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「宇宙クリケット大戦争」/ 「若きゼイフォードの安全第一」 [reading]

 この回は駄作というのが定評のようだったから、当初この作品は読むリストに含めてなかったんだけど、マーヴィンとその他もろもろの内輪ネタを理解するために結局買って、開いてみれば言うほど酷い作品ではないというのが私の結論。ましてや真の最終回、5作目を読んでしまった後ではなおさらだ。あれより酷いエンディングなんてありえない。アダムスは死んでその結論を暫定的なものではなく、永遠のものにしてしまった。何度も言うが、全く罪深い奴だ。今から考えてみるとアダムスってあんまり後先考えない奴だったのかもな。これまでにも、例えば「さようなら、今まで魚をありがとう」もそうだけど、その時の個人的な気持ちとか問題によるかなり直接的な影響を作品の上に反映している節があるらしいから。しかしそれだったらそれで、編集側も編集側で止めるなり、変更させるなりできただろうに。

 話がずれたけど。
 どこまで本気かどうかはわからないけど、このシリーズを最初に読んだ時から、アダムスがイギリスのイギリス的なものにある種の執着、それが愛情であって欲しいと個人的には思うのだけれど、があるらしい。クリケットなんてどう控え目に評価したってルールが複雑で見るからに退屈なスポーツを作品の軸に持ってくるなんて、よっぽどこのスポーツが好きじゃなかったら出来ない。これまでの私のアダムスに対する印象が正しければ、やはりこのテーマを個人的に気に入っていて採用したと思うのが自然な気がするね。
 あとがきに親切にもクリケットのルールを説明してくれているんだけど、全然頭に入ってこないんだよね。ただ、作中に出てくる「イギリスのクリケットの終わり」にまつわる話が本当だとするとかなりバイオレントな歴史を背負ってるのね。クリケットって。そうしたらウィケットに火をつけようと思うかな。サッカーで言えばゴールみたいなもんでしょ?あんなに火付けたら大騒ぎじゃん。大体、そんなんに火を付けたいと思わせるような事態が起きてること自体「それってなんなの??」と思った。しかし、本当にすごいのはその後で、そのウィケットの焼け残りを「遺灰」として杯にしまって、以後その「遺灰入り杯」をチャンピオンズカップにするなんて、正直言って「気は確かか?」と思う。と言うか、そこまでさせるどんな確執がオーストラリアとイギリスの間にあったの?しかもクリケットなんてスポーツごときをめぐって。スポーツのフェアネスはどこへ。イギリスの紳士精神はどこへ。その暴力のにおいぷんぷんな歴史を淡々と語るラジオの中継者の言葉に唖然としてしまった。この話は史実に基づいているんだろうか。1883年のクリケットの試合の話なんてネットにあるのかな。そういうの信用してもいいもんだろうか。最近ネットにある情報が疑わしくて。特にWikiみたいな誰でも書き込めるようなやつ。あんなんものによってはどうにも胡散臭くて時には有害にさえ思うよ。

 みんながこの話を嫌うのは、突き詰めればこれが最終話に相応しくないというところに落ちるんだけど、なぜかと言えば、それまでの「ヒッチ」と関係性がほとんどなくなっているからということらしい。それを最終話にしてしまうのはどうかという感想なんだとしたら、実際にはこれは最終話にはならなかったわけだから、そういう意味で後の世代がこれを一つのエピソードとと思って読めばどうかと言うと、「これはこれで結構面白い。少なくとも本当の最終話よりかは」というところに落ち着くんではないだろうか。
 だって、クリキット人の性質とかよく考えられていると思って関心したけどな。特に、歌が好きで、放っておくとすぐにポール・マッカートニー級に鼻につくほど素敵な歌を歌いだしてしまうあたりがかわいらしかった。クリキット人はネズミのように小心で、家庭的な生き物で、だからこそ宇宙の大きさを目の当たりにしてみんなで肩寄せ合ってビビってるって感じだった。けど、ハクターに作られた人種だからね。ただビビってればいいだけで終われなかったのが彼らの不幸だ。というか、彼らがこの世に発生した理由そのものが酷く不幸なものだけれど。その不幸な運命から解放してあげるということがはからずしも今回の冒険の最終的な大義であったような気がする。加えて言うと、宇宙船とか、宇宙規模的に強力な殺人ロボットとかを作れるくせに、移動手段に車とかなんかその類のものを使う頭のないのも好ましかった。とにかくこの根性的にはカタストロフィ級の冷酷さの持ち主のくせに、そのくせネズミの如く小心なクリキット人がとてもチャーミングに描かれてて、アダムスはきっとこういう動物の本能的に純粋な生き物が好きなんだろうなと思った。
 例えばマットレス。マットレスはこの作品中で最も好きなエピソード、このシリーズ中で言っても3本の指に入りそうな勢いで気に入っている話だ。このマットレスは非常に「かわいい」。もうこんな生き物がいたらみんな一家にひとつは生きたマットレスが欲しくなるはず。まあ、バカなんだけどね。でも私にはアダムスやマーヴィンが軽蔑するほど頭の悪い生き物には思えなかった。多分それはマーヴィンよりも感受性に優れているからだろうなとも思うし、なによりある意味自ら進んで何百年も穴にはまったままでいるマーヴィンに「もうはっきりしたことにすれば?」「はっきりしたことにしなよ」と提言できる生き物がこのシリーズ中他にあっただろうか。マットレスとマーヴィンの会話はすごくかわいらしくて何度読んでも飽きなかった。マットレスの前からマーヴィンが唐突に奪い去られてしまった時はあとに残されたマットレスのことを思ったら胸が痛んだくらいだった。このあきれるほど素直で、世間知らずで、いちいちマーヴィンの言うことに興奮するマットレスが私にはかわいくてしょうがかなった。ちなみに、マットレスには目がある。それも大きいのが。きっとマットレスに寝た時に横についてる空気穴が生きてる時は目だったんだろうな。
 シリーズ通して振り返ってみると、アダムスはこういうチャーミングな第三者的なキャラクター(救いがたく無知で無教養だけどそれ故に無害で心優しい外野)を描くのが得意だったような気がする。直接話の筋に触れるような第二者的なキャラクターにはかなり癖を持たせるけれど、直接筋に絡まない第三者には物語のギャラリーって位置をあてがっていたように思う。

 【今日の難しい熟語】 
 「擲弾(てきだん)」: 手で投げたり、小銃で発射したりする近接戦闘用の小型爆弾
 「不撓不屈(ふとうふくつ)」: どんな困難に出合ってもひるまずくじけないこと
 「揺籃期(ようらんき)」: (1)幼少期。幼児期 (2)物事の発達の初めの時期
 「兵站線(へいたんせん)」: 戦場と兵站部を結ぶ輸送路線
  ※兵站: 戦場の後方にあって、作戦に必要な物資の補給や整備・連絡などにあたる機関

