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「抗夫」 [reading]

 ハルキが「カフカ」の中で「抗夫」に関する考察を繰り広げていたので、どんなものかと、漱石の総括として読んでみたんだけど、前にお父さんに言われて意味の分らなかった表現がこの話の中に出てきて豆鉄砲を食らった気持ちだった。
 「これより以上は横のものを竪にする気もなかった」
 そんなに古い時代の表現なのかと思ってびっくりしたのと同時に、さすがに全集を持っていただけはあるなと、お父さんの在りし日の文学青年振りを思って惚れ直した。本当に、本当に、あの夏目漱石全集を捨ててしまったのが悔やまれる。昔ながらの丁寧な紐閉じがされた、深い緑色をした布張りの装丁で、タイトルは型押しだったと記憶している。古ぼけた扉つきの本棚に収まった立派な本は、みんなお父さんのもので、お父さんには「三四郎を読め」と言われたけれど、ぱっと見難しそうで、まだ小学生だった私は『大人になったら…』と思っていた。
 あれをお父さんはいつ買ったのか知らないけど、「500円」と書いてあった。多分、今の5000円はくだらないだろうな。なぜ捨てたかな…。ひょっとしたらあれを買ったのはおじいちゃんかも知れなかった。

 出だしはよかった。リズムがあって。「自分」はなんの釈明もなく松原を歩いている。とにかく「自分」が歩き進めないうちは物語も進まなくて、面白い出だしだったと思う。それが江戸っ子気質なのかは分らないけど、会話や表現のレトロな言い回しとかも歯切れがよくて小気味よかった。
 「こう松ばかりじゃ所詮敵わない。」
 なんかおじいちゃんとの会話を思い出す。この表現がどういう感情の賜物なのか正確には理解できないけど、でもなんとなくはわかる。この仰々しい表現がおかしい。
 ハルキを思わせる表現とかにもあったりして、ああやっぱり漱石が好きなんだなと改めて思った。

 私がこの話でもっとも惹かれたのは、この話が実話に基づいて書かれているという点だった。それも、ある日突然この物語の主人公の当人が漱石の家の戸を叩いて家に上がりこんで私の人生を小説にしてくださいと一方的に押しかけてきたと言うところだった。このエピソードは「カフカ」の中では触れられていない。私が書店で実際に本を手にとって見て初めて知った。ある日突然見知らぬ人が家にやってきて自分の人生を書いてくれなんて押しかけてくるなんて、それ自体がドラマだなと思ってとても興味が湧いた。

 それで、一体どんなドラマがあったらいいとこの坊ちゃんが何の頼りもなしに家出なんかしてしかも炭鉱なんかで働くことになるのかなと思っていたら、理由はあきれてしまうほどしょうもないことだった。つまりは女性に誠実でいられない性分の人のようだった。っていうか多分この人は自分の他のどの人に対しても誠実ではいられなかったんじゃないかと思う。だから家を捨てて、慕ってくれた女の子たちを捨てて、果ては自分のアイデンティティーをタダでも確立してくれている社会すら捨てて逃げ出すんだろうな。本当に家出の理由が女の子二人をどうにもしがたくなって逃げてきたなんてあきれてものが言えなかった。ただ、面白いのは、最初のうちこそその女の子たちの名前を伏せているんだけど、最後のほうになるとそんなことはなかったかのように唐突に名前が出てきて面食らったこと。「艶子さん」と「澄江さん」。でも「艶子」って、漱石のほかの作品でも見たような気がしたから、作った名前なのかもしれない。でもだったら、なぜ最初から名前を出さないか。もしくは、なぜ作った名前をわざわざ後で当然のようになんの注釈も挟まずに出してきたのか分らない。
 この主人公は19歳の甘ったれで世間知らずなお坊ちゃんらしく、無駄に強がりで頭が悪く、ひがむことばかり一人前で、不平や不満でいっぱいでも口に出して正当化するような勇気はない。読み進めるうちに、この子はこのこのうちに生まれつくにはあまりにも性質が合わな過ぎると思った。もともとああいう世界で生きているようには出来ていなかったんじゃないかな。

 それでも、ある種人攫いのような手口で鉱山へ連れて来られて、下品で粗野な連中に扶養に辱められながら坑道の地下深くまで文字通り落ちていく過程は痛ましく、一体なんでこんなことをと思う。鉱山は絵に描いたような掃き溜めだ。作業する場所がと言うだけでなく、それを動かす体系にかかわっている全て、あの主人公をこの世界に引き込んだポン引きや、彼と顔なじみだったあの茶屋までが私には醜くく見えた。悪と言ってもいいかもしれない。それが日本の経済活力のなんであれ、そこには誇れるような人間性なんてありゃしない。搾取。労働力としてだけじゃなく、人としての自尊心や命までもが当然のように吸い取られてしまう様は、これが同じ国の何十年か前の話なのかと思うと、驚かざる終えない。人が人らしくなったのって、つい最近のことなんだと、改めて思い知らされて驚く。
 ただね、この「実際そのときは十九にちがいなかったのである」という「自分」の行動自体は本当に幼くて、年相応に思えるんだけど、その行動を斜に見るような考察には諦観があってどこまで本当に当時の思いなのかは分りづらいし疑わしい。実際「自分」も"今になって思えば…"的なことを言ってるし。どれくらい後になってこれを書きに漱石のところへ来たんだろう。

 この救いのない殺伐とした風景の中で奈落へ向かってまっしぐらとしか思えない話のラストには、意外な展開が待っていてちょっと私も驚いた。『あっそう』って感じで。けど、こんなひねくれた弱虫でも、19歳の若い魂が潰されることもなく、かと言って自分の意思でというわけではなかったけれど、それでも別の道を見つけられたということはなんとなく読んでる私にとっては救いだった。そして、経った5ヶ月で辞めたというのも彼らしいと思う。個人的には、たった5ヶ月という短期間で辞めたといういきさつもさることながら、見ず知らずの「自分」に自ら帰路のお金をくれてやってでも坑夫になるのを思いとどまらせようとした「安さん」の物語が気になった。「自分」はそれを聞いたはずだから。「曲がったことが嫌いだから、つまりは罪を犯すようにもなったんだが」という安さんのドラマが私は気になった。「中学以上の教育を受けたこともある」ってことは多分当時の社会じゃ知識人の方なんじゃないのかな。そんな人がどんな目にあったら、「社会にはまだ此処より苦しい所がある」なんていうと思う?この人は鉱山がどんなところか知り尽くしているのにだよ?正直って、こんな所で、こんな甘ったれのどうしようもないのが、安さんみたいな人に出会うなんて出来すぎてると思ったよ。実際、「夏の土用に雪が降ったよりも、坑の中で安さんに説教されたほうが余程の奇跡の様に思われた」と書いている。まあ、安さんは作品中の良心として作り出されたという線も否めなくはないけどね。
 安さんが実存しようとしなかろうと、「自分」は坑の底で地獄と直に相対するようなこともなく東京へ帰ってきたわけだけど、漱石のところへやって来たのは別に自分の人生のドラマチックな部分を文学として残しておきたいとかそう言うセンチメンタルな理由でも、芸術に対する高尚な欲求でもなく、ただ単に手っ取り早く身銭が欲しかったからだった。後書きに記されていた内容によると「信州に行きたい」とか抜かしたそうである。つまりこいつは、坑に行って地獄を垣間見て、そんな中で鶴のような安さんに身体を張って守ってもらった経験があっても、性根は治らなかったということになる。

 物語は唐突に終わる。私の知りたかったことに関して、というか、全体的ももう少しドラマを膨らませるサブストーリーがあってよかったんじゃないかと思うんだけど、それは「自分」が語らなかったのか、漱石が物語りに仕立てられなかったのか、仕立てなかったのか、分らない。漱石は坑の中を緻密に描写することに凝っていて物語はそこにばかり厚みがあるもんだから、坑の中に入ってしまうとちょっとうんざりする。「坑」を書くってことに気をとられすぎてて、もう少し「色沙汰で家出して坑やってきた19歳の青年の物語」っていう主体を欠いてた気がする。つまり思ったほど中身にドラマはなかったってこと。それがつまらなかったかな。
 確かに漱石は美文だ。美しい表現もいくつもある。文章が緻密になってもなお美しいバランスとか響きを持っていてくどくならない。その才能は物書きとしてすばらしいと思うし、これと同じことを出来る人を私は他に知らない。けど、惜しむらくは漱石には物語を紡ぐという作業が不得手なように思う。今風に言うならプロット作りが下手って感じ。核となるアイディアに気を取られて、物語全体という視点から作品を形作れていないような気がする。だからラストとか、細部が疎かになるんじゃないかな。だから、「夢十夜」ではあまりそれが目立たなかったんで私は漱石の文章に惚れてしまったんじゃないかなと思った。

 しかし、こんなに美しい文章が書ける人なら、努力のし甲斐があるだろうなぁ。


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「はじめての文学 村上春樹」 [reading]

 ハルキのレビュー書くのも初めてだけど、短編の感想を書くのも初めてだな。
 本当はこの本騙されて買っちゃったんだよね。私、ここに収められているのはみんな書き下ろしだと思ってたら、殆ど読んだことのあるものだった。最悪。Amazonめ。でも、今回に限らず、ハルキの短編集では度々こんな目にあっている。多分、誰彼がこぞって編集しまくっているからだろう。

 「シドニーのグリーンストリート」
 これは結構好き。最初タイトルを読んだ時の印象はよくなかったんだけど、読んでみたら結構気に入った話。女の子の名前が「ちゃーりー」って言うのも気に入ってる。なんで「ちゃーりー」って括弧付きでひらがななのかは分らないけど。でも、ちゃんとストーリーになってて好きなんだな。かなり突拍子もない展開だし、話の筋には無理があるけど。なぜか違和感を感じさせないエンディングがハルキのなせる業か。

