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「バーン・アフター・リーディング」 [watching]

 観る前から相当ひどい映画であることはなんかいろんなところで書かれていたので多少の心構えはしていたものの、わざわざ日比谷くんだりまで出てきて観るんだから、ほんのささやかでいい、その労に報いるくらいの良さが欲しかったが、クライマックスで丸腰の相手の背中に容赦なく銃をガンガン打ちまくるジョン・マルコビッチの非情さにも等しいほどの最低ぶりだった。
 どんだけ人生に余裕があったらこんなクソ映を金と時間をかけて作ろうなんて気になれるんだろうな。まあみんな好きで出してる金と労力だから人にとやかく言われる筋合いはないとは思うんだけど、それにしたって、それをお金払って観る人がいるわけだからさ。ましてや、アカデミー賞の常連たちが制作やら、出演やらに名前を連ねてるんだから、それなりの良作を作るのは影響力のある著名人の社会的責務と言っても過言じゃないと思うけどね。

 この作品が描こうとしているのは「ファーゴ」に似てる。というか、同じだと思う。おそらくそれがこの兄弟の世界観なんだろう。プログラムに使ったライターもとんだ恥知らずで、「ファーゴ」で使ったのとまんま同じコピーを使って語ってる。プロならもっとクリエイティブな仕事しろよ。「ファーゴ」のコピーは「人間はおかしくて、哀しい」だったと思うんだけど、このライターが使ったのは、「愚かで、おかしくて、そして悲しくて」。評の中で「ファーゴ」との類似性とか、作品を持ちだしてなんか比較した上でオマージュ的に使っているならまだしも、評の中には「ファーゴ」のファの字も出てこない。こいつ、明らかに観てないな。観てないなら書くなよ。こんなんで仕事になってお金もらえるなんて、ぬるくていいねえ、映画ライター。
 最近ほんとに好きで書いてると思わせるライターのプログラムに当たることが珍しくしばしばあったから、こんな素人仕事みたいなのに当たると結構腹が立つ。ましてや単館映画のプログラムで、こんな体たらくなもん作りやがって。単館映画なんてよっぽど好きでなかったらわざわざ見に来ないわけでしょう?観に来るファンの濃さを考えたら、広く浅く単に口当たりさえよきゃっていう全国展開の作品よかよっぽど気合い入れて作るべきだと思うけど。もっといい仕事する人が他にいくらでもいるだろうに。

 この作品で一番の見どころは、冒頭でも出したけど、ジョン・マルコビッチの観てるこっちが縮みあがってしまうような非情さだった。あんなにストレートにおっかないマルコビッチは久しぶりだった。あの盲目的な狂気が私に向けられたものでなくてよかったと思うくらいにおっかない。大体、バカなくせにキレやすいなんて、もう手の施しようがないよね。なんか、そんな人は生きてるだけで迷惑な気がするけど、そんなんが国の重要機関で重職についていると言う日常。空恐ろしい。
 で、最後同僚に片思いの元司祭のおじさんが丸腰で逃げて行く背中に容赦なく斧を振り下ろす様子をなんの演出もなくただ撮っていると言う姿勢がまた恐怖感を煽って私は好きだった。あのなんの演出もない虐殺シーンはごく控えめに言っておぞましい。「ファーゴ」で人肉を芝刈り機だかなんだかでミンチにしているシーンを彷彿とさせるよ。
 なんの演出もないからこそ際立つ狂気。マルコビッチのおっかなさを十二分に引き出すことに成功していると思う。しかし、こういう恐怖は映画だからこそ楽しめる物だよね。ほんとに。
 プログラム読んで知ったんだけど、マルコビッチは最近製作の方にも手を出しているらしくて、それ自体は別に驚かないんだけど、お金あるだろうし、お金のある俳優は大抵製作に回りたがるものだから、けど、意外だったのは、手がけてる作品にティーンエイジャー作品が多いってこと。「JUNO」とか、「ゴースト・ワールド」もそうなんだって。どっちもインディーズ系作品だけど、評価は高いので、遊びで手を出しているんじゃないんだなと思って改めてこの人の映画に対する熱意に感心した。「リバティーン」とかね。「リバティーン」は残念ながら観れてないんだけど、私は観たいと思っていた作品だから、マルコビッチの作品選びの視点にはかなり信頼がおけるんじゃないかと思った。
 しかし、CIAで重要なポジションについていたような機密情報のエキスパートが、人に見られたくない情報をCD-Rに焼いて外に持ち出せるようにするってどういうこと?そこのくだりには何も説明がないのよ。それが腑に落ちなかった。そこの経緯こそ描いてくれなきゃマルコビッチの頭の悪さは観てる人に伝わらないんだよね。結局あれだって、その後みんなが「お前がジムで落とした」って言ったからそうなのかなって状況になってるだけで、実際にどういう経緯をたどってCD-Rなんかに焼いて、焼いたものを外に持ち出して、それだけをジムのロッカーに置いてきちゃったのかがそっくり抜け落ちていた。手抜きにもほどがある。ちょっとこんな雑な仕事は他では見たことないな。

 不愉快だったのは、ジョージ・クルーニー。こいつってほんとこの兄弟のミューズなんだな。「オー!ブラザー」でのクルーニーは確かに好きだし、作品としても完成度が高いと思うよ。でも、こんなに大事にされちゃって。なんか納得いかない。そこまでかわいがんなくてもよくない?観終わったて最初に、「これってこいつの映画じゃん」って思うくらいクルーニーの映画になってたよ。
 そもそもこの顔中ヒゲだらけのおっさんがこんなにモテるという事象自体が、ジョン・マルコビッチの狂気以上に気持ち悪かった。みんな、その人は最悪だって気が付いて。ティルダ・ウィンストンみたいなインテリ女がクルーニーみたいなピーマン頭に惹かれるってどういうこと?そんなにセックスがすごいの?体だけが目的なら何もわざわざ結婚しなくたっていいじゃんか。と、ずっと思いながら画面を見ていた。ベッドシーンのないのが幸いだった。そんなのあったらちょっと耐えられなかったと思う。兄弟自身は作りたかったんじゃないかと言うのが私の予想。だって、その方が変態さをアピールできるもんね。多分その欲求をDIYのあのヘンテコな機会に託したんだろうなと言うのが私の読み。あれで十分うんざりさせられた。もう二度と観たくない。

 ブラッド・ピッドはこの役者の中ではすごい存在感が薄くって、思わず同情した。図らずしも大した役者でないことを露呈した形になっていると思う。「白の海へ」がおじゃんになったから、代わりになる仕事をしたかったと言うのは分かるけど、作品は選ぶべきじゃなかったのかな。ブラッド君。別にこれは今更君でなくてもいいよね。どんなふうに口説かれちゃったんだか知らないけどさ。でも個人的にはコーエン兄弟の仲のブラッド像がこんなんで非常に好感が持てた。ブラッドの仕事やブラッドと言う人をよく観察しているなと思った。本人はかなり腑に落ちなかったらしくて、それが演技の切れの悪さにも繋がっていると思うんだけど、、私にいわせりゃそんな役以外、君にぴったりくるのはないと思うけどね。今も昔も。あんまりコーエン兄弟が描くブラッド像が頭悪くてうっと―しいから、早く死んでくれと思いながら観ていたよ。ブラッド・ピットの「白の海へ」は、それはそれで観てみたかったとは思うけどね。時節柄、制作できなくてもしょうがない。まだ少し先でもあの役は出来るんじゃないかな。

 私がこの映画で一番好きだったのは、CIAの上層部がこの一連の事件に関して不可解そうに会話するシーン。一番観客寄りな視点で、あの場面に来るとホッとするくらいだった。J.K.シモンズは私の好きな俳優の一人。「スパイダーマン」で好きになって、コーエン兄弟の作品にもこれで何作か目だから、同じく気に入られてはいるんだろう。キャラにそれほど幅はないかもしれないけれど、味のある俳優さんだよね。

 フランシス・マクドーマンドは大変な人を旦那さんに持っちゃったなと同情する。あんな役は確かにちょっと他の人には頼めないもんね。

 終わった時には心底ほっとしたよ。女遊びがバレてめそめそするクルーニーなんかとんでもなくうっとーしかったし、マルコビッチによる不毛な殺戮が始まった日には早く終わらしてやってくれと懇願したい気持ちになったまさにその絶妙なタイミングで、J.K.シモンズなど良識ある人々によって、くだらない茶番劇に終止符が打たれ、とトカゲのしっぽを切るみたいにズドンと作品の幕が落ちる。
 それがこの作品に用意された救い。終わった後彼らがどうなったかなんて考える余韻を持たせる余裕など全くないまま、劇場をそそくさと後にさせられるなんとも不愉快な一作だった。

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「007 / 慰めの報酬」 [watching]

 ソニーピクチャーズになってから、これまでのイメージを払拭しようと言う野心自体がこの作品のイメージになってしまっていると受け取れるほど恥ずかしげもないこだわりが露わになっている。
 けど、成功したと思うよ。特に、立て続けに2作を輩出するというマーケティングは既概念の払拭、新イメージの定着、両方の戦略において有効だったと思う。監督としては「カジノ」と「慰め」で1作品とみなしたい考えだったみたいだから、そこの判断を覆した人こそ讃えられるべきだろうね。