 アーサーがスタビュロミュラ・ベータに行くまでは死なないという黙示録の元はこの回にあった。アグラジャックの「この、連続おれ殺しめ!」と言うセリフが気に入った。ここで描かれているのは完全なパロディと言うか、コメディだけれど、普通に考えたらアグラジャックの背負った運命はあまりにも残酷で、それ故に普通の人間だったらいっそ気が狂ってしまうか、運命に抗うために自殺をすか、とにかく彼の辿るどの人生においても最終的には自己破壊的な行動に出るよなということは想像に難くないんだけど、「でもどうせこれはお話だから」と、超現実的になんだか超非現実的になんだか、とにかくそう思いさえすれば、このコメディが孕むおぞましい運命を真に受けて気に病むことはないと自分に言い聞かせるにあたって、ふと、「ああ、これがSEPフィールドなのかもな」と気がついた。
 あとサブキャラで無限引き延ばされワウバッガーって言うのが出てくるんだけど、これもフォード並にひねくれてていけすかない生き物だった。生き物って年取るとみんなああなるのかもしれない。一人暮らしのじじばばが頑固で人になつかない様子で描かれるのはよくあることだと思うんだけど。やたら被害妄想が強くて、それ故に自分の不幸を他人に押し付けるみたいな。それに似てるのかもな。フォードだって実際には何百年て生きてるみたいだし。
 フォードはものすごいひねくれてて、嫌な奴で、四六時中アーサーの天然な様を侮辱してるのに、それでいてアーサーから離れないのはなぜなんだろう。一緒にいれば気分が悪くなるということは分かっているはずなのに、というのが下記の表現でよくわかる。
 「フォードは不機嫌な顔の練習をしていて、しかもかなり上達している最中だった」
 そこまで不愉快な思いをさせられるとわかってるくせに、それでいていっつもフォードから向かってアーサーに会いに来る。変なの。変だけど、私にはちょっとわかる気もする。鴻上尚史だったと思うんだけど、一番愛している人が同時に最も苦しめる人なんだって。なるほど。それなら私にもよくわかる。その好意の大きさゆえに、気持ちが反対側にぶれた時の反動もそれだけ大きいってことだよ。その理論でいえば、この不条理さは納得できる。私はこの決して同じ地平に落り立つことはない二人の、それでいて改めて言葉にするんでは説明が付かない様な深い結びつき方をした友情をとても羨ましく思った。だって肝心な時にいつもそこにいるんだよ。アーサーはフォードのことをそこにいるといつも不幸を呼び寄せる呪いかなにかと思っているみたいだったけれど。でも二人でなければ潜り抜けて来れなかったものを二人で潜り抜けてきた訳だから、これ以上の友人てお互いに望めなかったんじゃないかと思う。実際にお互い以上の友人て出来なかったわけだしね。

 この回のいいところはマーヴィンが活躍するところ。それもクライマックスで。しかもあろうことか、それがゼイフォードによって褒められる。これは特筆すべきことだ。マーヴィンは4作目でかなり歪んだ時間の中をゼイフォード達のせいで生きてこなきゃいけなかったことが分るんだけど、非常に珍しいことに、その一端を彼が自らの口からマットレスに話して聞かせる場面がある。大きな眼をしたマットレスに。あの辺とかも読んでてウキウキしてしまった。私、相当マーヴィンが好きなんだなということにその時点で気がついた。なんでマーヴィン殺したかな、アダムス。マーヴィンは、アーサーの対極に位置こそすれ、この作品の双璧をなす良心でもあったと思うのに。
 アーサーもこの回ではマーヴィンに負けてなかった。節々でその場を引き締めるようなヒーローになってた。その身のこなしは一見かっこ悪いようでいて、結果的にかっこよくなってしまっているのがアーサーらしくなくてちょっと変だったと言えばそうだけど。まあ彼にもそういう他人の視線的にもかっこよくて重要と思われる場面があってよかったなと思うことにした。
 しかし、最終的にクリキットとの和平を結ぶのはトリリアンだった。それがどうにも鼻持ちならん。私は最初からこの女の子は宇宙とかいうファジイなものにあこがれている割には超物質主義的で、視野が狭くて、頭が固くて、自己顕示欲が強くて、最悪なことに自分勝手な性格に思えてどうしても好きになれなかった。のが、説教臭くも、実際にクリキット人、のみならずハクターにまで説教を垂れて改心させるという「んなアホな」というオチだった。
 ハクターの辞世の科白は本当に印象的だった。不死が、そうでなくても長生きが幸せであるとは思えない。「元気なら長生きも楽しいと思うよ」と言う友達もいるけれど。結局そういう条件がなかったら長生きしたいとは思わないということだよね。

 最後はそれまでの本筋とはまったく関係のないエピローグが2度3度続くといった印象だった。話は別の場所を転々として終わる。しかものおまけの話が、この本の原題に触れる内容なのだから面食らってしまう。作品の大部分をクリキットに割いておきながらタイトルへの核心には最後の十数ページでしか語られない。そして4巻目に引き継がれる。んだけど、その引き継がれ方も4巻目のクライマックスになってだ。話の引き継がれ方がどうにもちぐはぐな気がする。それまで散々テーマの核心とは関係のないところばかりを掘り下げていたのを突然次の展開に煮詰まっていたら、そんなのもあったねと思い出したかのように出てくるのがいかにも気になった。まあここまで読み重ねてくるとその行き当たりばったりな感じがアダムスらしいとも思えるようになった。この人はきっと考えなしに、思いつきと勢いだけで物語を書いてるんだろうな。
 生命と宇宙、その他もろもろへの回答は拍子抜けしてしまうほどかなり肩透かしな内容だった。はっきり言ってがっかりすると言ってもいい。だってそれはただの詭弁だし詐欺みたいだ。問いと答えが同じ宇宙に存在できないなんて。だったらディープソートは究極の問いを得るために地球と対になる銀河系をもう一つ別に用意したはずだ。アダムスってほんとかなり抜けている。この訳者に散々突っ込まれていることではあるけれど、きっとそういうボロは私の気が付かない個所にも山ほどあるんだろうな。特にピコった話だと、私にその真偽はわからないから。

 とにかく、この作品は珍しくハッピーエンディングで終わる。ハクターは永らくの望み通り無に還り、クリキットは恐怖から解放され、だから宇宙は滅びることはない。この作品を書いた時点では並行宇宙というのが考慮されていなかったためか、アーサーは地球に戻れない。その概念に気付いていたら戻れたかもしれないのに、あくまで本人は2日後には自分が見たのと同じ運命をたどる同じ地球だと思い込んでいるので地球に残らない。もしも自分が見てきた地球とは別の確立軸上にある地球だったら、しかもその可能性は大なのにもかかわらず、アーサーは再び地球での生活取り戻せたかもしれないのに。
 いずれにしろアーサーは再び故郷が破壊される場面を見るには堪えないということで、鳥が「さえずりかわし」、「その土地について思うところを歌う」場所にとどまることを選ぶ。この時は。

 とうとう全巻読み終えた。「ヒッチ」は時間と空間と確立を捻じ曲げて潜り抜けるお話だ。それをこんな風にはからずしも順番を入れ替えて読んでこれたことは、かなり前後のストーリーのつなぎ方に困惑するはめにはなったけれども、でもそれこそこの物語を読む上で最も相応しい方法だったのではないかと思って一人ごちになった。

