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「宇宙クリケット大戦争」/ 「若きゼイフォードの安全第一」 [reading]

 この回は駄作というのが定評のようだったから、当初この作品は読むリストに含めてなかったんだけど、マーヴィンとその他もろもろの内輪ネタを理解するために結局買って、開いてみれば言うほど酷い作品ではないというのが私の結論。ましてや真の最終回、5作目を読んでしまった後ではなおさらだ。あれより酷いエンディングなんてありえない。アダムスは死んでその結論を暫定的なものではなく、永遠のものにしてしまった。何度も言うが、全く罪深い奴だ。今から考えてみるとアダムスってあんまり後先考えない奴だったのかもな。これまでにも、例えば「さようなら、今まで魚をありがとう」もそうだけど、その時の個人的な気持ちとか問題によるかなり直接的な影響を作品の上に反映している節があるらしいから。しかしそれだったらそれで、編集側も編集側で止めるなり、変更させるなりできただろうに。

 話がずれたけど。
 どこまで本気かどうかはわからないけど、このシリーズを最初に読んだ時から、アダムスがイギリスのイギリス的なものにある種の執着、それが愛情であって欲しいと個人的には思うのだけれど、があるらしい。クリケットなんてどう控え目に評価したってルールが複雑で見るからに退屈なスポーツを作品の軸に持ってくるなんて、よっぽどこのスポーツが好きじゃなかったら出来ない。これまでの私のアダムスに対する印象が正しければ、やはりこのテーマを個人的に気に入っていて採用したと思うのが自然な気がするね。
 あとがきに親切にもクリケットのルールを説明してくれているんだけど、全然頭に入ってこないんだよね。ただ、作中に出てくる「イギリスのクリケットの終わり」にまつわる話が本当だとするとかなりバイオレントな歴史を背負ってるのね。クリケットって。そうしたらウィケットに火をつけようと思うかな。サッカーで言えばゴールみたいなもんでしょ?あんなに火付けたら大騒ぎじゃん。大体、そんなんに火を付けたいと思わせるような事態が起きてること自体「それってなんなの??」と思った。しかし、本当にすごいのはその後で、そのウィケットの焼け残りを「遺灰」として杯にしまって、以後その「遺灰入り杯」をチャンピオンズカップにするなんて、正直言って「気は確かか?」と思う。と言うか、そこまでさせるどんな確執がオーストラリアとイギリスの間にあったの?しかもクリケットなんてスポーツごときをめぐって。スポーツのフェアネスはどこへ。イギリスの紳士精神はどこへ。その暴力のにおいぷんぷんな歴史を淡々と語るラジオの中継者の言葉に唖然としてしまった。この話は史実に基づいているんだろうか。1883年のクリケットの試合の話なんてネットにあるのかな。そういうの信用してもいいもんだろうか。最近ネットにある情報が疑わしくて。特にWikiみたいな誰でも書き込めるようなやつ。あんなんものによってはどうにも胡散臭くて時には有害にさえ思うよ。

