SSブログ

「ほとんど無害」 [reading]

 なるほどスポーツクラブでランニング中に心臓発作で亡くなったという死に方はこの物語の作者にとって相応しい最期だったかもと思った。物語は突然に終わる。スイッチを切れられるみたいに。訳者も言ってるけど、通説では「ヒッチハイク・ガイド」シリーズ史上もっとも出来の悪いのは3作目だと言われているようだが、私はこのエンディングに比べたらこれよりひどいのは書けそうもない気がするんだけど。
 とにかくそんな風にして、信じられない気持で唖然としながら、これは誇張表現でもなんでもなく、続きのページを探してしまうような終わり方だった。

 5次元目って何だか知ってる?私は知らない。知らなかったというか。4次元目ってふつう時間のことを言うと思うんだけど、それだってちゃんと理解しているわけじゃないし、大抵の男の子は私にそういうファジーな不確定要素を話題に持ち出されると、なんか否定的で説教じみた反論を展開させるので、それ以上の次元についてはついぞ考えたこともなかったというか、あると思ったこともなかったんだけど、「ヒッチ」によればそれは「確立」だ。
 並行宇宙っていうのがあるよね。スーパーナチュラルな表現を借りると「ドッペルゲンガー」ってあるじゃない?あれがこれに相当するんじゃないかと思うんだよね。そう言えば、この前萩尾の新作をやっと買って、その中に「ドッペルゲンガー」を別の確立の上に存在する世界の表れと捉えた作品があったなということをこれ書いていて思い出す。ふむふむ。萩尾はかようにして私が子供の頃からこの多彩な様相を持つ世界の一面を理解させる一助となっている。こんなにイマジネーションに溢れてて、それでいて現実の学問に勤勉という貴重な漫画家をもっと世間は評価してしかるべきだと思うんだけどな。萩尾がいなかったら、私は私というこのちょっと人には理解されにくい人間を、なんとか世界と折り合いをつけてこの地上に繋ぎ止めておくのは難しかっただろうなと思う。
 話が逸れたけど、つまり、生きるって、寸分の隙のない選択の連続だと思うんだよね。けど、そのいちいち細かい選択の結果が積み重なって「現在」を具現化しているわけよ。だからよく、『もしもあの時ああしてなかったら…』的な表現とか後悔とかするじゃない?その『ああしてなかった』場合の方向に延びた人生が別世界として存在してるっていうのが「並行宇宙」。簡単に言うとそういうこと。かな。だから、私の人生を例にとって言えば、私が今知覚出来てるこの現実以外に、それまでにあった選択の分岐点における選択肢の数だけ「私の人生」が同時に存在していると考えるわけよ。具体的に言ってみると、あの時ああしてなかったら、もしくはしてたら、私は今結婚して、離婚した後で、2児の母かもしれないし、単に未婚の母かもしれないし、イギリスに住んでるかもしれないし、あるいはもうとっくに死んでいるかもしれない。そうなる理由はごまんとあるよね?とまあそういうことだね。
 「ヒッチ」の最終話はその5次元目と「終焉の予感」がテーマだったように思う。この話は、最初から最後まで終末の予感が付きまといっぱなしだ。何度その表現が出てきたことか。そのしつこさはアダムス自身の終わり方の予言だったのかと思わせるほどだった。アーサーは愛する女性を失い、途方に暮れて、本能的に安住の地を求める。辛く孤独で痛ましい長旅の末に手に入れた安息の地に突然訪れる個人的な災い。決定的に不可避的な不幸のにおいをアーサーはこれまでの経験から感じ取る。全く身に覚えのない娘の出現に、この安息の日々の終わりを感じ、次にはその娘自体も失うであろう予感に悩まされる。そして、宇宙を股にかけた数々の大冒険の経験から自分が死ぬ時を知っていて、それ故に今はまだその時ではないと常に自分に言い聞かせている。つまり、アーサーは死に時を知ってしまったが故に逆にどうしようもなくその行動のすべてを死に絡め取られてまっている。これは皮肉なことだ。運命を知っているが故に自暴自棄になってしまうんだから。まあでも、巡る方向が悪いってだけで、より必死に生きてるってことには変わりはないかな。