 鳥って「さえずり」、「その土地について思うところを歌うもの」なんだな。


「若きゼイフォードの安全第一」
 これは…なくても良かったな。「ヒッチ」ファンは今回初翻訳されたこの作品をやたらありがたがってるみたいだけど、私はこの話は話と言うにも未熟にすぎないかという印象しか残らなかった。残りカスと言うか。そうでなくてもアダムスって私の知りうる限り物語の終わり方がへったくそな作家として3本の指に入るんだよね。それくらい強引な終わり方を平気でする。最初は勢いがあってテンポがあって、「快調、快調」と思って読んでいるんだけど途中から失速して、最後はズドンと落とされるというか、照明を落とされるというか、そういう終わり方をする。なんだろなぁ。
 アダムスはというか、モンティパイソンもなんだけど、以外にも政治批判的な活動に加担していたらしくてこの作品はその一端として書かれたものだという。この版は、後日その露骨に政治批判的な部分を修正されたものを翻訳にあてたらしい。なぜ修正しなきゃいけなかったんだろう。ちなみに修正された部分は、レーガンなんだけど。
 うーん、例えばさあ、手塚治の作品とかだと当時からの差別的な表現をそのまま今に残しているわけじゃない?映画とかでもここ最近は作品の芸術性のためとかなんとか言って、作品で触れられる差別的な表現を保護するようになっている。なぜ今回その流れを汲まなかったんだろう。そう言えば夏目漱石でも伏字を使われている当時だか後世だかの差別表現があった。今はもういいんじゃないの?と思えて仕方がない。小説だって芸術じゃん。文壇ってそう言うのにまだ抵抗の強い世界なのかな。なんかすっきりしないな。


*** エピローグ ***

 このシリーズを読み始めるきっかけになったのは、「ヒッチ」とは全く関係のないレンタルDVDだった。レンタルだったから予告が入ってて、「ヒッチ」はその中の一つだった。借りたのは「ライフ・アクアティック」だったかな。何を借りた時に入っていたのかはちょっと記憶が定かではないけれど。
 私の住んでる町にはレンタル屋さんがないので、私にとってDVDを借りて観るのはかなり特別な機会だ。そう言う機会をくれた人に少し感謝してる。本当はそんなこと思う必要はないのかもしれないけど、でも、その時観た映画は少なくともその人にとってはつまらない作品だったと思うんだよね。けど、そのつまらない映画に付き合ってくれたおかげで、「ヒッチ」のDVDを買おうと思ったわけだし。そしてそれこそがここに至るまでの始まりになったわけだから。
 だから、いつかその人にこの面白さが少しでも伝わる時がくればいいなと思う。それがどんな機会であれ。


宇宙クリケット大戦争 (河出文庫)

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「銀河ヒッチハイク・ガイド」 [reading]

 なぜ結局全巻読むことにしたかというと、5巻目のあとがきにあの最後がどうしても世間一般に認められずBBCが独自のエンディングを創作してラジオ番組を作ったらしいんだけど、その時復活させられたマーヴィンの言葉に「今では私も自分のバケツを持っているのです」と言って安原和見の涙を誘ったという。
 うむ。
 これまで「ヒッチ」を読んでてもどうやらそれ以前のネタに引きずられているエピソードが多々あって、まあ大体想像はついたし、大勢に影響はなかったからあまり気にしないようにと思っていたのだけれど、マーヴィンは好きだったからもうちょっと掘り下げてみることにした。すぐ読みたかったので送料がかかるのに残りの2冊だけをAmazonで買って届いた日にすぐ読み始めた。

 結論から言うと、せっかく「バケツ」の意味を求めてわざわざ映画で見た部分も読んでみようと思い立ったのに、しかし、「バケツ」の指すところはわからなかった。誰がバケツの話なんか持ち出したんだろう。バケツのエピソードなんてどこにも出てこなかったと思うんだけどな。ガッカリや。和見めー。
 1巻目だけ河出文庫のキャンペーン帯が付いてた。装丁の最後についている河出文庫の出品一覧みたいのを見る限り河出文庫ってSFものばっか扱ってるのね。ふーん。そう言うとこもあるのかー。

 中身は驚くほど映画と変わらない。寸分違わないと言っても過言ではないくらいまんまだった。まあ、もともと脚本から起してるんだから当たり前かと言えば当たり前なんだろうけど。それにしてもセリフの一言一句がそのままなんでちょっと面食らったのよ。
 でも、トリリアンの発生は結構唐突だ。映画みたいにちゃんと紹介的な登場をしない。出会いの場面の描写がないのよ。気がついたらもうゼイフォードと一緒なんだもん。だからアーサーがなぜトリリアンにそんなに執着するのかが分かりにくいので、トリリアンがなぜにヒロインの位置を占めているのかということは理屈としては伝わってこない。幕が開けたら既にそこにいたものだから。

 映画を見てて気になってたことがあるんだけど、フォードの出身の星の名前がベテルギウスってスーパーに出るんだけど、どう聞いても「ビートルジュース」って言ってるように聞こえる。うーんと思っていたらば、本の中でベテルギウスの横に「ビートルジュース」ってルビが振ってある。それを読んで私はほっとした。よかった。ビートルジュースで正しかったんだわ。あとがきに書いてあったんだと思うんだけど、ベテルギウスはギリシャ語読みで、英語だとビートルジュースなんだって。なるほどね。そっか。
 そうそう、「ヒッチ」では宇宙はその意味を真に理解する6人によって運営されているというエピソードが「宇宙の果てのレストラン」にも出てくるんだけど、それがもう1巻目に出てきてるんだけど、その6人て言うのがなんなのか、誰なのか、結局それも分らずじまいだった。

 今日の難しい熟語:「僥倖(ギョウコウ)」
             (1)思いがけない幸運。
             (2)幸運を待つこと。

 今日のひらがな表現:「逃亡しているさいちゅうなんだし、」

 「最中」を「もなか」と読まれるのを嫌ったのか。

 映画に出てこなかったエピソードで私が気に入ったのは最後アーサーがハツカネズミと対峙する場面で、ネズミが当時を回想する場面に哲学者が出てくるんだけど、それが面白かった。この宇宙観にはたびたび神様の話が出てくる。信仰というか。どうして宇宙ができたかという話になればそれは切っても切れないネタのようで。はじめに神様がいて、神様が創ったとか、いやそうではなく、最初にある特定の生き物がいてそいつのくしゃみで鼻から出てきたものが今の宇宙だからそのうちハンカチで拭き取られてしまうという、もうどうでもいいよと言いたくなる信仰もあったりする。またバベル魚みたいに「気が遠くなるほどお役立ちなもの」が実際することに神の不在を疑ってみたりする。
 まあつまり何が言いたいかと言うと、宇宙というものを考えるとき、なぜか神様を切り離して考えれないということ自明の理があるようなんだけど、それが私としてはうまく理解できないということだ。これは「コンタクト」と見た時からよく思っていたんだけれど、神というあくまで信仰がなぜ宇宙というあくまで物理的な空間に干渉してくるのか。で、思ったのは、多分私にこの問題が理解できないのはひとえに私に信仰がないからだろうなということ。「コンタクト」は科学と信仰の2つの深い溝を、溝と言うかそれこそ別の宇宙に住んでそうな概念を見事にパッチワークしてみせた。この一見性質の全く異なる2人を、取り敢えず「他人に見せられる証拠のないことを信じること」という地平に立たせてみるという試みが「コンタクト」っていう作品だったように思う。カール・セーガンはどんなことを考えながら星を見てたんだろうなぁ。この人はクリスチャンだったんだろうか。もしも私がNASAとかで働く人に話を聞く機会ができたら、自分の仕事と信仰にどう折り合いをつけているのか聞いてみたい。彼らは遠い惑星の発生や消滅に創造主の存在を感じるのかな。