 新しいボンドは人間臭いのが特徴で、たぶんそこが一番の面白みになっていると思う。恋愛に関しては
子供っぽいと思うくらいストレートで、そんなんではスパイになれんだろと思うくらいだが、新しい007に関してはそれもコンセプトなのかも。前作で、007ともあろうものが、一公務員に本気で恋したり、嫉妬したりする姿は観てて愉快だった。あと、私が個人的に最もこの作品で気に入っている点の一つにくだらないジョークみたいのが出てこないことだ。今までのだと絶対必ずどこかしらにコメディの要素が入ってくる。そうしなきゃいけない契約になっているとでも言うがごとく必ずそういうワンシーンが入っている。007の取る笑いなんて誰も期待しなくない?007のチャーミングさをアピールしたいんだろうけど、かわいらしい魅力なら他にいくらでも表現のしようがあると思うんだけど。

 そんな人間臭い新生ボンドがバンバン人を殺していく様子はまさに痛快だった。Mにがみがみ言われながらも、完全に個人的欲望のはけ口として目の前の敵を惨殺していく。それでも、そんなむごたらしさをあまり感じさせずスタイリッシュなアクションの見せ場に仕立て上げられているところがすばらしいと思った。アクションシーンは本当にかっこいいよ。冒頭のカーレースの場面もそうだけど、トスカーナのお祭りを舞台にしての追跡劇も見物だった。個人的にはあんなとこであんなことしたらその時点で諜報員アウトだと思うんだけどね。いい加減目立ちすぎでしょう。地元警察に目を付けられるはおろか、民間人の犠牲者まし出しちゃって。スパイはもっとこそっと、少なくとも民間人に迷惑かからないように仕事するもんじゃないの?でなかったら、身元隠して諜報活動する意味ないよね。

 ピアース・ブロスナンが007を始めてから、どっかの雑誌で紳士服のモデルに使われているのを見て笑った記憶がある。まんま007だなと思って。けど、ダニエル・クレイグの場合は逆。あまりにも決まったスーツ姿で画面に出てきた途端に紳士服の広告が歩いているように見えてしまう。多分、かっこよく着過ぎてて、生活感なさすぎな雰囲気に違和感を覚えるんだと思う。どこを切り取ってもいかにもモデルでございって感じになっちゃってて、それが形で風切ってで歩いて来るのがまたおかしい。
 で、なんだってこんなにお仕着せのモデルっぽさ丸出しなんだろうと思ったら、プログラムに衣装は全部トム・フォードだって書いてあって納得した。どうりでそんなにいやらしいわけだ。なんかもうどんな服も全てmm単位で寸法測って裁断しましたって言うくらいぴっちりしてて、どうでもいいけどそんなかっこいい恰好で肉体労働者しかいないような港湾を盗んだカブみたいなバイクで流してたら目立ってしょうがないだろうと思って腑に落ちなかった。けどさあ、パーティー服とか、公務で着させられる服がみんなトム・フォードって言うのはなんかもう、「あー、そうなんだ?」って感じだけど、でも諜報員の私服もトム・フォードって言うのは贔屓目に考えても気持ち悪いよね。

 個人的には今回のヒロインの女の子はあまり好きじゃなかった。じゃあ、どんなんがよかったかと言われてもあれなんだが、もっと繊細な表現の出来る子だったらよかったなと。そう思う。かたくなな表情ばかりが印象に残ってしまって、も少し彼女の人間性に惹かれるようなハッとさせられるような表情とかが見れるとよかったんだけど。
 むしろ、ボンドに手を付けられてしまったがばっかりに、むごたらしい拷問をされて死んでしまった女の子の方が私の好みだったかな。女の子としてのキラキラ感があって。あれはまあ、比べてしまえば簡単な役ではあっただろうけど。

 ソニーピクチャーズになったからだけど、ちょいちょいソニーデバイスが出てきて私の失笑を買った。そんなクリティカルな場面にソニー製品なんかまず使わないだろうと思うのは私だけだろうか。ソニー製品がプロ事業で通用するのって、放送業界だけな気がするから。

 007は決まって主題歌のPVみたいなイントロを挟んでから始まるけれど、今回は観に行くまでジャック・ホワイトが歌ってるって知らなかった。そう言えば、アリシア・キーズとデュエットするってどっかで読んだななんてぼんやり思ったけれど、すっかり忘れてた。音楽的にも似てる所があるわけでもないし、お互い個性が強いし、二人が一緒に仕事をしようと思う接点が分からんななんて思ったけれど、しかしこれが楽曲として重なるとスゲーーかっこよかった。所詮二人ともソニーレーベルという接点でしかないのかもしれないし、本人や周りがなんと評しているのかは知らないけれど、私は想像していた以上の相乗効果だなと思った。

 スタイリッシュなアクション映画と評すると、また友達に「どこのコピー屋…」と呆れられそうだけれど、まさにそんな胡散臭いコピーがぴったりなほどスタイリッシュに出来上がっている007だ。見事に脱皮したと思う。既にダニエル・クレイグに付いているハード・ボイルドなイメージをうまく作品に組み込めたと思う。
 成功してしまったがために、そしてまたボンドを非常に人間くさく作ってしまったがために次のハードルはかなり高くなると思う。この作品で描いたのは、完成されたボンドではなく、人間として未完成なボンド姿だ。と言うことは、これ以降の作品ではボンドは成長していなくてはならないだろう。もしくは、成長の過程を目に出来なければならないだろう。
 個人的には、Mにピアース・ブロスナンの頃から引き続いてジュディ・デンチを使っているのも、今まで007になかった人間臭さを演出するエピソードを担っていると思う。Mは同じ。でも、007は別人。否応なしに配置転換、人事制度を彷彿とさせられた。年老いて傷ついた007は引退し、若くてまだ傷つきがいのある新しい007が入ってくる。新しく入ってきた007をMは扱いにくいわと頭を悩ます。今回の2作品はそんなふうにも取れて、007を単なるおとぎ話ではなく、もう少し自分に身近な日常に重ね合わせて観ることを可能にしているようにも思える。
 しかし、所詮は「セールス」の世界の中の「商品」。次回作にどこまでプライド賭けて真面目に作るかしらね。

 イメージを覆すために図らず時も自ら高くしてしまったハードルを企業がどう乗り越えるのか。
 次を楽しみにしたいと思う

 ちなみに、この邦題はよかったと思う。タイトルと中身が寄り添っている。頑張って考えたと思うよ。その辺からしてソニーピクチャーズの気合いの入り様が覗えるね。

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「チェ 39歳別れの手紙」 [watching]

 冒頭、カストロがゲバラの手紙を読み出すのにはびっくりしたが、その後、我慢して「28歳」のゲリラ戦のコピーを2時間も見させられて改めて思ったのは、やっぱりあの時エンドロールが流れてればよかったのでは?ということだった。
  誰なんだよ、この一連の邦題考えた奴。全然「39歳」とか「28歳」っていうマイルストーン自体に意味もなければ、「別れの手紙」も作品の内容には全く関係ないじゃん。そもそも2部の方は、原題「Guerrilla」だよ。原題そのままだったら観る前から内容間違わずに伝わったのに。ちなみに1部の原題は「Che The Argentine」。ちゃんと作品の言いたいことが全部詰まった台になってるのに、それをわざわざセンスのない邦題に蹂躙される原題のメッセージ。商業的な要素にばっか気を遣ってて、作品の内容を伝えるという本来の目的を完全に失っている。ほんとこの邦題付けた奴誰なの。無責任にもほどがある。
 タイトルから受け取るイメージって作品にとっては顔なわけじゃない。もっとことの重大さをちゃんと理解した上でつけてほしいよ。

 作品は「28歳」がそうであったように、いきなり、何の説明も、猶予もなく、脈略もなく、観客は「革命」の中に放り込まれる。
 ゲバラに何があって、キューバを、カストロを決別せしめ、彼をまた別の戦場へと身を投じさせ高の説明は一切なしに、いきなり家族を捨ててボリビアに行く。しかも行く時点でかなり無理っぽい雰囲気がぷんぷんだった。当時もそうだったのだろう。なぜそうまでしてわざわざ負け戦を選ぶのか、そのモチベーションの裏付けは自分で調べてくださいという方式の作品だった。そういう作品のあり方は「28歳」と同じでブレがないから、同一作品として続けて観る分にはむしろその一貫性を褒めるべきかもしれない。

