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「黒い雨」 [reading]

 暗いんだろうなと思って大分覚悟して開いたけれど、意外にも抵抗なくすいすいと読み進められた。
時代のせいなんだろうけど、とにかく漢字がいっぱいで、読みづらかったのはそういうところくらい。表現として読みにくかったところは思い返す限りそうなかったと思う。
 戦争小説、それも被爆体験をつづったものであるという予備知識からしたら、拍子抜けするほどのこの読みやすさ、親しみやすさとすら感じ取れる印象は、おそらく井伏自身の人間性のなせる技なんだろう。あとがきで井伏の人物紹介をしている人の意見と比べてみても私の印象はそう間違ったものでないなと思った。
 私自身は井伏の作品は初めて読んだのだけれど、読み始めてすぐにこれは「井伏らしい話なんだろうな」と思った。本人と知り合ったら好きになっていたかもしれない。好きって、好意を抱ける人という意味でね。素朴で、嘘ついたり、見栄を張ったりすることのない人なんだろうなと思った。彼の上司とのやり取りを見ていては、世渡りもそれほど器用そうでないのがますます好印象だった。とにかく「狡猾」って表現から闘争縁遠いような人柄に思えてそれが好きだったの。もちろん、この話はフィクションということになってはいるけれど、それでも本人がこれからさほど遠くない人柄であろうという考えはずっと離れなかった。奥さんもいい人で、用意された言葉なんかはどれも実務的なことしか言わないんだけど、それでもなんだかとてもかわい人であることが否応なしに想像させられた。印象的だったのが、結婚前も結婚後も目立って恋人らしい仕草をしたことのない二人が、原爆症に苦しむ姪のためにそんなことも忘れて手をつないで、それも奥さんのほうが手を取って庭へ出ていく場面。それに気付いてうろたえるのは、重松の方なのが余計にかわいらしかった。大恋愛なんて、それが経緯で結婚したって犯罪みたいに思われている世の中だから、結婚は親や親戚やら、とにかく周りの人が決めたりするもので、本人の気持ちががどうとかなんてことではまずなかったであろうご時世に、こんなに心からお互いを気遣えるような夫婦がいるなんて奇跡だなと思いながら読んでいた。私だったらまず無理だろうと思う。その気もないのに添い遂げる誓いをするなんて。それだからこそ、この重松とシゲ子夫婦は私には清く、尊いものに見えて羨ましかった。しかし驚いたことにこの作品にはたびたびそんな夫婦愛の深い組がちらほら出てくる。どうしたことか。他人の決めた縁組でそんなに素敵な夫婦が出来上がるなら恋愛しないほうが幸せに暮らせる確率は高いんじゃないかとさえ疑った。まあとにかく、そんな献身的な奥さんに恵まれた旦那衆を私は羨ましく思いながら読んでいた。

 「ジェノサイドの丘」を読んでいたせいか、残酷な描写には「ジェノサイド」程の抵抗は受けなかった。もちろん凄惨な描写は物語の中にたくさんちりばめられている、けど、この物語の伝えんとしているところは、被爆者がどんなに人間離れした外観になってそぞろ歩いていたかをつぶさに語ることではなくて、重松が、重松の一家がどうその中を、その後を生き抜いたかである。だから、重松がそんな中に出向いても景気はさながら電車の車窓を流れるがごとくに語られる。重松が周りのそういった風景に気を取られまいとしているのがよくわかる。だから読者もその風景を流れるがままに見ているだけで立ち止まっていちいち皮膚の焼けただれ方がどうとか、指があるとかないとか、興味半分に検証することはできない。それでさえ、そうして風景の中をわき目もふらず突っ切るようにしているにもかかわらず、目にしたくないもの、してもにわかには信じられないような風景がごろごろ、というより、そんな風景ばっかりだ。そんな非現実の中を正気を保って突っ切るには周りに気をとらわれないことだ。重松の歩調は厳しい。生き地獄を地獄とも思わず、彼の言うとおり、そこにあるがままを受け止めてとにかく目的地に向かって歩を進める。そんな、普通の人から見れば、のんきともとれる気丈さが重松を、重松一家を助けた。私にはそんな風に思えた。とにかく重松は、重松一家はこんなことになってもパニックを起こさない非常にできたというか、肝の据わった一家だった。しかし、その出来具合が矢須子の命を蝕むことになったのだろうけれど。