 本を読んでて気がついたもう一つ。本では大きな特徴なのに悲しいかな映画では表現しきれていないものがある。それは「皮肉」だ。安原和美の訳す皮肉は本当に面白い。そう言えば、中学生のころだったか、高校生のころだったか、イギリスが皮肉を好む国だって教わったような気もする。雨が降って、皮肉が好きで、鬱々としている。みたいな感じ。安原和美の訳す皮肉には何度となく吹き出してしまった。マグラシアに無理くり降りて行こうとするときの自動応答メッセージの皮肉は映画ではすくいきれてない。「わたくしどもに揺るぎないご関心をお持ちのご様子、まことに感謝に堪えません」て、英語でなんて言ってんの?ここまで言わしめてんのは絶対安原のセンスだと思うんだけど。

 最後にアーサーが「ぼくとぼくの生き方はぜんぜんそりが合っていないように思う」とスラーティバートファーストにこぼすのを聞いて、思わず『私も…』と心の中で呟きそうになってしまったが、よくよく考えてみればアーサーほどではないと思い直して、言葉を喉元辺りで飲み込んでおいた。
 バベル魚のエピソードはDVDのおまけに入ってるし、アーサーのこの最後の発言が別の宇宙で戦争を引き起こすというカオス論は映画のエンドロールをシナトラ風の「さようなら、いつも魚をありがとう」を聞きながら辛抱強く待っていると見れる。
 私らみたいな宇宙の規模から比べたら最小単位にもみたいないような存在には、「それで世はすべて事もなし」(お前らの知らんところですべては始まっててすでに終わっている)風なエピソードで締めくくってもらえると、今日という日を心安らかに眠れるわけだな。


銀河ヒッチハイク・ガイド (河出文庫)


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「ほとんど無害」 [reading]

 なるほどスポーツクラブでランニング中に心臓発作で亡くなったという死に方はこの物語の作者にとって相応しい最期だったかもと思った。物語は突然に終わる。スイッチを切れられるみたいに。訳者も言ってるけど、通説では「ヒッチハイク・ガイド」シリーズ史上もっとも出来の悪いのは3作目だと言われているようだが、私はこのエンディングに比べたらこれよりひどいのは書けそうもない気がするんだけど。
 とにかくそんな風にして、信じられない気持で唖然としながら、これは誇張表現でもなんでもなく、続きのページを探してしまうような終わり方だった。

 5次元目って何だか知ってる?私は知らない。知らなかったというか。4次元目ってふつう時間のことを言うと思うんだけど、それだってちゃんと理解しているわけじゃないし、大抵の男の子は私にそういうファジーな不確定要素を話題に持ち出されると、なんか否定的で説教じみた反論を展開させるので、それ以上の次元についてはついぞ考えたこともなかったというか、あると思ったこともなかったんだけど、「ヒッチ」によればそれは「確立」だ。
 並行宇宙っていうのがあるよね。スーパーナチュラルな表現を借りると「ドッペルゲンガー」ってあるじゃない?あれがこれに相当するんじゃないかと思うんだよね。そう言えば、この前萩尾の新作をやっと買って、その中に「ドッペルゲンガー」を別の確立の上に存在する世界の表れと捉えた作品があったなということをこれ書いていて思い出す。ふむふむ。萩尾はかようにして私が子供の頃からこの多彩な様相を持つ世界の一面を理解させる一助となっている。こんなにイマジネーションに溢れてて、それでいて現実の学問に勤勉という貴重な漫画家をもっと世間は評価してしかるべきだと思うんだけどな。萩尾がいなかったら、私は私というこのちょっと人には理解されにくい人間を、なんとか世界と折り合いをつけてこの地上に繋ぎ止めておくのは難しかっただろうなと思う。
 話が逸れたけど、つまり、生きるって、寸分の隙のない選択の連続だと思うんだよね。けど、そのいちいち細かい選択の結果が積み重なって「現在」を具現化しているわけよ。だからよく、『もしもあの時ああしてなかったら…』的な表現とか後悔とかするじゃない?その『ああしてなかった』場合の方向に延びた人生が別世界として存在してるっていうのが「並行宇宙」。簡単に言うとそういうこと。かな。だから、私の人生を例にとって言えば、私が今知覚出来てるこの現実以外に、それまでにあった選択の分岐点における選択肢の数だけ「私の人生」が同時に存在していると考えるわけよ。具体的に言ってみると、あの時ああしてなかったら、もしくはしてたら、私は今結婚して、離婚した後で、2児の母かもしれないし、単に未婚の母かもしれないし、イギリスに住んでるかもしれないし、あるいはもうとっくに死んでいるかもしれない。そうなる理由はごまんとあるよね?とまあそういうことだね。
 「ヒッチ」の最終話はその5次元目と「終焉の予感」がテーマだったように思う。この話は、最初から最後まで終末の予感が付きまといっぱなしだ。何度その表現が出てきたことか。そのしつこさはアダムス自身の終わり方の予言だったのかと思わせるほどだった。アーサーは愛する女性を失い、途方に暮れて、本能的に安住の地を求める。辛く孤独で痛ましい長旅の末に手に入れた安息の地に突然訪れる個人的な災い。決定的に不可避的な不幸のにおいをアーサーはこれまでの経験から感じ取る。全く身に覚えのない娘の出現に、この安息の日々の終わりを感じ、次にはその娘自体も失うであろう予感に悩まされる。そして、宇宙を股にかけた数々の大冒険の経験から自分が死ぬ時を知っていて、それ故に今はまだその時ではないと常に自分に言い聞かせている。つまり、アーサーは死に時を知ってしまったが故に逆にどうしようもなくその行動のすべてを死に絡め取られてまっている。これは皮肉なことだ。運命を知っているが故に自暴自棄になってしまうんだから。まあでも、巡る方向が悪いってだけで、より必死に生きてるってことには変わりはないかな。

 最初に「ヒッチ」を読んでからずっと気になっていたんだけど、トリリアンはこのスペースオペラの唯一のヒロインでありながらその実どうしようもなくつまんない女にしか私には映らない。映画のトリリアンはとんでもなくマテリアルで(物質主義だと言いたい)軽薄な女の子だけど、この最終話の冒頭に出てくるトリリアンもまさにそんな感じの子で私をうんざりさせた。
 トリリアンは自分のしたことしなかったことをいちいち後悔して生きている。アホか。もうこういう人間に付ける薬はないなとあきれてしまう。なんでアダムスはこんなんをヒロインにしたんだろう。
 アダムスの描く別の確立軸上に存在する地球では、地球はハイパースペースを作るために破壊されずに存在し続け、トリリアンはゼイフォードの船に乗り損ねてて、それが故に天文学者だか物理学者だかでいることに絶望してアナウンサーになってるんだけど、その気持ちははまるで理解できない。次のコンタクトを待ったらいいじゃんか。大体宇宙人に会うことに憧れててそれを職業にしたいんだったらSETIにでもなればよかったんだよ。ケッサクなのが、緑色の宇宙人に(なんで外人の言う宇宙人て緑色なんだろう)第十惑星に連れて行かれる話。「ヒッチ」のなかで第十惑星はルパートって言うんだけど、うんざりするほどマテリアルなトリリアンに相応しく、通販ショッピングとジャンクフードとケーブルTVをこよなく愛す究極的にマテリアルな宇宙人だった。トリリアンは「こんなんじゃ絶対に誰も信じてくれない」と悲嘆にくれる。そこがまた私には理解できない。そのまま話したらいいじゃんか。実際はそんなもんだったって。もしくはそんなら自分ひとりの胸にしまっておいたっていい。それで地球が消えてなくなるわけじゃなし。信じてもらえないと地球がなくなっちゃうんだって言うならまだしも。ちいせえ女だなぁと思ってつくづく呆れた。
 ここ読んで感心したのは、第十惑星っていつからその存在を話されてたんだろうなぁってこと。アダムスはセドナが見つかったニュースを知ったらなんて思っただろう。第十惑星が発見されたと仮定してここに書かれた現象は実際に起きたわけだし。つまり、占い師たちは星が増えたから今度からセドナも考慮に入れて占わなきゃいけないという。「じゃ、それまでの占星術ってなんだったの?」って話。けど、今ちょっと見たらセドナは将来的には冥王星の準惑星(衛星と同じなのかな、土星の月とか4つくらいあるよね?)って扱いになるらしい。だから独立した惑星ではなくなるんだよ。エリスと一緒。読んだら、今時点ではエリスの方がセドナよりも太陽から離れた位置にあるらしい。公転の軌道の問題なんだろうけど。なんか、占星術って……と思うよねえ普通。

