「銀河ヒッチハイク・ガイド」 [reading]
なぜ結局全巻読むことにしたかというと、5巻目のあとがきにあの最後がどうしても世間一般に認められずBBCが独自のエンディングを創作してラジオ番組を作ったらしいんだけど、その時復活させられたマーヴィンの言葉に「今では私も自分のバケツを持っているのです」と言って安原和見の涙を誘ったという。
うむ。
これまで「ヒッチ」を読んでてもどうやらそれ以前のネタに引きずられているエピソードが多々あって、まあ大体想像はついたし、大勢に影響はなかったからあまり気にしないようにと思っていたのだけれど、マーヴィンは好きだったからもうちょっと掘り下げてみることにした。すぐ読みたかったので送料がかかるのに残りの2冊だけをAmazonで買って届いた日にすぐ読み始めた。
結論から言うと、せっかく「バケツ」の意味を求めてわざわざ映画で見た部分も読んでみようと思い立ったのに、しかし、「バケツ」の指すところはわからなかった。誰がバケツの話なんか持ち出したんだろう。バケツのエピソードなんてどこにも出てこなかったと思うんだけどな。ガッカリや。和見めー。
1巻目だけ河出文庫のキャンペーン帯が付いてた。装丁の最後についている河出文庫の出品一覧みたいのを見る限り河出文庫ってSFものばっか扱ってるのね。ふーん。そう言うとこもあるのかー。
中身は驚くほど映画と変わらない。寸分違わないと言っても過言ではないくらいまんまだった。まあ、もともと脚本から起してるんだから当たり前かと言えば当たり前なんだろうけど。それにしてもセリフの一言一句がそのままなんでちょっと面食らったのよ。
でも、トリリアンの発生は結構唐突だ。映画みたいにちゃんと紹介的な登場をしない。出会いの場面の描写がないのよ。気がついたらもうゼイフォードと一緒なんだもん。だからアーサーがなぜトリリアンにそんなに執着するのかが分かりにくいので、トリリアンがなぜにヒロインの位置を占めているのかということは理屈としては伝わってこない。幕が開けたら既にそこにいたものだから。
映画を見てて気になってたことがあるんだけど、フォードの出身の星の名前がベテルギウスってスーパーに出るんだけど、どう聞いても「ビートルジュース」って言ってるように聞こえる。うーんと思っていたらば、本の中でベテルギウスの横に「ビートルジュース」ってルビが振ってある。それを読んで私はほっとした。よかった。ビートルジュースで正しかったんだわ。あとがきに書いてあったんだと思うんだけど、ベテルギウスはギリシャ語読みで、英語だとビートルジュースなんだって。なるほどね。そっか。
そうそう、「ヒッチ」では宇宙はその意味を真に理解する6人によって運営されているというエピソードが「宇宙の果てのレストラン」にも出てくるんだけど、それがもう1巻目に出てきてるんだけど、その6人て言うのがなんなのか、誰なのか、結局それも分らずじまいだった。
今日の難しい熟語:「僥倖(ギョウコウ)」
(1)思いがけない幸運。
(2)幸運を待つこと。
今日のひらがな表現:「逃亡しているさいちゅうなんだし、」
「最中」を「もなか」と読まれるのを嫌ったのか。
映画に出てこなかったエピソードで私が気に入ったのは最後アーサーがハツカネズミと対峙する場面で、ネズミが当時を回想する場面に哲学者が出てくるんだけど、それが面白かった。この宇宙観にはたびたび神様の話が出てくる。信仰というか。どうして宇宙ができたかという話になればそれは切っても切れないネタのようで。はじめに神様がいて、神様が創ったとか、いやそうではなく、最初にある特定の生き物がいてそいつのくしゃみで鼻から出てきたものが今の宇宙だからそのうちハンカチで拭き取られてしまうという、もうどうでもいいよと言いたくなる信仰もあったりする。またバベル魚みたいに「気が遠くなるほどお役立ちなもの」が実際することに神の不在を疑ってみたりする。
