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「銀河ヒッチハイク・ガイド」 [watching]

*** プロローグ ***

 映画館で見たもの以外のレビューは載せないつもりでいたんだけれど。これは特別。ここから長い旅が始まるから。
 実際にはそのもっと前から既に始まっていたことではあったんだけど。

 私、イギリスのロックなんてロックだなんて思ってなかった。今だって思ってない。ロックしてるのはアメリカの音楽で、イギリスの音楽は女々しく呻いているだけ。大筋でその考えは今も変わっていない。イギリスにロックなんかない。イギリスのロックはポップだと言うのが私の考えだ。
 だから私がColdplayを聞くなんてまずありえないことだった。ましてやクリス・マーティンがグウィネス・パルトロウと結婚したとあっては、音楽がどうとか言う前に、人として積極的に関わらない方向でありたいと願うくらいだった。
 かくしてColdplayはうちにやってきた。なんの予告もなく。なんの猶予もなく。忽然と3枚のアルバムが私の前に並んだ。あまりの動揺にしばらく手が付けられなかったんだけど、ある日とうとう耳にしてしまう。それが重大な結果を引き起こすなんてことは当然その時は思わずに聞き始めたわけだけど、結果としてはやはり重大な結果を引き起こした。
 疲れていたからとか、他に聞くものがなかったからとか、年をとったからとか、いろいろ言い訳を考えたけれど、言い訳を考えれば考えるほどみじめったらしい言い訳しか出てこなくて、それを言い訳にするのもはばかれるようなものばかりだったから、最後には私も降参した。認めよう。私はこの曲を気に入っている。
 何度も聞いた。会社の行き帰りに。駅までの道を畑の中を横切りながら。ハミングではなく、自然と歌を口ずさむようになるほど。やがて歌は私に夏の初めの匂いを思い出せるようになった。

 それでいてなおColdplayを聞いていることは私の悩ませること以外の何物でもなかった。私がこんな音楽聴いてるなんて人に言えないよ……。大げさかもしれないけど、困惑で頭を抱える気持ちというのをはじめて味わったような気がする。

***

 最初にこれ見たのはもう2年位前になるのかなぁ。スカパーでたまたまだったと思う。しかも途中から。日曜日だったかなぁ。つけたらやってて、知らんけどしばらくみてたら面白そうなのでそのまま最後まで見た。
 すんげーー面白かった。おかしい。こんな面白い作品がなんでもない日曜の昼下がりなんかに垂れ流されてる。こんなに質の高い娯楽は土曜のゴールデンタイムに3週間くらい前から予告を出して当日はTVの前にかじりついて待っているようじゃなきゃダメだ。と思うくらい面白かった。「掘り出しもの」とか言うけれど、これはそんな引き出しの奥で見つけられるのを待っているような奥ゆかしい存在感の作品じゃなかったな。

 最初、TVを付けてこの作品を目に留めたのは知ってる人が出てるからだった。名前は知らないけど、「ラブ・アクチュアリー」にAVのアシスタント役で出てた人。そんな人が主役をやってる。そのうちサム・ロックウェルが出てくるにいたってチャンネルはロックされた。観てれば、ヒロインはとぼけた感じでかわいいし、ダメロボットの声をアラン・リックマンがやってるし、ジョン・マルコビッチが出てるし、すんごいちょい出で「天才マックス」が出てるし、最後にやっぱり「ラブ・アクチュアリー」に出てたおじさんが出てきた。なんじゃこの豪華顔ぶれは。たかがSFコメディに。配役でイギリス映画ってことは見当がついたけど、イギリスがなんでこんなに手間と金をかけてここまでのクオリティの映画を作るんだと首をかしげるほどにこの作品の質は高い。イギリスって娯楽に質の良さなんかを求める国だったっけと思って目をぱちくりさせてしまった。

