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「パラレル」 [reading]

 まあまあ、思ったよりも悪くないって言う程度で、どうしてもなんか気持ち悪いという生理的な不快感は最後まで拭えなかった。
 ただ、後書きに引用されていた長嶋自身のコメントも踏まえると、多分これは長嶋にしてみれば実験的な作品だったんだろうなと思う。なんとなくこの本のあらすじを垣間読むだけでも予想できたんだけど、実際にページをめくってみて日付と時間が書いてあったりするのを目にしたら、思わずみなかったことにして先に進んでしまったよ。

 冒頭から下なネタをしつこく披露されてかなり引いた。なぜ?始終風俗と性欲の話が出てくるこの作品は私にはとてもえげつない印象しか与えなかった。って言うか正直うんざりだった。皆男ってこうなのかなと思うとほんと不思議。それで離婚で傷ついたなんて、妻に裏切られただなんてよく言うよ。女を見て「まあまあ」だと自分の事はさておきランクを付けて、「性欲用」と言うその行為は完全に処理だ。それでいて処理中にゴムが取れちゃったりすると、次の生理が来るまでびくついて生活してる。お前どんだけ意気地がないんだよ。あきれて開いた口がふさがらなかった。それだから、この気分屋でなんか躁鬱っぽくも見えるつかみどころのない浮気妻ともお似合いだなと思った。読み終わって思ったのは、この浮気妻はきっとこの先も浮気を繰り返すだろうし、この意気地なしは「津田」のフラレた理由がそうであるように「青」にフラレるに違いない。

 最後、主人公が「青」とくっついたのは意外でもなかった。「青」と初めて会った時の描写で主人公が「青」に惹かれているのは分ったから。ただ、「青」的にこの意気地なしじゃ役不足だから結局別れるんじゃないかなと思った。けど、「青」は私も気に入った。特にアオイって名前が。それにしても長嶋の女の好みは分りやすい。きっと自分が主人公みたく意気地なしだからこういう強面な女性に惹かれるんだろうな。それでいてでも長嶋の描く主人公たちは決して芯がないというわけではない。むしろ、意気地はないのに頑ななまでの芯があって、その頑固さは当然のように偏っていて、周りの人間にしてみれば結局協調性がないだけにしか映らない。それでも本人はわかってもらえなきゃそれでいいと涼しい顔だ。そう言う人間を私も実際に知っている。これがまたイラつくんだ。

 話の筋として一番気になったのは、結局奥さんの心変わりの原因を掘り下げないままだったこと。二人で散々話し合ったと言うんだから、それを披露してなぜ奥さんに呆れられてしまったのか書いてもよかった。心身を失調気味だと人づてに聞かされるくらいなんだから、「僕」の知らなかったドラマが「奈美」にもあったはずで、それを知らないでいられたわけもないと思う。けど、別居した後で、それとなく、ではなく、あんなふうに見え透いた態度でよりを戻そうとする姿にはちょっとぞっとした。ましてやそれを猫の性質に並べて語られるなんて私としてはちょっと不愉快だった。今になってみれば、わざわざ神経衰弱に陥る選択をしてまで離婚したのにその後も当然の顔をして元夫の新居を訪れる元妻は「夕子ちゃん」の「長い長い別居状態にある」人の下地になってるんじゃないかと思う。

 プロットとは関係なくこの作品で最も気になったのは、男ってそれしか考えられないの?ってこと。これ本気?これが普通?別れちゃったらさ、それがどんなに未練たらしい醜い別れ方だったとしても、その半年後には自分の股間のことしか考えられなくなるような男になっちゃうんだろうか。とにかくこの男は、自分のこのメンタル的なまとまりのなさとか、社会とコミットできてない生き方はともかく、誰か、誰でもいいからととにかく女の子とくっつくこと、関係性を作ること、セックスのことしか頭になかった。なんだそれ。人間暇になったらそんなことしかやることないのか?別に出家しろとかなんかそんなことを行っているんではない。暇をもてあましてるからって、得るものの少ないカルチャークラブに行けとか、資格を取れとかなんか、そんな取り敢えず実用的に見えてその実中身は大して入ってないみたいなものに形だけでも身を沈めてろとかそんなことは思わないし、むしろそんなんだったらやらなくていいと思うけど、それにしたってだよ。なんでこんなに女のことで頭がいっぱいなの?頭おかしくない?女と見れば瞬時に採点してレベルを弾き出す。その手の会話を電車の社内で何度聞いたことか。でも聞くたびにやっぱり耳を疑う。お前ら一体なにもんだ。どの面下げて人にランクなんかつけてんだ。虫唾が走るとはこのことだよ。あんな人のクズみたいなのが人の何を採点してくれてんねんといつも憤る。

 更に不可解なのが、なぜ主人公は風俗に走らないのかということ。風俗なら利害が一致してるから、離婚して奥さんもいなきゃ、彼女もいないんだし、何も問題にはならないだろうと私は考える。この点に関しては人でなしの津田の方が仁義ってもんを心得ているような気すらしてくる。津田の間違っているところは、商売女に本気を男求めるところ。みんな仕事ですから。なぜ彼女たちがあんたの私的な欲求に応えなきゃならん?さらさらないよね。と思うんだけど、律儀に応える女の子が実際にいるから驚く。いやぁ、人間本当は何考えて生きてんだか分ったもんじゃないよね。津田が風俗嬢相手にすることを、主人公は一般人相手にする。犯罪だろ。それもどう転んでも自分が「損」をしないように、(誘ってる時点で実は既にバレバレだっつー)下心を相手に見透かされないように、色々散々アホほど無意味な考察のような計算をした挙句にだ。食事に誘って、一回目はもうカチカチになってるのを我慢して、2回目には当然のように行為に及ぶ。デートに応じた時点でどう考えても女の方は了承済みなんだから1回目を我慢する訳が私には分らなかった。なんのかっこつけ?アホか。で、愛のないセックスを後悔している話す舌の根も乾かないうちうに、翌朝目覚めたベッドの中で昨夜の思い出しながらオナニーをしようとする。脳みそ腐ってんじゃないの?で、行きつけのスナックで好みの女を目にして再びその贖罪にも近い反省の念が湧き上がってくるものの、その気概をすっかり棄て切ってやはりその「まあまあ」の女と2度目の行為に及ぶ。開いた口がふさがらないじゃんか。こんなんで何をまじめに語られても私に響くものとかもう一切ないんですけど。きっとこれ男の人の読むものなんだろうな。私が読んでも分らないようになってるんだよ。

 そもそもがこんな浅ましい男のあの奥さんは一体どんな箍(たが)だったのだろう。とても元奥さんとの音信が半日途絶えたのを気に揉んで鼻水たらして泣いた人とは思えない。それともこの薄情な奥さんの仕打ちがこの社会不適合者の心を更に殺伐としたものにさせて、ここまで堕落させてしまったんだろうか。否、これがこの男の本性だったんだろう。「まあまあ」の女とのデートに見せる余念のなさは一夜漬けなんかじゃない。明らかに経験がものを言ってるもんだった。しかし、ろくな経験を持たないんだな。

 この全編余すとこなく下世話なネタを撒き散らされた話の一番の罪は、私を悲しい気持ちにさせたことだった。男の人ってみんなこんななのかなぁ。それとも私がマイノリティなのか。

 もーーー、この話めっちゃ不愉快だった。
 でも「アオイ」って名前は気に入った。なにか特別意味のある名前だとは思わないけど。

パラレル


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「猛スピードで母は」 [reading]