まあつまり何が言いたいかと言うと、宇宙というものを考えるとき、なぜか神様を切り離して考えれないということ自明の理があるようなんだけど、それが私としてはうまく理解できないということだ。これは「コンタクト」と見た時からよく思っていたんだけれど、神というあくまで信仰がなぜ宇宙というあくまで物理的な空間に干渉してくるのか。で、思ったのは、多分私にこの問題が理解できないのはひとえに私に信仰がないからだろうなということ。「コンタクト」は科学と信仰の2つの深い溝を、溝と言うかそれこそ別の宇宙に住んでそうな概念を見事にパッチワークしてみせた。この一見性質の全く異なる2人を、取り敢えず「他人に見せられる証拠のないことを信じること」という地平に立たせてみるという試みが「コンタクト」っていう作品だったように思う。カール・セーガンはどんなことを考えながら星を見てたんだろうなぁ。この人はクリスチャンだったんだろうか。もしも私がNASAとかで働く人に話を聞く機会ができたら、自分の仕事と信仰にどう折り合いをつけているのか聞いてみたい。彼らは遠い惑星の発生や消滅に創造主の存在を感じるのかな。
本を読んでて気がついたもう一つ。本では大きな特徴なのに悲しいかな映画では表現しきれていないものがある。それは「皮肉」だ。安原和美の訳す皮肉は本当に面白い。そう言えば、中学生のころだったか、高校生のころだったか、イギリスが皮肉を好む国だって教わったような気もする。雨が降って、皮肉が好きで、鬱々としている。みたいな感じ。安原和美の訳す皮肉には何度となく吹き出してしまった。マグラシアに無理くり降りて行こうとするときの自動応答メッセージの皮肉は映画ではすくいきれてない。「わたくしどもに揺るぎないご関心をお持ちのご様子、まことに感謝に堪えません」て、英語でなんて言ってんの?ここまで言わしめてんのは絶対安原のセンスだと思うんだけど。
最後にアーサーが「ぼくとぼくの生き方はぜんぜんそりが合っていないように思う」とスラーティバートファーストにこぼすのを聞いて、思わず『私も…』と心の中で呟きそうになってしまったが、よくよく考えてみればアーサーほどではないと思い直して、言葉を喉元辺りで飲み込んでおいた。
バベル魚のエピソードはDVDのおまけに入ってるし、アーサーのこの最後の発言が別の宇宙で戦争を引き起こすというカオス論は映画のエンドロールをシナトラ風の「さようなら、いつも魚をありがとう」を聞きながら辛抱強く待っていると見れる。
私らみたいな宇宙の規模から比べたら最小単位にもみたいないような存在には、「それで世はすべて事もなし」(お前らの知らんところですべては始まっててすでに終わっている)風なエピソードで締めくくってもらえると、今日という日を心安らかに眠れるわけだな。
うむ。
これまで「ヒッチ」を読んでてもどうやらそれ以前のネタに引きずられているエピソードが多々あって、まあ大体想像はついたし、大勢に影響はなかったからあまり気にしないようにと思っていたのだけれど、マーヴィンは好きだったからもうちょっと掘り下げてみることにした。すぐ読みたかったので送料がかかるのに残りの2冊だけをAmazonで買って届いた日にすぐ読み始めた。
結論から言うと、せっかく「バケツ」の意味を求めてわざわざ映画で見た部分も読んでみようと思い立ったのに、しかし、「バケツ」の指すところはわからなかった。誰がバケツの話なんか持ち出したんだろう。バケツのエピソードなんてどこにも出てこなかったと思うんだけどな。ガッカリや。和見めー。
1巻目だけ河出文庫のキャンペーン帯が付いてた。装丁の最後についている河出文庫の出品一覧みたいのを見る限り河出文庫ってSFものばっか扱ってるのね。ふーん。そう言うとこもあるのかー。
中身は驚くほど映画と変わらない。寸分違わないと言っても過言ではないくらいまんまだった。まあ、もともと脚本から起してるんだから当たり前かと言えば当たり前なんだろうけど。それにしてもセリフの一言一句がそのままなんでちょっと面食らったのよ。
でも、トリリアンの発生は結構唐突だ。映画みたいにちゃんと紹介的な登場をしない。出会いの場面の描写がないのよ。気がついたらもうゼイフォードと一緒なんだもん。だからアーサーがなぜトリリアンにそんなに執着するのかが分かりにくいので、トリリアンがなぜにヒロインの位置を占めているのかということは理屈としては伝わってこない。幕が開けたら既にそこにいたものだから。
映画を見てて気になってたことがあるんだけど、フォードの出身の星の名前がベテルギウスってスーパーに出るんだけど、どう聞いても「ビートルジュース」って言ってるように聞こえる。うーんと思っていたらば、本の中でベテルギウスの横に「ビートルジュース」ってルビが振ってある。それを読んで私はほっとした。よかった。ビートルジュースで正しかったんだわ。あとがきに書いてあったんだと思うんだけど、ベテルギウスはギリシャ語読みで、英語だとビートルジュースなんだって。なるほどね。そっか。
