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「ゲド戦記IV 帰還」 [reading]

 かなり衝撃的だった。読み終わっての第一印象は「はあ????」って感じだった。頭の中にいっぱい「?」マークが沸いてきた。『え、これはなに?これはゲド戦記???』とかなり動揺した。それくらいゲド戦記ではなかった。それまでのゲド戦記からは逸脱した、よく言えば独立した物語、アナザーストーリーだった。
 本の後書きだったかなんかで、そもそもこの3巻目と4巻目の間にはかなり時間を置いてのことだったので、続編が出たこと自体にみんなが驚いたと読んだ。Wikipediaによると、3巻目から4巻目が発表されるまでには実に28年の隔たりがあったことになる。
 なぜ世間のそういう認識を覆してまで作者は、このテーマで、しかも「ゲド戦記」の続編を出そうと思ったんだろう。きっともうその辺は、本人か研究者でなければ分らないんだろうな。

 世間の認識を裏切って発表された4作目のテーマは、あからさまに「ジェンダー」だった。な、なぜこのテーマをこの作品で?この話って書かれたのいつ?と思って調べてみるに、原作が発表されたのは90年、3巻目が発表されたのはなんと私が生まれる前だった……。ええーーーーーっ、そうなんだ……。構成がおかしいから相当古そうだとは思っていたけれど、それでも……。なぜファンタジー作品にこのテーマを持ち込んだ?なんか読ん出る最中、体のいいハーレークインを読まされたような気持ちの悪さを覚えたし。中年、よりももっと歳のいった男女のロマンス。その点で言えばまだ辛くもファンタジーか。

 正直、この話はもうファンタジーなんかじゃないっていうのが読み終わった直後の感想だった。生々しくて、読んでる間ずっと眉をひそめるような気持ちだった。こんなの子供の読み物なんかじゃないよ。むしろ読ませていいのかという気がするくらい。だって、タブーがてんこ盛りだよ?幼児虐待にレイプ、貧困と差別。犯罪。読み終わったあとで一瞬、3作目までを読んだ子供たちが大きくなっていることを想定してのテーマだったのかなと思わなくもなかったんだけど、ジェンダーってテーマはどうしても偏ると思うし、テナーの一人称がますますそれを助長してる気がする。どう贔屓目に見ても、これは「ゲド」の世界観を借りて現代社会の問題を描いているだけだ。そして、どこにも救済はない。むしろ善の存在それ自身がファンタジーに貶められている。
 そして宮崎吾朗のごった煮「ゲド戦記」に出てくるテルーはこの4作目にならないと出てこない。どこまで脈略がないんだろうな、この作品は。しかも、まだ原作を読んでない当時ですらも思ったことだったけど、やっぱりこいつはこの不幸から生まれたヒロインを相当美化してキャラデザインしてた。それを確信すると余計不愉快に感じた。テルーは人間の残忍さの生きた証拠といわんばかりにその顔も身体も醜くされてしまっているのに、映画で表現されたのは焼けて赤くなった皮膚の色だけだった。何を恐れてこんな手抜きをしやがんだ。ヒロインだからあまり醜くは出来ないとしても、それこそそんな目くらまし原作に失礼ってもんだろう。そんな中途半端なことするくらいなら、いっそのことテルーの身体的な不具なんてなかったことにしてしまえばよかったのに。

 4作目の主人公もテナーだった。徹頭徹尾テナーだった。そして、終始テナーの目線を通して「ジェンダー」という偏ったテーマが紡がれていく。だけど、そこに決して誇張や嘘はないと思う。ここで起きるどんなエピソードも現実の諸悪として存在しているから。
 ただそれでも、読み終わって最初の衝撃のほとぼりが冷めると、私はこの地に足付いたテナーのたくましさというか、したたかさというか、生(性?)に対する本能的な素直さに好感を持つようになった。それもかなり意外なことだった。私はどんなに見方が主観的になっていようと、このテナーの人生が行間にぎっしり詰め込まれたような生臭い話に愛着を感じるようになった。
 ゲドに置いていかれた淋しさから、男ほしさにオジオンの元を飛び出したというテナーの告白はあまりにも生々しい。愛とか恋とか言う以前に、ただ自分の男を持って、その子供を作って暮らすことが世間の認める当たり前ならばこそ、早く自分もその当たり前になりたいと必死になるテナーは、同じ女として非常に生々しく映った。私の友達の一人が全くこれに重なったし、同じ理由のために結婚を望む女の子たちが実際にどれだけいることか。それを思うと息の詰まる感じがした。女に生まれついた時点で既に私たちは人生の枠組みをその社会にあらかじめ決められてしまっているわけだ。