 「夕子ちゃんの」を読んで、他のも読んでみたくなって、本屋さんに行ってみたけれど決めれられず、結局あるだけ買ってきてしまったうち一番初めに読んだ本。芥川賞を獲っている事は当時から知っていた。ただ、世間で言ってる前説を読んでもどちらかというと遠ざけたいタイプの作品にしか思えなかったので手にとろうとも思わなかった。ニューエイジとか、時代の寵児みたいな触れ込みにはまず手を出さない。そんな移ろいやすくて実体のないものに魅力を感じたことがない。でもそれが一方的な偏見であったということがよく分る。もうあれから3年も経ってたのか。私が買ったのは文庫だった。

 芥川賞に選らばれる作品は短い。短くて淡々としている。そしてどちらかというと生活感を感じさせない。主題はそれこそ生臭いものだったりするのに、なぜかみんなそんな直接的な生活のことを書いていてもどこかふわふわとしていて足の着けどころがないような、白昼夢めいたファンタジーみたいな印象がある。これもファンタジーといえばファンタジーか。リアルタイムjな話じゃない。過去の回想録だ。長嶋は過去を振り返るときの視線がとても感傷的だ。そんな風にして振り返ることは、きっと懐かしいというよりも、痛々しいだろうなという気さえする。なぜって、彼の幸福な思い出は必ず不幸で包まれているから。長嶋が描写するその視線は徹底してセンチメンタルだ。けど、決してメランコリックではない。彼は夢を見ているわけではない。当時の自分の純粋な感慨を、今になってみれば分る事実や現実との分析にかけて理性的に捉えようとする。だから、当時の感情は、喜びにしろ悲しみにしろ、もっと大胆なものだったんじゃないかと思う。

 「猛スピードで」は2編が収録されていて、どちらも子供が主人公の話だけれど、それを大人になった本人や、第三者が回想することで語られる。だから純粋に子供の気持ちが描かれているわけじゃない。大人になった本人がそう言っているに過ぎないのだ。大人になるまでに身に付けた色々なフィルターを通して子供の頃の感情を語ってる。文章であれ、生身であれ、子供の心象を実際に捉えるのは本当に難しいと思う。

 前編は「サイドカーに犬」。こっちの話は好きになれなかった。「洋子さん」はいい女なのに負け犬の「お父さん」に片想いで、「お父さん」には家出された「お母さん」がおり、「お父さん」はこれを前にすると逃げ出すような小さい人間で、しまいには会社の金庫を盗んで捕まる。こんな人間の何に惹かれてしまうんだろう。理解できなかった。一番不愉快に思ったのは優秀そうな「洋子さん」が愛人の子供の世話なんかするところだ。なぜ?自分との関係を清算も出来ない男の子供の世話なんて。しかも、子供の置いてきぼりは、その母親が責任放棄した結果なのに。どれだけの男だったらそこまでしていいと自分に納得させられるんだろうと思った。
 長嶋は子供の頃のエピソードをたくさん持っている。それだけに子供の描写を身近に感じることが出来る。「サイドカー」なら風船に絵を描くところろか、「猛スピード」なら雲状形定規を蛍光灯の明かりに透かしてみるところとか。この人の物語では孤独な子供の一人遊びの描写が映える。自分だけのお気に入りや癖を、その瞬間は誰にも共有できないその子だけの世界としてうまく描き出せていると思う。そこに感心した。
 それにしても、父親が逮捕されるというプロットには私もかなり驚かされた。本当にどうしようもない男だったんだなと心底あきれる。あきれる一方でだからやっぱりなんで「洋子さん」はこんな男の何がよくて付き合っていたんだかが不可解だった。
 あと、私の印象としてあまり「薫」が女の子らしく感じなかった。子供の頃の彼女をそう思うんじゃなくて、それを回想している彼女自身を。これまでで長嶋の作品は3つ読んだことになるんだけど、既に彼の描く、もしくは描きたい人間像の趣旨がつかめてしまったように思う。それを悪いことだとは思わないけど。彼はとてもよくキャラクターが描けていると思う。うーん、なんかそう言うと語弊があるんだけど、つまり、彼の描きたい人をかけているように思う。彼はこれらのキャラクターを気に入って書いているんだなというのが読んでてよく分る。ハルキなんかは不愉快なキャラもちゃんと書けるけど。桐野夏生とか。でも長嶋は多分そう言うタイプじゃないんだろう。私もそうだ。嫌いな人は描けない。描いたことがないから描きたくないというのが本当か。
 長嶋は自立した女性を描く。黙々と、歩んでいく女性というか。なんかイメージとしては、小柄なんだけど、でも意志が強くてたくましそうなしっかりとした顔つきをした女性が周りには目もくれずせっせと歩いている感じ。でも多分自分がどこへ行こうとしているのかそれほど分っているわけじゃないんだよ。それでもせっせと歩き続けてる感じ。「サイドカー」の「洋子さん」もそんな感じだった。小柄って印象はなかったけど。きっと長嶋はそう言う女性が好きなんだろう。
 そしてその一方で男はみんなダメダメだ。フラココ屋の店長しかり、「薫」の父親しかり。意志薄弱とかそう言うんじゃなくて、精神の向いてる方向がもうダメだ。なんか軟派で堅気じゃない感じ。それにしてもラストで急転直下父親が「逮捕」されるという展開は面食らって面白かった。なるほど。そう言う人間なのかとそれまで単に不快だった気持ちに一様の着陸点をつけてあげられた感じだった。

 「猛スピード」はとても素敵なお話だった。それまでの2作品が一人称だったので、ついそれでしか描けないのかと思っていたんだけど、この話は三人称だったからちょっと驚いた。最初は違和感さえ感じたんだけど、それでも読み進めてたらすぐになれた。不思議なことに長嶋の三人称は一人称となんら変わらない語り口である印象を受ける。だから気持ちよく読めた。この人は私が思う以上にいろんな描き方が出来る人なんじゃないかとそのとき思った。
 主人公の「慎」はやっぱりダメダメで、友達のいないもやしっ子だ。でも、引きこもりというのとは違う。「夕子ちゃんの」のテーマが人のことを思うことであったように、ここでも考察することが主人公の生活の中心になっている。「慎」は一緒に登下校している友達に「なんで話さないの?」と問われて曰く、
 
 「考えてるの」

 私はこの「考えてるの」と言った「慎」よりも、それを聞いて「ふうん」としか言わずに、それでもその答えを了承しきってしまったみたいな「慎」の友達の「須藤君」が好きだった。自分から進んで選んだわけでもなく、そう言う貴重な友達を得られた「慎」をうらやましく思った。
 「猛スピード」で私が気に入ったのは母親のエピソードよりも、みんな「慎」のエピソードだった。根暗な「慎」の雲形定規を蛍光灯の明かりにかざしてみるようなファンタジックな習性や、「サクラ」をずっと気にしてる姿勢や、自らに対するいじめを肯定していたつもりが、須藤君の健やかな魂に触れて(これはどこかで根暗な「薫」が、息子に理不尽な要求をするにもかかわらず反抗心のかけらもない「須藤君」を見くびっていたということだろう)、手塚治虫のサイン本を預かってくれという場面なんかには全く予期していなかったほどの感動を感じてしまった。

 作品の終わりに、このお互いこそがお互いを支えているような親子が、その絆を確かめ合う場面ではなぜだか読んでる私の方がここの澱をほぐされていくような気持ちになった。それが全くわざとらしくも、白々しくも、ましてやかっこ悪くも感じな異事がとても意外だった。普通だったら何を括弧のいい子といってやがんだと鼻であしらうような筋である。
 明け方の街に夢のように現れた色とりどりのワーゲンのパレードを、むきになって追い越していく母親と、それを見守る息子の姿は、読んでるこちらも何かを突き抜けたような、胸のすくような余韻を残す爽やかなラストシーンだった。