 なぜなんだろう。なぜそうまでして他の国のことに首を突っ込みたがったんだろう。所詮はよその国のことじゃんか。しかもキューバでの勝利は彼らの革命計画の初めの一歩だっただけに最重要なものであったにも関わらず、その革命が意図した志は結局道半ばにして折れるという悪しき例になってしまった。
 いざ革命起こして独立してみたがいいわ、キューバはあっさり大国の前に跪く。ばかりか、別の大国の番犬になり下がってしまい、またそうあることでしか国際社会に主張できないラテンアメリカ諸国の小ささにゲバラは失望したことだろう。もともとの野望の大きさや、独立するまでの道のりで流された血のことを思えばなおさらだ。彼はカストロと違って、自らが一兵士と肩を並べて、同じ飯を食って、死線をさまよいながら得た、崇高な理想へと引き上げる勝利であったはずだ。それが結局、小さな国の革命は、別の大国の思惑にあっさりと喰われてしまう。
 故郷を捨て、家族を捨て、よその国に煙たがられてまで目指した理想が何だったのか、個人的にはそれをもっとゲバラと言う人物像の軸に置いてほしかったが、どうやらこの作品に対するそもそもの観点自体が監督のそれと大きく違っていたということに売れ残りのプログラムを読んで気付かされる。
 曰く、「偉大な思想を行動に移そうとするときに伴う、技術的な困難に興味があったんだ」
 ふむ、これはつまり、とりもなおさず、ゲバラが真綿でじりじりと首を締めあげられていく過程を撮りたいということに他ならないと私には受け取れる。
 技術的な困難も何も、ボリビアの失敗は、裏切りや部下の失策や、当てが外れるといった、単純なだけに不可逆的な負の連鎖であって、技術なんてものではないと思うけれど。この映画でもよくよく考えさせられたのは、政治ってのは人の思惑が作るシステムなんだよ。ゲリラ戦の技術に長けてりゃどうこうって話じゃないと思う。それはもう先陣を切ったキューバですぐに露見した事実じゃないか。
 ゲバラって、本当に「いい人」だったんだな。
 どんな志を持っていて、何ができる人だったかをこうして知っているから、無教養なボリビア人のために死ぬなんて勿体なかったと今は思うけれど、でも、本人は革命の火に身を投じてそれに焼かれて死んだのだから、たとえそれが道半ばであったとしても、道に大きくそれて死ぬよりかは本人の最期としてはよかったんじゃないだろうかと考える。

 映像のクオリティは、戦場となった山の中での映像が映るたびに気になっていたので、それなりの新技術を投入したっぽい記事を読んでそうなんだと思った。
 全部にピントがあってるんだよね。映ってる画面の全体にくまなくピントが合っている。それっていかにもデジタルの仕事なんだけど、それでいてデジタルらしい目障りなちらつきは少ない。ソダーバーグが好きなホワイトバランスの強い色味のせいかとも考えた。

 印象深かったのは、山岳地帯を逃げまどいながら、とある村に駐留したときに、ゲバラが村の子供を相手に戯れる場面があるんだけれど、そのときのゲバラと言うよりは、デル・トロの表情が新鮮で忘れられない。彼自身が子供みたいに初々しい表情をして、それが線上にはとても似つかわしくないものに見えたから。デル・トロは子供が好きなのかしらと思わせる場面だった。そうであるといい。本人は子供がいるのかな。子供と共演していて印象深かったと言えば、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」のデイ・ルイス。息子役の男の子と戯れている時の彼も、とても優しい表情を浮かべていて胸を打たれた。それと同じものを見た気がする。

 ゲバラ自身、5人も子供を作ったのだから子供好きであったのかもしれない。もしくは単純に否認をするという文化を持たない人々だったのかもしれないが、プログラムの最後に子供たちに向けて書かれたとされる手紙を読む限り、子供をたまたま作ってしまったと言うだけではないのだろうという気はしている。
 ただねえ、この手紙のさしている子供たちって言うのが、キューバで知り合った女性との間に出来た子たちだけなのではないかと思って、そう考えると最初の妻との間に出来た子供がとても不憫に感じて、悲しい気持ちになる。
 ゲバラ本人曰く、「女を好きにならないくらいなら、男をやめる」と言うくらい女性が好きで、愛のない革命家なんて偽物だというくらい、愛に溢れた人だから、どの妻のどの子供も、平等に愛情を傾けたと思いたい。
 そうでないとアルゼンチンにおいてきた家族があまりにかわいそうだ。

 ゲバラが息を引き取る時の場面、一度私もああいうのを夢に見てとても怖い思いをした。愛する人に別れを言う間もなく終わってしまう焦り。私の場合はパニックに近かったかな。どうしようと気ばかり焦っていたので、痛みや恐怖は全く感じなかった。とにかく、家族や、愛してる誰にも何も言えず、理不尽に、永遠に、すべてを終わらせられてしまう状況に戸惑い、焦っていた。
 ゲバラの場合、捕まった時点で銃殺を予想していただろうから、彼の魂は、心を乱されることなく逝けたことを願うけれど、歩哨に立っている兵隊を懐柔して、死の間際まで生き延びることをあきらめなかった姿勢を思い出すと複雑な気持ちがする。
 確かに夢半ばではあったけれど、それでもなお、彼が悔いなく、最期を迎えられたことを願う。

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「チェ 28歳の革命」 [watching]

 もういつ観に行ったかも思い出せないくらい前の話だけど、ちゃんと映画館行って観ました。ブログにあげるのは基本的にわざわざ映画館に観に行ったものにしている。

 ソダーバーグの映画でよいと思ったものってほとんどないんだけど、お勉強がてら観に行った。
 ソダーバーグの作品で私が好きなのは、「セックスと嘘とビデオテープ」と、「トラフィック」はまあまあ良かったけど、あの単調で無駄に冗長な作品を救っているのは一重に出演者の演技力であって、彼の技量ではないと思っている。「エリン・ブロコビッチ」も好きだけど、あれはあまりにもソダーバーグらしくない。きっとコマーシャル的に何かあったに違いと思いこみ、彼の作品ではないに違いないと考えることにしている。
 つまり私はほとんどソダーバーグが好きでない。インテリ然とした彼の才能を疑ってさえいる。

 ったらまたプログラムが売り切れで閉口した。もーーー、余計に刷っとけよ。それで客商売のつもりなのか?単館上映じゃあるまいし。次にまたプログラムがない映画に出会ったら映画館に火を付けたい。

 私はチェがキューバからしたら外国人であることすら知らなかった。彼の基本的な生い立ちがかなり重要そうなのに、作品はそんな所のバックグラウンドはすっ飛ばしていきなり革命をおっぱじめるところから始まる。
 ???
 なぜ革命に傾倒していくのかのモチベーションがいまいち分からないではないか。彼はアルゼンチン人だぞ。
医者で、妻もいれば子供も3人いるぞ。自分の家庭すら放棄して成就するかどうかも分からない革命に命をかける意気込みの裏付けがあったならもっと感情移入できたと思うんだよね。
 だし、作品だけ見るとカストロと彼の関係は表面的なものでしかないようにも受け取れる。革命を引っ張って行ったのはむしろゲバラであるともとれる。カストロは彼の功績に胡坐をかいたとも取れる。
 実際、ゲバラの志は革命後のキューバにとって利用される形で終わってしまう。
 だからこそ彼は次の戦場を求めて旅立って行ったわけだけど。
 そこで挫折しなかったのがすごいと私は思う。
 ただでさえ喘息持ちで、戦場に立つ以前に限りなく死線に近いところをさまよっているっていうのに、やっと勝利を収めたかと思ったら結局「ブルータスよ、お前もか」みたいな身内による官僚的裏切りにあったのに、なぜか心はくじけない。
 私が思うに、彼の気持ちは結局アルゼンチンを目指していたのかもしれないね。だからこそ、革命を止めるわけにはいかなかったんだ。この革命の火を大きくして故郷に届けることこそが彼の目標だったんじゃないだろうか。ボリビアで銃弾を浴びた彼の無念はいかほどだっただろう。
 お兄ちゃんが彼のことを「ビューティフル・ドリーマー」を称したが、その理由が今になって染み込んでくる気がする。

 「もしわれわれが空想化のようだといわれるならば、
  救いがたい理想主義だといわれるならば、
  できもしないことを考えているといわれるならば、
  何千回でも答えよう、そのとおりだと」

 たぶんこの言葉がお兄ちゃんをそう思わせたのだろうけど。
 この先、ゲバラのように成功させる革命家って現れないんだろうか。今の不況がどうとか言う以前に、常に目の前にある窮状を脱したいと切実に願っている人たちは今も地球にごろごろしていると思うんだよね。チベットやミャンマーみたいにただ平和に暮らしたいと望む人のために、いつか彼らの革命が成就するればといいと思う。

 キューバでの革命がクライマックスを迎えるサンタクララでゲバラの身近になる女性がいる。女性はゲバラに憧れの視線で、けれどゲバラはそれを読み取って、「私には妻も子供もいるから」と一線を引くので、『ほほう、家族を大事にする男か』と思ってそれはそれで感心していたら、後日「別れの手紙」のプログラムで当の彼女との間に二男二女をもうけてどうやら結婚までしたらしい。なんだよそれ。結局してんじゃん。あのかわしの演出は何のためだよ。ふつうに惹かれあってたらいいじゃんか。
 なので、「別れの手紙」はアルゼンチンにおいてきた家族、子供にあてた手紙だと思ってしんみりしていた気持ちが、吹っ飛んでしまった。あれはアルゼンチンに残した家族あてではなく、キューバで新しく作った家族にあてた手紙だったかと思ったら、アルゼンチンにいた家族が不憫になってしまった。キューバに新しく出来た家族のために、ないがしろにされてしまったんだろうかと思って。でも普通そうだよね。アルゼンチンなんて遠いもの。かわいそうだなと思った。

