惹かれたとしても何の不思議もない。人一倍さみしがり屋で、それを言うこともできない(もしかするとそれが寂しさであることにさえ彼は気づいていなかったかもしれないけれど)不器用な川端の若い強がりや、身の程知らずな見栄っ張りも物語の中には随所に伺える。しかし、後年これを書いている彼自身はそれが世間知らずゆえの不作法であることをよく分かっているようで、そうした様子を素直に描ききれている。そこが小気味よかった。
 それに、この踊り子は、ハタチの寂しい学生が一目惚れしてしまうほどの魅力を十分持っているように描かれていた。綺麗な女の子が、何の得もないのに、自分になついて言葉少なげにただひたうなずいたり笑ったりする様子は、男なら誰だって心を動かされるはずだ。「仕草がかわいい」という思う男の気持ちを、学生に対する踊り子の様子を見てたら理解できたような気がする。
 14て言うのは特別な年頃だ。萩尾望都もそう言っている。本人が望むと望まざるとにかかわらない、ドラスティックな(なんか春樹みたいな表現だな)身体的な変化が起きる時期だからだろうと思う。そう言う否応ない人の心身の成長としての変化は、この後にも先にもないだろうから。踊り子は、そんな時期に、自分ではそうとは知らないうちに手に入れ、また理不尽に奪い去られる透明性とその美しさの権化のようでもある。「ダンス・ダンス・ダンス」 のハルキほど露骨に詳細に書いてはいないけれど、川端の言いたかったことも大体そこなんではないかと思った。おそらく「孤児根性で歪んでいる」心の学生には、かつて持ち得なかったもので、それを自分でも知らぬ間におおらかに謳歌する踊り子はさぞ彼の眼にまぶしく映ったことだろうと思う。

 踊り子たちに別れて、相模湾を望む船上で涙を流れるに任せる様子は川端の個人的な悲しみや寂しさをよく表していると思う。彼の孤独は一生を通じての彼のオブセッションであり、それこそが彼に文学を書かせたんじゃないかと思う。そしてその才能は、泣いてる理由を気遣われて

 「今人に別れて来たんです」

と、なんのてらいもなく言い放つ姿に、未来の文学士の初々しくも頼もしい勇士を見たような気がした。


【温泉宿】
 「温泉宿」はまたぎょっとするほど卑しい話だった。私こういうのダメなんだよ。読んでる間中気分が悪くてしょうがなかった。「ああ、野麦峠」みたいな、古いモラルの悲劇を見せつけられる後ろ暗い印象のする話だった。女の子たちが虐げられているって言うのも、イメージがダブる要素なんだろうけど、もともと私は性を弄ぶような話が苦手だ。その内容がレイプみたいに理不尽に奪われるものであれ、援交みたいに自ら投げだすものであれ、または純粋にとんでもなく歪んだ性癖であれ、生理的にそう言うドラマが受け付けられない。分かりやすく言うと、個人的にそんな世界はあり得ないと思っているからだ。追い詰められると結局女って性を弄ばれることでしか生きていけないんだなという様子に吐き気を覚えつつも、そこはかとない悲しさを感じた。

 それで、こういう話を読む度に思うんだけど、なんだってまたこんな話が書きたくなるんだろう。どうせ書くなら楽しい話の方が、素敵な話のほうがいいじゃんか、と思うのは私だけか。それでまた、こんな話を川端みたいな研ぎ澄まされた美しさを表現できる人が描いているというのが意外だった。
 でもね、振り返って考えてみると、川端君はこういうちょっと道から逸れた影のある女性を好む傾向にあるみたいだから(「雪国」の駒子しかり、踊子が卑しい身分であるのは作中でも記してあるし、この後に出てくる「禽獣」の千花子も舞踊家とか言いながらその素姓はかなり怪しい)、そんな彼が彼女らの生活やその背景に興味を持ったって何の不思議もない。
 しかしそれがあまりにもマニアックで、そんなとこまでつまびらかにしなきゃいけないかねと読んでて苦しくなるほどの女中の悲しい習性を描いてる。意中の男性の残した料理を持って帰って食べるとか、朝食の残りの生卵を後片付けの最中に、これまた残り物の鉄瓶で茹でるとか、仲間同士での盗みとか、貧しさに追い詰められてという以前に、彼らのそもそもの考え方が、とにかくもうあからさまに浅はかで卑しい。その姿に当てられちゃうのよ。
 自分の精神が彼女らに比べたら高尚なもんだとかそういうことを言いたいわけではないんだけど、やっぱり教育って大切なんじゃないかって思うのよ。彼女たちを見てると。それとも、そう言う生き方をしている女の子たちは、形こそ違え、今でもいっぱいいるわけだから、例えそう言う人たちに教育を付けたところで、結局は永遠に分かり合えない仲なのかな。価値観にしているものが違うような気もするし。