 そんな、「喰らわれし大巫女」や「腕輪のテナー」というセレブな生き方を拒み、代わりに選んだ魔法使いの生活からも結局は逃げ出して、ただの「女」に走ったテナーに、新たな人生が降りかかる。それがテルーであり、再会したゲドだった。新たな人生を生きるテナーはよっぽどテナーらしかった。この人はいつだって怒ってて、怖いもの知らずだった。死に損ないのテルーを必死になって守るテナーの姿はもうがむしゃらで、母親ってこういうことかとよく理解できた。
 突然戻ってきた放蕩息子を農園に置いて出て行くときの様子は、「OUT」で主人公が、反抗期の息子を引きこもりになった父親と共に捨てて出ていいく姿にそっくりで思わずにやりとした。桐野夏生はもちろんこれを読んでいたに違いない。だって、あんまりそっくりだよ。母親は厳しく、そしてその愛情は海より深い。ヒバナの甲斐性のなさにテナーが子育てを失敗したとぼやく姿とか、また、出て行こうとする母親にヒバナが追いすがるところなんて本当に「OUT」とダブった。

 それに引き換えゲド。私の大好きなゲド。が、あろうことか腑抜けになってしまっていることに愕然とした。アレンと旅をしていた頃は、自分が力の全てをなくすと分っていても、あれほどその後に来るフツーのおじさんとしての人生を楽しみにしていたくせに、実際「無力」というものが降りかかってみると、その現実を受け入れる力すら持ち合わせていないみたいだった。で、自分の不甲斐なさをテナーにやつ当たりしてみたりする。かっこ悪い……、かっこ悪すぎる……。テナーはあなたが大魔法使いだから好きになったわけじゃあるまいし……。ということがまるで分っていない。魔法使いって意外とバカ……。と思ってあきれてしまった。
 それを上回って私を呆然とさせたのは、そんなゲドを突然ベッドに呼んだテナーだった。……え、なんでそうなるの?という脈絡だった。え、それってそういうことなの?と、読んでる私が戸惑っているのに、ゲドもゲドで、もごもご言いながらもテナーの誘いを当然の流れのように受け入れる。は?どっからそういうことになったの?思わず後戻りしてその読み落とした行間を探そうとしてみたりしたが、ついに、この時点でのこの自体が持ち上がるべき瞬間を見極められなかった。私にはどこまで行っても唐突に思えてしかたなかったんだけど、当人たちは今が一番息の合った時みたいな感じで惹かれあって曰く、
 「そこでテナーはもっとも知恵のある男でさえゲドに教えることの出来なかった神秘をゲドに教えた。」
 ええーーーーーーーーーーーーーっ、そんなあーーーーーーーーーーっ。
 しかも、暖炉の前だ。どこのスケベ映画やねん。ご丁寧に神秘の儀式が終わった後のピロートークまで披露してくれる。なんのサービス?長年の片思いがやっと報われて満足しきったテナーに、
 「さあ、あなたはいよいよ一人前の男。」 とからかわれると、ゲドはしおらしく
 「もう、そのへんにしてくれよ。」 と50男とは思えない恥じらいを見せる。
 ガーン……ドン引き……。誰がこんな光景を「ゲド戦記」に期待しただろう……。喰らわれし者にゲドが喰らわれた瞬間……。そしてまんざらでもない……。うげーーーーっ。じゃあさ、聞くけどさ、ゲドが魔法使いのままだったら二人のロマンスはありえなかったってこと?そうなの?魔法が使えたままならゲドはテナーと一緒になることは考えなかったってこと?それは淋しくない?まあ、才能が人生を決めることもあるからね、それをゲドが選ぶなら仕方のないことだけど。でも……。

 この巻のゲドはかなりかっこ悪い。まるでいいとこなしだ。力を失ってみれば、一時の大賢人も普通の人以下だった。現実と向き合えなくて逃げてばかり。なんとか元気付けたいと思うテナーの心遣いにも背を向けて心を閉ざす姿は、むかし影に怯えてロークで隠者みたいにこそこそ生活していたときの彼を髣髴とさせた。ともすればテナーやテルーに当たってしまう。男というより、まず人として情けなかった。
 ひどいなと思ったのは、テナーがテルーを引き取ったのは残酷だったんじゃないかとゲドが責めたとき。これにはテナーも苦しめられた。これは、私がジョディーの看病疲れをしているときに、思わず知った人に苦しいのを打ち明けたら、「早く楽にしてあげたら?」と言われたことにかぶった。自分の良かれと思ってしていることが必ずしも相手の幸せであるとは限らないと言われて私はショックだった。そう言われて私は先生に安楽死の可能性も相談したけど、半ばそれは止められる形で選択肢から外された。先生に、安楽死だって決して犬にとって楽なわけではないと言われて、むしろ安心したような気がする。そして、テナーも私も心無い言葉を投げつけられたけど、結局放り出すようなことはしなかった。命のある限り、自分のベストを尽すと。もちろんそれは自分の想像していた以上に自分を、関わる全ての人を消耗させる悪夢だったけど、後悔はより少ない。自分に出来ることを全てしたと思うから。