 と言う事で、終始革命のドキュメンタリータッチから離れなかったソダーバーグの演出により、映画から分かったことよりも、その後プログラムや自分でリラべて分かったことの方が多かった作品だった。
 ソダーバーグのこの必ずと言っていいほどの色気を欠いた、何の感情の起伏もなく、どちらかと言うと盛り下がったまま淡々と続くドキュメンタリータッチの描写には常々首をひねってしまうばかりだが、ゲバラのことを少しでも知る機会になったことだけは確かだ。
 確かだが、あまりの中身の無さに、その功績を彼にやるわけにはいかない気がする。そんな無味乾燥な映画を見た後でも何とか意味を見出そうといろいろ考えたりした自分を褒めたいと思う。

 そんな一作だった。

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「1408号室」 [watching]

 スティーブン・キング原作の映画にジョン・キューザックが出るなんて、私だったらちょっと遠慮したいとこだけど、意外や意外、結構面白かった。オチも含めて。

 サミュエル・L・ジャクソンがかっこいいのは、トレーラーを見て知っていた。この人はエレガントな悪党も得意だ。あれでもっとジョン・キューザックのシルエットが締まってたら、サミュとの対立がもっとエッジィなったと思うし、作品としてももっとスマートな印象が付いただろうと思って、そこが惜しい。加齢に応じて体の線が崩れてきちゃうのは自然なことだから仕方ないって私は思っているけれど、最近じゃあのキアヌでさえ顎のタプタプしただらしのない恰好のままで宇宙人なんかやってくらいだし、だけどさ、俳優って、そういうのはある程度プロとして要求される仕事だと思うんだよね。できればこの作品の完成度を上げるためにもうちょっと頑張ってほしかったな。

 って、体の線のことを惜しむくらい、このマイク・エンズリンはカッコ良かった。かっこいいって言うか、強すぎる。精神的に。私含めて、並の人間だったらみんなもっと手前の時点で折れちゃってるよ。しかし、マイクは折れない。自然現象に対して全く畏怖とか、恐怖とかを感じない。その強さがあり得ない域にまで達していて、こっちとしては口ぽかーん開けて見てるしかない。あの恐れを知らない心と、頭脳の明晰さはヒーロー以外の何ものでもない。マイク・エンズリンはカッコ良かった。大体、あの部屋に1時間以上いてなお発狂すらしなかった。そしてあろうことかみやげまで持ち帰る。そのみやげとマイク・エンズリンは、どう折り合いをつけてその後の人生を生きていくんだろうな。
 でもマイク・エンズリンの個性で私が一番気に入ったのは、この人は懐疑主義者だってとこから出発してるってこと。超常現象なんてまるで信じていないのに、それを生業としている。その逆説的な姿勢に、アンチなアティテュードにロックを感じだ。そこに惹かれたのかもな。今になって思う。

 この映画はその内容よりもおみやげが大きい(それくらいしかないとも言う)。この映画に出てくるホテル、「ドルフィン・ホテル」って言うんじゃん。最初知ったとき『なああにいいいいいいいいいいっっ!!!!』と思って一人で興奮してしまった。なんだこの「ダンス・ダンス・ダンス」まんまのシチュエーションは。まさに「繋がっている」とつぶやく場所だろ。キングはハルキが好きなのかしら。
 でも、
 「なんかそういう名前の有名なものがあるんじゃないかな。イーグルスの歌とか」
という分析をしてみせた人もいて、『あー、そっかー。そういうことの方がありえるかもねー』なんて思ってちょっとがっかりもした。
 だってさ、結構似てるところあるんだよ。両方のホテルで。まずは、イルカなんてトロピカルな名前とは縁遠い土地に建っていること。隠された部屋があること。そこに変なものが住んでいること。
 キングに聞いてみたいが、そう言う訳にもいかないので、プログラム読んだら分かるかなと思っていたんだけど、あろうことか、この私が見た映画のプログラムを買わずに帰ってきてしまった…。
 もーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
 こんな映画どこでもやってるって訳ちゃうねんよ?
 もーーーー、マジがっかりだった……。

 これは私の印象なんだけど、この映画、かなりキングのイメージに近い映像を作れているんじゃないかな。どのシーンもキングなら書きそうな画だなと思ったんだよね。壁が割れて血が溢れてくるとか、壁にかかってる油絵が動くとか、冷蔵庫の中に小さいサミュがいるとか。かなりどれもキングの書きそうなシーンだなと思った。今まで読んだ作品のひたような場面をすぐに思い出せたし、そんな似たような場面を頭に浮かべながらこの映画を観てた。キングはこの映画をどう評価しているんだろう。最近怖い話は読み慣れていないので、今更キングの痛怖い話を夜に読んだりできるかしらと言う不安はあるけど、原作読んでみたいなと思わされた。「グリーンマイル」とか「ショーシャンク」なんかでは思いもしなかったけれど。それにしても、確かにキングの作品、ご無沙汰かもな。3年?4年?それくらい読んでない。これはいい機会かも。
 けど、キングの映画化で一番怖いのは「シャイニング」だな。あれを超える恐怖映画ってなかなかないと思う。ただ、その監督の作品は、恐怖映画でなくても、他の作品も皆怖いんだけどね。

 じゃ、さっそくAmazonで原作探そうかな。
 ジョン・キューザックは次に映画で見かけるまでにはも少しお肉を落としといてくれるとうれしい。


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「イーグル・アイ」 [watching]

 「ハンコック」の話をしてて、ウィル・スミスの映画は大抵独立記念日に公開されるとか、鷲がナメリカの象徴であるといういかにもナメリカ気質な逸話を不覚にも韓国娘に教え込まれたが、この映画を見たときにはすでにそんなことはすっかり忘れてしまっていて、自分でも驚いた。そうじゃん。答えはずっと目の前にあったのに。

 ラブーフがかなりのやんちゃだということを知ってからは、個人にはあまりいいイメージはないのだが、どういうわけか作中のラブーフは真摯なキャラだった。なんでなんだろう。見ず知らずの神経高ぶったおばさんと、誰のせいでこんなになったみたいな言いがかりを、大声でなじりあってるその舌も乾かないうちに、トラックに轢かれそうになるのを本能的に身を挺してかばおうとする。また個人的に知りもしないそのおばさんに、さらに知りようもない自分の兄弟を諸悪の根源のように言いがかった上に、大人らしくきちんと謝りもしなくても、ラブーフはそのどうにもヒステリックでパラノイアな女性のために車のドアを開けて待ってやったりする。
 一体このジェントルマンキャラは誰のアイディアなんだ。

 こんなに紳士なラブーフが彼女の何にそんなに惚れたのか、どの時点でそんな気持ちになれたのかはちょっと私にはわからなかったな。だって、彼女はラブーフよりも大分年上なのに。
 とにかく、ラブーフは髭は生やさないほうがいいと思う。顔が子供っぽいからとってつけたような不精髭は似合わない。

 ちょっと首をかしげたのは、ラブーフもそうなんだけど、「彼女」から逃げようとする。私だったらしないだろうなという謀反をみな考える。実行さえする。ラブーフなんて最初から反抗し通しだった。私がラブーフの立場だったらきっとなんの疑いもなくその言葉に従っただろうと思う。そもそもがこんな訳の分からない理不尽な窮地に追い込まれてるところへ、「逃がしてやる」というのなら、むしろそのアドバイスに飛びつくだろう。だがラブーフは終始「おまえは誰だ」という、ちょっとはたから見たら、というか私からすれば、『それって意味あんの?』という質問をしつこくして時間を無駄にしようとする。変なのと思ったが、きっとその辺が生死を分ける境目なんだろうな。生きてヒーローとなるか、愚鈍に死んで凡人を証明するか。

 この映画見て思ったのは、人は結局なんだかんだ言って、総合的、もしくは最終的な判断をコンピューターなんかに頼んないだろうなっていうこと。最終的には自分なんかの「思惑」が「客観的な分析データ」を越えるにきまってるもん。だってさ、人がコンピューターの演算に求めるのは「究極的な答え」じゃなくて、「汎用性のある傾向」だと思うんだよね。なので、冒頭の爆撃か否かを問答するシーンで、最終的には大統領に”You have go.”と押し切られてボタンを押さざるを得ないというのが人の世の常というか、まさに人の世のあり方だと思うんだよね。コンピューターって、人間にとってみれば、要は事実を教えてくれさえすればそれでいいんだよ。

 オチは、かなり「そんなのさっさとやったらよかったんでは?」と思う類の、なんとも子供騙しな程度だったな。10年くらい前の映画の中のおちみたいに感じた。

 ラブーフ、引っ張りだこだな。しかし、全部同じ役。
 それでも「トランスフォーマー2」は見てみたいかな。
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「ゲット・スマート」 [watching]

 意外としっかり出来たコメディでおもしろかった。なんじゃこりゃ。
 私はTVをあまり観ないのでコマーシャルもあまり見ないんだけど、結構CM打ってたらしい。あそう。
 けど、MSNにうっとーしいほど広告打ってるのは知ってた。必ずどのキャラも微妙に被っているその構成からコメディなんだろうとは思っていたけど。つーか、スティーヴ・カレルが出てる時点でそうなんだろうけど。