 「カンガルー日和」
 この話は好きじゃない。

 「鏡」
 「とんがり焼きの盛衰」
 「かいつぶり」
 この3つは初めて読んだけど、大して惹かれなかった。なんだか強引な感じがして嫌だった。

 「踊る小人」
 これはちょっと微妙だな。好きでもあるし、嫌いでもあるっていうか。言うなれば、嫌なんだけど、癖になっちゃうみたいな感じ。印象としてはハルキの初期的な匂いが強くする作品。ハルキの表現て、かなり婉曲的だと思うんだけど、この作品はめずらしく直接表現をしているのに気が付く。小人のキャラクターが好きだな。情熱的なんだけど、魔性の権化でもあるみたいなね。

 「鉛筆削り」
 「タイムマシーン」
 これは同じプロットの中身違いみたいな作品。お遊びで書いたみたいな印象が残る。

 「ドーナッツ化」
 「ことわざ」
 「牛乳」
 「インド屋さん」
 「もしょもしょ」
 「真っ赤な芥子」
 この辺は星新一みたいな感じのするショートショートが続くんだけど、なかでも「ドーナッツ化」なんかはシュールで好きだった。
 「牛乳」は牛乳屋が一人称でしゃべってる話なんだけど、その男の異様さは「ねじまき鳥」の牛河を思い出させた。一方的で執拗な思い込み。本人はいくらでも自分の考えを正当化してみせるんだけど、そうされればされるほどこっちはその異様さにたじろいでしまう。ハルキはこういう人を書くの得意なんだなとこの時初めて分った。だからオウムの事件に興味を惹かれたんじゃなかろうか。
 「インド屋さん」はかわいらしい話で好きだった。インド売りが「インドが足りないんですよ」と言うに到ってはぎょっとしたよ。ここにもそんな言い方をする人がいたよと思ってびっくりした。私自身、「ガンダムが足りない!」って言われたことがあって。「ガンダムが足りない」と「インドが足りない」は用法的に同じだよねえ。きっと。でも、「ガンダムが足りない」って?「インドが足りない」って???これはその?が世界になって書かれていた。
 「真っ赤な芥子」もかわいらしい話。エロなしグロナンセンスものって感じの。80年代らしい不条理話だった。こういうの子供の目にはどう映るのかな。

 「緑色の獣」
 この話あんまり好きじゃないんだよな。ハルキは私に好印象を与える女性を描かない。なぜなんだろう。ハルキの描く女性を素敵と思ったことないんだよな。性格がひねてて、皆不健康なんだもん。
 
 「沈黙」
 本人が書いた後書きを読んでかなり初版から手を入れたことを知った。なるほど、そう言えば私の記憶していた場面がなかったりするかもしれない。尺的にもちょっと短い気がする。この話はハルキ自身の体験を反映しているらしい。いじめの話だ。それをどうやって乗り越えたか。それがどう今にも影響を与えているかを書いている。だからこそ、今同じような境遇にあっている人に読んで欲しいとハルキは言っているのだろう。私自身の経験とは重なる部分がないのか、あまり響くところはないんだけどね。それにこの話は重くて苦手。結局、読みながら主人公と同じ経験をしているのかもしれない。それは一人称に原因があるんじゃないかなと思う。話してる主人公の感情に巻き込まれてるのかも。作者の狙った効果を出せているわけだからかなり作品としては成功していると言わざるを得ないだろうけど、読むほうは大変。疲れちゃうんだもん。

 「かえるくん、東京を救う」
 これは初めて読んだ。ハルキを薦められた人にハルキってどんな話を描くのかって聞いたら、確か「普通の人に起きるファンタジー」みたいなことを言ったと記憶してるんだけど、それを思い出させる作品だった。私のハルキのファンタジーを気に入っている理由は、それの起きる範囲がとても狭いということ。世界全体がファンタジーなんじゃない。それが起きる人は決まっていて、そのファンタジーは共有できるものじゃない。それを誰かに話したところで分ってくれる人はいない。そこが好き。そうすると、世界のなにが本当でなにが嘘かってことが曖昧になるよね。そのメッセージ性が私は好きでハルキを読んでいるんだろうなと思う。

 いずれにしても、「カフカ」以降、腕を揮わないハルキがいつまでこんなことでお茶を濁しているつもりなのかという考えがどうしても湧いてきてしまう、新たな機会だった。

はじめての文学 村上春樹


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「ギフト」 [reading]

 急にまともな話に戻っていて意外だった。ゲドの最後の4巻目以降のノリからは想像するとかなり心配だったんだけど。

 雰囲気としてはゲドの1巻目に似てるんだけど、書いてる内容は、そして多分こ作品で描こうとしている内容自体はゲドの後半3巻で試みたことと同じなんだと思う。つまり、「ギフト」はゲドシリーズの後半で表現しようと試みて失敗してしまったテーマを、うまく前半の3巻までの世界観を失わずに融合さることに成功していると思う。しっかりしたプロットと、それを支える世界観。今回は大丈夫なのが読み始めてすぐに分った。だから安心して読み進められたし、実際ストーリーをじっくり楽しめた。
 じっくり楽しめる。そんな落ち着きというか、どっしりとした貫禄がこの作品の印象かな。

 人間の愛憎とか、美醜、ゲドの後半で表現に試行錯誤した世の中の理不尽や不条理をうまく混ぜ合わせて世界を作って、しかもドラマチックに描けている。
 人間は本当に本当に些細なことで諍いを起こして、後戻りできないほどの不幸に突き進んでしまうおろかな生き物だと言うことを改めて認識させられる。けれど、その行動心理がただ単に自らの子孫を未来につなげると言う、これまた生き物としてのなんとも単純な本能にしたがっているだけだと言う純粋さも否定できない。美しさとその儚さが混然とする絶妙な作品だったと思う。

 古風でキュウキュウとした暮らしをしてて、生き延びるため以外の知識を大して持たない人々が、小さな集団に分かれてお互いに触れ合うことを怖がりながら暮らしてる。その様子が奇妙だった。こんな状態は誰にとっても得するところなんかないのに。和平を結ぶと言うオプションは彼らの中にはない。平和とかそう言う意味合い自体が彼らの存在の中になかったような気がする。もっと互いの利益を求めて協調したり、尊重しあったりしてもよさそうなのに、無学ゆえなのかなんなのか、どうせバレるのに他人の物を盗むとか、どうせ仕返しされるのに自分の気に入らない奴は殺すとか、そういう短絡的な行動に出て、結局みんなして不幸を舐めあっている。よく分らない。何でこんなことを?
 それともこれがグウィンの伝えたかったことか。ただでさえ貧しいのにあるかなきかの利益をみんなして奪い合っていると。みんなでハッピーになれる方法が他にいくらでも考えられるのにと。
 だからこのお話は決してハッピーエンドじゃない。どころか、誰も幸せなになれない。そんな悲しいお話だったように思う。確かに物語の最後でオレックとグライが連れ立って旅立つ姿に希望を託せなくもないかも知れないけれど、私はそう言うふうには見えなかった。むしろ苦境の中に自ら突き進んでいく痛々しい姿に映った。低地の人間に恐れられている高地の彼らが低地に移住して、「幸せに暮らしましたとさ」と言う風になれっこないのは誰だってわかる。にもかかわらず、ブランターの息子として生まれつきながらギフトに恵まれなかったオレックは既にその資質が不幸だし、反対にグライはその能力ゆえに低地は蔑まされることは目に見えている。誰も幸せにならない。みんなが不幸を分け合っている。だけどその不幸はみんな彼らが作り出したものだ。なんだかその様子が、不幸の連鎖というか、不幸が継承されていくように見えた。あれだけ従順で勤労な人たちだから、自分たちの幸せのためならいくらでも努力できるんだけど、悲しいかな彼らのその努力はあまりにも方向違いだ。

 この話で一番気になったのは、人がポンポン殺されていくところ。あまりにも簡単に、あまりにも些細なことで、その人にたった一つしかない命が奪われてしまう。その様子は実に理不尽だ。「剣客商売」を読んでるときにもあまりにもばっさばっさ切るんで驚いたけど、それとはまた違う。「剣客商売」はあくまでも勧善懲悪の前提に立って人を切っている。だけど、「ギフト」ではそんな倫理観とは関係なしに、ただ自分の欲望のために、乱暴に言うなら気まぐれで人を殺してしまって、そこに罪悪感とかはまるでない。後悔とか。ためらいすらない。脅かすために2~3人殺しておくかと言うノリで。ここに出てくる人たちは銀行強盗や、悪事に生きてる人じゃない。むしろ牧畜と農耕でしか生き方を知らない純朴な人たちだ。その人たちが、お嫁さんほしさによその土地に出かけて行って突然そこの人たちをパパッと殺すその様子に心配を覚えた。これを子供が読んだらどう思うかしらと思って。