そうそう、「ヒッチ」では宇宙はその意味を真に理解する6人によって運営されているというエピソードが「宇宙の果てのレストラン」にも出てくるんだけど、それがもう1巻目に出てきてるんだけど、その6人て言うのがなんなのか、誰なのか、結局それも分らずじまいだった。
今日の難しい熟語:「僥倖(ギョウコウ)」
(1)思いがけない幸運。
(2)幸運を待つこと。
今日のひらがな表現:「逃亡しているさいちゅうなんだし、」
「最中」を「もなか」と読まれるのを嫌ったのか。
映画に出てこなかったエピソードで私が気に入ったのは最後アーサーがハツカネズミと対峙する場面で、ネズミが当時を回想する場面に哲学者が出てくるんだけど、それが面白かった。この宇宙観にはたびたび神様の話が出てくる。信仰というか。どうして宇宙ができたかという話になればそれは切っても切れないネタのようで。はじめに神様がいて、神様が創ったとか、いやそうではなく、最初にある特定の生き物がいてそいつのくしゃみで鼻から出てきたものが今の宇宙だからそのうちハンカチで拭き取られてしまうという、もうどうでもいいよと言いたくなる信仰もあったりする。またバベル魚みたいに「気が遠くなるほどお役立ちなもの」が実際することに神の不在を疑ってみたりする。
まあつまり何が言いたいかと言うと、宇宙というものを考えるとき、なぜか神様を切り離して考えれないということ自明の理があるようなんだけど、それが私としてはうまく理解できないということだ。これは「コンタクト」と見た時からよく思っていたんだけれど、神というあくまで信仰がなぜ宇宙というあくまで物理的な空間に干渉してくるのか。で、思ったのは、多分私にこの問題が理解できないのはひとえに私に信仰がないからだろうなということ。「コンタクト」は科学と信仰の2つの深い溝を、溝と言うかそれこそ別の宇宙に住んでそうな概念を見事にパッチワークしてみせた。この一見性質の全く異なる2人を、取り敢えず「他人に見せられる証拠のないことを信じること」という地平に立たせてみるという試みが「コンタクト」っていう作品だったように思う。カール・セーガンはどんなことを考えながら星を見てたんだろうなぁ。この人はクリスチャンだったんだろうか。もしも私がNASAとかで働く人に話を聞く機会ができたら、自分の仕事と信仰にどう折り合いをつけているのか聞いてみたい。彼らは遠い惑星の発生や消滅に創造主の存在を感じるのかな。
本を読んでて気がついたもう一つ。本では大きな特徴なのに悲しいかな映画では表現しきれていないものがある。それは「皮肉」だ。安原和美の訳す皮肉は本当に面白い。そう言えば、中学生のころだったか、高校生のころだったか、イギリスが皮肉を好む国だって教わったような気もする。雨が降って、皮肉が好きで、鬱々としている。みたいな感じ。安原和美の訳す皮肉には何度となく吹き出してしまった。マグラシアに無理くり降りて行こうとするときの自動応答メッセージの皮肉は映画ではすくいきれてない。「わたくしどもに揺るぎないご関心をお持ちのご様子、まことに感謝に堪えません」て、英語でなんて言ってんの?ここまで言わしめてんのは絶対安原のセンスだと思うんだけど。
最後にアーサーが「ぼくとぼくの生き方はぜんぜんそりが合っていないように思う」とスラーティバートファーストにこぼすのを聞いて、思わず『私も…』と心の中で呟きそうになってしまったが、よくよく考えてみればアーサーほどではないと思い直して、言葉を喉元辺りで飲み込んでおいた。
バベル魚のエピソードはDVDのおまけに入ってるし、アーサーのこの最後の発言が別の宇宙で戦争を引き起こすというカオス論は映画のエンドロールをシナトラ風の「さようなら、いつも魚をありがとう」を聞きながら辛抱強く待っていると見れる。
私らみたいな宇宙の規模から比べたら最小単位にもみたいないような存在には、「それで世はすべて事もなし」(お前らの知らんところですべては始まっててすでに終わっている)風なエピソードで締めくくってもらえると、今日という日を心安らかに眠れるわけだな。