 今まで芥川賞ってこんなんでいいのかなと思うようなのしか読んだことなかったけど、長嶋は、長嶋のこの作品は、讃えられるに値すると読み終わって思った。

猛スピードで母は


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「夕子ちゃんの近道」 [reading]

 長嶋有と伊坂幸太郎どっちか選べって言われたらちょっと悩むけど、私は長嶋有だな。文章のきれいな人が好きで。それは
「夢十夜」を初めて読んだときから変わらない。
 長嶋有はちょっと稀に見る美文を書ける作家だと思う。俳句も書くと知ってちょっと納得した。この人自身がきれいな文章に興味があるんだと思って。俳句も書く小説作家ってめずらしいよね。
 やさしいタッチの文章を書くだけなら誰だって出来ると思うんだけど、文章の優しさが装いのものだと読んでてすぐに分る。嘘の優しさは白々しくて鼻に付くから、読んでて不愉快な気分になる。けど、長嶋有の文章の穏やかさは本当にこの人自身から滲み出してくるものだ。言葉が上滑りしない。言葉が肉になってちゃんと届く。なぜこの人の言葉がこんなに心地よく耳に届くのか。
 自分でもちょっと改めて言うのをためらうくらい、この人の文章をきれいに思う。こんなことは本当に言いたかないけど夏目漱石以来だ。もう日本人であんなにきれいで美しい文章を書く人は出ないだろうと思ってた。だって、漱石がいなくなって何年経つ?あれは漱石だけのものだと思ってた。それだけにこんな形で、こんなにきれいなものに出会ったことに尚更驚いてる。全然、全く、何の期待もなく、ただ読むものがなかったので、その場にあるものの中で妥協的に、消去法的に手にした1冊だった。
ただ伊坂の独善的で技巧的なプロットにいささかあたり気味だったので、今はテンションの上がらない無害な日常小説が読みたいなと思って、他の何かと比べて結局これにしたんだった。1作が短い小作品集みたいなってるっていうんで、それも手を伸ばしやすい要素だった。
 乱暴に言うなら、伊坂にはドラマを作るのは得意だけど美文を書くのは苦手。一方で長嶋はドラマを作り出すのは苦手だけど美文を書くのは自然とできる。なんかそんな感じだたった。
 昔から読んでて分らない批評の一つにハルキは比喩がすごくうまいって言うのがあるんだけど、私にはそれが実感として感じられることがなかった。読んでて、『ああ、今これがみんなのいうハルキの比喩なんだろうけど、特に響くものはないな』といつも思う。つまり、なんていうか、ハルキの比喩はそれほど特別なことに感じないって言うのが私の感想。それでも、お気に入りの比喩が一つあって、ハルキはボブ・ディランの声のことを「雨に打たれた犬」みたいだって言ったんだ。それが好きだった。
 ところが、長嶋の比喩はいちいち私の気持ちをくすぐった。それは比喩っていうよりも、どちらかと言うとリフレインに近い。同じ響きの言葉の別の例って言う感じ。例えば、
 
 「うちはね。プロヴァンスよ。プロヴァンスはいいわよ」コラーゲンはお肌にいいのよみたいな調子だ。

 同じ音感の言葉を並べているからリフレインみたいに聞こえる。「」と主人公の独白に真がないからちょっと唐突に、乱暴に感じなくもないけど、比喩としては完璧だと思う。これが例えば、「なにかサプリメントでも薦めるみたいに言う」とかだったら、フランソワーズのこの大それたことをさも当たり前のことのように話すその抑揚が感じ取れないはずだ。
 この、「」の後に独白調で会話がダラダラと続くのは長嶋特有の描き方で、他に見たことがない。これには眉をひそめたし、未だに慣れないし、この先も多分好きになることはないだろうと思う。むしろそこを改めてくれないかなと思うくらい。つまり、そうすることで何を狙っているのかが読んでて分らないからなお不快に感じる。これさえなかったらと思うくらい本当にこの人はきれいな文章を描く。

 長嶋の書くテーマは「人のことを考える」かと思う。しょっちゅう考えている。なにかを。誰かを。自分の中で考察を繰り返している。思ったり、考えたりと言うのは孤独な作業だ。けど、それが私に響いたのかも。
だから他人から言われるまでもなく、自分で分っているつもりでいたけれど、実際に文章になってそれを実感とともに味わうと目からウロコの落ちる思いがした。

 「僕も勝手に身近な人たちのあれこれを思う。特にここに来てから、さまざまに思うことばかりをしてきた。今こうしているように、ガスコンロの火をみながら、あるいは信号を渡りながら、二階の鉄階段で立ち止まりしながら。自分の事もそれと同じくらい皆に思われていてもおかしくないのに、とても意外に感じてしまう。」

 他の人たちが私と同じように私のことを思っているとは思わないけどでも、誰かを思うことをごく当たり前に生きている「僕」をとても好ましく感じた。きっとそれが長嶋自身のことでもあるんだろうとまことしやかに思ったりもした。
 長嶋はまた古風な文章表現もする。それもこの他人を気に入った理由の一つだ。だから余計漱石に重なる。古風な言い回しでも、物腰が柔らかく、むしろその表現を使うことで柔和な印象が強まっている感じすらする。例えば、

 「へぇ、そうなの、といって、しかし買わなかった。」
 「もう少し向こうで暮らすつもり、という言葉がそもそも格好良すぎて、だが二十歳を過ぎたばかりの朝子さんに、もうそれは似合っている。」

 漱石自身がそうであったように、思うことを常とし、温和に暮らすことを美とする長嶋にドラマは描けない。いっそ似合わないといってしまってもいいかもしれない。それだけに最後の書き下ろしという作品には心底がっかりさせられた。発刊にあたってかいだものだろうが、わざわざその後を描くなんて。ドラマもないのに。美しくまとまった人生の一時期の、取り立てて言うこともない後記を書く必要があったとは思えない。つまりこの程度の後日談なら要らなかっただろうと思う。このエピソードはせっかく胸のすくようなエンディングを迎えた物語の印象を台無しにする以外の何者でもないと思う。
 私だったら、せっかくわざわざ改めてこのメンバーの話を書き下ろすなら、とりとめもない後日談で印象を濁すよりか、「僕」がフラココ屋に転がりこんだエピソードを入れただかろう。もしくは次の「僕」がフラココ屋に転がり込む瞬間を。

 それを除けばこの本は、予想しなかったところでずっと欲しかったものを見つけて、それまでの長い空白が嘘だったみたいに、いとも簡単に手に入れられてしまったみたいな、驚きと満足感と、そしてそうだな。やっぱり、幸福かんかな。を与えてくれた。
 プーで家出人であるという本来ならもっと所在無さげで、うんざりするほどの焦燥感が溢れててもいいのにそうならないのは、単にそれが長嶋の気概で、それが「僕」に映されているからなんだろう。
 作家としてよりも、長嶋有自身に興味が湧いて、手当たり次第に3冊も買い込んでしまったその始まりがこの本だった。

夕子ちゃんの近道


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「ラッシュライフ」 [reading]

 予想しなかったほど重い内容だった。
 特に、不倫のカップルが離婚できないならお互いのパートナーを殺してしまえと、計画したら当の不倫相手に裏切られたり、宗教家のリーダーの神秘性を試そうとして意味のない殺し合いをしたり。どのエピソードにも救いがなくて、今まで読んだ伊坂の話からは想像しないくらい荒んだ話だった。
 今までの作品から、伊坂の話は、きれいごとと人の欲望を根幹とする現実というテーマのコントラストがあって、そのジレンマに個人の正義感が挑戦する姿勢を、それでも泣き顔のピエロが笑いを取るような悲哀のこもったユーモアで包むと言うイメージだったけれど、これにはユーモアはない。茶化したり、なだめたり、すかしたりと言う、悪戯に気を紛らわすようなことは一切なくて、どのエピソードのどの場面も100%ガチンコで描かれている。そんなエピソードが時間軸も前後時ながら錯綜するんで、そりゃあ消耗したよ。『うへえ』って感じだった。
 つまり、読んでて全然楽しくはない話だった。