 「神は細部に宿る」と私に教えてくれた本がある。この作品はその訓戒をかなり忠実に守っていると思う。つまり、多くのコメディ映画にはみられない細部へのこだわりがこの作品の質を押し上げているというのが第一印象だった。しかし何だってこんな見たことも聞いたこともないようなSFコメディにイギリスがこんなに金をかけて作っているのかという最大の疑問は、その数年後明らかになる。
 昔はイギリスって陰気臭くって、国全体が鬱っぽいつまんない所だろうと思っていたんだけど、ここ数年縁あってイギリスを素敵に描いている文学に続けざまに出会ったおかげで、『イギリスって思ったよりも知的で上品なユーモアのある素敵なところかも』と思うようになった。少なくとも現時点ではアメリカなんかよりも好印象で興味深い。そういう上等な作品のおかげで、最近ではイギリスらしさというのも分かってきたような気になっていて、それを楽しめるようになったと思う。この成果はコニー・ウィリスと大森望によるところが大きい。ある出会いが新しい世界を開くって言うことはこれまで何度も経験してきたけれど、これもそういうタイプの私の人生における超新星的なイベントのひとつである。

 話が逸れたけど、つまり何が言いたいかというと、私は外人なのでイギリス人にとってはきっと面白くもなんともない本当に些細なところまで楽しめてしまっているんだろうなというお得感が冒頭から溢れていた。フォードの言葉を借りるなら、”double so.”といったところだ。なにより私の心を掴んだのはこの”double so.”とかいう英国的表現だった。こんなんナメリカ人だったら絶対しないよね。「時間なんて幻想だ。特にお昼休みなんて」というのをフォードは”Time is illusion. Lunch time is double so.”と表現する。それがとても気に入った。”double so.”
 この映画の製作者側の作品の質に対する執着は、出演者だけでは分かりづらいかもしれないけど、映画を見ればすぐに分かる。なぜならセットにすごく凝っているから。宇宙船のデザインや、船内の大道具、小道具。マーヴィンをはじめとするクリーチャーデザイン。マーヴィンはクリーチャーではないけれどぬいぐるみというくくりで同じか。マーヴィンを見ても分かるけど、このセットはかなりその筋が好きな人間がデザインしてると思わせるくらいの出来の良さだ。特にヴォゴン人のデザインは相当考えられていると思う。それぞれの「個性」が固体に表現されていて、本当の人間(じゃないけど)みたいに見える。この概念とというか、表現はクリーチャー製作においては珍しいと思う。本当にそのクリーチャーの声を担当する人をモデルにしているんじゃないかと思わせるくらい、個性と外側の表現が合っていたし、何よりその「動き」。せりふと一緒に動く唇とか目の動きが実に人間(じゃないけど)らしくて、それまでのクリーチャーに見られるような動きや表情の画一さがない。一言で言うなら人形離れしている。目というか瞳なんかもさ、一体一体違うんだよ。鼻の形や位置も違えば、目の離れ方も違うし、大きさも違う。髪も素敵なのが生えてる人もいれば、年とって薄毛だったりもする。
 無限不可能ドライブを出るたびに、一瞬人間以外の別の物質になるんだけど、毛糸編みの人形になっちゃうところなんか感心したよ。その数秒間のためだけに、そのセットとキャラを全部毛糸で作ってコマ撮りするんだよ?びっくりしたよ。手を抜こうと思えばいくらだって出来るところを敢えて手間をかけている。そういう、ともすると無駄と取られかねない細部へのこだわりが明らかにこのSFコメディ映画の作品としての質を押し上げている。
 加えて、映画の冒頭からそれぞれのキャラの個性が際立っていて面白い。なぜかその個性の濃さを「面白い」と片付けてすんなり受け入れられてしまう自分がいる。紅茶がないと生きていけない英国人。列に並ぶのが得意な英国人。ビールが大好きな英国人(本当は宇宙人)。タオルに執着する宇宙人。ゼイフォードはサム・ロックウェルの地だと思う。ジョン・マルコビッチはこういう怪物を演じるのがうまいと思う。ある意味あれも地かなと思わなくもないが、ちょっと出の役なのにすごいいい仕事してた。あの余裕と貫禄。さすがだなと思う。女の子はあんまりイギリス人ぽくないなぁと思っていたらやっぱりナメリカ人だった。「サンタ」って発音が「セァンタ」って南部訛りに聞こえたし、全体的に喋り方が舌足らずな感じだったから。とってもキュートでかわいらしかったけど、私は同じジャンルならロビン・タニーの方が好きだな。主人公の俳優をご当地の人たちがどう思っているかは知らないけれど、あのどこまでいっても凡庸さの地平を離れられないキャラクターは彼でよかったと思う。どんなに頑張っても、ヒーローとしての光のかけらも見受けられないというのがいかにも徹底していると思う。最後の地球人はああいう特別でない人であって欲しい。
 頑張るといえば、この作品で人が落ちたり飛び出したりするシーンがあるんだけど、あれ、スタントを使ってないよね?ないように見えるんだけど。トリリアンが開放されてドアから放り出される時とか、かなりの勢いでかなり遠くに放り出されるんだけど、あんなことされたら普通ひじやら何やらを打ちつけてしばらく起き上がれない気がする。ゼイフォードも2mくらい上から本当に落っこちてきているように見える。落ちた瞬間がCGには見えないんだけど。この映画はSFにもかかわらず、なるべくCGを使わないようにしているのも好感が持てた。多分、この作品に書ける意気込みがそれをさせないんだろうな。もともとイギリスはクレイアートみたいにちまちました時間と技術を要する撮影手法に実績のあるところだし、CGは最後の惑星制作会社のシーンの為にバジェットを温存してあったんだろうな。旅の終わりに地球のバックアップを仕上げるシーンは圧巻だよ。この映画観てて感心したのは、スクリーンていう限られたスペースの中に、実際には収まりきらない広大なものや巨大なものを、感覚として実際にそれが広大だとか巨大だと思わせる見せ方、構図をよく理解してるってこと。これはきっと監督のセンスじゃなくて、そういう美術監督とか誰か専門家が痛んだと思うけど。とにかくスケール感という点でもこの作品は傑出した技術で表現していたと思う。