 一番不愉快だったのは、軍人の横柄で不遜で無知蒙昧な態度、ハルキなら「想像力が足りないせい」と言うところだろうけど、よりも、戦後重松一家が移住した村での差別だった。被爆者が養生しているのを「いい御身分」だと揶揄するばばあ、敢えてばばあと言わせてもらうが、がいて、読んでる私の方が悔しい思いをした。
 どういうことなの。どうしたらそんな卑しい考えが持てるの。一億総玉砕とかいう、居間でならとんでもない迷信と言いたくなるような話を当然の予定のように民間人同士が話し合う世の中で、国のために働いていた人が、敵に襲撃されて負傷した人がなぜそんな差別的な言葉に晒されなければならないの?何も言い返さない重松に私は頼りなさを感じたけれど、読み進めるにつれ、その土地では重松はよそ者であることに気が付いて、重松が自分の「意見」を自重する姿勢も理解できた。悲しいけど、日本て、そういうところだっていうことも今の私には痛いほど分かる。よそ者はよそ者として扱われる。権利とかっていうのは、まるで土着の人間にしかないみたいに。重松一家はどんなにか肩身の狭い思いだったろうなぁと思う。そんな状況だからこそ、人のいい矢須子が自分の病状を言い出せなかったのも私には納得がいった。原爆症がただの怠け者としてしか理解されていないような無学な土地で、一家に二人も原爆症が出たらそれこそなんて思われるだろう。矢須子は尊くて、そして清かった。幸せは、彼女にこそ訪れるべきだったと思うけれど、重松の言うとおり、きっとそれは難しかっただろう。そして聖処女みたいな矢須子が原爆症で失われても、卑しい婆の考えを改めることはできなかっただろう。そのことを憎いと思った。矢須子や重松のために。王国は、彼らのような人たちの元にこそ訪れるべきだと、今思う。