 私は「ラッシュ」は「rush」だと思ってたよ。ったら、それぞれのエピソードで「ラッシュ」の意味が違った。でも伊坂的には「lush」なのかな。話の冒頭と終わりで引き合いに出しているから。
 泥棒の黒澤が「俺の前で二度と「定義」なんて言わないでくれ」と言って初めて、『おお、この人は「重力ピエロ」の探偵じゃん』と気が付いた。伊坂は常にいくつものエピソードを手の中で転がして面白くなりそうなのだけを取り出して個別の作品に仕立ててるんだろうな。萩尾望都が気に入った脇役キャラで後日別作品を起こしたことを思い出した。キャラを作るって時々そう言うことを引き起こすんだろう。ハリウッド風に言うならスピンアウトだな。伊坂の場合にはこれが恒常的に行われているんだ。他の人たちに観たいに1作1作でキャラやら環境設定やらを考えなくていいわけだから、伊坂の取り入れてるご当地限定のスター制度は他の作家に比べたらかなり有利なように思える。どうして誰も今まで思いつかなかったんだろうなぁ。あ、キングがやってるか。でもここまであからさまな相関はなかったと思う。

 私が気になったのは最初にあげた2つのエピソード。最後には発狂する精神科医。自分が自分を不幸にしているとなぜ気付かない。大体あなたは男というか、人をを見る目がない。この人は不倫相手に裏切られて自分の殺害計画が露呈するずっと以前から狂っていたんだと思わせられた。
 後者の宗教団体をめぐるエピソードは好きだった。この人、超自然的テーマもいけるんだと思って意外だったと言えば意外だったんだけど。あと、「河原崎」って名前を読んで、『この人はどうしても川って字を使いたくないんだな』と思って苦笑した。でも、この河原崎って子がちょっと気に入った。これも自分で自分を不幸にしてるオタク青年ではあるけれど。ことを起こしてしまった後の彼は別人みたいに行動的で、思い切りがあった。
 不愉快だったのが、傲慢な画廊にくっついて歩いてる画家の女の子。この話の中で唯一の傍観者だ。だから苛立たしく感じるのかも知れない。彼女だけは人を裏切っても何の責任も発生しない。それが気分悪かった。ただ単に彼女の場合はこれからと言うことになるのかもしれないけど。
 黒澤だけはクールに降りかかってくるトラブルをひょいひょいっとよけて生きていける。そう言う人間が1万人に1人くらいはいるもんだと思ってしまう。私の友達もよく言うけど、「才能」だな。そして才能は人それぞれだ。才能がなきゃ箸にも棒にもかからないってことがある。努力だけではどうにもならないってことがある。つまるところ、人はその才能をどれだけ持ち合わせているかと言うことで人生の平和がある程度決定されてしまうんだろうな。私みたいに不器用な人間は黒澤みたいな人間に純粋に憧れてしまう。確かに彼みたいな人間だったら一人で生きて行く方のが向いてるかも知れない。

 もちろん今回もペットショップも犬も出てくる。外国製宝くじも出てくる。出てくるけど、犬は野良犬だった。何犬かは明言していなかったと思うけど、なんとなく豆柴なのかなと思って読んでた。伊坂は豆柴が好きみたいな印象を受けたから。
 まあ、最後は多少なりとも前向きなエンディングになってて、強いて言えばそれがこの作品を通しての唯一の救いだったかな。ちょっと苦しいけど。

ラッシュライフ (新潮文庫)


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「金閣寺」 [reading]

 「この世界を変貌させるものは認識だ」
 確かにそうかも。でも私はこの片輪の柏木が好きになれなかった。なんだかファウストみたいで。気味悪いと言うか、人の不幸を目端で見てほくそ笑んでる感じ。しかも、一見親切にしているようでいて、実はそれで人を不幸に陥れてる感じもするし。ただ、柏木はそんなことにせこせこしてて、それはそれで虚しくも見える。だって、それで彼に何か残ってるように思えない。彼自身、臨済録の示衆(これ読み方が分んないんだけど)を引き合いに出して、「まだ殺し方が足りんさ」と言っている。これってつまり自分のその残忍さが貫き通せてないってことでしょ?きっと。それに片輪の癖して言うことがいちいちキザっぽくてむかつく。

 ここで引き合いに出されている臨済録の示衆って調べてみたらちょっと面白かった。三島の作品に曰く、
 「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん」
 とするこの臨済さんの教えは、聞こえは実に物騒で、だけどそれだけドラマチックに胸に響く。けど、実際に自分の父母を殺せと言っているんではない。自分の信じる教えの祖を殺せといっているんではない。殺せと言うのは、八万四千(具体的なリストがあるんだろうか。仏教って適当な数を付けるのが好きだよね「五十六億七千万年後」とかさ)とも言われる煩悩を払うための一重に抽象的な行為のことで血なまぐさいことじゃない。つまり、真の解脱をするには、究極的には仏の教えと言うことからすらも解き放たれなきゃいけない、言い換えれば「殺す」と言うのは「退ける」ことということらしい。「退ける」と言う言葉を使ったのは、この教えに出てくる父母って言うのが人のことじゃないから。臨済は八万四千の煩悩をはらむ無明を2つに分けたらしいんだよね。すなわち、貪欲をもって「父」、痴愛をして「母」。で、この無明の父母から派生するあまたの煩悩をさして「親眷」と便宜的に考えた。言い得てつまり、これらの煩悩を殺さない限り、更にはそれを導く仏の教えすらを超えなければ本当の意味での解脱は成し遂げられないと言うことらしい。
 まったく、一行理解するのにしっかり宿題させられちゃったよ。それはいいんだけど、ただね、洋館の令嬢を柏木は「羅漢」だと言ったんだよね。それが分らない。羅漢?なんで?羅漢てさ、修行を積んで俗人とは違うレベルの人のことだよねえ?あのこのなにがそんなにすごかったんだ?結局柏木は彼女に惚れてたのかもしれない。
 で、全然関係ないんだけど、でもこの臨済録の示衆を読んで、キリスト教にある
 「今から家族に5人あらば、その後2つが3つに、3つが2つに分かれて争うようになる。父は息子に、息子は父に、母は娘に、娘は母に、姑は嫁に、嫁は姑に」
 を思い出した。最初にこのフレーズに出会ったのは恥ずかしながら「パトレイバー the movie 2」だった。意味はさっぱり分らなかったんだけど、家族がそれぞれに向かって争うなんて修羅場な様子をそらんじる姿が印象的でよく覚えてた。その後、入った短大で習ったバイブルのクラスで実際の文言を目にした。始めてそれを見たときはこれのことだったんだと感激したよ。クラスではルカの福音書を扱ってた。バイブルのクラスはいろんな方向で私の世界を広げる役に立ったと思う。音楽のフレーズに使われていたり、映画の台詞に出て来たり。宗教を習うって、私にとっては意味の重いことだったと、いや、であると、時間が経つほどそう思う。こんな時代だからこそかもしれないけれど。