 「温泉宿」は川端君の作品には珍しくキャラクター小説になっている。女中たちの性格をちゃんと描き分けて、核となるキャラにはその背景も付けている。お滝は男勝りのかなり強烈なキャラだ。「中学生か」と、自分の中学生だった頃を思い出しながら突っ込みたくなるくらい極端なキャラだ。単純にもう、血の気が多いというか。そのお滝が可愛がってる頭の弱いお雪。上昇志向のつもりで、どんどん身を堕としていくお時。男と寝ることが生きがいのお咲。
 しかし、ここまでキャラクターを描き分けられるのなら、その実力はこんなおぞましい話(に私には聞こえる)ではなくて、もっと愉快な話にしてほしかった。
 けど、この時期笑える小説ってきっと書かれてないんだろうな。昭和初期頃って今と変わらぬ金融不況だったらしいじゃん。そこから軍国主義に傾倒して、没頭して、怒涛の太平洋戦争に突入すんのよね。そんな恐怖政治下で冗談なんてよう言わんわな。


【抒情歌】
 個人的には、これが一番川端の綺麗で悲しい「もの」が最高潮に研ぎ澄まされた、結晶みたいな作品だと思う。それだけ私に思うところのある話だったからというのももちろんある。所詮、映画も小説もどこまでシンパシーを感じられるかというあくまで個人的な酌量によって善し悪しが決まるもんだと思ってる。

 川端君は超常現象に並々ならぬ興味をお持ちのようだね。死にも興味があるようで、小さい時にいろいろと身近な人の死に目に遭ってきたせいかなと思った。

 お父さんは、私が小さい頃、
「死んだら何もないんだ。あの世で死んだ奴がうろうろしてたらあの世が窮屈でしょうがないだろ」
と非の打ちどころのないことを言っていた。
 私は……、どうかな。死んだ後のことなんて分かんないと言うのが感想。みんなが勝手に想像するみたいに、魂だけになって自由に飛びまわれるならしてみたいと思うことはあるけれど、それに意味があるのかどうか。しばらくやってみてダメだったら諦めるだろうな。
 転生するならそれでもいいし、あの世のきっと今では拷問に近いであろう人口増加の中に加わんなきゃいけないなら、それを嫌と思っても仕方がない。ただ、知らない人の中で一人でやって行くのは心細いだろうなと言う気がするから、きっと家族を探すと思う。あと、みんなで静かに落ち着ける場所を。そう考えたら、死んでまで心休まらないなんてやだなと思った。
 死んだんなら、もう何も気にせず、心配せず、のびのびとしたいよ。

 滝枝は悲しくて美しい。その美しさに、その悲しさがいっそう引き立つ。婚約者を友達に奪われるなんて、聞いてる方だって聞くに堪えない醜聞を、自分自身だって耐えられないような恥ずかしい話を、そんな居た堪れないような気の毒な印象も払拭するほどに彼女の精神の健気さは美しい。

 悲しいのは、友達に寝捕られたからじゃない、婚約者に裏切られたからじゃない、自分が運命と信じてこの身を賭けたものが勘違いであったと思い知らされたからだ。核心はそこで、恋人の裏切りも、その相手が親友であることも付随的なものでしかない。きっと滝枝はそれを知ったとき呆けてしまっただろうなと思った。私の今までってなんだったんだろうと思って。この時代の人間にしてはよく死ななかったと思うよ。

 私は「抒情歌」の話を「ヘドヴィク」と重ね合わせた。テーマが同じだ。ヘドヴィクも最初は恋人の裏切りを、自分の運命の勘違いを受け入れられなくて苦しむけれど、最後はその運命そのものと対峙して受け入れる。