 スティーヴ・カレル主演のコメディを観るのは初めて。ただ、アン・ハサウェイの出てるのが意外だったけど。
 私がスティーヴ・カレルを初めて見たのは「ブルース・オールマイティ」だった。つまんなかったなぁこの映画。ジム・キャリーは好きなんだけど。そのジム・キャリーのライバルキャスターの役で、結構いい仕事してたんで、『この人コメディの素養があるんだな』なんて感心してたけど、本当にコメディアンだったんだね。失礼しました。しかし、私の第一印象も外れていなかったようで、「エヴァン・オールマイティ」と言うスピンオフを作ったらしい。人気者じゃん。
 スティーブ・カレルは「奥さまは魔女」とか(もちろんニコール・キッドマンの出てるやつだけど)、「リトル・ミス・サンシャイン」にも出ているって聞いて、全くどんな役だったか思い出せなかったんだけど、かなり経ってから『あーーーーーっ、あのゲイの兄弟役か!』とやっと気づいた。そんなキャラがいたこと自体を忘れてしまっていたので思い出せなくて当然だが、当の作品も言うほど私の印象に残らなかったのでしょうがない。「リトル・ミス」では、制作側はロビン・ウィリアムスを切望していたという話もあるらしいんだけど、それにしなくてよかったと思う。キャラにも合ってなければ、他のキャストとのバランスも取れてないし、何より奴が出てきた途端に作品の方向性が崩れちゃったと思う。制作側は不服だったかもしれないけれど、作品としてはスティーヴ・カレルの方が適任だったと思う。し、そもそもロビン・ウィリアムスじゃ家族構成としても年が離れすぎてておかしいよ。偉い奴らの考えることって分んねーな。お前らの考えるのは知名度だけかよ。あの作品のいいところは、キャストのバランスが取れてたってこと。それが作品のインディペンデント性を高めたと思うし、そのインディペンデント性が見る方に緊張感を与えたんだと思う。ロビン・ウィリアムスなんか出てきたら一気に緩んじゃうよ。

 話がずれたけど、それにしても本当に地味な人なんだなぁと思って感心した。コメディアンで地味ってのはかなり強みだと思うんだよね。だって、大抵のコメディアンがバカキャラ路線なんだから。チラ出してたビル・マーレイを見ろ。あの人はあそこで何やってたんだろう。あのシーン自体はなくたって全然本筋には影響ないのに。わざわざつかったってことはよっぽど制作側に絡んだ人の友情出演だと思うのが妥当だよね。スティーヴ・カレルなのかな。しかし、あんなんでギャラもらったのかしら。
 私、思うに、コメディアンの真価って、普通の人をどれだけ普通に演じられるかどうかにあると思うんだよね。バカにシリアスな演技ならノイローゼ気味なふりをすればいい。けど、普通の人ほど演じるのが難しいことってないと思う。多分それは俳優一般に言えることだと思うんだけどね。キャラクター性の強い演技はエキセントリックになればいいだけだけど、普通の人を演じてて感情移入させられる演技をする俳優は少ないと思う。
 えー、再びずれたけど、つまり、この映画が面白かった理由は、バカがバカやってるからじゃなくて、真面目な人がまじめにやっていることが裏目に出るのが面白いというだけの話で、決してバカな真似をしているんではないからじゃないかってこと。実際、主要キャラにバカはないない。アン・ハサウェイもザ・ロック(と今では言わないんだけど)もアラン・アーキンもみんな大真面目だ。大真面目にやってるその様子がというか、結果がたまたま報われなかったりするので、それが傍から見ていて面白いってだけの話だ。むしろベタなコメディキャラは脇にこそいる。デスクワークの落ちこぼれ2人組とか、幼児にダメだしされる大統領とか。
 大統領がソニー(ゴッド・ファーザーのソニー役のジェームズ・カーンのこと)だったのはうれしかったな。私、「ゴッド・ファーザー」シリーズは好きだから、そこに出てた一連の役者(除くソフィア・コッポラ)が今も活躍しているのを見るとうれしい。ロバート・デュバルとかね。
 三度話がずれたけど。あと、私が特に気に入ったのは、各省とか組織のトップが集まって国家安全の定例mtgみたいな場で、その各省だか組織のトップがみんな唖然とするくらい仲が悪いってこと。結局どの国でも行政の仕事って縦割りで、どこも責任を押し付けあうような醜い構造になってるのかなと思ったこと。この仲の悪さって、アメリカの社会通念として一般的なのかなと思った。あらゆる組織は他のあらゆる組織と対立してて、手柄を取り合い、責任をなすりつけ合い、顔を合わせると中傷やら罵りの言葉しか口を突いてこないという。だとしたら、その対立自体、政府に仕組まれたものっぽい感じがしない?対立させといた方がきっと良く仕事するもんね。

 けど、この血の多さは作品全体に通して言える雰囲気で、のんびりした役以外のアラン・アーキンを見るのは初めてだった。あのキャラにはこっちが面食らったくらい。とてもO.D.で死んじゃうヒッピーなおじいちゃん役でアカデミー賞を獲ったとは思えないほど、短気で喧嘩っ早くて、情熱的な上司だった。アラン・アーキンのキャスティングはスティーヴ・カレルの強い推薦だとか。で、そこまでプログラムを読んでもまだ思い出せなくて、『アラン・アーキンに絡んだキャラでそれっぽいのがいたっけ……』と考えて初めてゲイの弟キャラを思い出した。
 ちなみにこのプログラムは短観映画でもないのに700円もして私を驚かせた。でも、内容はかなり充実してて読んでて面白かったよ。これも読んでて分ったことなんだけど、これってTVドラマがオリジナルなんだってね。
 アン・ハサウェイの作品を観たのはこれが初めてだけど、今まで甘いイメージがあったけど(ダサい女子高生がお姫様になるとかさ、ださいOLがアパレル業界でのし上がっていくとかさ)、この作品ではピリリとスパイスの利いた女性を演じてて、それがかっこよかった。これで彼女のキャリアの幅も広がるんじゃないかなと思った。個人的には彼女の着てた白のライダースがお気に入りだった。あれもシャネルだったのかな。でも私生活では結構大変な目に遭っていらっしゃるようでちょっと気の毒だった。お父さん、お母さんに甘えて、早く立ち直るといいと思う。
 ザ・ロック(と今は言わないんだけど)は「ウォンテッド」のアンジェリーナ・ジョリー並に存在感が薄くてこれまたバランスが良かった。主演好いてるザ・ロックを脇に持ってきたのはいいキャスティングだったと思う。犯人がエージェント23なのは、よく考えたら悲しい事実なのに作品ではそんなことには露ほども触れなかった。だって、いじめられっマックスの心からの守護者でもあり、理解者でもあるのに。マックスには相当こたえる事実のはずだ。そんないい奴の23が、あれだけの規模のテロを起こすんだから、それはただのドロボーではなく、彼なりの政治思想って言うのがあってしかるべきだと思うんだよね。その辺の弁明を聞いてみたかったなと思った。
 細かい演出やなんかがいかにも気を遣って念入りに作られているのがこの作品への印象を高めた理由の一つだったと思う。マックスがエージェント99の部屋に朝食を持って訪れると、入りざまドアではち合わせたメイドに「内緒に」のしぐさをして部屋に入ってくるところや(本当は紙袋から突き出したバケットとバラの花に興味をそそられただけかもしれない)、エージェント99がマックスに整形の辛さを打ち明けた時の”I use to look like mom.”と言った言葉にぐっときた。そういうメリハリがあったのがよかったんだと思う。

 スティーヴ・カレルは制作総指揮もやったらしいね。これは勘だけど、結構彼のセンスが作品に反映されているような気がする。だって、この作品の監督が撮った他の作品はどれもつまらなかったもの。「NY式ハッピーセラピー」とか「50回目のファーストキス」とか。こう見るとアダム・サンドラーが好きなのね。この監督は。アダム・サンドラーももうちょっと出る作品選んだほうがいいと思うなぁ。演技h評価されたりもしているわけなんだから。こういう言うほど当たらなければ中身もないコメディにばかり出るのはどうかと思う。

 あの終わり方がいまいち気に入らなかったんだけど、他になにか考えられなかったんだろうか。せっかくそれまでおもしろかったのに、最後つまんない、しらけてしまうような、『それで終わりなの?』的なしめ方でちょっと拍子抜けしたが、既にそこまで作品に満足してしまっているし、これで帰れると思うとらさほど惜しくもないと言えばそうだった。

 それにしても、スティーヴ・カレルやアン・ハサウェイ、思いがけず、次が楽しみな俳優ができた映画だった。
 この映画はいい出会いだったと思う。

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「ウォンテッド」 [watching]

 ストーリー自体はかなりっくっだらない。が、ジェイムズ・マカヴォイ、そこそこ気に入った。
 イギリス人らしいね。きれいに訛りを消してるんで、ちょっと分からなかったな。ただ、この子は主人公のはずなのに影が薄くて。なんか、弱い。プロテインで増強した筋肉もむしろ要らなかったと思う。普通の人の設定なんだから。とにかくインパクトがないと言うか、男の子で主人公なんだからもっとしっかりした芯が一本あってもよさそうなのに。一口で言って、ヒーローの素養がない。けど、そこが良かったと思う。普通の人らしくて。アクションも板についてなくて本当にハラハラさせられた。車道に飛び出して車のボンネットに飛び乗るところなんて本当に本人がやってるんじゃないのかな、あれ。