 この作のフォードには「ヒッチ」の当時からの読者にはなかなか受け入れがたいものがあるみたい。訳者も大森望もそう言っている。確かにフォードがエルヴィスにあんなに執着するのはどうかと思ったけど。でも、それ以外は、特にガイド本社に潜り込んで一悶着起こすとこなんかはかっこよかったけどな。二度目に窓の外に飛び出した時なんかは軽く感動さえした。それに多幸症のロボットなんかは私の全「ヒッチ」を通してもお気に入りエピソードの一つだけど。

 この訳者はすごい。この手の作品を訳させるにずば抜けてセンスがいい。よっぽど作品を、作者の精神を理解しているんだろうと思う。そしてなによりちゃんと翻訳するところがいい。これは前にも話したけど。安易にカタカナに置き換えないことろが好ましい。「ディープ・ソート」を「深慮遠謀」って訳すくらいだから。「汎宇宙ガラガラドッカン」とか。後者の方は、映画見ててわかったんだけど多分言語の表現の方にうがい薬の意味合いが含まれているんだと思う。映画の字幕には「うがい薬爆弾」って表現があったから。しかしそれを直接的に訳さずに「ガラガラドッカン」とその語彙の指す行為を表現に持っていったこの人のセンスに脱帽する。うむむ。すごいぞ安原和見。
 が、このシリーズを通して読んでてこの人の仕事で1点気になるところが。結構難しい熟語を平気で使うんだよね。「無謬(ムビュウ)」とか読める?意味わかる?「推敲(スイコウ)」とかさ。常用しない熟語表現が結構出てくる。つまり、だけど、安原自身はそれを理解してるってことよね。たぶんある程度英語の表現としてもそういう堅苦しいものが使われているんだろうなという推測はできる。出なきゃわざわざこんなスペースオペラにそんな画数の多い漢字の出番がそうそう必要になるとは思えない。で、逆の面もあって、すごい単純な言葉をひらがなで表記してたりしてちょっとバランスが崩れてる時がある。どっちかって言うとそっちのほうがすごい気になった。例えば「じたい」ってことば。おそらくitselfなんだろうけど。「テクノロジーじたいに対する勝利であると同時に……」。なぜ「自体」って使わないんだ?なんか変じゃない?少なくとも私は読みづらくて躓いちゃったよ。わざわざひらがなの表現を選んでるんだよねえ。多分。

 私は、アーサーはとっぽいけど、誠実な人だから、この自分勝手で超マテリアル主義なトリリアンに翻弄されて「どこも変でないけもの」たちの住む土地を去らなければならないのが気の毒だった。というかただ単に私はアーサーが最後に暮らしたあの星が好きだった。とてもシンプルな生活をしててみんなおおむね友好的に暮らしている。「コンタクト」で元神父が言うようにテクノロジーが人を幸せにすることなんてないのかもしれないと、この本を読んでて思った。テクノロジーは人の暮らしをただ単にややこしくするだけだ。ややこしいからその管理自体をテクノロジーに任せるというバカなことになっている。アーサーのlast resortはすごい原始的な土地だったけれど平和があって友好がある。それ以上に人が求めるものってないんじゃないかな。多分、アダムズ自身、アーサーが最後に訪れた星や、そのあとにちょい寄りした世界にフロンティア的な幻想を投影しているんだろうと思う。アダムスの自然に対する愛着はかなり簡単に、直接的に読み取ることができる。直接的に「ガイド」に語らせることもあれば、バッファローの大移動を彷彿とさせる描写に託すこともある。「甘くかぐわしい空気」なんてそうそうないし、相当田舎に行かなかったらお目にかかれない。私はそれを経験として知っている。アダムスの自然に対する羨望や憧れみたいなものは本当に手に取るようにわかる。何巻目かのあとがきに彼が晩年動物保護の活動もしていたというのを読んだ時は既に特に驚くべきことでもなかった。

 なんだってアーサーを抹殺しようと思ったのか分らない。この作品自体お金に困って書いたというくらいだから「ヒッチ」は彼の生活的にそう簡単に始末してしまっていいタイプのものではなかったはずだと思う。また、執筆中は「個人的につらいことの重なった時期だったこともあり」とかなんとかって言い訳があとがきにも書いてあったけれど具体的な内容については触れられていない。父親が亡くなったとかだったかな。支離滅裂でかなり出来の悪い娘「ランダム」は自分と子供関係を表しているのかなと勘繰りたくなるくらい、これほど不幸な関係をわざわざ書き残す理由が理解し難い。アーサーの時計が壊されてしまう場面は胸が痛かった。

 すべてが消えてなくなった瞬間、なんだか長い間悪い夢をずっと見せられていたような気がした。虚無感て言うのかな。アーサーやフォードが潜り抜けてきたあれやこれや、手に入れてはことごとく失ってきたあれやこれやもすべてが虚構だったように思えて(というこの表現はおかしいな)、『こいつ(アダムスのこと)は血も涙もねーんだな』と、茫然として本を閉じた。

 そのあと大森望の解説を読んでアダムズがどのようにして死んだかを知った。そして、死ぬ前にこの5作目はひどかった、いつか書き直そうと後悔していたことも。私はそれを知って満足だった。アダムスが後悔してそれを果たせなかったことを。「ヒッチ」の呪いだ。アーサーたちのように終末の予感に対する漠然とした焦りと、もう何も取り戻せないという後悔と、さらに今持っているものでさえ失うしかないという絶望の中で死んでいったなら、きっとフォードたちも満足だろうと思った。
 存在の発生と消滅に情なんかない。分かってはいるけど、少なくともアダムスにはそれをコントロールできるものがあった。それをないがしろにしたこれは罰だ。きっと。

 大森望の解説は面白いよ。普通に仕事の愚痴が書いてあったりして。愚痴って言うかこの人の場合はもうある程度発言に責任のある立場だから「批判」と言った方が正しいか。それにしても実際活字にして残すくらいなんだから、というか出版してしまうくらいなんだから相当根に持ってんだなと思った。ただ、この人の精神状態がいつも高めのテンションに位置していることを考えると、それが単に短気のなせる業なのか、それとも純粋に仕事に情熱的なのか測りかねるけど。大森も安原もそうだけど、ほんとに本の虫なのね。若い時は相当変わり者扱いされたろうになぁ。モンティパイソンが好きなんてなかなか言えないよね。『すげーバカがいる』と思われるだけじゃん。とか、イギリスのSFが好きですとか。完全に頭おかしいよね。現在生きてるどの世代の10代、20代頃の話だったとしても。
 大森望はもうけっこうおじさんなんだろうなとは思っていたから、実年齢を知っても驚きはしなかったけど、それにしてもやっぱり感覚が若いなぁと思って逆に惚れ直したというか。
 書いてる彼らは、やたらと本国ではとかアメリカでもとか、いかにもこの「ヒッチ」シリーズが世界の誰とでも通じる人気作みたいなこと言ってるけど、「やっぱりこれってカルト作品なんだな」ということに5巻目にしてやっと気がついたあとがき&解説だった。