 かなり叙事詩的に壮大なストーリーなので、そういう歌やら話やらの大抵がそうであるように、間延びしてしまうところはある。それでもこの映画の放つメッセージは多岐に渡っていて、それでいて善意に溢れている。「コンタクト」でカール・セーガンも言っているけれど、この世で私たちは唯一の存在じゃない。だけど、それが故に私たち一人ひとりが貴重な存在なんだということを、ひょっとしたらこの映画はテーマとしてそんなものは持っていなかったかもしれないけれど、少なくとも私は考えさせられた。
 地球のバックアップが完成してそれでもトリリアンと宇宙を彷徨うことを選んだアーサーの気持ちはちょっと理解できなかったけど。あれだけひどいところを見てきたのだから、おうちが一番と思いそうなものなのに。私だったらそうすると思う。home sweet home. 私の住んでるこの星が地球に生まれた私にとっては何にもまして貴重なものだと分かっているから。
 アーサー・デントが28歳という設定は、この映画の製作中になくなった原作者へのオマージュなんだろうな。

 そしてクライマックスでアーサーが振り上げるティーポットはちゃんと銀だった。
 イギリス人にとってちゃんとした紅茶の出てくるティーポットは銀なのだ。

 友よ、神は細部に宿る。

 つまりそれは、その意思が読み取れるなら、神はどこにだっているということを言いたいんだろうな。

*** エピローグ ***

 私がColdplayの曲で気に入ったのはまさにそのしみったれた陰気臭さだった。暗い。暗すぎる。その陰湿さは危険なまでに研ぎ澄まされて、この根暗な勘違い野郎はともすると犯罪に走りかねないという不安を感じるくらいにそれは高められている。いいのかこんなのが今のイギリスを代表してしまって。しかも歌が下手ときてる。ありえない。ありえないが、イギリスならありえる。なんたってピストルズを支持した国なんだから。

 "Don't Panic"は彼らのデビューアルバムの1曲目に収まっている。つまりColdplayの陰気臭さの記念碑的作品だと言っていい。そしてまさにこの曲こそ一番最初に私のお気に入りになった曲だった。ただ、この曲だけは他のとは違って曲の内容とタイトルがどうしてもしっくりこなくて変だなとずっと思ってた。この曲自体はとても短くて、メロディーも単調なら、辛気臭い声で同じフレーズを繰り返すだけ。そしてある日、「銀河ヒッチハイク・ガイド」の裏表紙に燦然と輝く”DON'T PANIC!”のサインを読む。
 今なら分かる気もする。この映画のテーマをフォードの座右の銘で代弁しているのかもしれないなと思わなくもない。