 あと、始まってしばらくはロックがガンガンなんだけど、これがまた画面の雰囲気と合ってなくて単に耳ざわりなだけだった。暴力性とか攻撃性の雰囲気を出したかったんだろうけど、大体主人公がヘタレだし、演技とミスマッチだなと顔をしかめる思いで観てた。
 ロックの攻撃性と作品の雰囲気が合ってるのって、例えばさ、「ワイルドスピード」みたいな作品のことだと思うんだよね。必死になってOST探して手に入れた記憶があるよ。それも、センスのいいのが評判になったらしくて2枚も3枚もコンセプト違いを出してたって記憶。ロック系と、ヒップホップ系でそれぞれOSTを作ってたりして、よっぽど劇中の曲に凝ってるんだなと思ったよ。
 話がずれたけど、あの作品は映像と音楽がすごく合っている。笑っちゃうくらい合っている。主人公が背後から襲われるシーンでは”WATCH YOUR BAAAAAAAACK!‼”ってサビを被せてくるくらいに画面と音楽の構成をよく考えて使っている。つまり、制作側が画面が放つメッセージ性や雰囲気を増幅させる装置として、音楽、ロックって言うのをよく理解しているってことなんだと思う。一口に言っちゃえば、要は制作側に筋金入りのロックファンがいたってことだと思うんだけど。
 だけど、この作品は曲の雰囲気とスクリーンの雰囲気がちぐはぐだ。それが気になった。音楽だけ聞けば確かにかっこいい曲を使ってそうだなとは思って、OSTを見てみたいなんても考えたけど、作品としてはそれほど意味を持たない演出になってしまったと思うな。

 そもそもフラタニティの発生原理もよくわからない。必要か?機織り職人の暗殺組合って。
 ターゲットの指定が機織り任せというのも、いかにも腑に落ちない。だからそれは意味があるのかっつーの。
 無作為に、都合よく解釈された誰かを殺して、単純に人口を減らすことが目的だというなら分かるけど、どう贔屓目に見てもそんなのはただの大きなお世話だ。
 誰かが誰かを殺すかもしれないなんてことは起きてみるまで誰にも分らないでしょう。誰かを殺すかもしれないなんて理由、くだらなすぎる。彼らは少なくともクリスチャンじゃないよね。
 だってさあ、布から分るのは名前だけなんだよ?同じ名前の別の誰かってことはないの?同じ名前の人なんて何人いる?暗殺者なんて何人いても足りない。ターゲットは必ずナメリカ人か?同じ名前のオーストラリア人は?スイス人だったら?
 フラタニティってなんかモデルがあるのかなと思ったら、実態は似ても似つかないけど、同じ名前の団体があった。
 まったく。そんなすぐに足の付くようなアイディア……。クリエイターならもそっとオリジナリティ見せてくれよ。

 いずれにせよ、この話はくだらなすぎる。
 アサシンの素養は才能や能力ではなく、血であるようなことを言っておきながら、他のアサシンはみんな野良犬でしょう?フォックスだって元は大使の娘かなんかなのにちゃんと球を曲げられる。血とか関係ないじゃん。
 尻軽の彼女といつまでも同じベッドで寝るようなヘタレなのに、数発殴られて胸板90cmとか、ないでしょう。普通に考えて。殴られてんだよ?念じるだけで弾が曲がるとかさ。子供だましじゃん。超人になりうる過程にもっとプロらしくもっともらしい背景を考えておいて欲しかったな。

 私は知らなかったんだけど、この監督はロシアでは有名らしいね。「ナイトウォッチ」とか「デイウォッチ」とかいう連作物を撮っていて、これもその延長線上と考えて撮ったんだとか。ほんまかいな。他の観る気失せるけど。ちょっと面白いエピソードだったのが、ロシアでは映画に銃を出せないって規制があるんだって。それで今回はハリウッド映画ってことでいやってほど使ったんだろうね。どおりで銃にこだわった演出をするわけだと思って得心が行った。こんだけつまらなさに埋もれた中で、唯一銃の演出が光って見えたのはそのせいだったんだろう。弾が曲がるとか、弾丸に文字を入れてるとか、それでも"untraceable"だって言うのには首をかしげるけど、まあでもその辺はこだわりとして大目に見れた。

 アンジェリーナ・ジョリーは予想通り地味な役で、最後に死んでしまう辺りなんかは好感さえ抱けた。台詞が少ないというのもよかった。あの人が演技に優れていると思ったことはないんだけどな。なぜみんなチヤホヤするか。あまつさえ今年のアカデミー賞にノミネートされたときには自分の耳を疑ったよ。映画自体はとても観る気にはなれない内容なので観てないけど。でも、こういうイメージとか、印象を残すだけの役ならいいかもなと思った。要するに、口も利かずにかっこいいふりするだけの役ならさ。確かにかっこよかったよ。スーパーで睨みを利かすとこなんて、私も思わずかっこいいと思ってしまったくらいだった。
 モーガン・フリーマンにはがっかりさせられた。やっぱりあのおじいさんに悪役は無理だ。台詞とかが軟過ぎてかっこ悪かった。あんなにかっこ悪いとは。ミスキャストもいいとこだ。もっとハクのある演技もできるバランスのある俳優を使えばよかったのに。例えばさ、モーが倦厭語を使うとさ、普段使いなれてないせいか台詞が浮いちゃってるんだよね。それがもうかっこ悪くて。こっちはこっちで普通のおっさん過ぎて貫禄に掛けた。そう言えば、「ダークナイト」の時も、存在感薄かったな。この人は品が良くて、演技もできるけど、貫禄に欠ける。考えてみてると、アンジェリーナと好対照だな。
 ああ、あとテレンス・スタンプが出ててちょっと驚いたけど、この人ってこういう役が多い。塩にも醤油にもならないというか。作品の決め手には決してならない感じの役が。なんか書いててすごく失礼な気がしてきたけれど、でも、他の名もない人を使うよりかは、演技に品があるし、制作側の意図した雰囲気を可もなく不可もなく醸し出せる人だとは思うから。そう言う意味で他にこういうポジションの役を真似出来る俳優ってなかなかいないと思う。でも、やっぱり、この人が出てて、だからいいって言う作品はないよね。そんな気がする。

 それでも、イケてない貧弱リーマンのウェスリーの独白に始まり、独白に終わる辺りには小気味よさを感じた。子供だましな演出だったり設定だったりすることは否めないけれど、お筋で決してヒーローメイキングなストーリーではないところに最終的な好感を抱いた。むしろヒーローになれたと思う社会的弱者を、それは夢だったと奈落に突き堕すような、サディステックな作品だ。結局ウェスリーは何もかも失うわけだけれど、それでも彼の中の肝心な何かが、本質的な何かが変わったと思いたい。少なくともこの人生を生き抜くだけの強さは得られた。それだけでも羨ましいと思う。

 ただ、まあ私だったら顔を殴れらた時点で早々にあきらめると思うんだけどね。

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「ハプニング」 [watching]

 うむ。タイトルそのまんまの、起こりっぱなしの映画だった。なんじゃこりゃ。これはあかんやろシャマラン。観てる方も半分まで行ったらどう終わらせるのか分かっちゃってつまんないよ。テーマも、身近なつもりなのかもしれないけれど、内容が一方的すぎてとらえどころがなさすぎる。そもそも蜂の話はどうなったんだよ。オチがないにもほどがあるだろ。

 痛ましいシーンで人の不快感を煽るホラー映画は多いけど、これはそれをしようとして安っぽくなってしまっている悪い例だなと思った。ホラーでなくてそういう痛いシーンをリアルに描いている映画は他にたくさんあるというのに。真骨頂で手抜きとは、名折れなんじゃないのかシャマラン。
 まあそのおかげでスクリーンから目をそらすことがなかったのはいいことではあったが。そのせいだろうと思うんだけど、収支作品には手ぬるい印象が絶えなかった。なんて言うか、画面が締まらないというか。ホラーなはずなのに緊張感が足りないというか。
 つまり、テーマがいまいちピンと来なくて、観てる方は画面を眺めてるしかできない。感情移入できないんじゃそらつまんないよね。

 マーク・ウォールバーグ。名前変えたんだっけ?出世したなぁ…。「グッド・バイブレイション」だったのに。なんだか知らんが、勝手にそれなりの俳優になって食べていけてるところを目の当たりにするに、なんだかお母さんのような気持ちになってしまう。最初はデビューのイメージで悪ずれした役が多かったけど、どんなアドバイザーがいたのか、まあ当然本人の素質や才能もあってのことだろうとは思うけど、いいキャリアを積んで、気が付けば地に足のついた地味な俳優になった。
 しかし今回の演技は私はちょっと大げさだなと思ってみていた。今までは気が付きにくかっただけなのかもしれないけれど、学校で生徒の意見を引き出そうとする姿はやりすぎでしらじらしくとしか映らなかった。