 実際、この話は駆け足するみたいに読めた。それは重松の焦燥感が乗り移ったせいだとも入れるけれど、それが可能だったのは、井伏と私の波長があったからだろうなと思う。物語の屋台骨は二重にも三重にもなっていいて、さながらマトリョーシカみたいな入れ子状態なんだけど、そのどれもが焦燥感に駆られているので否応なしに駆け抜けるように読み進める形になった。
 フレームの一番外枠は、終戦後数年断って、重松たちが小畠村に住まう、逃げ延びたという表現を使ったほうがふさわしいかもしれない、現時点。矢須子が被爆の疑いから縁談が危うくなっていきていることから重松は「原爆日誌」の完成を急いでいる。
 二層目のフレームは、その重松が描く「原爆日誌」だ。この中では文字通り、焼け野原を右往左往しながら逃げ惑っている。重松はそのたびに明確な目的地を持っているものの、無駄骨ばかりだ。というか、その時生きている人間の血道をあげていることのほとんどが意味のないことなのに、彼らは盲目的に、というか、それまでの世界はまだ失われていないと当然のように信じ込んでいて、以前と同様な生活を維持しようと躍起になっている。それが私の目には異常に映った。町が、広島市全体が一瞬で吹き飛んだのに、工場を今までどおりに操業することが最優先事項だと本気で考えているなんて。言っておくが、その工場が操業を続けることで助かる人間は一人もいない。にも関わらずだ、操業を続けるための石炭を死に物狂いで確保しようとする。そういう姿勢が当然のように語られて実行される。その風景の物語るものに戦争の、当時の日本の「統制」ってやつの巨大さと、薄暗さを垣間見たような気がした。ここで断っておかなきゃならないのは、私はこの作品を読んでもそれをあくまで垣間見たにすぎない。実際にそれがどれほど暗く、巨大で、有無を言わせないものだったかいまだに理解できないでいる。理解したくないという気持ちも作用しているのかもしれない。でも、最近戦中の話を読んだり聞いたりする上で私が思うのは、そういうことをつぶさに調べて理解しなきゃいけないってこと。どうしたらそんな「統制」が可能だったのか、解明して、みんなで理解する必要がある。同じことが二度と起こらないようにするためには、どんな事件や事故でもそうだけど、事実を正確に理解することだ。普段の生活で犯罪が起きれば、不当な事件が起きれば、はみんな当然のように真実を追求するくせに、それがこと戦争になると急に口をつぐむ。そして口をつぐむのは、公的組織と言うよりもむしろ民間人の間にも顕著な現象になっている。なぜだと思う?なにか後ろ暗いところがみんな大なり小なりあるからだと私は思う。けど、それは本当に個人が問われる罪なんだろうか。分からない。一体どんな経験を潜り抜けたら、そんな風になってしまうんだろう。そんな風にみんなで口を閉ざしている中で、国と国の間ではまことしやかな数字を口にして保障がどうとか、責任がどうとかいう話だけがどんどん独り歩きしていく。黙っているだけそんなのではないだろうか。いや、もしかしたら世に噂されている異常にひどいことを日本軍はしていたのかもしれないけれど、でも、むしろそれだからこそ、それではたして世の中に真実なんてありえるんだろうかと考えてしまう。思うに、戦争責任者は本当に責任を追及するなら、殺してしまうべきではないね。その戦争の全貌を根本のところで把握しているのはそいつしかいない。だからつまり、連合国側だって口封じのために東条英機なんかを殺したんだと思われたって仕方ないよね。真実を追求する権利は、私たち日本人にもあったはずなのに。
 話がそれたけど、物語は主にこの二層目と、小畠の一層目を行ったり来たりする。それでちょっとめまいみたいなものを感じる。戦火の中から急に平穏な農村へ無理やり引き戻されて、一瞬周りが分からなくなる。それくらい唐突に現実に引き戻される。「ごはんですよー」みたいな声に重松が我に返っている瞬間だ。つまり、私も文章を書いている重松くらい熱心に戦火の中に捕らわれてしまっていることになる。重松はまだいい、「ごはんですよー」と言われている本人だから、我に返りようがるってもんだが、私はちょっとうろたえる。『なんだ、なんだ、急に話はどこにいっちゃったんだ』とあわてる。
 さらにその第二フレームの中に、シゲ子の「お料理日記」やら「看病日記」、重松が入手した他の被爆者の体験記などが層をなしている。重松は矢須子の被爆の疑いを晴らそうと躍起になって「原爆日誌」に飛びついたのだが、それを書き進めるにつれて重松が改めて発見したことは、皮肉にも矢須子もまた被爆したの者のうちの一人だという事実だった。確かに原爆が投下されたその日に矢須子は市内にはいなかったかもしれない。けれど、矢須子のように広島市の被災を知って駆け付けた人もみな原爆症にかかり、悪くすれば死んでいった事実を振り返るにつれ、重松は茫然としたに違いない。今まで矢須子が丈夫でいたからそんなことは露ほども考えに過らなかったけれど、確かに矢須子も被爆したのだ。一緒に被災した町の中を逃げたのだから。クラゲ雲の下、黒い雨を受けたのだから。