 話がそれたけど、
 あと、片輪っていうのもこの本を読んで私の辞書に増えた語彙。これ読み始めたときに、「片輪の人が出てくる話だよね」と言われて『なに片輪って』と思った。きっと今じゃ差別用語で使わしてもらえてないんだろうな。だって、辞書に出てこないもんね。Webだけど。パソコンで打ち込んでも変換しないし。それで思い出したのが、漱石の「抗夫」読んでて、「ヽヽ」って書いてある所があって、注が付いていたのでなんだこれと思って見てみたら、「原文の差別的表現を伏せたもの」って書いてあってひどく驚いた。すごいショックだった。大声で「今はいいじゃん!」と叫びたくなった。今時さ、どんな差別表現を使ってたって作者の意図を尊重してそのまま使うもんでしょう。この本、このままずっと伏字を使い続けるつもりなんだろうか。それともいつかは元の表現を戻すつもりなんだろうか。この対処にはなんだかすごくがっかりさせられた。

 「内飜足」って言うのも出て来ない。出てこないからよく分らないけど、これって、X脚のことかな。昔、そう言う子がいた。知り合いではないけど、同じ学校だったし、歩くの大変そうなのにいつも一人で家の前を歩いてたのでよく覚えてる。双子の姉だか妹だかがいるはずなのに、いつも一人で見ててなんだかかわいそうだった。荷物を持てとか、そんなことは思わなかったけど、姉妹なんだし、なんで一緒に学校に行かないんだろうと思ってよく妹と不思議がってその光景を見てた。私と妹は毎日一緒に学校に行ってたから。
 あれは小児麻痺でなるのかな。小児麻痺って、なにでなるんだろう。自然と?それともなんかウィルスで?

 主人公は柏木に本質を突かれても、あくまで「世界を変えるのは行為だけだ」と強がってそれを貫き通す。ここでも結局柏木の言動は単に主人公の背中を押してしまうだけに過ぎない。真実を言っても止められないことを、むしろ拍車がかかることを分っててやってるような気がしてならない。それでもね、主人公のやることには一理あると思う。命は続く。姿を変えても。だから生臭坊主なんて、この和尚を殺したところで、また違う生臭坊主に変わるだけだ。けど、金閣寺みたいな命のないものはそれゆえに普遍的で、だからこそかけがえがない。そういう交換不可能なものを損なうことこそが主人公曰く、「とりかえしのつかない破滅であり、人間の作った美の総量の目方を確実に減らすことになる」という解釈は私にも通じるところだった。タリバンだってバーミヤンの石仏を壊したじゃないか。命のないものを必死になって残していこうとすることはひょっとしたら、この宇宙の営みからしたらバカバカしいことなのかもしれないな。ねえ?
 けど、度々気になったのが、三島の描いたこの頃は金閣寺ってひょっとして金箔を張り替える前だったんだろうか。あんなに金ピカになったのは最近なんだろうか。なんだか、話の中に「黒ずんで」みたいなことが書いてあったんで、ひょっとして今とは外観が違うのかなって気になった。だって、そしたら金閣に惚れるのはちょっと難しいんじゃないかと思って。建物のデザインだけなら銀閣寺の方が私は好きだし、金閣寺が素敵なのは金ピカだからなんじゃないかなと思うんだよね。

 あと、いいなと思ったのが、三島って花の名前に詳しい。それがいいなと思った。女の人でもそうだけど、ましてや男の人で草花の名前をいろいろ知ってるのはかっこいいなと思った。別に、野に咲くものの名前をマニアックなまでに知っているとかじゃなくて、和風庭園ならごく普通に見られる草花の程度をさらりと言えるのはとてもセクシーだと思う。私なんて、木賊なんてどんなんだかさっぱりわかんないよ。多分、三島はいいとこの出だから、きっと柏木みたいに生花が出来て、それで草花に詳しいんじゃないかなと想像した。

 最後、死ぬのかと思っていたけれど、結局最後はなりふり構わず金閣寺から逃げ出したもんだから、死ななくてなんだか拍子抜けしたけれど、主人公の最後の台詞に救われた。
 「生きようと私は思った」
 ならよかった。死んでしまってももちろんよかっただろうけど、最後の最後で生に対する執着を見せてくれたことになぜか私はすごくほっとした。よかったと思った。捨て鉢になっていた若者が、なんであれ、短絡的な死ではなく、生きることに道を見出してくれたことがなぜか私を慰めた。生きていて欲しいと願ったわけではなかったんだけど。

 「金閣寺」は高校生のときの国語の教科書に載っていたはずなんだけど、授業では扱わなくて、あらすじ紹介みたいなところだけを読んで、『これ読みた~い』と憧れたのを覚えてる。いつでも読めたはずなのにこんな時期になってしまったとは。人間生きてるうちになにをどれだけ読めるかって分らないもんだよね。

 もっと古典をいろいろと読みたいなと改めて思った。

金閣寺


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「蹴りたい背中」 [reading]

 思ったより楽しめたのが意外だった。けど、最初の印象は、やっぱり『こりゃ文章と言うよりメールだな』ということ。文学的な表現をちりばめてはあるけれど、高校一年生の一人称で進むこの話は文学的とは言うよりも、単に感傷的って感じだな。感傷的なのはこの年代の特権じゃん?読んでてちょっと自分の日記思い出しちゃったよ。ポエティックな感じはするかもね。後書きで女の人も「音感的」と評していた。

 終わり方もいかにも芥川賞が好みそうな感じだった。「蛇を踏む」とかもそうだったよね。結局落ちがないみたいな、「そこでこの話が終わっちゃったらこのドラマはどうなるの???」みたいなね。ハルキもよくそう言うのを書いていたので、私はそれをさして「読者置いてけぼりエンディング」と言っていたけど、先の二つみたいなのはハルキのとは趣向が違うし、程度としてはもっとひどい。ハルキのは一応の決着みたいのがあって、エンディングに余韻を持たせるような趣の置いてき方なんだけど、先の二つはドラマはオチとか決着とかそういうテーマとは無縁だ。つまり、表層的なことだけを綴っているようなもんで、物語と自分の距離感は最後まで詰まらない。まあ、「蹴りたい」は自分の日記を思い出したくらいだから、まるで共感できなかったって訳じゃない。「今時の」なんて評したって、実際のところ、私のときと、もしくは後書きを書いた女の人の少女時代となんら変わるところはないはずだ。変わったように見えるのは、その表面上の問題なんだよ。表面的なことに気をとられすぎなんじゃない?それこそ、高校生活という体裁を取り繕うのに必死になってる「絹代」みたいに。テーマはいつだってそこにあるんだよ。普遍的なものとして。人間の本質なんて変わんないんだから。ましてや日本人の集団意識なんて。
 だから、これで芥川賞が獲れるだなんて日本人の書く文学ってこんなもんかと驚いてしまう。中学生かよ。自分の日記を切り広げただけみたいな作品が他のあまたのノミネートに敵わなかったなんて。日本人の物書きの程度が低いんだか、選考員が悪趣味なんだか。

 いい文章を書く素質は持ってると思う。けど、「話」を書く才能があるかどうかはちょっとこれ読んだ限りだと私には見えない。この自分の日記を切り抜いたみたいな、エッセイみたいな域を超えない限り、本当に話を書く作家としての才能があるかどうかは分らないな。
 しかし、芥川賞って選考基準が甘いなぁ。こんなんで賞あげちゃっていいんだろうか。っていうか、意味あるのかな。日本ファンタジーノベルとかの方がよっぽど力があってストーリーテリングがあって、芥川っぽいけどなぁ。

 まあ、なんでもそうだけど、十人十色とか言う中で、1つの同じ価値を見出すって大変だよねえ。

蹴りたい背中


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「重力ピエロ」 [reading]