ほとんど無害 (河出文庫)


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「さようなら、いままで魚をありがとう」 [reading]

 なーんて楽しいお話なんだろう。オチのないおとぎ話と思って読めば、どこへも連れて行かないファンタジーだと思えば、この一連の話は「ほとんど無害」だ。「無益」という言い方をする人もいるかもしれない。

 こうしてシリーズを一つ一つ読んでみると、映画版は本当に惚れ惚れするくらいこの「ヒッチハイク」シリーズの真髄を入念に織り込んだ完成度の高い作品だということに気がつく。今回のシリーズのタイトルは映画版のオープニングテーマになっている。それこそミュージカル調に華々しくアレンジされて。ひょっとしたら舞台版でも使われているのかもしれないね。きっとこの「ヒッチハイク」シリーズはそういう風にして連綿とその時代時代で楽しんできた人が最終的には一番楽しめるようになっているんじゃないかと思う。年功序列に手厚いサービスが受けられる。それがいいことだなんて思ったのは初めてだな。ファンはうれしいだろうね。層を重ねるようにして作品を楽しんで読み進められるというのは。人気があるって作家にとっては幸運なことだと思ったのもこの作品が初めて。同じテーマを何度も繰り返し扱うってことは、表現が洗練されていくことに他ならない。けどね、それってよっぽどの理由がない限り飽きられちゃうと思うんだよね。読者はプロットを先回りするだろうし、そうなるとオチも掴まれちゃう。同じテーマは扱っても別の話になっていなきゃ読み手の興味は惹きつけていられない。だからこそ、同じテーマに何度も挑戦して読者に許されるってことが、許されるほど愛されてるって言うのがすごいなと思う。ハルキなんかはその最たる例なんだろうな。

 この作品で気がついたんだけど、この本自身がガイドになんだ。イギリスの。アーサーはこの野蛮とも取れるスペースオペラの主役に据えるにはちょっとナイーブ過ぎないかと思うくらい慎ましく、控えめで、こんな非常識な宇宙の只中に放り出されてなお正気を保ちつつ、無駄に正義感なんかもあったりする。そして私が思うアーサーの最大の美徳はその感受性だ。アーサーはごくありふれたという意味でアンチヒーローの小市民だ。自分の生活を守る程度の力しか持たない非力な動物だ。そう考えると、映画のアーサーの凡庸さはアダムスの意図に近かったんじゃないかなと思う。だけど、そんな小さな生き物の心が感じるささやかな幸せを、ほんとに、意外なまでに、うまく表現させている。アダムスはアーサーに代弁させる。イギリスの自然の美しさも、その美しさが無言のうちに要求する不便も、すばらしい文化やそうでない文化も、この作者は愛情を持って描写する。あんなに乱暴な書き方だって、その愛情が、愛着がちゃんと読み手に伝わってくるから不思議だ。雨が好き。公園が好き。アダムスは紅茶だけじゃなくてサンドウィッチも好きみたいね。最初、サンドウィッチは人が一週間の罪滅ぼしの為に口にする食べ物だみたいに言うから、てっきり自国のパブで供されるサンドウィッチのまずさを憎んでるのかと思ったけれど、後述の内容で自分で作る分にはそうでもないのかもと思えた。なぜならアーサーがサンドウィッチを自分で作って食べるから。けど、なにを挟んで食べるのか描かれていなかったのが残念だったな。参考にしたかったのだけれど。取り敢えずニシンは私が食べないので参考にはならない。
 アダムスの書き方で私が一番感心したのはそのフィジカルな表現。何のひねりもない直接的に過ぎる表現がいかに活き活きとした印象を人に与えるか、物語自体に命を吹き込むか。最近では文学っぽい小難しい表現に慣れてしまっていたけれど、主人公たちが活きていると思わせること、その動きが手に取るように感じられるということが読み手を楽しませるということを改めて思い知らされた。いい作品というのは文学的表現のウマヘタにあるんじゃない。物語が活きてるかどうかだなと考えさせられた。これは何度も話してきたことだけれど、ハルキはたとえがうまいという評判なんだが、私はそれを実感したことがない。けど、アダムスは格別だ。外国語の作品だからそこに加わる翻訳者の理解や技術も当然加味される。つまり、日本語でアダムスの作品を読んで比ゆがうまいと感じられるのは半分は翻訳者の仕事の成果なんだと思う。アダムスのたとえはハルキみたいにひねったところがなくていい。実にストレートだが、それでつまらないというところがないのがすごい。例えば、アーサーが面食らって呆然としているのを、
 「五年間ずっと自分は盲目だと思って生きてきたのに、ただ大きすぎる帽子をかぶっていただけだと急に気がついた人のように。」
 とこの人は書く。この人は現実主義なんだろうな。だから文学的なまどろっこしい、掴みどころのない、漠然とした表現はしないんだろう。
 「また引っくり返してみた。みごとな品だった。精緻な品だった。しかし金魚鉢だった。」
 とかね。私はこの作品が世界に据えているSFという大前提とは矛盾した、事実だけを淡々と積み重ねた表現が好きだった。効果的だったというべきだろうか。

 特に今回の話が活き活きして感じられたのは、アーサーが、実際にはアダムスのようだけど、恋をしているからだろうと思う。だから表紙がハートなのね。「レストラン」のアヒルはよく意味が分からないけど。アヒルの宇宙船が出てくるわけじゃないし。しかしその恋してる様子が、それこそ子供じみてて。
 「名前のついていることもついてないこともみんな彼女と二人でやりたかった。」
 とか言わしめるにいたってはこっちが赤面してしまうくらいだよ。あんたいくつ?地球が強制排除されるところを文字通り命からがら抜け出して、宇宙をさまようようになって8年。当時30歳と当の本人が語っているところからすると38じゃん。いいおっさんが子供並みの心理描写しか出来ないほど全面降伏的に恋に落ちている。その様子は冷静になって考えてみればかなりかっこ悪い。かなりかっこ悪いけど、恋してるときはみんな大なり小なりそうなんじゃないかなと思う。つまり大なり小なりかっこ悪いということ。けどね、やっぱりそこまで思われるなんて、幸せな女の人だなぁと思って正直うらやましかった。こんなに愛情深いアダムスが50そこそこで死んでしまったことを考えると奥さんの喪失感はさぞ大きかったろうと思って気の毒だった。

