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「さようなら、いままで魚をありがとう」 [reading]

 なーんて楽しいお話なんだろう。オチのないおとぎ話と思って読めば、どこへも連れて行かないファンタジーだと思えば、この一連の話は「ほとんど無害」だ。「無益」という言い方をする人もいるかもしれない。

 こうしてシリーズを一つ一つ読んでみると、映画版は本当に惚れ惚れするくらいこの「ヒッチハイク」シリーズの真髄を入念に織り込んだ完成度の高い作品だということに気がつく。今回のシリーズのタイトルは映画版のオープニングテーマになっている。それこそミュージカル調に華々しくアレンジされて。ひょっとしたら舞台版でも使われているのかもしれないね。きっとこの「ヒッチハイク」シリーズはそういう風にして連綿とその時代時代で楽しんできた人が最終的には一番楽しめるようになっているんじゃないかと思う。年功序列に手厚いサービスが受けられる。それがいいことだなんて思ったのは初めてだな。ファンはうれしいだろうね。層を重ねるようにして作品を楽しんで読み進められるというのは。人気があるって作家にとっては幸運なことだと思ったのもこの作品が初めて。同じテーマを何度も繰り返し扱うってことは、表現が洗練されていくことに他ならない。けどね、それってよっぽどの理由がない限り飽きられちゃうと思うんだよね。読者はプロットを先回りするだろうし、そうなるとオチも掴まれちゃう。同じテーマは扱っても別の話になっていなきゃ読み手の興味は惹きつけていられない。だからこそ、同じテーマに何度も挑戦して読者に許されるってことが、許されるほど愛されてるって言うのがすごいなと思う。ハルキなんかはその最たる例なんだろうな。

 この作品で気がついたんだけど、この本自身がガイドになんだ。イギリスの。アーサーはこの野蛮とも取れるスペースオペラの主役に据えるにはちょっとナイーブ過ぎないかと思うくらい慎ましく、控えめで、こんな非常識な宇宙の只中に放り出されてなお正気を保ちつつ、無駄に正義感なんかもあったりする。そして私が思うアーサーの最大の美徳はその感受性だ。アーサーはごくありふれたという意味でアンチヒーローの小市民だ。自分の生活を守る程度の力しか持たない非力な動物だ。そう考えると、映画のアーサーの凡庸さはアダムスの意図に近かったんじゃないかなと思う。だけど、そんな小さな生き物の心が感じるささやかな幸せを、ほんとに、意外なまでに、うまく表現させている。アダムスはアーサーに代弁させる。イギリスの自然の美しさも、その美しさが無言のうちに要求する不便も、すばらしい文化やそうでない文化も、この作者は愛情を持って描写する。あんなに乱暴な書き方だって、その愛情が、愛着がちゃんと読み手に伝わってくるから不思議だ。雨が好き。公園が好き。アダムスは紅茶だけじゃなくてサンドウィッチも好きみたいね。最初、サンドウィッチは人が一週間の罪滅ぼしの為に口にする食べ物だみたいに言うから、てっきり自国のパブで供されるサンドウィッチのまずさを憎んでるのかと思ったけれど、後述の内容で自分で作る分にはそうでもないのかもと思えた。なぜならアーサーがサンドウィッチを自分で作って食べるから。けど、なにを挟んで食べるのか描かれていなかったのが残念だったな。参考にしたかったのだけれど。取り敢えずニシンは私が食べないので参考にはならない。
 アダムスの書き方で私が一番感心したのはそのフィジカルな表現。何のひねりもない直接的に過ぎる表現がいかに活き活きとした印象を人に与えるか、物語自体に命を吹き込むか。最近では文学っぽい小難しい表現に慣れてしまっていたけれど、主人公たちが活きていると思わせること、その動きが手に取るように感じられるということが読み手を楽しませるということを改めて思い知らされた。いい作品というのは文学的表現のウマヘタにあるんじゃない。物語が活きてるかどうかだなと考えさせられた。これは何度も話してきたことだけれど、ハルキはたとえがうまいという評判なんだが、私はそれを実感したことがない。けど、アダムスは格別だ。外国語の作品だからそこに加わる翻訳者の理解や技術も当然加味される。つまり、日本語でアダムスの作品を読んで比ゆがうまいと感じられるのは半分は翻訳者の仕事の成果なんだと思う。アダムスのたとえはハルキみたいにひねったところがなくていい。実にストレートだが、それでつまらないというところがないのがすごい。例えば、アーサーが面食らって呆然としているのを、
 「五年間ずっと自分は盲目だと思って生きてきたのに、ただ大きすぎる帽子をかぶっていただけだと急に気がついた人のように。」
 とこの人は書く。この人は現実主義なんだろうな。だから文学的なまどろっこしい、掴みどころのない、漠然とした表現はしないんだろう。
 「また引っくり返してみた。みごとな品だった。精緻な品だった。しかし金魚鉢だった。」
 とかね。私はこの作品が世界に据えているSFという大前提とは矛盾した、事実だけを淡々と積み重ねた表現が好きだった。効果的だったというべきだろうか。