 みんながこの話を嫌うのは、突き詰めればこれが最終話に相応しくないというところに落ちるんだけど、なぜかと言えば、それまでの「ヒッチ」と関係性がほとんどなくなっているからということらしい。それを最終話にしてしまうのはどうかという感想なんだとしたら、実際にはこれは最終話にはならなかったわけだから、そういう意味で後の世代がこれを一つのエピソードとと思って読めばどうかと言うと、「これはこれで結構面白い。少なくとも本当の最終話よりかは」というところに落ち着くんではないだろうか。
 だって、クリキット人の性質とかよく考えられていると思って関心したけどな。特に、歌が好きで、放っておくとすぐにポール・マッカートニー級に鼻につくほど素敵な歌を歌いだしてしまうあたりがかわいらしかった。クリキット人はネズミのように小心で、家庭的な生き物で、だからこそ宇宙の大きさを目の当たりにしてみんなで肩寄せ合ってビビってるって感じだった。けど、ハクターに作られた人種だからね。ただビビってればいいだけで終われなかったのが彼らの不幸だ。というか、彼らがこの世に発生した理由そのものが酷く不幸なものだけれど。その不幸な運命から解放してあげるということがはからずしも今回の冒険の最終的な大義であったような気がする。加えて言うと、宇宙船とか、宇宙規模的に強力な殺人ロボットとかを作れるくせに、移動手段に車とかなんかその類のものを使う頭のないのも好ましかった。とにかくこの根性的にはカタストロフィ級の冷酷さの持ち主のくせに、そのくせネズミの如く小心なクリキット人がとてもチャーミングに描かれてて、アダムスはきっとこういう動物の本能的に純粋な生き物が好きなんだろうなと思った。
 例えばマットレス。マットレスはこの作品中で最も好きなエピソード、このシリーズ中で言っても3本の指に入りそうな勢いで気に入っている話だ。このマットレスは非常に「かわいい」。もうこんな生き物がいたらみんな一家にひとつは生きたマットレスが欲しくなるはず。まあ、バカなんだけどね。でも私にはアダムスやマーヴィンが軽蔑するほど頭の悪い生き物には思えなかった。多分それはマーヴィンよりも感受性に優れているからだろうなとも思うし、なによりある意味自ら進んで何百年も穴にはまったままでいるマーヴィンに「もうはっきりしたことにすれば?」「はっきりしたことにしなよ」と提言できる生き物がこのシリーズ中他にあっただろうか。マットレスとマーヴィンの会話はすごくかわいらしくて何度読んでも飽きなかった。マットレスの前からマーヴィンが唐突に奪い去られてしまった時はあとに残されたマットレスのことを思ったら胸が痛んだくらいだった。このあきれるほど素直で、世間知らずで、いちいちマーヴィンの言うことに興奮するマットレスが私にはかわいくてしょうがかなった。ちなみに、マットレスには目がある。それも大きいのが。きっとマットレスに寝た時に横についてる空気穴が生きてる時は目だったんだろうな。
 シリーズ通して振り返ってみると、アダムスはこういうチャーミングな第三者的なキャラクター(救いがたく無知で無教養だけどそれ故に無害で心優しい外野)を描くのが得意だったような気がする。直接話の筋に触れるような第二者的なキャラクターにはかなり癖を持たせるけれど、直接筋に絡まない第三者には物語のギャラリーって位置をあてがっていたように思う。

 【今日の難しい熟語】 
 「擲弾(てきだん)」: 手で投げたり、小銃で発射したりする近接戦闘用の小型爆弾
 「不撓不屈(ふとうふくつ)」: どんな困難に出合ってもひるまずくじけないこと
 「揺籃期(ようらんき)」: (1)幼少期。幼児期 (2)物事の発達の初めの時期
 「兵站線(へいたんせん)」: 戦場と兵站部を結ぶ輸送路線
  ※兵站: 戦場の後方にあって、作戦に必要な物資の補給や整備・連絡などにあたる機関

 アーサーがスタビュロミュラ・ベータに行くまでは死なないという黙示録の元はこの回にあった。アグラジャックの「この、連続おれ殺しめ!」と言うセリフが気に入った。ここで描かれているのは完全なパロディと言うか、コメディだけれど、普通に考えたらアグラジャックの背負った運命はあまりにも残酷で、それ故に普通の人間だったらいっそ気が狂ってしまうか、運命に抗うために自殺をすか、とにかく彼の辿るどの人生においても最終的には自己破壊的な行動に出るよなということは想像に難くないんだけど、「でもどうせこれはお話だから」と、超現実的になんだか超非現実的になんだか、とにかくそう思いさえすれば、このコメディが孕むおぞましい運命を真に受けて気に病むことはないと自分に言い聞かせるにあたって、ふと、「ああ、これがSEPフィールドなのかもな」と気がついた。
 あとサブキャラで無限引き延ばされワウバッガーって言うのが出てくるんだけど、これもフォード並にひねくれてていけすかない生き物だった。生き物って年取るとみんなああなるのかもしれない。一人暮らしのじじばばが頑固で人になつかない様子で描かれるのはよくあることだと思うんだけど。やたら被害妄想が強くて、それ故に自分の不幸を他人に押し付けるみたいな。それに似てるのかもな。フォードだって実際には何百年て生きてるみたいだし。
 フォードはものすごいひねくれてて、嫌な奴で、四六時中アーサーの天然な様を侮辱してるのに、それでいてアーサーから離れないのはなぜなんだろう。一緒にいれば気分が悪くなるということは分かっているはずなのに、というのが下記の表現でよくわかる。
 「フォードは不機嫌な顔の練習をしていて、しかもかなり上達している最中だった」
 そこまで不愉快な思いをさせられるとわかってるくせに、それでいていっつもフォードから向かってアーサーに会いに来る。変なの。変だけど、私にはちょっとわかる気もする。鴻上尚史だったと思うんだけど、一番愛している人が同時に最も苦しめる人なんだって。なるほど。それなら私にもよくわかる。その好意の大きさゆえに、気持ちが反対側にぶれた時の反動もそれだけ大きいってことだよ。その理論でいえば、この不条理さは納得できる。私はこの決して同じ地平に落り立つことはない二人の、それでいて改めて言葉にするんでは説明が付かない様な深い結びつき方をした友情をとても羨ましく思った。だって肝心な時にいつもそこにいるんだよ。アーサーはフォードのことをそこにいるといつも不幸を呼び寄せる呪いかなにかと思っているみたいだったけれど。でも二人でなければ潜り抜けて来れなかったものを二人で潜り抜けてきた訳だから、これ以上の友人てお互いに望めなかったんじゃないかと思う。実際にお互い以上の友人て出来なかったわけだしね。