 最近、戦時中の「統制」っていうのが実際どんなものだったのかということに興味がある。どうして「一億玉砕」なんてのがあり得ると思っていたのか。どうしたらその一億の頭にそんなばかばかしいことをまことしやかに植え付けられたんだろう。「黒い雨」には他にもとんでもない迷信が真実見たいにみんなの間で交わされるが、みんながそう言ってるんだから、みんながそう思っていたってことで、それが怖いというか、もう、理解不能だった。その理解不能の迷信のひとつに、敵に占領されたら日本の男はみな去勢されるという話。 ??? そんな話し始めて聞いた。けど、みんながそう口々に言う。当時の人はきっと本当にそう考えて怯えていたんだろう。怯えてないまでも、そうなるかもしれないと覚悟をしていたんだろう。去勢してどうするんだろ頭の中を ??? でいっぱいにしていたら、その話のあたりに「民族」って言葉が出てきて、急に合点がいった気がした。この戦争は、少なくとも日本人にとっては、民族をかけた戦争だったんだということを理解した。大陸に浸入していったのも、東南アジアに進出していったのも日本の領土を広げるってだけじゃなく、そこに日本人を植えるけるという考えの元だったのかもしれない。だからレイプが当然のように横行したのかもしれない。軍人は、それも仕事と思っていたのかもしれない。しかし、どれだけ考えても私の想像の域を脱しない。けれど、もしも日本人が民族の拡大を心の底でもくろんでいたののなら、その戦争を率いた幹部がヒトラーに共感したであろうことは容易に想像がつくよね。
 それにしてもいつも不思議なのは、どうしたらあんなことが組織だててすることが可能なんだろうか。組織になる前に停められる人がいてもよさそうなもんなのに。こんなことになる前にその人を止められる機会がいくらでもあったんじゃないかと思ってしまうのは私だけだろうか。あの人たちは何で結びついていたの?何が人間が人間を理不尽に蹂躙するような社会を当然のように成り立たせられたんだろう。なにがあの戦争を可能にさせたんだろう。何が人間に憑りついていたんだろう。どの戦争でもその理由は明らかにされていない。と思う。だから何度も同じことが繰り返されているんじゃないだろうか。結局、あんなに苦しみ抜いた末に私が得たものが何だったのか、ちゃんと理解している人っているのかな。
 重松が焼け野原になった広島を彷徨しながら憎々しげに思う、「正義の戦争より、不正義の幸せのほうがいい」。罹災者のこの心からの慟哭に、それで私には素直にうなずけなかった。日本はあの戦争に負けて、誰もが願ったように今不正義の幸せのただ中にいる。全てに目をそむけた欺瞞の中にそれぞれの小さな幸せを囲っている。目の前の貧困や不幸からとにかく抜け出したくて、恥もかなぐり捨てて、なりふり構わずアメリカの尻を追いかけて、追い越して、これで私たちはよかったのだろうか。なんとなく、振り返りたくない過去に蓋をしただけのように思えるのは私だけか。代償を払うべき世代が払わなかったことで、なにも知らない世代が責められて、この先別の人たちがまた同じ轍を踏まないことを願うだけだ。

 実は「黒い雨」は読んでみたいと思っていた作品ではなかった。むしろ読みたくないr部類の本だった。戦争文学なんて、ましてや被爆体験なんて、とても軽い気持ちで手が出せたもんじゃない。けど、読んでみてよかったと思う。今まで読みたいと思ったこともなかったし、これを買ったのも、他に手にしたいと思うような本が近所の本屋にはないという情けない理由だったのだけれど。文学好きと称すからには「カラマーゾフ」を一度は読んだことがあるんだろうなと言われるように、日本人ならみんな一度は読んだほうがいい。千羽鶴の意味も分からないような大学生がいる世の中じゃ、この本が描いているものを理解できる人は少なくなってきているのかもしれないけれど。でも、作中に出てくる卑しい婆を思い浮かべるに、そんな奴は当時でもいたんだ。今の時代だから理解が少ないってことはないかもしれない。と、前向きな希望を抱いてみたりもする。

 とにかく、私は井伏の文章が私の趣味にあって、「黒い雨」を意外にも楽しめたということよりも、その基本的なところでの共通点が出来たことが素直にうれしかった。本当は「山椒魚」を読みたかったのだけれど、うちの前の本屋には「黒い雨」しか置いてなかったから。井伏の作品を「山椒魚」意外にももうちょっと読み進めてみようかなと思える出会いになった。
 けど、井伏って、画家を志してダメだったからあっさりと文学に転向して、成功している。戦争に巻き込まれ、被災しているにしても、そこから生きて戻ってこれている幸運を考えると、彼の人生はあまりのも手放しに祝福されすぎているのではと思って、はっきり言ってちょっと不愉快だが、実際そうだったんだから仕方がない。それでいて彼の生活が庶民のそれから離れなかったことが好感を持てた理由の一つかと思う。彼は幸運な人だった。そういうことだったんだと思う。
 幸運か。それは人生が終わってみないと私の場合は何とも言えないね。今のところ私もその部類に入るのかもしれないと思うけれど。


黒い雨 (新潮文庫)


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