 最初に「ヒッチ」を読んでからずっと気になっていたんだけど、トリリアンはこのスペースオペラの唯一のヒロインでありながらその実どうしようもなくつまんない女にしか私には映らない。映画のトリリアンはとんでもなくマテリアルで(物質主義だと言いたい)軽薄な女の子だけど、この最終話の冒頭に出てくるトリリアンもまさにそんな感じの子で私をうんざりさせた。
 トリリアンは自分のしたことしなかったことをいちいち後悔して生きている。アホか。もうこういう人間に付ける薬はないなとあきれてしまう。なんでアダムスはこんなんをヒロインにしたんだろう。
 アダムスの描く別の確立軸上に存在する地球では、地球はハイパースペースを作るために破壊されずに存在し続け、トリリアンはゼイフォードの船に乗り損ねてて、それが故に天文学者だか物理学者だかでいることに絶望してアナウンサーになってるんだけど、その気持ちははまるで理解できない。次のコンタクトを待ったらいいじゃんか。大体宇宙人に会うことに憧れててそれを職業にしたいんだったらSETIにでもなればよかったんだよ。ケッサクなのが、緑色の宇宙人に(なんで外人の言う宇宙人て緑色なんだろう)第十惑星に連れて行かれる話。「ヒッチ」のなかで第十惑星はルパートって言うんだけど、うんざりするほどマテリアルなトリリアンに相応しく、通販ショッピングとジャンクフードとケーブルTVをこよなく愛す究極的にマテリアルな宇宙人だった。トリリアンは「こんなんじゃ絶対に誰も信じてくれない」と悲嘆にくれる。そこがまた私には理解できない。そのまま話したらいいじゃんか。実際はそんなもんだったって。もしくはそんなら自分ひとりの胸にしまっておいたっていい。それで地球が消えてなくなるわけじゃなし。信じてもらえないと地球がなくなっちゃうんだって言うならまだしも。ちいせえ女だなぁと思ってつくづく呆れた。
 ここ読んで感心したのは、第十惑星っていつからその存在を話されてたんだろうなぁってこと。アダムスはセドナが見つかったニュースを知ったらなんて思っただろう。第十惑星が発見されたと仮定してここに書かれた現象は実際に起きたわけだし。つまり、占い師たちは星が増えたから今度からセドナも考慮に入れて占わなきゃいけないという。「じゃ、それまでの占星術ってなんだったの?」って話。けど、今ちょっと見たらセドナは将来的には冥王星の準惑星(衛星と同じなのかな、土星の月とか4つくらいあるよね?)って扱いになるらしい。だから独立した惑星ではなくなるんだよ。エリスと一緒。読んだら、今時点ではエリスの方がセドナよりも太陽から離れた位置にあるらしい。公転の軌道の問題なんだろうけど。なんか、占星術って……と思うよねえ普通。

 この作のフォードには「ヒッチ」の当時からの読者にはなかなか受け入れがたいものがあるみたい。訳者も大森望もそう言っている。確かにフォードがエルヴィスにあんなに執着するのはどうかと思ったけど。でも、それ以外は、特にガイド本社に潜り込んで一悶着起こすとこなんかはかっこよかったけどな。二度目に窓の外に飛び出した時なんかは軽く感動さえした。それに多幸症のロボットなんかは私の全「ヒッチ」を通してもお気に入りエピソードの一つだけど。

 この訳者はすごい。この手の作品を訳させるにずば抜けてセンスがいい。よっぽど作品を、作者の精神を理解しているんだろうと思う。そしてなによりちゃんと翻訳するところがいい。これは前にも話したけど。安易にカタカナに置き換えないことろが好ましい。「ディープ・ソート」を「深慮遠謀」って訳すくらいだから。「汎宇宙ガラガラドッカン」とか。後者の方は、映画見ててわかったんだけど多分言語の表現の方にうがい薬の意味合いが含まれているんだと思う。映画の字幕には「うがい薬爆弾」って表現があったから。しかしそれを直接的に訳さずに「ガラガラドッカン」とその語彙の指す行為を表現に持っていったこの人のセンスに脱帽する。うむむ。すごいぞ安原和見。
 が、このシリーズを通して読んでてこの人の仕事で1点気になるところが。結構難しい熟語を平気で使うんだよね。「無謬(ムビュウ)」とか読める?意味わかる?「推敲(スイコウ)」とかさ。常用しない熟語表現が結構出てくる。つまり、だけど、安原自身はそれを理解してるってことよね。たぶんある程度英語の表現としてもそういう堅苦しいものが使われているんだろうなという推測はできる。出なきゃわざわざこんなスペースオペラにそんな画数の多い漢字の出番がそうそう必要になるとは思えない。で、逆の面もあって、すごい単純な言葉をひらがなで表記してたりしてちょっとバランスが崩れてる時がある。どっちかって言うとそっちのほうがすごい気になった。例えば「じたい」ってことば。おそらくitselfなんだろうけど。「テクノロジーじたいに対する勝利であると同時に……」。なぜ「自体」って使わないんだ?なんか変じゃない?少なくとも私は読みづらくて躓いちゃったよ。わざわざひらがなの表現を選んでるんだよねえ。多分。