 それでも、私はこの一日中日陰の中みたいな、晴れた日がないみたいな話が好きだった。陰鬱とさえ言ってもいいかもしれない。だって誰も幸せじゃないんだから。幸せじゃないって言うのは語弊があるかもしれない。恵まれてないってことだと思う。環境や暮らしには恵まれていない。だけど、お互いのいることに、愛する人のそばにいることに幸せを見出している。そういう最低限の、だけど人としてファンダメンタルな幸福だけで彼らは生きていて、そしてそれでちゃんとおなかいっぱいって感じがしてくる。もちろん、実際には飢え死にしそうなほど貧しいんだけどね。だから本当にくらーいくらーい話だった。だけど、そんな暗くて厳しい、厳しいって言うか、理不尽な現実に向き合わざるを得ない彼らの生活のこの話がとても好ましかった。
 いくつか自分の経験に重ねられるエピソードがあったりしたのも理由かもしれない。オレックのお母さんがオッゲに呪いを掛けられて、だんだんと衰弱していって、最後にはベッドから起き上がることも出来なくなって、ある日お父さんが抱き上げようとするとお母さんは突然すごい悲鳴をあげる。抱き上げられると骨が折れてしまうくらい衰弱が進んでいたというエピソードだ。お父さんはそれにショックを受けて泣いてしまう。私はそれに、ジョディーの体温を測ろうとしてひどい悲鳴を上げられてしまったことを思い出した。私もそれに驚いて泣いちゃったっけと。今なら分る。どんなに病人に気遣って大丈夫なふりしてたって、内心びくびくなんだってこと。死んでしまうことを怖がっているのは死ぬほうじゃなく、死なれてしまう方なんだってこと。私にはオレックのお父さんの気持ちが痛いほどよく分った。
 あと、グライのお母さんのパーンが好きだったな。この人は現実主義って言うか、実用主義って言うか、そこがちょっと周りと違ってて浮いちゃってるんだけど、そこが逆に好感が持てた。家族の愛情だけが生きる支えみたいなこの土地で、なぜかこの人だけは「愛なんかでおなかいっぱいにはならない」みたいな精神を貫いている姿勢が好きだった。実際、この人の才能は他の人と違って実用的で、その価値はすぐにお金に直結してる。だから、それを使わないのは怠慢だと娘を叱るんだけど、自分の力で稼いでいくことの大切さを理解できていないグライにはそれが通じなくて、パーンは歯がゆい思いをする。多分この人には愛とか恋とかって通じないんだろうなと思った。そういうパーンの考え方はとても男っぽい。才能に恵まれていて、経済的にも家族の大黒柱はどう見たって母親であるパーンのほうだ。夫も違う才能のブランターだけど、彼の方が奥ゆかしくて愛情豊かだ。それに、パーンは常に血筋のことを考えてる。自分の種族と言うことについての執着にかけては夫より強かった。それは結局才能のせいなのかもしれない。パーンは血統を絶やさないため、家族を飢えさせないための結婚をグライに勧める。グライの興味が幼い時からオレックにあるって分っててだ。だもんで、この母子はことあるごとにぶつかっている。その様子はオレックとカノックの関係に似ている。何かを継承する関係にあるときは皆似たような状況になるのかもしれない。それにしても女性にしては独立精神が旺盛で主人然としたパーンが私は好きだった。

 「ゲド」のシリーズ後半からの印象ではあまり期待出来る心境ではなかったんだけど、これはかなり面白い物語だった。これも3部作になるらしいんだけど、これだったら続きを、3部までなら、読んでもいいかなと思える作品だった。

ギフト


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「剣客商売十二 十番斬り」 [reading]

 意外と面白かった。こういうのはダメかと思っていたんだけれど、結構楽しめた。小さいときおじいちゃんの付き合いでよく時代劇は見たけど、面白いと思ったことなかったんでどうかなと思ってた。ああ、でもそう言えば、「必殺仕事人」だけは家族で気に入って観てたな。あと、「影の軍団」とか。子供ながらに勧善懲悪でないところがよかったのかもしれないね。東山の金さんとか、大岡越前とか、銭形平次とか、水戸黄門とか、大分観たけど面白いと思ったことはなかったなぁ。ただ、大岡越前はあのサラリーマン然とした社会機構と淡々とした正義感みたいなのが好きだったな。大岡越前と小石川の先生なんて言ったっけ、あれがさ、すごい地味でしょ?絶対興奮したり感情的になったりしないの。なってもさ、ポーズだけなの。あの淡々とした感じが好きではあったけど。

 池波正太郎は、日本人の作家はつまらないから読まないと言ってはばからない私にある人が薦めてくれた。この本はその人との待ち合わせの間に本屋さんで選んだ。あと、司馬遼太郎も薦められてて一緒に見てたんだけど、司馬遼太郎はなっがいのなんのって。文庫であんなに厚くって上・中・下とかになってるとさすがに読む気がしなかったのでやめた。そもそも私は忍者の話とかに興味がないんだなとも思う。

 私のイメージする時代劇は、ワンパターンの勧善懲悪ものだったんだけど、実際これが中世ヨーロッパみたいにセックス&バイオレンスで驚いた。すごい。すごいよ。大体主人公が70目前のおじいさんなのに、その奥さんが自分の息子と一緒に育った自分の娘も同然の子だった。すげー。なんだこの倫理観。でもきっとそういうのって戦後ぐらいまではあったんだろなと思う。お母さんの友達も16で40だか60だかのおじいさんに嫁いだとかって聞いたし。ただね、この中に出てくるエピソードではこの平均的な親子以上に歳の離れた二人の間に夫婦愛みたいなのは感じられなかったな。確かにおはるをかわいがっているのかもしれないけど、動物をかわいがる以上の愛情がそこにあるのかなっていう感じだった。だから、なんていうか、恋女房とかっていうわけじゃないってことよ。必要だからそこにいるみたいな。それはおはるも同じように思った。

 さっきも言ったけど、この小説の中に見える生活はかなり生々しい。というか生臭い。人の心の後ろ暗さというか、欲望に駆られたときの醜さみたいなのが多くちりばめられていた。姦通を果たすという目的のためだけによそのうちの奥さんの名前を騙る人妻とか、主人公の再婚を責めて縁を切った前妻の弟が急に手のひらを返したように主人公との復縁を快く迎えたのは、結局自分も外に家族を囲ったためだったりとか。ただ、池波正太郎という人の描写がかなり大雑把と言うか、大胆なので、その生臭さに顔を歪めずにすんでいる。大雑把と言うと荒削りとか、雑ってイメージだけど、そうじゃなくて、なんてい言ったらいいのかな。えーと、すごいさばさばしてるのよ。感情をそぎ落としてるって言うか。感情はみんな台詞の中にあると思えるくらい、つなぎは淡々としている。そして美文でないというわけでもない。
 「そして、爽涼たる朝が来た」
 なんて、この一言だけにどれ程美しい情景が含まれていることか。とにかく、竹を割ったような表現で貫かれていて、曖昧だとか言うことは一切なかった。そして、人を切るときも竹を割るように腕が飛び、脚が飛び、血が飛んでかなりのスプラッターだった。しかしほんの少しの動揺もない。描写としてなんのためらいもない。今時の話だったらそれがどんだけ大変なことか大騒ぎして描写して見せるとこだけど、「腕が飛んだ」、「脚が落ちた」と言うだけで、その様子の壮絶さは完全に読者の想像力に委ねられている。おびただしい返り血を浴びたであろう「汚れた着物」や、刀から血をぬぐう姿から想像するしかない。まったくなんて時代なんだ。

 私がこの本を選んだのは、これが全体的に短いと言うのもあったんだけど、オムニバスだからと言うこともあった。
 私が気に入ったのは最後のエピソードで、これは「剣客商売」シリーズの先の方にあった話と繋がりがあるとかで、もともとはそっちからのキャラだった。1,500石の旗本が刀の試し切りをしたくて辛抱堪らず辻斬りなんぞをしてしまうんだけど、すごいのはそっからで、その旗本は人を斬ることに愉悦を見出してしまったのね。で、そんなことを重ねていてばれないわけがない。とうとう現場を秋山小兵衛に抑えられて、旗本は切腹。お家は断絶。妻はショックで病死。一人息子は母方の親戚に預けられるけど、事情が事情名だけに邪険にされておしんか家なき子かと言った体の幼少期を過ごす。けれど、幸運にもかわいがってくれる弓の達人に出会い、暗い過去を否応なしに背負わされてしまった少年はそれでも素直にまっすぐに成長していく。ドラマだ…。私はこの青年が好きだった。
 驚いたことにいくら狂気じみたことをしでかしたとはいえ、父親を追い詰め、家を絶えさせられ、母親を失ったのに、この青年は秋山に対して気味の悪いくらい誠実だった。どこをどうしたらこんなに出来のいい人間になるんだかと思ったけど、私が感心したのはそこじゃなかった。青年は、周りの誰もがブスだという女性を愛していた。ハンパなブスではない。誰が見てもそれはありえないというくらいの器量の悪さらしいにもかかわらずだ。彼は今までセレブの中で生活していたわけだから、美しい女の人を見たことがないわけではないだろうに、彼が選んだのは貧しい農家の後家さんだった。ただ、この後家さんも後家さんで夜這いに行ったのは彼女の方からだったけど、でも、毎日でも彼女を求めて通ってこようとする青年を彼女は
 「たのしみは、むさぼるものではありませんよ」
 と言って窘めるだけの良識もあったりする。そこが意外だった。この青年が彼女のどこに惚れたのかこの時分ったような気がした。
 あまり感情を行間に滲ませない作家だと思っていたけれど、この青年の農家の後家さんに寄せる想いはぬくもりとして伝わってくるようで、私はこのブスいという後家さんがうらやましかった。周りの人は不似合いな夫婦だと思っている。けれど、当人たちの深い愛情を彼らが知る由もない。二人が他人には理解できない深い絆で結ばれていると言うことが私には小気味よかった。

 最後に、この文庫に解説を書いている人が、自分の妻や娘を捕まえて、「彼女たちと三冬やおはるのあいだには、天と地のひらきがある」とか言うのには、思わず『殺すぞお前』と毒づかずにはいられなかった。なんだその偏見は。私がこの人の奥さんだったら、「お前のためになんかもう飯は作らん」と言うね。せっかくここまで気持ちよく読んでたのに、この解説のおかげで読後感が台無しだと思った。
 明らかにこの時代の「男らしさ」とかその風情に憧れているようだが、この分じゃただの勘違いだな。形にばかり執着するのは悪いオタクの典型だ。中身が風情を作るんだよバーカ。