 気持ちは分かる。私もそうだったから。滝枝たちほどでないにしろ、偶然の廻り合わせみたいのを運命と思って勝手に喜んで舞い上がって。好き合ってる者同士のテレパシーだとか思うこともあった。
 けど、そうじゃない。そうじゃないんだよ。
 偶然なんかない。テレパシーもない。偶然と思えることもみんな本当は潜在的に計算されたことなんだよ。価額でむりくり理由をつけようと思えばいくらでも説明のつく行動理論なんだよ。
 と、最近は思うようになった。そう思う方が自然なら、それを受け入れてもいいって。
 運命は勘違いだって。

 で、気になったことに、川端や芥川を中高生で読破したって自慢げに話す人を見かけるけれど、こういう話は子供には分からないあんじゃないかなぁって思った。
 三島をしてうなるほどの作品なのだから。
 小説ってさ、ある年齢、ある経験を経ないと理解できないものがあるんじゃないかなと思う。


【禽獣】
 川端康成の動物好きは「理想の国語教科書」でちょっと触れて知っていた。確か、二葉亭四迷の随筆かなんかの解説にあったんじゃなかったか。太宰はあの陰湿な性格から動物が大っきらいで、川端はその孤児根性から物言わぬ生き物に大変な関心があったようだ。
 しかしこいつはマニアだ。それも私からすればかなり倒錯してる質の悪い奴。まず、飼ってる数が尋常じゃない。食卓に鳥かごを乗せたりするし、人間の男とは付き合えないとか、だから犬も雌ばかり飼っているとか、いや、雌を好んで飼うのはそればかりじゃない、出産や子育てが楽しいのだと言っておきながら、仔犬を間引くと言ってはばからない。
 もしも主人公に川端の人生観が映っているのだとしたらかなりぞっとさせられる。あの冷淡さは異状だ。生きてる間は見てる方も眉をひそめるほどの可愛がりようなのに、死んでしまうとまるで関心がない。文字どおりゴミ扱いだ。押入れに放り投げとくなんて。仔犬が死んでも1mmだって心は動かない。仔犬を誤って殺してしまう母犬をして、「人間の愚かな母と同じである」と言わしめる。繁殖家がゴミ箱に捨てたヒナ鳥を、そうとは知らない最初は拾って飼おうかとも思うが、ブリーダーが間引いたものだと考え付くと、一転して「そんな屑鳥」と呼ばわって捨て置く。
 こいつが菊戴にしたことなんてもう人間とは思えないよ?

 ここまで読んできて、この美文とは裏腹な卑しさは川端自身に潜む物かと突然気づく。言われてみれば「雪国」の時からあったけれど、川端の書く男は大抵自分の方が優位に立てる女性と付き合っていて、それでも彼女たちには音のに手の出せない才能や境遇を持っている。それを男は明らかに妬んでいるのに、自身はそんな感情が自分にあることすら気付かなという傾向があるように思う。

 いやあ、愛情を知らずに育つとこんなに屈折するんだなと思って恐ろしかった。


【解説】
 ちなみに解説を三島君が書いている。二人は仲が良かったらしい。二人の文通の様子が本としてまとまっているらしいので、それも見てみたいと思った。親友の死を止められなかった川端がその後世の中に絶望してしまったとしても何の不思議もない。

 三島君の言っていることは高尚過ぎて、私のような知恵の浅いものには意味することろが分からなかったりもするんだけど、それでも、解説を読んでいると結構三島君とは解釈が大筋のところで合っていそうだったのでそれがうれしかった。「伊豆の踊子」を「真の若書」と言っているし、私が一番気に入った「抒情歌」を「川端康成を論ずる人が再読三読しなければならぬ重要な作品」とも評している。
 なんだか答えが合ってて褒められた生徒のようにすがすがしい気分だ。

 しかし、昭和の文壇て、考えてみると、今では他に望むべくもないような才能を湯水のように抱えていた割には、そんな才能が一滴残らず手のひらからこぼれていくような亡くし方をして。それって相当異常な状態だったんじゃないのかな。
 この才能たちを生んだのも、また自ら滅ばせたのも、時代の負うところがあったんじゃないのかなと、そんなことも考えた。


伊豆の踊子 (新潮文庫)

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