 テーマがテーマであるだけに、最初っから最後まで「女」であることが問題であるみたいだった。テナーは女であることで自分の存在が軽視されることに不愉快を隠さなかった。巫女であったプライドもその一助となっているのは確かで、どこへ行ってもどこの男とも彼女は衝突した。それを厭わなかった。夫を失って枷が外れたせいなのか、人との和を全く重視しない人になっていたので、ある意味どこの人間とも摩擦を起こした。こういうテーマを扱ってみて初めて分ったけど、「ゲド戦記」の世界は「女だからダメ」ということばかりで成り立っている。女は魔法使いになれないというのも4巻目を読むまでなかった設定だ。まあ、中世をモデルにしたような世界観だからジェンダーの倫理観とかも当時のそれに近いんだろうけど、そんなわけで、テナーは概念というか、社会通念というものと悉く衝突する形になった。えらい人に頭を下げなかったり、村八分の人と親しくしたりとか。とにかく自分が正しいと思ったら、それを絶対に曲げない人だった。その頑固さは逆に頭が悪いくらいに映ったけれど、なんだかそのうち自分のことを言われているみたいな気がしてきて、それがちょっとおかしかった。私とテナーは少し似てるのかもしれない。
 とにかくいろんな分りやすい差別がこの世界にはある。身分や、職業や、中でも性はそれ以前の問題だった。同じまじない師でも女ならもっと卑しい仕事とか、女が男にたてつくなとか、そんな感じだった。その中でも私が最高に不愉快だったのが、
 「後家の男欲しさは昔からのことではないか。」
 って言う概念。そんな……、言いがかりにもほどがある……。どう考えてもこれって男目線の差別だよね。自分が旦那のいなくなった女に迫るための口実で、女自身は死んだ夫によってではなく、この偏った俗説に貞操を縛られる。こんなナンセンスが公然と真実みたいに語り継がれるなんてその社会自体のレベルが問われるだろ。そもそも公平とか言う概念がないかもしれない。その手の概念って魔法使いが「この世の均衡」とか言う以外に出てこないもん。やっぱり教育って重要なんだなぁ。

 宮崎吾朗の「ゲド戦記」のクライマックスはこの4巻から来ていた。呪いを掛けられていたテナーは向こうの汚い策略にはまって捕らわれてしまう。それを助けようとしたフツーの人ゲドも一緒になって捕まる。敵は、城壁の上にゲドを立たせて、それをテルーに突き落とさせるという、極悪非道とはまさにこのことというようなやり方でゲドを殺そうとする。でも一番恐ろしかったのは、アスペンの女に対する偏見と憎しみだ。テナーに術をかけて犬みたいにして引き回し、なんの遠まわしな表現も使わずに、そのままずばり「ビッチ」と呼ばわって地面をなめさせるくだりははっきり言っておぞましい。そこまでの悪意を描く必要があったのかとさえ思った。
 そこへ奇跡のようにカレシンが舞い降りて、二人を救う。実際にそこへカレシンを呼んだのはテルーだったわけだけど、「ゲド戦記」では時々こういう都合のいい解決方法がとられる。「たまたまそうだったから助かった」みたいな。ゲドが昔、まじない師として西の島に派遣されて、そこから竜を退治しに行ったときは、それまでに聞き知った話から予想して、たまたま竜の名を言い当てたと、退治した後で告白する。このエンディングもこのときになっていきなりテルーがカレシンの娘だったということを知らされる。まあ今回はその布石がなかったわけではないけれど、どうしてそれをテルーが知り得たんだっつーの。

 一見ハッピーエンディングのようでいて、実のところ何も解決していないこのお話の唯一の救いは、テルーが自分の汚れ(と人は呼ぶだろう)に気付いていないことだった。恐ろしいことをされたという記憶はあっても、「汚された」という概念はないみたいだった。それが救いだった。そして忠実に再現することはどんな作家もためらうだろう身体の少女は、それでもよき母と父に恵まれて健やかに育っていく。その様子がなんとも晴れがましかった。行方不明のシッピーを必死になって探す様子、自分を痛めつけた人間に再会して気分が悪くなってしまったことをあっけらかんとゲドに打ち明ける様子は、この醜い顔の少女の芯の強さ、心の健やかさを物語っていた。それがすがすがしかった。

 最後に、テナーのお気に入りになったコケばばを私も好きになった。その姿から人には嫌われているけれど知恵はある。こちらがその気になって心を開けばコケばばはよき相談相手だし、いろんなことを学ぶことの出来る教師ですらあった。この素直で小さな人のいいまじない婆が私はかわいらしかった。
 宮崎駿の作品には必ずイタコみたいな年取ったおばあさんが出てくるけど、ここから来てるのかもね。

ゲド戦記 4 帰還


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