 で、池波正太郎を薦めてくれた人にこれを買ったんだと話したら、「それは面白くないのに。一番人気があるけど」と言われてしょんぼりした。


十番斬り


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「ゲド戦記外伝」 [reading]

 本編の設定に使った世界観を元に別のドラマを創り出すと言うのはよくある話で、今風に言うとspin outか。物語の出来方としては「スターウォーズ」のそれに似ている。で、これはエピソード1~3にあたる感じ。

 ただねー、やっぱり「なんだかなー」っていう感想しか残らなかった。「これどうしたいんだろうなー」みたいな。首捻っちゃう感じ。4巻目からこっちずっとそんなんだけど、5巻目とこの外伝は更にひどい。なんか混沌とし過ぎてて読むのが億劫だったし、もう苦痛に近かった。4巻目はまだしも、5巻目、外伝は「何が言いたい?」と思って悩んじゃったよ。今まで頑張ってきちんと読んでいたんだけど、ちょっとこればっかりは多少読み飛ばした。

 一応オムニバスと言うことになっているんだけど、カワウソの話がメインなんだと思う。あと、サービス的にゲドの出てくるエピソードもあった。おじさんおばさんのロマンスの回に。5巻目に出てくるアイリアンがロークを訪れたというエピソードもあるけど、やっぱりどことなく不愉快な感じがした。特に、これはどの4巻以降はどのエピソードでも同じなんだけど、異性間での性的な心象の描写が嫌だった。これはもともとそう言う表現なのか、それとも訳者の技量の問題なのかよく分らないけど、とにかくこの点に関してはなんでこんなに生々しい書き方をするのかが腑に落ちなかった。表現がお世辞にもロマンチックとは言えないんだよね。直接的っていうか、言葉悪くすると、生臭いっていうか、直接セックスを連想させるような書き方で、「なんでこんな書き方?」と常に疑問だった。
 だもんで、最後のこの話を読み終わったときはすごい達成感と開放感と安堵感を感じたよ。もうこれで読まなくていいんだと思って。

 最後の「アースシー解説」っていうのは事細かに、アースシーの文化について説いているんだけど、これはもう読まなかった。そこまで知ってなくていいでしょ…。なんでそこまで書く?

 はぁ。終わってよかった。

ゲド戦記別巻 ゲド戦記外伝


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「数学的にありえない」 [reading]

 面白かった。と思う。実は半分分ってない。あまりにピコった話で。話の妥当性が飲み込めなかった。そもそも私は計算が出来ないんだよ。もっかい読んでみた方がいいかしらと思うくらいだけど、他に読む本もたくさんあるし、取り敢えず読み終わったので整理の意味も込めて書いてみる。

 一言で言えば、スーパーナチュラルなものを数学的に立証して見せようと言うことなんだろうけど、でも、そもそも、脳みそのある部分を突っつくと未来が見えるという理屈が理解できなかった。まあ、そこにユングの集合的無意識を持ち出してくるんだけど。
 この時点でいきなり萩尾望都の「バルバラ異界」とガッツリつながってびっくりした。このキーワードが飛び出してきた途端、この2つの作品の共通点や比較できる点がいちいち目に付き始めてびっくりしどおしだった。
 まず未来を予見する能力の顕在化の方法は「バルバラ」と「数学的に」では違う。「バルバラ」では、ある血統の人間が心筋に含まれるたんぱく質を摂取すると(食べると)その能力が目覚めることになっていた。「数学的に」でもその能力は単純に特異な体質(側頭葉の出来が普通と違う人)に起きることになっていて、癲癇はその能力が使われている結果として生じる副作用ってことになってたんだけど、その特異な人はその能力を現実に意識できていないし、具体的にどういう理由でその能力が開花するものなのかについても説明はなかった。つまり、普通そういう能力を持った人が癲癇を起こした後で意識を取り戻してもその間に見たと思われる集合的無意識のことは忘れちゃってるんだけど、ケインはたまたまお金目当てで参加した実験で飲まされた薬がトリガーになって、失神なくしてその能力を発揮できるようになったというお話だった。でもねえ、そうすると、ジャスパーが「声」を聞ける理由が付かないんだよね。だって、ジャスパーは薬を飲んでいなくてもずっと「声」が聞こえていたわけでしょう?ジャスパーの「声」ってデイビッドで言うところの「すべてのとき」なんでしょう?なんか、こんだけ空を掴むような現象をなんだかんだ小難しい理論を繰り広げて理屈付けようとしているくせに、その辺は結局個体差みたいなファジーなことになっていたような気がする。
 統合失調症の人が「声」みたいなのを聞くって言うのはこれ読んではじめて知ったんだけど、でも「バルバラ」でも人の脳のどこかに神の座があってそこでメッセージを受け取るようになっているのかもしれないということは言っていたし、そのほかいろいろ出てきた類似点を考えると、やっぱりこの2つの作品は相当近い理解のうえに立っているんだろうなと思う。

 なんかもう量子力学やら心理学やら哲学やらがごった煮のてんこ盛りな上に、ストーリーとしてのタイムフレームが短いわ、登場人物が多いわで、我ながらよくここまで着いて来れたと思うくらいプロットとしては乱暴に出来てるんだけど、つまり、相対性理論と集合的無意識を合わせると未来を自分の望むようにも出来るということを言いたかったらしい。多少聞きかじってはいたけれど、この二つの理論が相成れるものだとはついぞ思わなかったんでびっくしりした。 この本が面白く読めたのはこんなに右脳な私にもここに出てくる小難しい理論の大くにイカチン知識があったからだろうと思う。そうでなかったら今以上に????な感想だったと思うよ。でも、その情報源のすべてが漫画か映画なんだけどね。そうそう、この話の中ではこの能力を持てるのはでも、右側頭葉が発達している人なんだって。

 ユングは、人は無意識では一つにつながっていると考えていた。起きているとき、つまり自分が意識できる自分は、自分の本質の一部、氷山の一角で、その意識の深層である無意識の領域では人は他の人たちともつながっていて、つまり共通の無意識、本質、本能みたいなものを共有していると考えていた。個で存在するを超越したもしくは包括した一つの存在で、かつまた思考は光よりも早く活動できるものであるから、
従って、この理論で行くと、無意識では世界は一つのつながった命ということになる。そこには全てが丸見えだ。普段は隠れいていること、例えば他人の欲望や過去とか、自分の起きてるときには理解しようのない難しいこともすべて分ってしまう。なぜなら無意識の世界ではつながっている人の持つ「すべて」を共有できるから。そこでは起きて個であるときには持ち得ない知識でさえあたかも自分が体得しているかのように理解できる。で、デイビッドはここで得られる情報を利用して自分の望む将来を実現させようとする。パズルみたいなもんだ。自分の駒を向こう岸まで運ぶにはどのブロックをどう組み合わせればいいのか。それがどうして数分、数秒意識をそっちに持っていくだけで出来るのかというと、思考は光よりも早く活動できるからだって。
 つまり、一言でまとめると、人間の脳みそって思ったよりいろんなことが出来るということを言いたいんだと思う。

 ただし、人のすべての欲望が覗けたからって、必ず自分の思い通りになるわけではない。なぜなら望みをかなえる方法はいくつもあって、それを阻む不確定要素もそれだけあるってことだから。だからね、ここでこんなこと言うと話をひっくり返しそうで気が引けるんだけど、いくら無意識に入り込むことが出来るだの、未来を操ることが出来だの言っても、究極的には「未来は観察されるまで確定しない」と言うことらしい。なんかすごい落とされようだけど真実だからしょうがない。「シュレーディンガーの猫」を持ち出して一生懸命話してたよ。この辺は図らずしも「イノセント」のときのお勉強が役に立って私としても満足だった。うむ。
 その辺は萩尾望都も理解していたのか、「バルバラ」でも望む未来に到達するパターンを見つけ出せるまでに何度も失敗するケースを経験させてた。そして、「バルバラ」の最後でとうとう自分の生きることが出来る未来を見つけた16歳の青葉が急速に老いて死んでしまったのはきっと「数学的に」でも言ってるように、多分、相対性理論が顕在化した結果なんだろう。まだ釈然とはしないけどそうなんだろうなということは見当がつく。「バルバラ」のラプラスの魔は青葉なんだけど、彼女は9歳のときから集合的無意識にアクセスしっぱなしになっていて、つまり現実世界では寝たまま起きない人みたいになっていたのね。現実の時間にしてみれば7年間だけど、その実その何倍もの時間を青葉は集合的無意識の中で過ごしていたから、彼女が自分の望む将来に集合的無意識をセットすることに成功して、現実に戻ってきた途端、つまり目を覚ました途端浦島太郎みたいなことが起こったんだ。ああ、そうすると浦島太郎って相対性理論のことを話してたのか。はあー。今気が付いた。

 「数学的に」は超常現象を現実に認められている理論で論破しようとしてるんで、それもかなり限られた時間の中で。なんで、ストーリー展開の速度に合わせて言ってる内容を飲み下すのがすごく難しいんだけど、でも読んでいて問題に感じたのはそんなところじゃなかった。だって、それは純粋に私のスキル不足のせいでしょ?
 じゃなくて、私が純粋に作品のプロットとして一番腑に落ちなかったのは、「すべてのとき」が最終的にジュリアに帰結しているように見えること。主人公が「すべてのとき」に勝手にジュリアのイメージを植えつけているっていうならまだしも。だけど、あのラストのオチを読む限りその線は薄いと思う。どうしてもジュリアの個人的な存在が浮き上がってきてしまう。だけどそうするとね、どう考えてもそれまで一生懸命説明付けようとしていた「すべてのとき」と話が違ってきちゃうじゃん。これじゃ「すべてのとき」なんかじゃない。「ジュリア」じゃん。私はジュリアこそ造られた「すべてのとき」で、完全な媒体だと思ってたのに。エピローグでドクが呪い殺されたとでも言わんばかりの交通事故に遭う場面を読むに到っては絶句。それ本気で言ってんの?これってだってひょっとして心霊現象もラプラスの魔で証明できると言ってるの?ラストのここを読んで初めてピンときたんだよね。それまでは「匂い」に関するエピソードは全く気にしてなかったんだけど。死後の世界のイメージが強かったから。だけど、そのドクが車にはねられるシーンではたと気が付いたのよ、キングの話なんかにも出てくるけど、超常的な現象を体験する直前にはよく特定の匂いがかがれるって。「シャイニング」に出てくるコックのおじさんは必ずオレンジの匂いをかぐ。そうじゃん、それを言いたかったんだと悔しい思いがした。ただ、問題なのが、死んでも集団的無意識にアクセス出来んのかってこと。集団的無意識にアクセスするには思考する生きた脳みそが必要なのでは?それとも霊体は実体を持たない「思考」そのものだとでも言うつもりか。この本は霊体をそう言う風に定義付けてるの?幽霊は電気?昔童謡だと思って歌ってた内容は真実だったのか?
 ね?すごい混乱するでしょ?
 も一つ加えて言うと、この能力者に共通してかがれる匂いだけど、ジュリアは死ぬ前から嗅いでいたんだよね。それも???でしょ?