 繋がっている。

 ハルキじゃなくてもそう思う。
 「人生って不思議ですね」
 お母さんならそう言うだろう。


銀河ヒッチハイク・ガイド


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「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」 [watching]

 久しぶりに女の子の日になんかに映画を観た。確かに女の子がいっぱいだった。そして始終落ち着きがなくて私をイラッとさせた。

 まあ思ったよりかはアクがなくて残念だったけど、コンパクトにまとまってて作品としてはよいものだったんじゃないかな。床屋が喉を切り裂き始めた辺りから周りが大騒ぎだったのを除けば、ストーリー自体は特に腑に落ちないとか言う箇所もなく、淡々と、この場合は朗々とと言うべきか、進んで行って、気が付けば、『お、もうおしまいか』というくらい、作品の流れがきれいにまとまってしまっていた。

 ジョニー・デップもヘレナ・ボナム・カーターも、ついでにアラン・リックマンも歌下手なんで、なんでミュージカルにしたかなと首を傾げてしまうんだけど、でもミュージカルに仕立てなかったらあのストーリーのスピード感はなかったろうな。しかし、ヘレナ・ボナム・カーターもジョニデも切れた演技で素敵だった。『うんうん』といちいち納得しながら見ちゃったよ。二人ともあまり表情のないキャラ設定なんだと思うんだよね。けど、要所要所でちゃんと目に狂気/狂喜が宿ってる。特にジョニーが昔床屋を開いていたその同じ場所で再び剃刀を手に"My arm is complete again!"と叫ぶ場面なんか。いいねえ。いい仕事だよ。さすがだなぁと感心しながら観てた。特にヘレナの方は、人肉でパイを作る傍ら、Mr.Tに恋したり、母性愛に目覚めたりとかいう複雑な感情表現もあるのに普通に仕事してた。普段は人の肉でパイなんか作ってて、復讐に獲り憑かれた男を肩であしらって、よっぽぼたくましく気丈に見えるけど、なんかの拍子に、あのお化けみたいにでっかい目に悲しみが宿ったりすると思わずはっとさせられたよ。ジョニデなんかよりはるかに難易度の高い役立ったと思う。ティム・バートンもさぞ鼻が高いだろうよ。

 最後、娘を殺すかなと思ったんだけどさすがにそれはしなかった。なんだ。残念。それくらいシビアに悲劇性を追求してもよかったと思うんだけどな。

 復讐の床屋は、最後かろうじて自分の妻を、知らなかったとは言え手にかけてしまったことを知るが、既にその時には娘も殺してしまっていることには気付かないまま果ててしまう。この悲劇の全容を知る人間が全て死んだところへ、のんきに船乗りが馬車を引き連れて帰ってくる。血溜まりに倒れている恋人。船乗りは冷たい骸を抱き上げて泣き叫び、発狂したまま、その足でまた何処へともない船旅に出る。船乗りはそのうちに物語の全容を理解する。行く先々で気の狂った船乗りが歌う。ロンドンはフリート街の悪魔の理髪師。その悲劇。その歌に出てくる者は今は誰も生きていない。船乗りの歌は真実だけれど、周りの人間は気違いのたわごとと取り合わない。そうして物語は風化してゆく。他のどのおとぎ話とも同じように。

 って言うのも、救いようがなくていいと思ったんだけどな。

 ティム・バートンはコンスタントにこれくらいの質の作品を作るからすごいと思う。これくらいアベレージの高い監督はそういないと思う。まあ、彼ほど自分のやり方にこだわって作品を作れるという監督も少ないのかもしれないけど。
 しかし、ジョニー・デップがオスカー候補に上がるなんて、キング・オブ・アートフィルムの名折れだな。ちょっと前だったら考えられないことだった。それくらいメジャーな作品に出るようになってしまったということか。彼自身の作品の選び方も変わったということもあるかもしれないけど、ティム・バートンも今じゃオタク映画監督って印象じゃなくなってるからな。全ては、単に時代が変わったんだと言って片付けられてしまうことなのかもしれないけど。

 次はティム・バートン以外の映画でヘレナ・ボナム・カーターを観たいな。

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