 私が気に入ったからなのかどうか、伊坂幸太郎の本をまた貸してくれた。

 やっぱりこの人の話面白いな。貸してくれた人はあんまりというんだけど、純粋に「面白い」と思うよ。やっぱりプロット組むのがうまいと思う。最後のオチが見え透いていたことが「アヒル」と比べちゃうと見劣りするけど、最近面白くないのが続いたからこういうの読むとほっとする。この人の話を読むと『物語ってアイディアだな』とつくづく思う。私にはないものだ。うらやましい。

 今回は遺伝子とかいう専門的な知識展開もあったりした。本を貸してくれた人が昔私に"selfish gean"っていう理論のあることを教えてくれて、この考えに肯定的だった。伊坂もそうなんだろう。世代が近いせいか、話の中で展開される知識もかぶっててさぞかし面白かっただろうと思ったんだけど、貸してくれた本人は「別に」だった。別に新しいことを言ってるわけじゃないから、だそうだ。

 今回の、というか、多分伊坂個人のテーマとして性と言うのがどうやらあるらしい。敢えてそう言うシーンを描かないのは、そう言うことに人並み以上に執着しすぎているからだろうというのが私の意見。サドを読んだり、あろうことか、ギャスパー・ノエなんかを引き合いに出してくる。ただの映画オタクであることを恥ずかしげもなく曝けるあたり、この人には恥ずかしいなんてことがないんだろうなとも思う。仙台ってホームグラウンドの名前も惜しげもなく出すあたりに郷土愛も感じるし。その様子から、自分と自分をはぐくんだ環境に誇りを持っていることは容易に理解できる。まあ本当は主人公の一人の話だから趣味を隠すも何もないけどね。ただほら、作者の趣味が丸出しだってことを言いたい。例えば、ハルキが時々垣間見せる趣味には恥ずかしいもんなんてない。どっちかって言うと鼻に付くほどきざな趣味で、だけど彼の場合それを本気で好きなんよね。だから罪じゃない。ただ、伊坂の場合、好きなものに対する愛情が読んでるこっちが恥ずかしくなるくらいストレートに伝わってくるんで、そんなにあけすけでいいのかなって思うってこと。
 というわけで、この作品の最大の失敗は『趣味は小出しにすべきだった』と言う点。作者自身の趣味がばれちゃうとキャラが知れてしまって新鮮味がなくなるし、なによりプロット先読みされちゃいかねない。キャラが同じで許されるのはハルキくらいだよ。だから、趣味丸出しで面白かったんだけど、これ以上この人の作品を読んで面白いと思えるかなって、ちょっとそれが不安になるくらい自信の趣味がてんこ盛りだった。

 おそらく、伊坂のもう一つのテーマが友情。この作品がということではなくて、多分本人的に、と今まで2つ読んで思った。なぜなら友情は人間関係の基礎だから。基本の人間関係がしっかりしているからこそドラマは面白くなる。だって結局はドラマって人と人との繋がりの賜物でしょ?だから男と女のホレたハレたより面白いんだと思う。そこを超えたところにある話だからとも言えるし、それを支えるものだからともいえる。
 でも今回それは友情ではなく、愛情だったと思う。家族の。兄弟と父親の話だったから。私が、こんなに仲のいい兄弟は気持ちが悪いし、実際に見たことがないと言ったら、本を貸してくれた人は「血が繋がってないからでしょ」という。でも、繋がってないと知ったのは二人とも大分大きくなってからじゃない。私の周りにいる男兄弟で仲のいいのって見たことないんだけど、この兄弟はゲイなのかと思うほど心理的な距離が近い。こういうのってありあえるのかな。

 涼しい顔して難しいテーマを扱っていると思う。性と犯罪と加害者と被害者という。そしてその被害者が一人でなく、家族だった場合、どう乗り越えるかという。
 結局は自分でけりをつけるしかないというのが伊坂の示した結論だと思う。どんなに法が整備されていても、それは悲しいかなただの文字で、実質的な人の行いを制限出来るわけじゃない。つまるところ、人が平和に暮らせるのは、その他の人の良心によってでしかない。言い換えれば、私たちは平和に生かされているということになる。どんなに法が裁くといっても、それは結局何かしら不幸が起こった後でのことに過ぎない。被害者が本当の意味で立ち直ろうとするとき、乗り越えようとするとき、最終的に必要なのは、本当の意味で自分を救うのは、他でもいない自分自身だってことなんだろうと思う。だって、愛する人が殺されて、たとえ犯人が死刑になっても、それで満足ってことにはならないでしょう。大事な人は取り戻せないんだし。そうしたら何が自分を救ってくれるだろう。『誰も誰かの青い鳥にはなれない』と萩尾も言っていた。だったら、救済は自分自身の中に見つけ出すしかない。なんだか仏教的だけど、でも究極的にはそうなんだと思う。
 本を貸してくれた人が「なんで人を殺してはいけないんだと思う?」という問いに、私が答えられないでいると、「自分も殺されるから」だと教えてくれた。当時はそれでもまだよく分らなかったけど、その後、悲惨な出来事に出会うたびにその意味がだんだん分ってきたような気がする。多分それは残念なことなんだろう。

 そう言う迷路みたいな不幸に遭っていないだけ、自分はまだ恵まれていると思う。この前なんて、特急電車の中で暴行を働き続けていた男のニュースを読んで心底吐き気がした。だって、ニュースになってたのは捕まったその男の余罪の方だったんだよ?1年も前の。他にいた乗客はみんな見ぬふりをしたという。そんなことってあり得るの?車掌も呼べないの?相手は拳銃や包丁を持っていたわけでもないのに。助けを呼ぶことも出来ないほど恐怖したまだハタチの女の子はだまってトイレで犯された。被害の起こった鉄道会社は「トイレにある緊急ボタンを利用してください」と言っただけだった。常習犯の犯行現場だってのにだよ?みんな頭おかしいんじゃい?
 私たちはそう言う狂った世界に生きている。平和で暮らせるほうが不思議じゃない?私はこの黙って置かされてしまったまだハタチの女の子がとても心配だ。この先どうやって生きていくの?いまどうして生きているの?どうやったらこんな理不尽を自分に納得させられる?その場にいて見て見ぬ振りした男はみんな死んでしまえばいいと思った。

 話がそれたけど、性って言うのがこの話の大事なテーマでもあるから。「春」はこの個人的な決着のためにとっても回りくどい方法をとる。それが正しいとかってことは誰にも裁けない。これは「春」の出した答えだから。少なくとも、「春」とその家族にはこの解決策しかなかった。そこに他人の入り込む余地はない。と思う。それを支持するとかしないとかは問題じゃなく、それについて考えることが伊坂の狙ったことじゃないかな。父親が、息子の手を取って「よくやった」的なことを言うのはどうかと思うけど。

 そして必ずペットショップとボブ・ディランが出てくる。犬が好きみたいね。犬に癒されるって感じが滲み出てる。そして、描写だけでガンズの発禁になった1stアルバムのことを言っているんだなと言うのもわかった。世代が近いと肝心の名前を隠してもバレバレだ。
 本を貸してくれた人曰く、「必ずかっこいい男が出てくる」と言ってそれに納得いかない様子だった。確かに「春」があんなにかっこよくある必要があるのかどうかは私も疑問だけど、多分それも伊坂のテーマなんだろう。息を呑むほど美しい男と、作り物みたいに美しい女性が。必要性とか言うことを問われると、まあ確かにねという感じはするね。私は人として魅力のあるキャラのがいい。ので、自分にバカ正直なお兄ちゃんはとっても面白いキャラだった。
 「春」は験を担ぐのに忙しい。ジンクスも犯さない。なんでこんなに験担ぎにしつこいのかと思ったら、貸してくれた人に本の感想を言おうと思ってメールを書いてて、伊坂の名前を間違えてないかググって見たら理由が分った。伊坂幸太郎は西村京太郎にあやかって同画数でつけたペンネームだった。私は験を担ぐっていうのは「春」のキャラのために作った性格かと思ってたら、お前自身かよと思って正直ここまで来るとあきれてしまった。