 まあ、とにかく万事がそんな調子で???と思っているうちに物語りはハッピーエンドに明けてしまっているのでした。
 ただタイトルの「数学的にありえない」だけど、確立ってそれがどんなに小さくってもありえる数字を出してるわけだから、「数学的にありえない」なんてことはないと思うんだよね。数学的にありえる数字を出してるんだろうがと思うのは私だけか。そもそもアホほど人のフンドシ持ち出してありえるってことをムリクリ説明付けようとしている話なんじゃないのかと思ってしまう。

 でも、総じて言えば、ダン・ブラウン以来のノウハウ本で読んでて楽しかった。外国にはこういうエンターテイメントな作品多いのに、日本人でこういうの書ける人っていないよねぇ。

数学的にありえない〈上〉 数学的にありえない〈下〉


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「ゲド戦記V アースシーの風」 [reading]

 なんだろう。このとりとめのない話は。IVを読んだときにも思ったことだけど、改めて、『なぜこの続編を?』と思わずにはいられない話だった。どうしたかったんだろう。何を描きたかったんだろう。自分の晩年を思ってあの世を想像せずにはいられなかったのか。それにしても世界が混沌としすぎている。IIIで和平を取り戻したとしていたくせになんだかんだと自分で後からわざとらしいほころびを作り上げて続編を書いているように見える。その姿はル=グウィン自身がこの物語に未練があるかのようだ。

 これはIVでも顕著だったことなんだけど、問題が当事者の間でばっかりで納得されてて、読み手には全然具体的に説明してくれないんだよね。で、真意とは言わないまでも言わんとしていることが全く伝わってこないので、物語に置いていかれた感がすごく強い。『え、え、どういうこと?』とか思ってるうちに話はどんどん進んでしまう。なんか当事者同士で分ったようなこと言ってるけど何のこと?みたいな場面が何度も出てきた。そういうのはほぼ作者の独り言に等しい。どうしてゲドの続編をこんなに経ってから書こうと思ったんだろう。謎だ…。

 振り返ってみればこのゲドシリーズはいつも後出しジャンケンみたいなずるいドラマになっていた。IIでエルファーランの腕輪を取り戻せばまた世界を一つに出来るとしていたのが、IIIでは、いや世界を統べる王がいないと秩序は取り戻せないとアレンを出してくる。そしてこのVではその王を置いてさえ結局竜と人とのバランスが取れていないと、世界をみんなで「まったきもの」としようという壮大なテーマを持ち出してくる。きりがないよ。どれだけやっても満足しない。そういうことを言いたかったのかな。世界をよりより場所にするためには課題は尽きないってことを。「世界は今ようやくまったき物となった」って、そんなことずっと前から言い続けててシリーズの最後でこの混沌とした様はかなり印象が悪かった。
 私がまず思ったのは、too many men in the field。プレーヤーが多すぎる。ゲドにいまだかつてこんなに多くのキャラが登場してそれがみんないっぺんに動いたことなんてない。大体大筋でシンプルな話だったし。いろんなとこからいろんな人がそれぞれに自分の問題を抱えて出てきてなんか国連を髣髴とさせた。みんなが自分の主張を繰り広げるんで、その現場が収拾付かないことになっている様子すらも。これだけ利害の一致しない連中がアレンの一言で纏まるなんてちょっと眉唾だなとも思う。そして肝心のゲドは完全な外野だった。もうゲドなんていてもいなくても同じだった。それでもゲドの出てくる場面が一番安心して読めるのはやはり作者の思い入れがあるからだろうか。まったくこれのどこがゲド「戦記」なんだか。

 今回のキャラクターで一番イライラさせられたのはセセラクだった。排他的なところで育ったんだからこんなもんかと思わなくもないが、いかんせん頭悪そう。アレンがこれと結婚するならがっかりだなと思った。それに最初はアレンの治める国を指して、「こんな野蛮なところ!」みたいに言って自分から打ち解けるようなそぶりはおくびにも出さなかったのに、終盤でアレンが倒れるに到ってはどういう風の吹き回しか、「私の大切な人が!」とか言って泣き伏す始末。ええっ、あなたたちはそう言う関係だったけ?そうでなくても、傍目から見て、「誰であれ、あんな包みをくれたら、私だったら開けますがね。」と言われるようなこの人の存在にも嫌気が差した。早い話、この王女って慰み者じゃん。
 そんな訳で、私としてはアレンが個人的にも外交的な立場からもセセラクを受け入れられない気持ちはよく理解できたんだけど、テナーはそれを単純に親心からたしなめているように見えて、逆にそれが女は政治に疎いみたいな印象を受けた。それでいいのかル=グウィン。もう一つアレンでがっかりしたのは、安っぽいプレイボーイに成り下がっていたことだった。国王という立場から相手の申し出を断るのは品位に関わるとでも思っているらしくて、相手のいいところだけ掠め取っていくみたいなお付き合いの仕方には顔をしかめた。そのほうが失礼だっつーの。その気がないなら思わせぶりなことすんな。大体、テナーみたいのがいいって言うマザコンが、世間知らずなお姫様を嫁にするなんてうまく行くわけがないと思うのは私だけか。

 この物語の伝えたかったことは結局なんだったんだろう。結局何が解決したんだろう。死んだ人ってどこにいったの?竜の国に行ったの?人間に生まれついた竜が竜の国に戻るのはありなの?それでいいんだっけ?
 なんかまたその場しのぎな解決を見ただけじゃんじゃなかろうか。アレンは疲弊することだろう。自分の力で解決できない問題の多いことに。自分の立場と実際の解決能力との間に矛盾を感じるだろうね。結局起きることに翻弄されまくってやらなきゃいけないことを片っ端から処理しているだけだ。そこに自分はあるのかアレン。才能が人生を選ぶ。アレンはまさにそんな生き方を余儀なくされている人だ。アレンの本音はロークに移動する船上でのトスラとの会話に垣間見える。彼はこれまでになく卑屈になって現実から逃げ腰だ。分るけど。その方がリアリティあるけど。

 それにしても、この話に出てくるどのキャラにも共感できなかったなぁ。女の人たちは誰もみんな我が強くって頭が固くて話にならない。アイリアンなんかは自分が竜だってことにプライドが高すぎて、どんな人とでもぶつかり合う。テナーが若くなった感じだ。その一方でテナーはすっかり萎縮して見える。それでも覚悟していたことをやり遂げてゲドと二人っきりになれた様子はそれまでよりもよっぽどしっくりしてるみたいだった。この二人はもういいおじいさん、おばあさんなのにちっとも関係が歳をとらないのが傍目から見てうらやましいなと思った。
 IVでセックスという愛情表現を覚えたゲドは、愛ってものに対して、もしくは世の中の全体のありように対しての見方が変わってきてる。そもそもハンノキがゲドのところに来て相談したときは、ハンノキが死んだ妻に呼び寄せられるのは愛がどうとかこうとかって言ってたのに、終わってみればそんなのこれのどの辺に関係あるの?って感じだった。ゲドの意見は大筋で魔法使いたちが女性を知らないってのは世界を半分しか知らないみたいなもんだってことなんじゃないかと思うんだけど、アズバーの方が正しいって言うのはそう言うことだよねえ?でも、その辺の課題は物語の終焉に際しては完全に棚上げになっていた。ル=グウィンは愛をなんだって言いたいの?