 物語は全般的にアーサーが美しい故郷でのびのびと恋をするということで占められている。けど、その幕間にヒヤッとするほど冷淡な描写の伏線がたびたび登場するのが気になった。アーサーが恋にうつつを抜かしてたるんだ空気を、時々挿入される厳しいけれど現実以外の何ものでもない真実が引き締めにかかる。
 私は真実って、神様に似てて、その人中に宿るものだと思ってる。だから同じ事実でもそれの意図するところ、真実はそれを受け取る、もしくはその事実にかかわったその人それぞれにあると思う。でも、私たちは現実的には集団として生きているわけで、そうなるとそこに集団心理というか、集団が生み出す真実というものが現実として存在する。それれが社会を動かすんだな。簡単に言えば多数決の真理だけど、この場合私がここで借りたい考えは厳密に言うと現象学のことだ。
 現象学では極端な話、雨が降っていて全員が濡れていても、みんなが雨は降っていないといえば雨は降っていないことになる。アーサーや正気のウォンコやフェンチャーチは地球に何があったか自分におきた事実として、またその後の社会のあり方の変化の真実として知っている。けど、残りのみんなはあれは気のせいだったと言い張る。言い張るというか、本当にそう思っているんだよ。そうなったらマイナーの彼らがどれだけ声を荒げてみたところで彼らの真実は気違いのうわ言としか取られない。それはアダムス自身もどう描写している。つまりみんなの信じていることが真実とは限らないと逆説的に訴えているんだな。真実を知っている人間が少なければ少ないほど悲劇の度合いは深まる。あとはその真実が現実世界にとってどれだけ致命的な内容かということによる。そのことを考えるといつも悩ましい。願わくは、そういうことに出くわさないまま死ねたらいいと思う。それは「ガイド」も推奨しているところだ。
 地球がどうしてか今になってちゃっかりしっかり元あったところに、それこそ『最初からずっとここにいましたよ』みたいな顔して存在すると知ったときのアーサーの気持ちを考えるとすごく気の毒だ。地球は美しいし、生きて再びこの美を甘受できるのはうれしいけど、でも、本人も言ってるけど、だったらこの8年間の放浪は一体なんだったんだってことになるじゃない。切ないだろうなぁと思って。だって、元の地球が戻っているわけじゃない。どうして地球がそこにまた現れたのかということについてはついに説明がなされなかったけど、再び現れた地球は何もかも元通りということではなかった。無理やりつぎはぎして再生したものだから当然ひずみが生まれた。それがアーサーの取り戻せない8年間であり、フェンチャーチであり、正気のウォンコなんだな。だから、なんとなくこの話は、恋に浮き足立った話というよりも、メジャーからはじき出されたマイナーな人たちだけが分かり合える世界を描いた寂しい話にも受け取れた。

 最後、唐突にマーヴィンが出てくる。壊れかけたマーヴィンをアーサーとフェンチャーチが何も言わずに両脇から抱きかかえて炎天下を歩き続ける様子には胸を打たれた。どうしてみんなばらばらになってしまったんだろう。どうしてマーヴィンを放って置けたんだろう。どうしてこんな人生になってしまったんだろうと思わせられるラストだった。
 マーヴィンが最後まで変えなかった部品て頭のことかな。どの箇所も50回は取り替えていると言うのを聞いて私は押井守が「イノセンス」で言いたかったことをマーヴィンも言おうとしているんじゃないかと思った。つまり、どこまで生身が残っていたら私は私だと言えるだろうかということ。私はオリジナルだと言い得るかということ。マーヴィンが最後までマーヴィンらしくいたことを考えると、彼は最後まで脳核には手を付けずにいたんじゃないかと思った。

 最後、あとがきで訳者が指摘するように私も度々「書き手が」と出てくるのが気になった。そういう書き方私も好きじゃないし、そんなの今までの作品では出てこなかったし、何しろスタイルが作風と合わない。それ以外にもエピローグのエピソードや、間に挿入されてたフォードがヒッチした宇宙船にいたずらを仕掛ける場面とか、「それ必要か?」と思わせる部分がいくつかあって、それも気になった。あとがきを読む限りではこの作品はやっつけで作ったらしいからページ数を稼ごうと思ったらなんだかよく分からないそいういうエピソードも入れてカサを稼ぐ必要があったのかも。どう贔屓目に見てもどのエピソードも本筋とはまったく関係がない。訳者は照れ隠しといっていたけれど、それだけでない気がする。アダムスは本来脚本家だから、シチュエーションコメディ的などたばたを描くのは得意かもしれないけど、文学的に整然と物語を書ききるには何か才能が欠けている気がする。物語の帳尻を合わせず読者に投げっぱなしにするあたりなんかがその最たる証拠だと思う。何度も言うけどアダムスの放り出し加減はハルキのそれとは比べ物にならないくらい乱暴だ。そこに作家としてのプロ意識の低さを感じる。大体、この作品だって、締め切り2週間くらい前になって描き始めたみたいな作品なんでしょ?プロなら時間管理込みでもっとちゃんとした仕事すると思う。少なくともそれが作品ににじみ出てしまうようなのは恥ずかしいと思う。新聞の連載記事じゃないんだから。

 そんな勢いで書いたせいか、終盤でかなりしんみりするものの、そこまでは当初のスピード感が貫かれていてかろうじて全体を読みやすいようになっていた。しかし、こんな調子でどうして5巻完結の3部作なんて言えるんだろう。だって、それぞれが投げっぱなしすぎて何も終わってないし、続いてさえいないのに。と考えると、5作目を読むのがちょっと心配になってくる4作目だった。


さようなら、いままで魚をありがとう (河出文庫)

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「宇宙の果てのレストラン」 [reading]

 映画の出来がよかったので、敢えてそれにあたる小説は読まないことにして、続編ぽいこれから始めることにした。

 冒頭すごいテンポで話しが進んでいくので舌を巻いてたんだけど、4人が2人づつに分かれた辺りから物語はいきなり泥沼に足を突っ込んだみたいになって、ハルキもびっくりなくらい唐突に終わる。「ヒッチハイク」シリーズが5作からなる3部作といわれる意味がよく分かる気がする。つまり単に3作で収め切れなかったというだけなんだな。

 小説を読んでみての最初の印象は、元が脚本家のせいか、かなりアクロバティックでフィジカルな表現をする人だなと思った。たとえば「脳がとんぼ返りする」とかね。まあそれは多分にこの訳者の技術によるところも大きいとは思うけど。
 私はこの翻訳者がすごく気に入った。まずは、とにかくちゃんと日本語にするあたりが。それから、主人公たちの会話の下地に英国独特の文化がある場合はそれを注釈で入れてくれる。気が利いてるなぁと思って感心した。本来翻訳の仕事ってこれくらいやってくれなきゃいけないと思う。最近、「敢えて訳さない」といってはばからない訳者にばかり縁があったから翻訳という仕事に違和感があったけど、この人の仕事ぶりを見てたらなんか感激してしまった。この作品がとっても好きで、その作品の背景にある文化によく精通しているということがよく分かる。本来翻訳って言うのはそれほどの知識がないとまかりならないもんなんだよね。やっぱり。