 特に今回の話が活き活きして感じられたのは、アーサーが、実際にはアダムスのようだけど、恋をしているからだろうと思う。だから表紙がハートなのね。「レストラン」のアヒルはよく意味が分からないけど。アヒルの宇宙船が出てくるわけじゃないし。しかしその恋してる様子が、それこそ子供じみてて。
 「名前のついていることもついてないこともみんな彼女と二人でやりたかった。」
 とか言わしめるにいたってはこっちが赤面してしまうくらいだよ。あんたいくつ?地球が強制排除されるところを文字通り命からがら抜け出して、宇宙をさまようようになって8年。当時30歳と当の本人が語っているところからすると38じゃん。いいおっさんが子供並みの心理描写しか出来ないほど全面降伏的に恋に落ちている。その様子は冷静になって考えてみればかなりかっこ悪い。かなりかっこ悪いけど、恋してるときはみんな大なり小なりそうなんじゃないかなと思う。つまり大なり小なりかっこ悪いということ。けどね、やっぱりそこまで思われるなんて、幸せな女の人だなぁと思って正直うらやましかった。こんなに愛情深いアダムスが50そこそこで死んでしまったことを考えると奥さんの喪失感はさぞ大きかったろうと思って気の毒だった。

 物語は全般的にアーサーが美しい故郷でのびのびと恋をするということで占められている。けど、その幕間にヒヤッとするほど冷淡な描写の伏線がたびたび登場するのが気になった。アーサーが恋にうつつを抜かしてたるんだ空気を、時々挿入される厳しいけれど現実以外の何ものでもない真実が引き締めにかかる。
 私は真実って、神様に似てて、その人中に宿るものだと思ってる。だから同じ事実でもそれの意図するところ、真実はそれを受け取る、もしくはその事実にかかわったその人それぞれにあると思う。でも、私たちは現実的には集団として生きているわけで、そうなるとそこに集団心理というか、集団が生み出す真実というものが現実として存在する。それれが社会を動かすんだな。簡単に言えば多数決の真理だけど、この場合私がここで借りたい考えは厳密に言うと現象学のことだ。
 現象学では極端な話、雨が降っていて全員が濡れていても、みんなが雨は降っていないといえば雨は降っていないことになる。アーサーや正気のウォンコやフェンチャーチは地球に何があったか自分におきた事実として、またその後の社会のあり方の変化の真実として知っている。けど、残りのみんなはあれは気のせいだったと言い張る。言い張るというか、本当にそう思っているんだよ。そうなったらマイナーの彼らがどれだけ声を荒げてみたところで彼らの真実は気違いのうわ言としか取られない。それはアダムス自身もどう描写している。つまりみんなの信じていることが真実とは限らないと逆説的に訴えているんだな。真実を知っている人間が少なければ少ないほど悲劇の度合いは深まる。あとはその真実が現実世界にとってどれだけ致命的な内容かということによる。そのことを考えるといつも悩ましい。願わくは、そういうことに出くわさないまま死ねたらいいと思う。それは「ガイド」も推奨しているところだ。
 地球がどうしてか今になってちゃっかりしっかり元あったところに、それこそ『最初からずっとここにいましたよ』みたいな顔して存在すると知ったときのアーサーの気持ちを考えるとすごく気の毒だ。地球は美しいし、生きて再びこの美を甘受できるのはうれしいけど、でも、本人も言ってるけど、だったらこの8年間の放浪は一体なんだったんだってことになるじゃない。切ないだろうなぁと思って。だって、元の地球が戻っているわけじゃない。どうして地球がそこにまた現れたのかということについてはついに説明がなされなかったけど、再び現れた地球は何もかも元通りということではなかった。無理やりつぎはぎして再生したものだから当然ひずみが生まれた。それがアーサーの取り戻せない8年間であり、フェンチャーチであり、正気のウォンコなんだな。だから、なんとなくこの話は、恋に浮き足立った話というよりも、メジャーからはじき出されたマイナーな人たちだけが分かり合える世界を描いた寂しい話にも受け取れた。