 シャマランは、ホラーな中にもユーモアを忘れない人で、それは「サイン」を観てるときにもそう思った。
 神父の家に泥棒が入ったと思った血気盛んなホアキン・フェニックスが神父に扮したリーサルウェポンに泥棒を追い詰める手際を説明する、「ののしるようなことを言えよ」。すると神父がまるで似合っていないリーサルウェポンはたじろぎながら答える「俺は神父だぞ」。いや、見えないですから。その後、泥棒と思しき人影を追いかけながらリーサルウェポンはたどたどしいののしり言葉を大声で言いながら家の周りを走る。あなたが神父役と言う時点で私はすでにギャグだと思ったよ。
 「ハプニング」では、植物が人間に示す極度の拒否反応にビビるが故に、マーク扮するエリオットは思わず家の中に置かれている観賞用植物に語りかける。「我々は何もしない。すぐに出て行くから」。はたしてその観賞用植物は、本当の観賞用植物よりも鑑賞用途に作られた製品なのであった。
 「ハプニング」と「サイン」の類似点はまだある。「サイン」では、宇宙人が家の中に攻め入ってくるとなると、イケ面親子は家の中から板を釘で打ちつけて入って来れないようにするわけだけど、その作業をしながら、恐怖に戦く幼い子供たち一人ひとりに、彼らが生まれた日のことを話して聞かせる。この最期に対峙して最高の思い出を回想しようとする試みが「ハプニング」にもある。壁越しにエリオットとアルマが初めてのデートでのことを話し始めた日には、何もかもが二番煎じかと思って正直あきれたくらいだった。
 私は個人的にはアーティストがおなじテーマを繰り返すことは嫌いじゃない。それで洗練されていくものがあると思うし、繰り返すことで表現方法なんかの技術の向上にもつながると思うから。けど、今回のはあまりに内容が稚拙でテーマを繰り返すというほど高尚なプロットでもない。一度使ったプロットに安易に飛びついたって言う風に見えたな。
 そもそもエリオットとアルマの関係自体がストーリー上希薄で、二人の繋がり自体は重要でも何でもないところまで下げられてしまっている。そんなんでストーリーに厚みが出るはずもない。それは、預かった子供の存在にも言える。行きがかり的すぎる。人間関係の描写も弱いし、テーマとなってる自然驚異って所にも筋のある光をあてられていないから作品全体の仕上がりが未熟に思える。せっかくいい俳優も使ってるのにね。

 ジョン・レグイザモなんか久しぶりに見たよ。何ぶりかな。まさか「ロミジュリ」ではあるまい?あ、んーー、「ムーラン・ルージュ」かな。バス・ラーマンに気に入られてたのね。きっと。オフ・ブロードウェイで自作の一人芝居をやって評価が高かったらしい。観てみたかったな。レグイザモが舞台の上でどんな演技するのか。ナメリカ人はいいなぁ。生でハリウッドスターの演技が見れるチャンスがあって。普段スクリーンでしか見れない人間の演技力を目の前にして、同じ空気の中でそれを感じることができるなんて、ファンとしてこんなに興奮することないよ。レグイザモ、いい俳優と思うがなかなかキャリアが上がってかないね。「ロミジュリ」以降の人気の使い方を間違ってしまったかな。そう言うのって所属事務所の責任なんだろうか。プロダクションミスって言うか。ね。
 私がこの映画の演技で一番心に残ったのは、2か所。ひとつはレグイザモが、連絡の取れなくなった奥さんを気に病んで、主人公と別れてもどうしても迎えに行きたいと切々と訴える場面。レグイザモの奥さんに対する愛情が、実際にはスクリーンに出てくることもないのに、深々とその表情に刻まれていて胸を打たれた。レグイザモとマークが分かれるシーンは切ない。お互い助からないって分っているから。それを慰めあって、励ましあって分れる。「生き残る確率は60パーセントだ」といいきる数学教師。だけど、ジープの天井を覆う幌に裂け目を見つけた彼の目には、悲壮ではなく、むしろ思いを遂げられなかったことへの、また理不尽に奪われることへの憎しみや怒りが滲んでいて、そこに人間らしさを感じた。負ける運命を悲観することよりも、その絶望を怒りで表現するのがレグイザモらしい演技だなと思った。
 もう一つは、納屋にいたおばあさん。パッと見既に貫禄が違う。演技学校の講師もやっているらしい。彼女ほどの演技力のある人が講師なら、さぞかしいい授業が受けられるだろう。圧巻だったのは、エリオットに寝室に入りこまれて怒る場面。久しぶりに戦慄するほど迫力のある演技って言うのを見せてもらった気がする。しかも年取った女性に。

 最後まで納得いかなかったのが、トリリアン。トリリアンが出てたんだよ。ほんとに。びっくりしちゃうよね。最初の方、このちょっといっちゃった感じの頭弱そうな女の子をどっかで見たことあるなぁと思って、何となく髪の毛が邪魔なような気がしたから、顔の中身のパーツだけにしぼって意識を集中したら、「お!」と思いだした。トリシア・マクミランじゃん。
 「ハプニング」中のトリシア・マクミランは、て、アルマのことなんだけど、「銀河ヒッチハイクガイド」以上に不思議ちゃんだった。なんかおかしいよね。「銀河ヒッチハイクガイド」出の方がまともなキャラだなんて。一応、「ハプニング」はリアルな話なのに。しかし、両方とも人として、未熟と言うか、幼いという点においては似ている。うーん、そう言う役ばっか来るのもどうかなぁ。「あの頃ペニー・レインと」も間違いなくそんなキャラなんだろうなぁ。
 ズーイー・デシャネル演じる、トリリアンもとい、トリシア・マクミランもとい、アルマはかなりおかしい。挙動というか、発言もおかしい。というか、そもそもエリオットとアルマのカップル自体がおかしい。そこはレグイザモ演じるジュリアンの見解に一票投じたいところだ。あんなどうでもいいことで喧嘩というか、ぎくしゃくしてたなんて。あんたら高校生か?いや、今どきの高校生の方が複股掛けることにかけては技量が上かも。
 というか、なんでトリリアンを使ったんだろう。ていうか、なんでアルマはこんなキャラだったんだろう……。

 つまり、この映画は肝心なところが力不足で求心力が全くない感じ。なので、いたずらに人を脅かそうという程度の低い、もしくはメッセージ的には悪質な作品にさえ思えてしまう。
 観客に考えさせる映画が悪いって言ってるわけじゃない。そう言う映画で質のいいもの、完成度のたかい作品をいくつも見てきた。そうじゃなくて、考えさせたいなら、考えさせるテーマを明確にしろよと言いたい。

 何かが起こって起こったまんまというのは、ドラマにすらならない。
 次回はもっと骨のあるのを頼むよ。

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「ダークナイト」 [watching]

 人生でこれだけ映画を見ていても、期待を超えてくる作品なんて数えてもあるかどうか。そんな現実の中で、クリストファー・ノーランは大きくその境界を越えてきた。しかもこれがシリーズであることを考えるとこの作品の評価は二重に意味が大きい。

 すごい……。圧巻だ……。あのストーリーのボリュームを手ぬかりなく、最後までやりとおすなんて。その気力たるや想像を絶する。観てる方も先のことを思いやると気が遠くなるほどだった。 
 しかし、そんな弱音や、「言うても原作はアメコミやん」なんて陳腐な批評を想起する隙など与えないほど、このクリストファー・ノーランが作り上げた世界観の完成度は高い。作品を作り上げていく過程にあってはその世界観やキャラクターのあり方において大分俳優たちと意見を戦わせたみたいだから、この完成度は監督だけのアイディアだけで成り立っているものではなく、クリスチャン・ベールやヒース・レジャーの影響も相当あってのことだと考えるべきだろう。

 始まってすぐにこの映画の先の長さに圧倒された。というのも、物語の冒頭、ブルースもしくはバットマンとジョーカーの距離が遠すぎる。その複雑な筋書きに思わず絶句した。最初二人の関係は物理的には近いようでいて、実質的な関係としては遠い。二人の間に個別の関係がまるでない。だってジョーカーってただの泥棒なんだもん。その単に猟奇的なだけの泥棒が、バットマンに興味を持って追い詰めるまでに至るモチベーションのあげようったら長いよ。だし、そもそもバットマンに対しては、ジョーカーのやり口は直接対決ではない。人質を取ってバットマンを翻弄するのが目的だ。ジョーカーはバットマンを陥れるために気が遠くなるような手間をかけてバットマンを誘い出す。バットマンの命欲しさに街の組織犯罪を言いくるめてバットマンに近づこうとする二枚舌なやり口には、筋の複雑さに唖然として、こりゃクライマックスに辿り着くまで相当タフなストーリーになってるなと覚悟した。これが火花を散らすほど近くなるにはかなりの数の段を踏んで行かなきゃいけない。誰が書いたんだろうな。あの脚本。チャーリー・カウフマンみたいに神経質的なトリックではないにしろ、核心に触れるまでのあまりの層の厚さに軽くぐったりするほどだった。実際観ながら『ながい……』と思ったもん。けど、そこはクリストファー・ノーランとしては腕の見せ所。この人は複雑なプロットを扱うのには慣れている。だんだんとカオスの色を濃くしていく中盤を経て、これをどう終わるんだと思わせるクライマックスから、きちんと最後をたたんできた。さすがだと思う。