 「アースシーの風」はゲド戦記中最もちまちました話だった。ストーリーに巻き込まれる世界は広いのに、現実に処理していかなければならないことに囚われててて、話が遅々として進まない。ファンタジーらしい大胆さとかがかけらもない。むしろこれは現実世界を語っているに近い。実生活上の瑣末でつまらない、だけど実際に問題ではあることを連ねているだけというか。だから収拾がつかなくなっているというか。何も解決せずに結局それをずるずる引きずっていくだけの未来にちょっとうんざりするような、あきらめに似た読後感が残った。
 だからこそ、ハンノキが自分にかされた重荷から開放されて奥さんとあの世で再び一緒になった姿に、そして現実世界では彼の悲しみや重荷を肩代わりしたテナーの姿がすんなりと胸に響いたんだと思う。死んだ人の背負っていたものは、死んで一緒に解消されるんじゃなく、後に残った人たちにちゃっかり置いて行かれるという真実。ただテナーは強いから、その荷を肩代わりすることに不安は覚えなかったけど。

 それにしてもこのとりとめのなさは一体どうしたもんか。無理矢理シリーズを再開しといて、それまでの世界観を引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、そして最後にはなにも決着が付かないなんていいんだろうか。ひねった首が元に戻らない。続編出るのかな。


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「図書館戦争」 [reading]

 最悪だった。本屋で見たときに帯に「『本の雑誌』2006年1位」とか書いてあって、ゲドのI、IIと一緒に勧められて買ってもらったんだけど、私はそのタイトルからして引くものがあった。正直嫌な予感がした。それでも買っちゃったのは、買ってくれるという人の強引に勧めてくる姿勢に自身の強い興味が現れていたので断れなかったから。しかしてその結果はやっぱり最悪だった…。なんじゃこりゃ…。ライトノベルじゃん…。「本の雑誌」って同人誌かなんか?…。

 と思ってググってみたら、うーん、そんなにおかしな雑誌ではなさそう。だたざっと読んだ感じでもやっぱ好き者が書いてる印象はぬぐえないな。「本の雑誌」って雑誌がほんとにあって、かなり長いみたい。少なくとも23年以上も続いてるみたいだ。ふーん。roだってまだ20年経たないよねきっと。すごいなぁ。なくなったりしないんだ。編集者もずっと一緒みたいだし。女の人なのかな?途中で名前が変わってる。意外だったのは内容もなんか本ばかりのことじゃないみたいで、これはこの本以上に一回買って読んでみる価値あるかもなと思った。とどのつまりこの本はその為に出会ったのかもしれない。それにしてもこの本を読まなくてもこれにたどり着きたかった…。
 「本の雑誌」はHPもあって、本屋さんの紹介があったんだけどそれが面白いなと思った。フランチャイズの大型店じゃなくて個人店を紹介してるみたい。本オタクに新たな餌食を紹介するだけじゃなく、お店の人の勉強にもなるのねと思って感心した。ふーん。

 話を本の感想に戻すと、終始作者のノリ突っ込みの勢いで書かれているすげー読みにくい構文だった。一番まいったのはどうにもこうにも一文が長いことだった。特に台詞。句点を全く省いて一気にまくし立てる姿はすごく頭が悪く見える。実際そういう設定なのかもしれないけど。美文って形容からは程遠い作品だった。
 アンド、キャラ設定があきれるほど分り安すぎる。安っぽいテレビドラマ見せられてるみたいだ。なんの意外性も新鮮味もない。王子が誰だかわざわざ書いて教えてくれなくても分りますから。この分り安すぎるキャラ設定は安易に過ぎると言ってもいいかもしれない。
 重火器帯びて曲がりなりにも人の命を預かる立場にいながら恐ろしいほど馴れ合った職場で、嫌悪すら覚える。隊と名の付く組織の癖して上下の規律とかが皆無だ。なんだこのぬるい世界は。あまりにも主人公に都合のよすぎる設定にはっきり言って嫌気が差した。
 そしてこの世界観。リアリズムみたいなものがすっぽり抜け落ちている。ライトノベルって大抵こんなもんか?世界観が閉鎖的で狭い。作者が意図してる世界観が物語に出てくる当事者以外に当てはまらない。世界は図書館の外にもあって、そことどう折り合いをつけてこの物語が存在するのか、その辺が全く実感持てなくて。結局出てくる人たちだけの間で繰り広げられるファンタジーで終わってる。だからなんだ、幼稚なんだよなぁ。この話って近未来が想定されていたと思うんだけど、図書館をめぐって人命を晒すことが近々の日本にそんなに現実味があるか?局所的にこんなに暴力的になるわけがない。こんなことで人がバタバタ死ぬなんて、日本全体どうなっちゃってんの?と思うでしょ?その辺ノー・ケアだから。個人的な意見としては、ここまで官僚システムに腐蝕した国家が、ある日突然ファシズムに走るにしても今更こんなことを暴力で押さえつけたりしないと思うのは私だけか。どっかの途上国じゃあるまいし。もっと頭使って労働力減らして「情報操作」とかってのをするんじゃないの?こんなに大げさに立ち回ったら真実がどっちにあるか認めてるようなもんじゃんか。これじゃ子供のケンカだよ。

 思うに世界観の狭い広いはあんまり作者の意図に関わらないと思う。書いてれば自然と出てきちゃうもんなんじゃないのかな。例えばハルキの話はよく自閉的って言われて、私も狭い範囲ではそう思う。けど、広い範囲では、結局はその自閉的な「僕」個人の世界が現実に「僕」を取り巻く世界とどう折り合っていくのかが物語のありような気がする。つまり「僕」に起こる全く個人的なドラマが、水に打った波紋のようにどう世界に浸透していくかって様子が結局は全体として描かれているんじゃないかと。そして腕のいい作家って言うのは自然とそういうことが出来てる人の事なんじゃないかと思う。だって、多分それを意図してやってたらもっとその辺が技巧的に浮かび上がってきちゃって隠せないと思うんだよね。そうなったらきっとわざとらしさが気になると思うから。
 エーコは別だね。あればずるいね。だって実際に起きた事を下地に書いてるわけだから、どんなに突拍子のないことを書いても現実味が薄れる訳がない。しかし、彼の作品を読むと「現実は小説よりも奇なり」って言うのがよく分かる。そんなテキストを探し出してくる彼の執念っていうか情熱がすごいと思うよ。

 Amazonの投稿を見る限りみんなこの話を気に入っているみたいなのが更に意外だった。否定しているコメントは見当たらない。私のセンスはそんなに外れているのか。続編もあるみたいだけどもう勘弁。なんか内輪ネタで盛り上げる内容になってるみたいだし。しかもこの先まだこのネタで続けるみたいだし。

 まあとにかく「本の雑誌」を読んでみようという気にだけはなったので、全く何も得られなかったという訳ではなかったのが不幸中の幸いみたいな出会いだった。


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「ゲド戦記IV 帰還」 [reading]

 かなり衝撃的だった。読み終わっての第一印象は「はあ????」って感じだった。頭の中にいっぱい「?」マークが沸いてきた。『え、これはなに?これはゲド戦記???』とかなり動揺した。それくらいゲド戦記ではなかった。それまでのゲド戦記からは逸脱した、よく言えば独立した物語、アナザーストーリーだった。
 本の後書きだったかなんかで、そもそもこの3巻目と4巻目の間にはかなり時間を置いてのことだったので、続編が出たこと自体にみんなが驚いたと読んだ。Wikipediaによると、3巻目から4巻目が発表されるまでには実に28年の隔たりがあったことになる。
 なぜ世間のそういう認識を覆してまで作者は、このテーマで、しかも「ゲド戦記」の続編を出そうと思ったんだろう。きっともうその辺は、本人か研究者でなければ分らないんだろうな。

 世間の認識を裏切って発表された4作目のテーマは、あからさまに「ジェンダー」だった。な、なぜこのテーマをこの作品で?この話って書かれたのいつ?と思って調べてみるに、原作が発表されたのは90年、3巻目が発表されたのはなんと私が生まれる前だった……。ええーーーーーっ、そうなんだ……。構成がおかしいから相当古そうだとは思っていたけれど、それでも……。なぜファンタジー作品にこのテーマを持ち込んだ?なんか読ん出る最中、体のいいハーレークインを読まされたような気持ちの悪さを覚えたし。中年、よりももっと歳のいった男女のロマンス。その点で言えばまだ辛くもファンタジーか。

 正直、この話はもうファンタジーなんかじゃないっていうのが読み終わった直後の感想だった。生々しくて、読んでる間ずっと眉をひそめるような気持ちだった。こんなの子供の読み物なんかじゃないよ。むしろ読ませていいのかという気がするくらい。だって、タブーがてんこ盛りだよ?幼児虐待にレイプ、貧困と差別。犯罪。読み終わったあとで一瞬、3作目までを読んだ子供たちが大きくなっていることを想定してのテーマだったのかなと思わなくもなかったんだけど、ジェンダーってテーマはどうしても偏ると思うし、テナーの一人称がますますそれを助長してる気がする。どう贔屓目に見ても、これは「ゲド」の世界観を借りて現代社会の問題を描いているだけだ。そして、どこにも救済はない。むしろ善の存在それ自身がファンタジーに貶められている。
 そして宮崎吾朗のごった煮「ゲド戦記」に出てくるテルーはこの4作目にならないと出てこない。どこまで脈略がないんだろうな、この作品は。しかも、まだ原作を読んでない当時ですらも思ったことだったけど、やっぱりこいつはこの不幸から生まれたヒロインを相当美化してキャラデザインしてた。それを確信すると余計不愉快に感じた。テルーは人間の残忍さの生きた証拠といわんばかりにその顔も身体も醜くされてしまっているのに、映画で表現されたのは焼けて赤くなった皮膚の色だけだった。何を恐れてこんな手抜きをしやがんだ。ヒロインだからあまり醜くは出来ないとしても、それこそそんな目くらまし原作に失礼ってもんだろう。そんな中途半端なことするくらいなら、いっそのことテルーの身体的な不具なんてなかったことにしてしまえばよかったのに。

 4作目の主人公もテナーだった。徹頭徹尾テナーだった。そして、終始テナーの目線を通して「ジェンダー」という偏ったテーマが紡がれていく。だけど、そこに決して誇張や嘘はないと思う。ここで起きるどんなエピソードも現実の諸悪として存在しているから。
 ただそれでも、読み終わって最初の衝撃のほとぼりが冷めると、私はこの地に足付いたテナーのたくましさというか、したたかさというか、生(性?)に対する本能的な素直さに好感を持つようになった。それもかなり意外なことだった。私はどんなに見方が主観的になっていようと、このテナーの人生が行間にぎっしり詰め込まれたような生臭い話に愛着を感じるようになった。
 ゲドに置いていかれた淋しさから、男ほしさにオジオンの元を飛び出したというテナーの告白はあまりにも生々しい。愛とか恋とか言う以前に、ただ自分の男を持って、その子供を作って暮らすことが世間の認める当たり前ならばこそ、早く自分もその当たり前になりたいと必死になるテナーは、同じ女として非常に生々しく映った。私の友達の一人が全くこれに重なったし、同じ理由のために結婚を望む女の子たちが実際にどれだけいることか。それを思うと息の詰まる感じがした。女に生まれついた時点で既に私たちは人生の枠組みをその社会にあらかじめ決められてしまっているわけだ。