 私は、アーサーはとっぽいけど、誠実な人だから、この自分勝手で超マテリアル主義なトリリアンに翻弄されて「どこも変でないけもの」たちの住む土地を去らなければならないのが気の毒だった。というかただ単に私はアーサーが最後に暮らしたあの星が好きだった。とてもシンプルな生活をしててみんなおおむね友好的に暮らしている。「コンタクト」で元神父が言うようにテクノロジーが人を幸せにすることなんてないのかもしれないと、この本を読んでて思った。テクノロジーは人の暮らしをただ単にややこしくするだけだ。ややこしいからその管理自体をテクノロジーに任せるというバカなことになっている。アーサーのlast resortはすごい原始的な土地だったけれど平和があって友好がある。それ以上に人が求めるものってないんじゃないかな。多分、アダムズ自身、アーサーが最後に訪れた星や、そのあとにちょい寄りした世界にフロンティア的な幻想を投影しているんだろうと思う。アダムスの自然に対する愛着はかなり簡単に、直接的に読み取ることができる。直接的に「ガイド」に語らせることもあれば、バッファローの大移動を彷彿とさせる描写に託すこともある。「甘くかぐわしい空気」なんてそうそうないし、相当田舎に行かなかったらお目にかかれない。私はそれを経験として知っている。アダムスの自然に対する羨望や憧れみたいなものは本当に手に取るようにわかる。何巻目かのあとがきに彼が晩年動物保護の活動もしていたというのを読んだ時は既に特に驚くべきことでもなかった。

 なんだってアーサーを抹殺しようと思ったのか分らない。この作品自体お金に困って書いたというくらいだから「ヒッチ」は彼の生活的にそう簡単に始末してしまっていいタイプのものではなかったはずだと思う。また、執筆中は「個人的につらいことの重なった時期だったこともあり」とかなんとかって言い訳があとがきにも書いてあったけれど具体的な内容については触れられていない。父親が亡くなったとかだったかな。支離滅裂でかなり出来の悪い娘「ランダム」は自分と子供関係を表しているのかなと勘繰りたくなるくらい、これほど不幸な関係をわざわざ書き残す理由が理解し難い。アーサーの時計が壊されてしまう場面は胸が痛かった。

 すべてが消えてなくなった瞬間、なんだか長い間悪い夢をずっと見せられていたような気がした。虚無感て言うのかな。アーサーやフォードが潜り抜けてきたあれやこれや、手に入れてはことごとく失ってきたあれやこれやもすべてが虚構だったように思えて(というこの表現はおかしいな)、『こいつ(アダムスのこと)は血も涙もねーんだな』と、茫然として本を閉じた。

 そのあと大森望の解説を読んでアダムズがどのようにして死んだかを知った。そして、死ぬ前にこの5作目はひどかった、いつか書き直そうと後悔していたことも。私はそれを知って満足だった。アダムスが後悔してそれを果たせなかったことを。「ヒッチ」の呪いだ。アーサーたちのように終末の予感に対する漠然とした焦りと、もう何も取り戻せないという後悔と、さらに今持っているものでさえ失うしかないという絶望の中で死んでいったなら、きっとフォードたちも満足だろうと思った。
 存在の発生と消滅に情なんかない。分かってはいるけど、少なくともアダムスにはそれをコントロールできるものがあった。それをないがしろにしたこれは罰だ。きっと。

 大森望の解説は面白いよ。普通に仕事の愚痴が書いてあったりして。愚痴って言うかこの人の場合はもうある程度発言に責任のある立場だから「批判」と言った方が正しいか。それにしても実際活字にして残すくらいなんだから、というか出版してしまうくらいなんだから相当根に持ってんだなと思った。ただ、この人の精神状態がいつも高めのテンションに位置していることを考えると、それが単に短気のなせる業なのか、それとも純粋に仕事に情熱的なのか測りかねるけど。大森も安原もそうだけど、ほんとに本の虫なのね。若い時は相当変わり者扱いされたろうになぁ。モンティパイソンが好きなんてなかなか言えないよね。『すげーバカがいる』と思われるだけじゃん。とか、イギリスのSFが好きですとか。完全に頭おかしいよね。現在生きてるどの世代の10代、20代頃の話だったとしても。
 大森望はもうけっこうおじさんなんだろうなとは思っていたから、実年齢を知っても驚きはしなかったけど、それにしてもやっぱり感覚が若いなぁと思って逆に惚れ直したというか。
 書いてる彼らは、やたらと本国ではとかアメリカでもとか、いかにもこの「ヒッチ」シリーズが世界の誰とでも通じる人気作みたいなこと言ってるけど、「やっぱりこれってカルト作品なんだな」ということに5巻目にしてやっと気がついたあとがき&解説だった。


ほとんど無害 (河出文庫)


nice!(0) 
共通テーマ:

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。