 1個の作品で引き出し開けすぎなんじゃないかと思って、伊坂幸太郎のこの先が心配になった。

重力ピエロ


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「神様からひとこと」 [reading]

 これは唐突に買ってもらった本。私は時々突然本をプレゼントされる。されるけど、私の好みとか関係なく、その時の話題のものを買ってくれる。何とか賞とか。そう言うの、人にもらうんでもなきゃ読まないんで、買ってくれるのはうれしいんだけど、これは、帯を見てもあんまり気乗りするような感じじゃなかったんでなんかちょっと嫌な感じだった。WOWOWでドラマ化されてるってこともなんか引っかかった。ましてや、帯に「258ページ目で面白~い!と声がでます」とか書いてあって、まさにその258ページ目にしおりが挟んであったいやらしさも鼻に付いた。
 しかして、読んでみてやっぱり困ってしまった。あんまりつまんないんで、途中から別の本を読み出してしまったよ。まあなんとか読み終えましたけど。

 こういうのなんて言うんだろうなぁ。リーマン向けのマンガって言うのがあるじゃない?それの小説版みたいな感じ。一番気になったのは、書き手が無理して若いキャラを作り出しているところだった。なんかすごい読んでて不自然で。だって、主人公が20代半ばなのに、それといくつも違わない彼女が60年代フリークでちっともしっくり来ない。設定年齢をもっとあげてもよかったんじゃないかと思う。もしくはそこからもっとらしく下げるべきだったと。

 書いてある内容も、私にとっては特にこれと言ってめずらしい話なんかじゃなかった。確かに、ドラマにするには時間軸が一定で、小さくまとまってるから、この手の内容にはよろこんで手を出しそうだなと思った。つまり、ドラマになるには分りやすさ以上に求められるものなんてないってこと。ちょっと専門的になりすぎると途端に見る人少なくなるから、そう言うのならNHKにやらしときゃいいって感じなんだろうな。NHKは結構専門的で硬派なドラマにも手をつける。多分、税金で作ってるって言うプライドって言えば聞こえがいいけど、責任っていうか、プレッシャーがそうさせるんだろうな。逆にそうであればいいと思う。だからこそ、生ぬるい作品は作らないで欲しい。お金の無駄だから。そんなことするくらいならいっそのこと出来のいい作品を安く輸入してくれ。

 話がずれたけど、一番の問題はキャラに魅力が感じられないこと。これが主人公の成長していく話だからということで、主人公が箸にも棒にもかからないのは100歩譲って置いておくとして、そのダメ男が憧れて、働くことの意味を見出す相手に魅力が感じられないのは問題だろう。ましてや、その憧れの対象が掘り下げられていないのも問題だった。それがないとただの仕事は出来るけど救いようのない程社会不適合な男にしか見えなくて、感情移入する隙がないじゃないか?つまり大した男でもないのに仕事が出来るってだけで憧れているみたいじゃん。ダメだろう。そんなの。

 一番最悪なのはクライマックスの会議の席上で、言わなくってもいいことを言うためにわざわざ「辞めてやるよ」の啖呵を切るシーン。とてつもなくかっこ悪い。そう言ういうことは辞めないで言うことに価値があるんじゃん。会社の者でもない人が吠えた所で何の意味もない。これがサラリーマンの読む小説でいいんだろうかと首をひねった。辞めるならいつだって誰だって出来るんだよ。
 このドラマの放映中はチューナーが壊れてたので観ずにすんだのが幸いと言えば幸いだった。

 恩田陸を読んだときにも思ったけど、こういうのが職業作家なのかなぁ。恩田陸は書かされている感を微塵も隠さないけど、この作品だって本当に書きたくて書いたんだろうかって感じがするんだよね。
 きっと、ハルキみたいに本当に書きたいことだけ書いて生きていける人ってそんなにいないんだろうなと思う。


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「アヒルと鴨のコインロッカー」 [reading]

 面白い。「多田便利軒」並に面白かった。
 つまり、この作品も文学的にどうとかいうより、ドラマ性に優れてるというのが読み終わって最初の感想だった。読み始めてからこの作者が「陽気なギャング」の原作者でもあるということを知るにつけ、更に納得した。最初からドラマ化されることを当て込んだかのようなこのプロットは確かにそのまま脚本にできるだろう。それくらい、文学性よりもドラマ性に際立った作品だった。

 話の内容的にはとてもシンプルなんだけど、とても手の込んだプロットにしてあって、そこが作家としてのテクニックなんだと思うんだけど、でも、読み終わって、この人はこういうのが得意なんじゃないかと直感的に思った。宮部みゆきが書く話みたいに、それを書くために特別何かの分野に対する深い造詣が必要だったり、入念な調査が必要だったりする話ではない。そこが好ましかった。ただ単純に作家としてのプロットのテクニックの問題だと思う。そしてそれは多分もうセンスの問題だと思うんだよね。そりゃ訓練すれば確かにある程度うまくはなるのかもしれないけれど、それ以上は、本当の意味でそれを完全に操れる、もしくは自然に操れるようになるには、話を描く場合にだけではなく、どんなことにおいても、才能って言うのが必要だと思うし、その才能には個人差、つまり、限界があると思うのよ。そしてこの人の場合、その方面の才能が人より長けているんじゃないかと思った。だから、それくらい話の本筋としてはシンプルなものなのよ。
 宮部みゆきなんかを読んでると、ここまでしなきゃ人にいいって言われる小説って書けないかねと思ってうんざりするけど、こういうシンプルな筋をテクニックだけでこんなに盛り上げられる人の作品に出会うと、ほんと心が洗われるようにほっとする。まあいろんな作家がいていいって言うことだろうとは思うけど。

 へんてこなこの物語のタイトルは読んでると何のことを言っているかちゃんと分るようになっている。二人で神様を閉じ込めに行くラストシーンは感動的ですらある。ちょっとキザ過ぎると思うかもしれない。椎名みたいに。作りすぎだと。だけど、それをやっているのがドルジだから、全く違和感はない。むしろすべてが型にはまる。物語がそう終結することで、すぺてのピースがはめ込まれたパズルみたいにすがすがしい気持ちにすらなる。私はドルジのキャラが一番好きだったな。彼がこの物語で一番重要なキャラだったと思う。椎名とドルジ。椎名は自分がこのドラマの部外者だと思ってる。だけど、実際には彼なしにはこの物語は終われなかった。彼こそがこの話に必要なヒーローだった。

 私が好ましく感じたのは、キャラを相当丁寧に作り込んでいるということだった。それがこの作者の才能でもあり、作品の魅力になっているんだろうと思う。そんなえエピソードはなくても物語は進むというような、本筋とは関係ないちょっとしたエピソードをちょいちょい挟んでくるんだけど、そのエピソードが無言のうちに語るドラマはまた別のドラマを呼ぶくらいに大きい。この作者の伊坂って人は、ちょっとのエピソードでうまく作者にドラマを想像させるテクニックってのをもってると思う。うまく導入部分だけを示してあげれば、後は読者がいいようにドラマを膨らませていくという手法を心得ていると思う。私が感心したのは、麗子さんが痴漢を摘発するエピソード。最初これ自体は、椎名と出会うきっかけを付くだけの口実に思える。事実、本筋とはまったく関係がない。だけど、実はそのエピソードが本筋の結果がもたらしたものだと知るとき、読者はそこに文章にされなかった別の物語を一瞬にして想像する。あれには圧倒された。いい意味で閉口させられたよ。そんなところまで計算してプロット考えてるのかと思ったらその小細工が憎らしくてしょうがなかった。
 あとは、話にセックスの描写がでてこないことも好ましかった。どんなに節操のないキャラを出してこようと、カップルを出してこようと、決して具体的な性描写を必要としない物語であることに好感が持てた。ドルジと琴美の愛情はあくまで会話の中に現れる。そこに単純にセックスに走る愛情表現よりももっと深いものを感じられる効果があったと思う。