 そんな、「喰らわれし大巫女」や「腕輪のテナー」というセレブな生き方を拒み、代わりに選んだ魔法使いの生活からも結局は逃げ出して、ただの「女」に走ったテナーに、新たな人生が降りかかる。それがテルーであり、再会したゲドだった。新たな人生を生きるテナーはよっぽどテナーらしかった。この人はいつだって怒ってて、怖いもの知らずだった。死に損ないのテルーを必死になって守るテナーの姿はもうがむしゃらで、母親ってこういうことかとよく理解できた。
 突然戻ってきた放蕩息子を農園に置いて出て行くときの様子は、「OUT」で主人公が、反抗期の息子を引きこもりになった父親と共に捨てて出ていいく姿にそっくりで思わずにやりとした。桐野夏生はもちろんこれを読んでいたに違いない。だって、あんまりそっくりだよ。母親は厳しく、そしてその愛情は海より深い。ヒバナの甲斐性のなさにテナーが子育てを失敗したとぼやく姿とか、また、出て行こうとする母親にヒバナが追いすがるところなんて本当に「OUT」とダブった。

 それに引き換えゲド。私の大好きなゲド。が、あろうことか腑抜けになってしまっていることに愕然とした。アレンと旅をしていた頃は、自分が力の全てをなくすと分っていても、あれほどその後に来るフツーのおじさんとしての人生を楽しみにしていたくせに、実際「無力」というものが降りかかってみると、その現実を受け入れる力すら持ち合わせていないみたいだった。で、自分の不甲斐なさをテナーにやつ当たりしてみたりする。かっこ悪い……、かっこ悪すぎる……。テナーはあなたが大魔法使いだから好きになったわけじゃあるまいし……。ということがまるで分っていない。魔法使いって意外とバカ……。と思ってあきれてしまった。
 それを上回って私を呆然とさせたのは、そんなゲドを突然ベッドに呼んだテナーだった。……え、なんでそうなるの?という脈絡だった。え、それってそういうことなの?と、読んでる私が戸惑っているのに、ゲドもゲドで、もごもご言いながらもテナーの誘いを当然の流れのように受け入れる。は?どっからそういうことになったの?思わず後戻りしてその読み落とした行間を探そうとしてみたりしたが、ついに、この時点でのこの自体が持ち上がるべき瞬間を見極められなかった。私にはどこまで行っても唐突に思えてしかたなかったんだけど、当人たちは今が一番息の合った時みたいな感じで惹かれあって曰く、
 「そこでテナーはもっとも知恵のある男でさえゲドに教えることの出来なかった神秘をゲドに教えた。」
 ええーーーーーーーーーーーーーっ、そんなあーーーーーーーーーーっ。
 しかも、暖炉の前だ。どこのスケベ映画やねん。ご丁寧に神秘の儀式が終わった後のピロートークまで披露してくれる。なんのサービス?長年の片思いがやっと報われて満足しきったテナーに、
 「さあ、あなたはいよいよ一人前の男。」 とからかわれると、ゲドはしおらしく
 「もう、そのへんにしてくれよ。」 と50男とは思えない恥じらいを見せる。
 ガーン……ドン引き……。誰がこんな光景を「ゲド戦記」に期待しただろう……。喰らわれし者にゲドが喰らわれた瞬間……。そしてまんざらでもない……。うげーーーーっ。じゃあさ、聞くけどさ、ゲドが魔法使いのままだったら二人のロマンスはありえなかったってこと?そうなの?魔法が使えたままならゲドはテナーと一緒になることは考えなかったってこと?それは淋しくない?まあ、才能が人生を決めることもあるからね、それをゲドが選ぶなら仕方のないことだけど。でも……。

 この巻のゲドはかなりかっこ悪い。まるでいいとこなしだ。力を失ってみれば、一時の大賢人も普通の人以下だった。現実と向き合えなくて逃げてばかり。なんとか元気付けたいと思うテナーの心遣いにも背を向けて心を閉ざす姿は、むかし影に怯えてロークで隠者みたいにこそこそ生活していたときの彼を髣髴とさせた。ともすればテナーやテルーに当たってしまう。男というより、まず人として情けなかった。
 ひどいなと思ったのは、テナーがテルーを引き取ったのは残酷だったんじゃないかとゲドが責めたとき。これにはテナーも苦しめられた。これは、私がジョディーの看病疲れをしているときに、思わず知った人に苦しいのを打ち明けたら、「早く楽にしてあげたら?」と言われたことにかぶった。自分の良かれと思ってしていることが必ずしも相手の幸せであるとは限らないと言われて私はショックだった。そう言われて私は先生に安楽死の可能性も相談したけど、半ばそれは止められる形で選択肢から外された。先生に、安楽死だって決して犬にとって楽なわけではないと言われて、むしろ安心したような気がする。そして、テナーも私も心無い言葉を投げつけられたけど、結局放り出すようなことはしなかった。命のある限り、自分のベストを尽すと。もちろんそれは自分の想像していた以上に自分を、関わる全ての人を消耗させる悪夢だったけど、後悔はより少ない。自分に出来ることを全てしたと思うから。

 テーマがテーマであるだけに、最初っから最後まで「女」であることが問題であるみたいだった。テナーは女であることで自分の存在が軽視されることに不愉快を隠さなかった。巫女であったプライドもその一助となっているのは確かで、どこへ行ってもどこの男とも彼女は衝突した。それを厭わなかった。夫を失って枷が外れたせいなのか、人との和を全く重視しない人になっていたので、ある意味どこの人間とも摩擦を起こした。こういうテーマを扱ってみて初めて分ったけど、「ゲド戦記」の世界は「女だからダメ」ということばかりで成り立っている。女は魔法使いになれないというのも4巻目を読むまでなかった設定だ。まあ、中世をモデルにしたような世界観だからジェンダーの倫理観とかも当時のそれに近いんだろうけど、そんなわけで、テナーは概念というか、社会通念というものと悉く衝突する形になった。えらい人に頭を下げなかったり、村八分の人と親しくしたりとか。とにかく自分が正しいと思ったら、それを絶対に曲げない人だった。その頑固さは逆に頭が悪いくらいに映ったけれど、なんだかそのうち自分のことを言われているみたいな気がしてきて、それがちょっとおかしかった。私とテナーは少し似てるのかもしれない。
 とにかくいろんな分りやすい差別がこの世界にはある。身分や、職業や、中でも性はそれ以前の問題だった。同じまじない師でも女ならもっと卑しい仕事とか、女が男にたてつくなとか、そんな感じだった。その中でも私が最高に不愉快だったのが、
 「後家の男欲しさは昔からのことではないか。」
 って言う概念。そんな……、言いがかりにもほどがある……。どう考えてもこれって男目線の差別だよね。自分が旦那のいなくなった女に迫るための口実で、女自身は死んだ夫によってではなく、この偏った俗説に貞操を縛られる。こんなナンセンスが公然と真実みたいに語り継がれるなんてその社会自体のレベルが問われるだろ。そもそも公平とか言う概念がないかもしれない。その手の概念って魔法使いが「この世の均衡」とか言う以外に出てこないもん。やっぱり教育って重要なんだなぁ。

 宮崎吾朗の「ゲド戦記」のクライマックスはこの4巻から来ていた。呪いを掛けられていたテナーは向こうの汚い策略にはまって捕らわれてしまう。それを助けようとしたフツーの人ゲドも一緒になって捕まる。敵は、城壁の上にゲドを立たせて、それをテルーに突き落とさせるという、極悪非道とはまさにこのことというようなやり方でゲドを殺そうとする。でも一番恐ろしかったのは、アスペンの女に対する偏見と憎しみだ。テナーに術をかけて犬みたいにして引き回し、なんの遠まわしな表現も使わずに、そのままずばり「ビッチ」と呼ばわって地面をなめさせるくだりははっきり言っておぞましい。そこまでの悪意を描く必要があったのかとさえ思った。
 そこへ奇跡のようにカレシンが舞い降りて、二人を救う。実際にそこへカレシンを呼んだのはテルーだったわけだけど、「ゲド戦記」では時々こういう都合のいい解決方法がとられる。「たまたまそうだったから助かった」みたいな。ゲドが昔、まじない師として西の島に派遣されて、そこから竜を退治しに行ったときは、それまでに聞き知った話から予想して、たまたま竜の名を言い当てたと、退治した後で告白する。このエンディングもこのときになっていきなりテルーがカレシンの娘だったということを知らされる。まあ今回はその布石がなかったわけではないけれど、どうしてそれをテルーが知り得たんだっつーの。

 一見ハッピーエンディングのようでいて、実のところ何も解決していないこのお話の唯一の救いは、テルーが自分の汚れ(と人は呼ぶだろう)に気付いていないことだった。恐ろしいことをされたという記憶はあっても、「汚された」という概念はないみたいだった。それが救いだった。そして忠実に再現することはどんな作家もためらうだろう身体の少女は、それでもよき母と父に恵まれて健やかに育っていく。その様子がなんとも晴れがましかった。行方不明のシッピーを必死になって探す様子、自分を痛めつけた人間に再会して気分が悪くなってしまったことをあっけらかんとゲドに打ち明ける様子は、この醜い顔の少女の芯の強さ、心の健やかさを物語っていた。それがすがすがしかった。