 この回のいいところはマーヴィンが活躍するところ。それもクライマックスで。しかもあろうことか、それがゼイフォードによって褒められる。これは特筆すべきことだ。マーヴィンは4作目でかなり歪んだ時間の中をゼイフォード達のせいで生きてこなきゃいけなかったことが分るんだけど、非常に珍しいことに、その一端を彼が自らの口からマットレスに話して聞かせる場面がある。大きな眼をしたマットレスに。あの辺とかも読んでてウキウキしてしまった。私、相当マーヴィンが好きなんだなということにその時点で気がついた。なんでマーヴィン殺したかな、アダムス。マーヴィンは、アーサーの対極に位置こそすれ、この作品の双璧をなす良心でもあったと思うのに。
 アーサーもこの回ではマーヴィンに負けてなかった。節々でその場を引き締めるようなヒーローになってた。その身のこなしは一見かっこ悪いようでいて、結果的にかっこよくなってしまっているのがアーサーらしくなくてちょっと変だったと言えばそうだけど。まあ彼にもそういう他人の視線的にもかっこよくて重要と思われる場面があってよかったなと思うことにした。
 しかし、最終的にクリキットとの和平を結ぶのはトリリアンだった。それがどうにも鼻持ちならん。私は最初からこの女の子は宇宙とかいうファジイなものにあこがれている割には超物質主義的で、視野が狭くて、頭が固くて、自己顕示欲が強くて、最悪なことに自分勝手な性格に思えてどうしても好きになれなかった。のが、説教臭くも、実際にクリキット人、のみならずハクターにまで説教を垂れて改心させるという「んなアホな」というオチだった。
 ハクターの辞世の科白は本当に印象的だった。不死が、そうでなくても長生きが幸せであるとは思えない。「元気なら長生きも楽しいと思うよ」と言う友達もいるけれど。結局そういう条件がなかったら長生きしたいとは思わないということだよね。

 最後はそれまでの本筋とはまったく関係のないエピローグが2度3度続くといった印象だった。話は別の場所を転々として終わる。しかものおまけの話が、この本の原題に触れる内容なのだから面食らってしまう。作品の大部分をクリキットに割いておきながらタイトルへの核心には最後の十数ページでしか語られない。そして4巻目に引き継がれる。んだけど、その引き継がれ方も4巻目のクライマックスになってだ。話の引き継がれ方がどうにもちぐはぐな気がする。それまで散々テーマの核心とは関係のないところばかりを掘り下げていたのを突然次の展開に煮詰まっていたら、そんなのもあったねと思い出したかのように出てくるのがいかにも気になった。まあここまで読み重ねてくるとその行き当たりばったりな感じがアダムスらしいとも思えるようになった。この人はきっと考えなしに、思いつきと勢いだけで物語を書いてるんだろうな。
 生命と宇宙、その他もろもろへの回答は拍子抜けしてしまうほどかなり肩透かしな内容だった。はっきり言ってがっかりすると言ってもいい。だってそれはただの詭弁だし詐欺みたいだ。問いと答えが同じ宇宙に存在できないなんて。だったらディープソートは究極の問いを得るために地球と対になる銀河系をもう一つ別に用意したはずだ。アダムスってほんとかなり抜けている。この訳者に散々突っ込まれていることではあるけれど、きっとそういうボロは私の気が付かない個所にも山ほどあるんだろうな。特にピコった話だと、私にその真偽はわからないから。