 この作品の面白いところは、テーマの核であり主人公となっているのが「世界」であることだ。「世界」というのはグローブ(地球)とかいう個体ではあるけれどその定義においては曖昧なもののことではなくて、バットマンのいる街、「ゴッサムシティ」のことなんだけど。ゴッサムシティを「世界」とするのは語弊と思うかもしれない。けれど、この物語にはゴッサムシティ以外の世界が存在しないから、この物語において世界と言ったらすなわちそれはゴッサムシティのことなんだな。と思ってる。この視点は、でも、観に行った連れが最初に指摘したものだった。そのあとプログラムを読んで、制作的に本当にそういう意図、テーマがあったということを知って驚いた。
 私はこの作品にはどこか宗教色が付きまっとった。最初にそう思ったのは、ジョーカーが悪魔に思えた瞬間だった。ただ冷淡なんじゃない。冷淡なんて言葉では足りない。というか、彼にはそんな人間味はない。そう思える瞬間が作品中にある。観てもらえれば分る。ジョーカーのその個性の発生の起源、つまり生い立ちみたいなものは掴みどころがなくて謎に包まれている。情報がないんじゃない。彼は語る。朗々と。ただしそこに真実は含まれない。同じ話を語らない。相手の心理を巧みに掴んで嘘で翻弄する。人々は驚くくらい簡単にジョーカーになびく。真に人を従わせるのは金ではなく、恐怖であることを彼は体現して見せる。バットマンは試される。その良心を。人であることを。悪意の焦点がバットマン一人にあてられている時、その存在はバットマンの燃えるような正義感に煽られて分かりにくいが、これが世界に向けられた時そのテーマは如実に浮かび上がる。日本語でそれを何と言っていいのかわからない。けど、私は"belief"と思う。
 人々は試される。非常に原始的で、本能的でさえあるから、その誘惑は強烈だ。だがそこにかかっているのは自分と同じ命である。命の重さをはかることはできない。本来なら。なのに、あの囚人が「10分前にすべきだったことをしてやる」と言って起爆装置を取り上げた時、私は目からうろこが落ちた。『そうじゃん…』と思って。だけど実際はそんな風にはいかないだろう。私たちは自分たちの差別意識の根の深さをスクリーンの前で改めて体験させられる。
 私、「コンタクト」を観て宗教って言うのが何なのかを理解した気がする。その前から短大の牧師さんにそれらしきことは言われ続けていたんだけど、「(神様を信じないで)何を信じるのですか?」とか。でも私の胸にそれほど響かなかったんだな。自分に問われても分らないことってある。逆にそいうことは人の振りをみて理解することも多い。私にとって宗教の意味がそうだった。「信じること」。今ではそう思っている。眼に見えないものを信じること。無条件に。ありてある。だから思うんだけど、なぜそれを人に強いるんだろう。だから間違い(宗教戦争とか)が起きるんだと言うのに。

 話がずれたけど、この作品は、そのキャラクター作りにおいての精巧さが際立っている。どの俳優も独特の個性のキャラクターを演じながら、その誰かの演技が突出してしまっているわけではない。それぞれがキャラの個性をいかんなく発揮しつつ、それでいて演技は作品の雰囲気で統一されている。すなわち、みな抑えられていた。一番抑えたのは無論バットマンだろうな。アルフレッドも意外な経歴を披露して、かつブルースにかなり強面で偏っているとさえ取れるアドバイスを呈する場面であっても、彼はあくまでエレガントで作品の雰囲気を損なうことはない。抑えた演技の雰囲気は二人の会話の中にこそ発揮されていると思う。冗談を言い合っているにもかかわらず幸福の光のささないニヒルな印象は、クリストファー・ノーランが得意とする演出じゃないだろうか。
 ジョーカーの演技は非常に軽い。身軽とさえ思えるあの軽い演技が余計リアリティを持たせていたと思う。常に小躍りするような軽い演技の裏に、ヒース・レジャーの自身の演技に対する満足感が透けて見えるような気がした。彼はジョーカーを気持ちよく演じていたんじゃないだろうか。ジョーカーに生活感が何一つないところが好きだった。アジトもなければ仲間もいない。普段どうしているんだろうなんて疑問が似つかわしくないキャラに仕立て上げられててそこがよかったと思う。最後までジョーカーって誰だったんだろうと思わせるミステリアスさが彼の最大の魅力だったと思う。
 アーロン・エッカートの役はある意味汚れ役だが、ゲイリー・オールドマン同様、小市民を代表するキャラとしてよかったような気がする。印象的だったのは、公判で命を狙われてもひらりとかわし、守衛に連れて行かれる証人を眼じりに判事に向かって「まだ質問が済んでいません」と涼しい顔をして見せる。公判は検察と弁護側それぞれの悪趣味な演出による舞台であることをたった2分で表現してる。この映画の脚本を書いた人ほんとすごい。話が逸れないうちに戻ると、もう一つ象徴的なシーンが、市民の命を天秤にはかけられないとして弱気になるブルースに”You can't give in!”と繰り返し叫ぶ姿。白馬の騎士と呼ばれる正義感がよく出ていたと思う。しかしその白さも鈍るくらいこの作品の放つ光は暗い。そんな純白のセレブが堕ちていく。大事な人をだしにされ、簡単にジョーカーの罠にはまる。そんな自分を観たらかつての恋人がなんて思うかも考えずに。あっけなく憎しみに染まる。その人の弱さ、脆さ、感情に流されてただ堕ちていく姿がこの作品の中で一番悲しいかもしれない。ハーヴィー・デントにアーロン・エッカートをあてたのはいい判断だったと思う。
 今回ゲイリー・オールドマンの役はこれだけのヒーロー役に囲まれると、かなりみっともないものだったが、自分の家族を守るのがせいぜいの現実の中で生きている底辺の人々の代表として必要不可欠なというか、この作品のテーマには欠かせないキャラだったと思う。家族や恋人の命の前にあっては高尚な正義感や信念なんて彼らにはなんの値打もない。彼らの問題は常にいかに家族を、大事な人を守るかだ。国一つ買えるブルースとは違う。なぜって正義も平和もただでないことは彼らが一番よく知って分っているから。そんなものと何物にも代えがたい家族、大切な人々を比べることなんてできない。お金で買える正義や平和と彼らの家族を交換するわけにはいかない。そんな欺瞞に満ちた正義や平和は金払ってでも欲しい奴が買っとけって話だ。
 この作品で一番良かったところ。ブルースの恋人が死んでくれたこと。前回から気になってしょうがなかった彼女の存在がこれできれいさっぱりなくなった。彼女が死んでくれてほんとすっきりした。けど、なぜマギー・ギレンホールだったんだろう。もっといくらでも美人でカリスマ的なのがいるだろうに。あの、役のキャラというよりは、ケイティ・ホームズのキャラを引きずっているとしか思えないふにゃふにゃしたしゃべり方はが気に障ってしょうがなかった。あんなののどこがよくてハーヴィーやブルースが前後不覚になるくらい惚れるんだか全く理解できなかった。しかし、アニメにはない映画オリジナルのキャラであることが判明してなおさらほっとしたし、だから死ぬ筋書きも賢明な判断だったなと思う。間違ってもキャットウーマンかなんかで生き返させないでほしいと願うばかりだ。

 最近映画のCMってテレビでは見ないけど、CM活動自体は盛んなようで、ただし場所が違うみたいね。今はネットが主な広告媒体なのかな。プログラムにはかなり野心的なCM活動の跡が見受けられた。公開にあたっては通常のオフィシャルサイト以外に30もキャンペーンサイトが立ち上がっていたらしい。しかもそのうちの少なくとも3つは作品の内容やキャラクターそのものがスピンアウトした関連サイトになってる。すごい凝ってる……。相当フリーキーな奴が製作にかかわってんだなきっと。
 「私はハーヴィー・デントを信じてるドットコム」
 これはハーヴィーが検事に出馬した時のキャンペーンスローガン。
 「なんでしかめっ面なんだドットコム」
 これはジョーカーが顔についた傷の逸話を人質に話して聞かせた時の台詞から。
 「ゴッサムケーブルニュースドットコム」
 ここではハーヴィーのインタビューなんかを流してる。こういうのすごい珍しいと思う。作品とは関係なく、役のままサイト用に別コンテンツを作って載せるなんて。相当お金かかってると思うんだけど。これの費用対効果ってどうやってはかるんだろう……。
 DVD出る時はまたなんかやるんだろうな。この分じゃ。

 初めて「パトレイバー2 The Movie」を観た時、作品全体を覆うあのの緊張感とあまりのリアリティに、『アニメは実写を超えたな…』って唖然としたけど、「ダークナイト」はその時の感想を彷彿とさせる作品だった。クリスチャン・ベールだったと思うんだけど、「この映画はアメコミの品格を上げた」というようなことを言っていた。私もそう思う。その言葉は、萩尾望都がその人生をかけて漫画の認知度を上げた手塚治の功労を語った時のことを思い出させた。体制に認められない少数派やその文化はよき理解者や体現者を通してのみ体制に理解される。そう思ってる。少数派である彼らだけが努力したところで彼らの持っている本当の良さというのは伝播しない。それを支える「マス」が必要だ。
 アメコミの世界観を趣味の悪いファンタジーと片付けず、そのアニメが根本にもつテーマと真摯に向き合い、理解して、自分なりの解釈を改めて「バットマン」という形で表現することでクリストファー・ノーランと、彼のクリエイティビティを支えた俳優達は、「バットマン」という世界観を見事に昇華させた。原作者もこれには鼻を高くしているんじゃないかな。

 トイレ行ってて最初の2分位を見損なったのを差し引いてももう一回観たいと思わせる映画だった。一作目をはるかに超えてる。そう思えるからこそ、ヒース・レジャーの評価が生きてこそのものであったらよかったのにと悔やまれた。

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