 最後、唐突にマーヴィンが出てくる。壊れかけたマーヴィンをアーサーとフェンチャーチが何も言わずに両脇から抱きかかえて炎天下を歩き続ける様子には胸を打たれた。どうしてみんなばらばらになってしまったんだろう。どうしてマーヴィンを放って置けたんだろう。どうしてこんな人生になってしまったんだろうと思わせられるラストだった。
 マーヴィンが最後まで変えなかった部品て頭のことかな。どの箇所も50回は取り替えていると言うのを聞いて私は押井守が「イノセンス」で言いたかったことをマーヴィンも言おうとしているんじゃないかと思った。つまり、どこまで生身が残っていたら私は私だと言えるだろうかということ。私はオリジナルだと言い得るかということ。マーヴィンが最後までマーヴィンらしくいたことを考えると、彼は最後まで脳核には手を付けずにいたんじゃないかと思った。

 最後、あとがきで訳者が指摘するように私も度々「書き手が」と出てくるのが気になった。そういう書き方私も好きじゃないし、そんなの今までの作品では出てこなかったし、何しろスタイルが作風と合わない。それ以外にもエピローグのエピソードや、間に挿入されてたフォードがヒッチした宇宙船にいたずらを仕掛ける場面とか、「それ必要か?」と思わせる部分がいくつかあって、それも気になった。あとがきを読む限りではこの作品はやっつけで作ったらしいからページ数を稼ごうと思ったらなんだかよく分からないそいういうエピソードも入れてカサを稼ぐ必要があったのかも。どう贔屓目に見てもどのエピソードも本筋とはまったく関係がない。訳者は照れ隠しといっていたけれど、それだけでない気がする。アダムスは本来脚本家だから、シチュエーションコメディ的などたばたを描くのは得意かもしれないけど、文学的に整然と物語を書ききるには何か才能が欠けている気がする。物語の帳尻を合わせず読者に投げっぱなしにするあたりなんかがその最たる証拠だと思う。何度も言うけどアダムスの放り出し加減はハルキのそれとは比べ物にならないくらい乱暴だ。そこに作家としてのプロ意識の低さを感じる。大体、この作品だって、締め切り2週間くらい前になって描き始めたみたいな作品なんでしょ?プロなら時間管理込みでもっとちゃんとした仕事すると思う。少なくともそれが作品ににじみ出てしまうようなのは恥ずかしいと思う。新聞の連載記事じゃないんだから。

 そんな勢いで書いたせいか、終盤でかなりしんみりするものの、そこまでは当初のスピード感が貫かれていてかろうじて全体を読みやすいようになっていた。しかし、こんな調子でどうして5巻完結の3部作なんて言えるんだろう。だって、それぞれが投げっぱなしすぎて何も終わってないし、続いてさえいないのに。と考えると、5作目を読むのがちょっと心配になってくる4作目だった。


さようなら、いままで魚をありがとう (河出文庫)

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