 とにかく、この作品は珍しくハッピーエンディングで終わる。ハクターは永らくの望み通り無に還り、クリキットは恐怖から解放され、だから宇宙は滅びることはない。この作品を書いた時点では並行宇宙というのが考慮されていなかったためか、アーサーは地球に戻れない。その概念に気付いていたら戻れたかもしれないのに、あくまで本人は2日後には自分が見たのと同じ運命をたどる同じ地球だと思い込んでいるので地球に残らない。もしも自分が見てきた地球とは別の確立軸上にある地球だったら、しかもその可能性は大なのにもかかわらず、アーサーは再び地球での生活取り戻せたかもしれないのに。
 いずれにしろアーサーは再び故郷が破壊される場面を見るには堪えないということで、鳥が「さえずりかわし」、「その土地について思うところを歌う」場所にとどまることを選ぶ。この時は。

 とうとう全巻読み終えた。「ヒッチ」は時間と空間と確立を捻じ曲げて潜り抜けるお話だ。それをこんな風にはからずしも順番を入れ替えて読んでこれたことは、かなり前後のストーリーのつなぎ方に困惑するはめにはなったけれども、でもそれこそこの物語を読む上で最も相応しい方法だったのではないかと思って一人ごちになった。

 鳥って「さえずり」、「その土地について思うところを歌うもの」なんだな。


「若きゼイフォードの安全第一」
 これは…なくても良かったな。「ヒッチ」ファンは今回初翻訳されたこの作品をやたらありがたがってるみたいだけど、私はこの話は話と言うにも未熟にすぎないかという印象しか残らなかった。残りカスと言うか。そうでなくてもアダムスって私の知りうる限り物語の終わり方がへったくそな作家として3本の指に入るんだよね。それくらい強引な終わり方を平気でする。最初は勢いがあってテンポがあって、「快調、快調」と思って読んでいるんだけど途中から失速して、最後はズドンと落とされるというか、照明を落とされるというか、そういう終わり方をする。なんだろなぁ。
 アダムスはというか、モンティパイソンもなんだけど、以外にも政治批判的な活動に加担していたらしくてこの作品はその一端として書かれたものだという。この版は、後日その露骨に政治批判的な部分を修正されたものを翻訳にあてたらしい。なぜ修正しなきゃいけなかったんだろう。ちなみに修正された部分は、レーガンなんだけど。
 うーん、例えばさあ、手塚治の作品とかだと当時からの差別的な表現をそのまま今に残しているわけじゃない?映画とかでもここ最近は作品の芸術性のためとかなんとか言って、作品で触れられる差別的な表現を保護するようになっている。なぜ今回その流れを汲まなかったんだろう。そう言えば夏目漱石でも伏字を使われている当時だか後世だかの差別表現があった。今はもういいんじゃないの?と思えて仕方がない。小説だって芸術じゃん。文壇ってそう言うのにまだ抵抗の強い世界なのかな。なんかすっきりしないな。


*** エピローグ ***

 このシリーズを読み始めるきっかけになったのは、「ヒッチ」とは全く関係のないレンタルDVDだった。レンタルだったから予告が入ってて、「ヒッチ」はその中の一つだった。借りたのは「ライフ・アクアティック」だったかな。何を借りた時に入っていたのかはちょっと記憶が定かではないけれど。
 私の住んでる町にはレンタル屋さんがないので、私にとってDVDを借りて観るのはかなり特別な機会だ。そう言う機会をくれた人に少し感謝してる。本当はそんなこと思う必要はないのかもしれないけど、でも、その時観た映画は少なくともその人にとってはつまらない作品だったと思うんだよね。けど、そのつまらない映画に付き合ってくれたおかげで、「ヒッチ」のDVDを買おうと思ったわけだし。そしてそれこそがここに至るまでの始まりになったわけだから。
 だから、いつかその人にこの面白さが少しでも伝わる時がくればいいなと思う。それがどんな機会であれ。


宇宙クリケット大戦争 (河出文庫)

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