 なので、河崎のキャラにはちょっと抵抗があった。これだけキャラのよく描けているんで、河崎の支離滅裂さはどうしても気になた。河崎は、自分の目指している人生とは裏腹に小さな人間で私をがっかりさせた。むしろ、ドルジの演じる河崎の方が一貫していてより河崎らしいような気すらしたけど、それはきっとドルジの性格が反映されているだけのことなんだろう。つまり、河崎自身、河崎を演じようとしていたんじゃないだろうか。
 あと気になったのは、琴美と河崎の関係どう始まってどう終わったからこんな状態に到っているのかが分らなかったこと。琴美の河崎に対する嫌悪感がいまいちリーズナブルに伝わらなかった。
 それと、出てくる女の子のキャラが偏りすぎてるようなところも気になった。普通の女の子が出てこない。みんな変わってて、癖がある。まあ、煎じ詰めればみんなそうだって言いたいんだろうけど、でもそれって、ちょっとリアルじゃないよね。こういうとこがキャラクター小説の欠点かなと思った。
 で、河崎の意外なまでのナイーブさ以上に気になったのが、死人の多いこと。『ちょっと死にすぎなんでは?』と思った。みんな死ぬ必要はないんじゃないかな。
 最初の方で、特に地名とかが出てこないのも、そう言うのを隠すタイプの人なのかなとちょっと気になったけど、途中唐突に「仙台」って言葉が出てきて、そのモヤモヤも解消されたのでよかった。ドラマの中心がローカルであることにも好感が持てた。きっと伊坂なんとかって仙台の人なんだろうなとか思ったりして。

 物語のクライマックスで超自然的なエピソードを入れてきたり、キザなまでのラストシーンにお涙狙いのプロットが隠せないけど、でも、ドラマとしての完成度はすばらしいと思う。久しぶりに胸のすくような話を読んだ。

アヒルと鴨のコインロッカー


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「流星ワゴン」 [reading]

 重松清は昔の職場の人に薦められたことがあって、じゃあまあいつか機会があったらと思いつつ、なかなか自分では触手が伸びずにいたけれど、たまたまその「機会」にぶつかった。
 この話は映画化されたことを先に知ってて、原作が重松清であることはこれを読むまで知らなかった。私の印象では映画自体は予告を見る限りでも地味ぃーーな感じで、とくに評判を呼んだという感じはしなかったけど。

 長い話を短くすると、「ずーーーっと辛気臭くてうっとうしかった」というのが率直な感想。最初パラパラめくってたまたま目の留まった、
 「死んじゃってもいいかなぁ、もう」
 という主人公の台詞に、それだけのドラマがあるんだろうなと期待してしまったとことがまず不幸だった。
 ドラマはある。あるにはあるが、問題はそのドラマに感情移入する隙がどこにもないということだった。読者って、大なり小なり自分の経験から想像力で話を膨らませるわけじゃない?しかし、今回に限ってはそれが出来なかった。多分、主人公に共感する部分が何もないからだろうと思う。重松本人、「「父親」になっていなければ書けなかった」と断言しているくらいだから、私でなくても大抵の女の人には分りにくいんじゃないかと思う。これはオジサンドラマである。
 主人公が必ずしもヒーローである必要はないと思う。けれど、この主人公の不甲斐なさをどうしろと言うんだ。この救いようのない家庭崩壊のクロニクルドラマは、例えそれが限りなくリアルだと分っていても、やはりただ不快でしかない。それでも決してこの話を否定しているわけじゃない。むしろこういう話も世の中に「必要」ですらあると思う。本当に。だって、こういう現実が存在するだろうから。私はどうであれ、これに共感する人、気に入る人がきっといると思う。そのために必要だと思う。
 しかしだ、それが私にとって100歩譲った建前であることははっきりさせておこうと思う。

 私は、前の職場の人が一体重松清の何を読んで私に薦めたのか首を捻るくらいこの話を読み進めるのはしんどかった。なんか、間抜けが集まって、よってたかってみんなあるかなきかのつまんない意地を張ってるから不幸になっただけのような気がするのは私だけか。自分の不幸はみんな自分のせいだと思う。お父さんが不幸なのはお父さんが意地を張ったからだし、その息子が不幸なのはその息子が意地を張ったからだし、その息子の奥さんが不幸なのはその息子の奥さんが意地を張ったからだし、その息子の奥さんの子供が不幸なのもその息子の奥さんの子供が意地を張ったからで、みんな好きで不幸に邁進しているようにしか見えない。まあ100歩譲って子供の不幸は親の監督不行き届きもあったとしよう。それでも本人があれだけ意地を張り続けていたならそれを改心させてまで中学受験を止められる人がいるだろうか。そうなったらそうなったでまた違う不幸に陥ったかもしれないじゃない。中学受験をしたいと言ったのはあくまで彼自身だ。小学生で、自分が不幸なのは自分の選択したことの結果だと言って突き放してしまうのは酷かもしれないけど、肝心なのは起きてしまったことをなかったことにしてやり直すのではなく、それをどう乗り越えて前に進むかだと思う。成長するってそう言うことだと思う。
 だけど、奥さんの場合はちょっと違う。彼女は純粋な病気だ。夫の不甲斐なさからストレスでセックス依存症になったわけじゃないから始末が悪い。奥さんに必要なのは夫の愛情じゃない。自分がセックス依存症だと夫に告白する勇気だ。他の依存症と同じで、まずは自分がそうであるということを自ら認めて公言できるようにならなければ、夜遊びの現場を1度や2度押さえられたところで治らないと思う。そんなの見つかったからしばらく大人しくしとくって言うあれと同じだよ。大事なのは、それを二人で話し合うということだと思う。しかし、「愛妻日記」の内容を聞きかじるに、きっと重松清はもともとそういう女の人が好きなんだろうというのが私の所見。

 つまるところ、この話は、肝心なことを何も話さずに上っ面だけで生活してきた形式的な家族がどういう不幸をたどるかという話のように感じた。そのくせその根は深くて救いようがないのに、ちょっと過去の事実を振り返って主人公が心を入れ替えただけで環境が好転していく兆しをみせるに到ってはことさら納得いかなかった。だから、主人公だけの問題じゃないだろが。にもかかわらず、それに気をよくした主人公は交通事故死した親子の命日に家族を連れて現場を訪れてみるとか言い出すし。気は確かかっつーの。一人で行けよ。

 そして、これが一番重要なんだけど、主人公と同い年の主人公の父親が現れる意味がいまいちよく分らなかった。いっそいなくてもドラマは成り立ったような気がするし、なにしろ帯にまでそこがフィーチャーされている割にはそこにドラマの核心はなかったように思う。それでもわざわざそういうプロットにしたのは、重松清が父親に作品を捧げたかったというだけのことなんだろうなと後書きを読んで思った。

 つまり、浅田次郎以外にもオジサンファンタジーを書く作家がいるということを知ったのがこの作品との出会いの総括になるかと思う。まあ、浅田次郎よりかは大分若いのかもしれないけど。

流星ワゴン


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