 最後に、テナーのお気に入りになったコケばばを私も好きになった。その姿から人には嫌われているけれど知恵はある。こちらがその気になって心を開けばコケばばはよき相談相手だし、いろんなことを学ぶことの出来る教師ですらあった。この素直で小さな人のいいまじない婆が私はかわいらしかった。
 宮崎駿の作品には必ずイタコみたいな年取ったおばあさんが出てくるけど、ここから来てるのかもね。

ゲド戦記 4 帰還


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「ゲド戦記III さいはての島へ」 [reading]

 映画であのシーンを見たときからかなり確信に近い思いではいたんだけど、やっぱり親殺しのエピソードは宮崎吾朗のトラウマだったんだな。大体、製作仲間にもバレバレなそんな安っぽいプロットをなんの恥ずかしげもなく入れてしまうところがなるほど素人か。父親の作品を観てても、父親の仕事をそばで見てても何も学べなかったのか。やっぱりそれを汲み取るセンスがその子供にはなかったと言うことなんだろうなぁ。大体、父親と比べられるのが嫌だっつって異業種に逃げ込むくらいだから。その時点で既に比べられてるってことに気付けよ。そんなに恵まれた環境にあって、絵を描くことが好きなら尚の事、なぜそのチャンスを活かさなかった。挑戦しなかった。そんなのがアレンに自分を投影するなんて、そりゃ原作者にも嫌がられるよ。宮崎吾朗が映画にしたのはこの3巻目と聞いていたけれど、実際にはこれまでのエピソードを、主語を入れ替えたりと好き勝手にした上でのごた混ぜで誰のキャラも掘り下げられていないし、世界観の上っ面さえ伝えられていなかった。
 あの映画の出来を観て、自分の想像力の源泉をいいようにいたぶられた父親の心痛はいかばかりか。
 
 そんな映画を先に観ていたせいで、本を読む前のアレンに対する印象はよくなかった。良くなかったと言うか悪かった。だって無類のヘタレだよ?だけど、そんな先入観があっただけに本の中のアレンは一層まぶしく見えた。
 ル=グウィンの描いたアレンはすごくかわいい。アイドルってこういうことだなと思った。若い頃のゲドも愛らしかったけれど、アレンにはそれを上回る素直さとひたむきさがあった。田舎者だったゲドには自分の力に対するうぬぼれと虚栄があったけど、いいとこの出であるアレンにはそれは慎むべきものであることをその歳で既に知っている。慎み深さこそが品位であることを小さい頃から教え込まれているからだ。もちろん、それは彼の両親が良い人々で、彼の受けた教育が質のいいものであったからだと思うけど。歳若い王子が美しいってだけでも奇跡的なのに、そこに知恵と勇気と、あろうことか善意が備わってるなんてこの人自身が奇跡みたいなもんだ。
 私のお気に入りは嫉妬するアレン。ローバネリーで知り合った半狂人の男を船旅に同行させようとするゲドと、それをなんとかして思い止まらせようとするアレンが言い争いになって、ゲドがそんなら旅やめようか?みたいな極論を持ち出して完全に子供のケンカみたいになってくると、アレンは目に悔し涙を溜めて言う、
 「わたしは申し上げたではありませんか。お供して、どこまでもお仕えすると。約束は守ります」
 なんていじらしいの…。私はアレンがかわいくってしょうがなかった。その後もアレンは度々ゲドに対する恋心にも似た忠誠をゲドに示す。いや、その気持ちはもう完全に恋なんだけど。アレンはこの気まぐれな魔法使いに恋してて、恋してるゆえにゲドの行動に悩まされる。だって、好きじゃなかったらとっとと放り出しちゃえばいいんだもんね。
 ゲドに恋わずらいしてるみたいなアレンは本当に愛らしかった。

 アレンは王子としての育成の結果として、異様に正義と義務感が強いけれど、その権威に関しては全く気負ったところがなくて、驚くほど自分の気持ちに素直な子供だった。いやらしく言えば、大人に気に入られるコツを心得た子供だった。それは本人も否定していない。彼の周りには大人ばかりだったから考え方がませていて、誰かに師事することに慣れていた。けれど多分彼の本当の美徳は、その中にきちんと自分の純粋性を囲っていたことだろうと思う。つまり彼が少年であることこそがその力の源のように感じる。
 それはゲドについても言えることだった。なので、ゲドがロークの院長の座についていると知ったときはすごい驚いた。あのゲドが。学校の校長なんかの座に収まって生きてる。いかにも不似合いだし、不自然なことのように思えた。なので、ゲド自身が後で
 「いちばんつまらんのが、この大賢人というやつだ。」
 と言うのを聞いてどれほど安心したことか。
 だから、アレンの出現にゲドは大喜び。長たちの前でこそ体面を取り繕って一応の威厳を漂わせているけれど、内心は完全にウキウキしてる。子供みたいに。早く旅に出たくてしょうがないって感じが伝わってくる。この話でのゲドは壮年と言うからには40は越しているはずだけれど、それでいて素顔のゲドはすごく子供っぽい。アレンをあきれさせてしまうほどの子供っぽさだ。その幼年性がやはりこの人の力でもあるんだろうと思った。年をとらない。永遠の子。苦労をしていないからと言うわけでなく、むしろ人の経験し得ない視線を超えた経験を何度もしているのにだ。ゲドのゲドたるゆえんはその幼さにあると私は思った。
 そんなゲドの大人気なさが発揮されるのはアレンと二人で海に出ているとき。つまり人の目が届いていないとあきえるほど子供っぽくなる。まあそんだけアレンに対しては正直に向き合っていると言うことなのかもしれないけど。でも、どんなに仲のいい友達とか恋人だって言っても、長い間一緒に旅していたら一度もケンカせずに済むなんてことはないよね。それは経験上私もよく分かる。アレンとゲドも海上で二人っきりのときにその絆を試される。旅先で色々あって観るもの全てに不安を覚えるランの気持ちををもう少し分ってあげてもいいと思うんだけど、ゲドはアレンの不安に押されての質問攻めを子供っぽい癇癪ではねつけてしまう。その様子はほんとにびっくりするほど大人気ない。
 例えば、航海中に二人がケンカなんかすえると、最終的に歩み寄るのはアレンだ。ゲドがアレンの質問の多さにへそを曲げて黙り込んでしまうと、アレンは健気にもその場を和ませようとして、
 「歌をうたってはお邪魔でしょうか?」
 と進言すると、ゲドは
 「うむ、うまいか、へたかによるな。」
 と不機嫌そうに答える。オッサンどんだけ大人気ないんだよ。
 もう一つは、ゲドが自分の生まれ故郷をアレンに見せたときのこと。自分の生まれ育った森の美しさを語って聞かせた後でこう言う。
 「やれ、わしが、もしも、ゴントに戻れることになっても、そなたには、ついてこさせはしないからな。」
 そう言って悪戯っぽく笑った彼が一番好きだった。それを読んで結局、この人はやんちゃなまま、とうとう大人になることがないまま大人になってしまったんだなと思った。

 すがすがしかったのは、旅がクライマックスへ近づくのを目前に、ゲドが来るべきフツーのおじさんとしてのリタイア人生に目を輝かせる場面。ゲドはアレンに出会った瞬間からこの出会いが意味するもの、その運命とそれが自分たちを何処へ連れて行こうとしているかも全てその瞬間に理解する。
 ゲドは自分の果たすべき運命に酔っていたと言ってもいいかもしれない。自分が果たすべき試練と、その結果がもたらす栄光、そしてその向こうに待つ自分の知らない全く新しい生活に対する希望や期待というものがよく伝わってきた。そのために命を投げ出すことなどなんでもないみたいだった。それが必要ならそれをするまでと言った感じだった。

 ハルキがよく言うことに、
 「人が人生で自から選べることなんて殆どない」
 っていうのがあって、私はこれに抵抗を感じているんだけど、ゲドも同じようなことを言うんで、みんなそう思っているのかなと思った。ホート・タウンに向かう船の上でゲドがアレンに自分にとってどれほど航海の時間が貴重であるかを説いて曰く、

 「まだ若かった頃、わしは、ある人生とする人生のどちらかを選ばなければならなくなった。わしはマスがハエに飛びつくように、ぱっと後者に飛びついた。だが、わしらは何をしても、その行為のいずれからかも自由にはなりえないし、その行為の結果からも自由にはなりえないものだ。ひとつの行為がつぎの行為を生み、それが、また次を生む。そうなると、わしらは、ごくたまにしか今みたいな時間が持てなくなる。」

 これってひょっとして私とハルキの中道なんじゃないかと思った。結局、人生の岐路に立って何かを選んでも選ばなくてもその結果から自分が逃れることは出来ない。ただ、ハルキは選ばない人生の連続で、私は選ぶ人生の連続だったというだけで、そのどちらかが、何かからより自由であるなんてことはないんだ。
 「才能が人生を決めることもある」
 と「ナス」を書いた人も言っている。それをベストと思って何かを選ぶことと、圧倒されてしまって何も選べないことの間にはきっとそれほど明確な差はないんだと思う。

 それでも、既に世界の大賢人に上り詰めた男が、リタイアを目前に人生で最高の栄光を手にし、そして同時に全てを失うこの話のラストでは、ヒーローの輝きもフェイドアウトしてゆく。
 物語のラストには消えていったヒーローを偲んで2つのエピソードが挿入されている。私は前者の方が好きだった。ゲドが全てを失ってしまったことを思えば、それはありないと分っていながら、それでも前者であったらいいなと思った。ゲドのものを慈しむ姿がよく現れていると思ったから。ゲドを追ってセリダーから一人帰ってきた果て見丸に声をかけるゲドは、すごく、らしかった。

 2巻目で全くなりを潜めてしまっていただけに、今回は大分ゲド自身を楽しめた感じはするけど、でも、人生の郷愁の時期に差し掛かった姿はやはりさみしいとしか言いようがなかった。

ゲド戦記 3 さいはての島へ


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