 「ヒッチハイク」の小説版に対する私の勘はよかったと思う。「宇宙の果て」は2作目にあたるんだけど、ここからでちょうどよかったと思う。映画を見てたおかげでかなり入りやすかった。物語は映画の内容を、もしくは1作目の内容を度々復習しながら進む形をとった。
 作者はイギリス人らしさを愛するイギリス人らしく、そういうエピソードは小説の中にも尽きなかった。降霊術をやり出すところなんて、イギリス人て本当にそんなことやるんだって吹き出しちゃうくらいだった。でもやっぱり一番好きだったのはお茶のエピソードかな。みんなの命を省みずに宇宙船がその能力のすべてを注ぎ込んで作った紅茶。なんだかすごくおいしそうで、ちょっと飲んでみたかった。ただちょっと気になったのが紅茶を銀のティーポットに入れるんだよね。それがフォーマルなスタイルなのかしら。でも銀のティーポットなんて、お湯冷めちゃわないのかしら。私のイメージではフォーマルなティーウェアって、ウェッジウッドなんかの白地の磁器っていうイメージがあったんだけどな。紅茶について正しい知識のない調理コンピュータやエディ(船載コンピュータと訳していることもあった)にアーサーが紅茶のおいしい入れ方のノウハウや歴史やら背景なんかをかいつまんでではあるけれど、我慢強く語って聞かせる辺りなんかに紅茶に対する並々ならぬ執着が見えて好感が持てた。おいしい一杯を淹れるのにかくも複雑なプロセスがあり、そこには血なまぐさい史実が絡み合っていたりする。コンピュータがそれを彼らなりに一生懸命学び取って具現化しようとする様子(は実際には書かれてなくて単に黙りこくっているだけなんだけど)はいじらしくさえあった。

 「宇宙の果て」の原題はこうだ、"The Restaurant At The End Of The Universe"。私は最初この”At”は場所をさしているんだろうと思っていたのだけれど、つまり、宇宙の広がりの端っこにあるレストランなんだろうと思っていたのだけれど、本を読んでみてびっくりこの”At”は時間をさすものだった。つまり時間軸的に宇宙の終焉するまさにその瞬間に居合わせることの出来るレストランなんだな。んなバカなと思うんだけど、彼らはタイムトラベルが出来るので宇宙が消えたその瞬間に時間軸をまたしかるべきところへ戻すらしい。はー。
 で、物語はそっからおかしな方向へと転がり始めて戻らないまま終わってしまう。
 ゼイフォードはこの宇宙を作った人に会いに行くとか言いだしてというか、言い出されて、しかもそれが自分で自分の頭を封印したことに端を発するらしいんだけど、どういうわけかオリジナルなゼイフォードは今のゼイフォードを作って自分は第二の頭の奥へしまい込み、以来表には出ないように自分自身を意識化では届かないようなブラックボックスへ閉じ込めてしまったらしい。これを今のゼイフォードは「自殺」と呼んでいた。あまりにもすべてが唐突な話で何を言ってんだという、誰かに説明を求めたくなるような混乱振りで、いまだに私はその辺はよく分からない。オリジナルのゼイフォードに関わったとされる人々が節々で現れるけど、ゼイフォードはその人たちにオリジナルとゼイフォードとどういう関係だったのかということは問い詰めない。んな暇ないと言えばそうなのかもしれないけれど、でも、大事なことだよねえ?自分の生き死にに関係があるのに。ましてや「自殺」した自分なんかに振り回されたくないとか言ってるならなおさら。で、結局オリジナルのゼイフォードが何を企んで今のゼイフォードを宇宙の支配者なんかに会いに行かせたのかは分からずじまいだった。宇宙の支配者は一貫してクールで猫を飼っていた。この飼っているのが猫というところに好感を持った。この宇宙の支配者はなんか嫌に現象学的な人だった。つまり自分の主観では絶対に物を言わないということだ。だから支配なんてこの人には出来ないと思うのだけれど。なんとなくこの自分ではこうしたほうがいいと言う考えを持ちながら、その一方で、でもそれが本当にベストなのかしらと悩む様子に親近感を持った。私自身はあまりそういうことで悩まないタイプだと思うのだけど、私の周りに何人かそういう人がいて。ましてやなんとかウープとくだらない言葉尻の取り合いをしている間にトリリアンとゼイフォードが彼を置いてこっそり宇宙船で飛び立ってしまうのを、手助けするためにエンジン音をごまかそうとさらにおばかな言葉尻の応酬をいたずらっぽい姿にも好感が持てた。ゼイフォードの曾おじいちゃんくらいに。

 で、どういうわけかゼイフォードとは別れ別れになったアーサーとフォードは大昔の地球にすっ飛ばされて、地球の先祖を作ったのは他でもない自分たちだったということを知る。ここんとこの物語がまた間延びしている。不時着した土地をなんの目的もなく歩き出したかと思えば、隣の行でいきなりもう何週間も過ぎている。なんだそれ。そんなにストーリーを動かさないなんてどういうつもりだ。で、やたらその道の土地の美しさをあげつらう。結果半年見知らぬ星の見知らぬ土地をうろうろと歩き回りそして自分の運命を知る。自分たちの不時着がオリジナルな先祖を殺し、自分達が連れて来たこの愚にもつかないアホな連中が自分の先祖になってしまうことを。生命に対する究極の問いが九九であったことを。その解の得方にはかなり強引なところがあるけどそれ以前に既に強引なところはいろいろあった。これだけを問題にするのはばかばかしい。
 最後ガイドを川に投げ捨ててしまうところは作者自身の行き詰まりを、アーサーたちの自暴自棄に代弁させているような気もする。だって、地球がこの世のすべてではないし、ナンセンスで満ち溢れているガイドを今更捨てる理由は皆無な気がした。だって、ナンセンスなのはガイドじゃなくて現実のほうなんだから。あと、地球に落ちてからフォードが急に人道主義者っぽく振舞うのが腑に落ちなかった。彼は享楽主義的な人物だと思っていたから。なので、そういう知識人おいさを振りかざす彼の姿はなんだかそれまでの彼のキャラに合わない気がした。

 そんな風にして物語は唐突に終わる。思わずどこかに「続く」と書いてないかしらと思うくらいだった。
 けど訳者あとがきは後半の無秩序というか、混乱というか、を取り返すくらいのよい内容だった。やはりこの人自身とてもこの作品のことが好きなようだ。背景にも精通しているし、やっぱりこういう人が翻訳すべきだよなと改めて思った。その作品に思い入れのある人が。大森望の翻訳を読んでるとよくそう思った。
 ダグラス・アダムスは2005年になくなっている。まだ若い。もっとおじいちゃんかと思っていたけれど、80年に一作目を出版したときで28歳だったというから53歳で亡くなってるのかな?映画の完成は見なかったそうである。惜しいね。あんなにいい出来なのに。
 日本では「ヒッチハイク」シリーズは長らく絶版になっていたらしい。20年とか言ってたかな。私の買ったのは2002年の新訳だ。それを考えるとこの作品が日本ではかなりカルトな存在であることはまず間違いないけど、本国ではかなり愛されている作品だということを訳者のあとがきを読んで知った。最初はラジオドラマから始まって、ノベライズされ、舞台化され、ドラマ化され、最後は映画化された。どおりで映画の質がいいわけだよ。これだけ愛されている作品だもん。作る側の思い入れもあれば、既にそこに裏切れない大きな期待があるわけだ。そら手間もお金もかけるわな。

 イギリスはミステリーに満ち溢れている。降霊術に、UFOに紅茶。不思議な国だ。本当はSF自体、イギリスらしいジャンルなのかもしれない。

 この作品にはイギリス人のイギリス人らしさへのこだわりを見せてもらった気がする。そしてその結果として前半ではイギリスって思ったよりもよさそうなところかもという印象を補強してくれる作品ではあったけれど、後半ではその雑然とした混乱と何の決着もつかないままの終わり方に、この先続編を読んでいくにあたって少し心配になってしまった。もうさすがに紅茶ネタでは私を繋ぎとめておけないだろうから。けど、そんなに長いわけでもないし。何とか読みきれるかな。
 願わくは違うイギリス人のこだわりを発見できるといいんだけどねえ。


宇宙の果てのレストラン (河出文庫)


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