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Whiplash [watching]

エンドロールに切り替わった瞬間、

「見事だ」

という言葉が浮かんだ。

最初から最後まで音がジャズであふれてて、
すごく…かっこよかった……。

ジャズの映画って初めて見たかも。

最初に観たときはラストシーンでは我知らず言葉を失っていた。
映画が終わってもしばらく呆然としちゃったよ。
終わってふと我に返って、ここは立ち上がって拍手するところじゃないか?
と思った。

映画の始まりかたもすごく好きだった。
スネアを叩くテンポがだんだん速くなって最高潮のところから
ニーマンの練習が引き継ぐ。
それでもう私は心を奪われてしまった。
そこへ間髪入れずにフレッチャーが入ってきて雷鳴のように指示が鳴り響き、
息つく間もなくドラムの音だけが響く。
この時点ではまだニーマンがどんな子で、フレッチャーが何者であるか何も
語られないわけだけど、これがドラムの映画であるということを高らかに
宣言していることは誰にでもわかる。

あと、映像の色も私好みだった。
作品全編がジャズの色だった。
ずっとクラブの中みたいな、昼夜の区別がわからない黄緑がかった薄暗い
照明で、それは学院内での練習風景や大会のステージ上にとどまらず、
その色味は普段の生活風景にも使われていた。デート中のカフェや、
ニーマンの親戚んちのダイニングでさえでもその色で世界ができていた。
ほんとのシェイファー学院も朝からあんなクラブの中みたいな明りの中で
やっているんだろうか。
まあ音楽やるのにムードも大事だってのはわかる気がするけど、
私だったら朝9時に学校行って、すぐに夜のクラブみたいな中に放り込ま
れたら、昼夜の区別がつかなくてちょっと気が狂いそうだなと思った。

映画を何度か見た後で調べてみて分かったことに、ハリウッドでは脚本の
ブラックリストっていうのがあるらしい。なるほどね。でもヤバいっつっても、
上映できない方にヤバいんではなく、素晴らしすぎてヤバいリストなんだそう。
”Whiplash”は2012年にリストに載って、14年には上映してるんだから、
目をつけられてからはとんとん拍子だったわけやね。
しかもリスト掲載時の脚本はたった85ページだったそうな。
すごい。
超私好み。
優れた短編大好物。
結局出来上がった作品もなんと96分。ディズニーか。
のうち、9分以上がラストのドラムソロに費やされているらしいから、
いくら短いっていったってジャスが好きでない人には難しいかもな。

私は映画観るときに、先入観があるとしばらく観る気になれないことが
あるんだけど、ほんとはこの作品もそんなタイプの1つだった。
J.K.シモンズは好きな俳優の一人で、サム・ライミの「スパイダーマン」の
早口編集長は私のお気に入りだったから、スパルタ教師役と聞けばなるほど
似合いの役だろうなと思ってたし、内容もスポ根の音楽版と聞こえていたから
なんとなくそれ以上でもそれ以下でもあるまいと想像してた。

まあ、作品を要約すればとその通りだったんだけど、いろんな細部が、
というかおそらくすみずみまでもが、私好みであったことが、映画を見て
久しぶりに感激してしまった理由だと思う。
改めてジャズ好きだなと思った。よく知らんけど。

ある人のレビューで、映画のラストでフレッチャーがニーマンに正確な
演目を伝えていなかったことは額面通りの嫌がらせで、フレッチャーは
単純に生徒いびりの薄っぺらな奴と書いていて驚いた。
私が思うに、そんなに薄っぺらいキャラ設定という理解で、これほど
多くの脚本賞や監督賞や助演男優賞にノミネートされないと思う。

この映画の何度も丁寧にそのテーマをリフレインしている。
たった96分の中で。
とどめにフレッチャーが自らの口ではっきりきっぱりニーマンに語って
聞かせる場面を用意してもらっていてもその程度の理解力かと思うと
純粋に驚きを感じる。
いやはや文章だろうと、映像だろうと、人に思ってることを伝えることの
難しさったら今世紀中になんとかできるとは思えないスケールだよ。

フレッチャーは自ら二度にわたってニーマンに才能とはどうやって
磨かれるものかについて語っている。
それを自分に教えてくれているんだということに気づくまでが命がけ
だったという映画と私は理解している。
ニーマンはフレッチャーのクラスでの初めて授業を受けたときにもう
その教訓を聞いている。個人的に。
二度目は退学になった後、偶然クラブで演奏するフレッチャーを
見つけたときに。
フレッチャーはどちらも同じ話を繰り返し聞かせている。
どうしてチャーリー・パーカーが「バーディー」になり得たかを。
つまり、ニーマンは"Good job"という評価で終わってしまような
プレーヤーではないと、思わず聞いてるほうも歯の浮いてしまう
ようなメッセージを相手の目を見て直接語りかけているわけだが、
レベル19の経験値ではそれは単に解読不能な寓話だった。

フレッチャーはニーマンと再会したバーでこう持論を展開する。
「あそこでドラマーがシンバルを投げずに、”まあお前は頑張ったよ”
と言っていたらバーディーは生まれたか?」と。
しかしみんなの良心を代表するニーマンは少しの間の後こう問いかける、
「でも一線はあるんじゃないですか?あなたはやりすぎて次のバーディーを
つぶしてしまったのでは?」

「いや、本当のバーディーならつぶれはしない」

フレッチャーは迷わずにそう言った。
つまりフレッチャーは、自分はバーディーにシンバルを投げたドラマー
なんだとニーマンの眼前で言っているのだが、19歳のニーマン君には
フレッチャーの言っている「バーディー」が自分のことであるとはJVCの
ステージ袖でメソメソするまではついぞ気が付かなかった。
したがってもちろん、JVCのステージはフレッチャーがニーマンの
ためにお膳立てした舞台だ。

フレッチャーは初めてニーマンのドラムを聞いた時からその才能を
見抜いていた。ショーンを発見したときみたいに。
通りすがりに見かけただけの生徒に全米屈指のジャズ指揮者が
上着を脱いで、自ら拍子をとる。
これの意味するところは?
自らの指示に没頭するニーマンの姿をみて、脱いだ上着を思わず
忘れて退室するほどフレッチャーも我を忘れてたってことだよ。
私ならそう解釈する。
しかし、"Oops-a-daisy!"って「ノッティング・ヒルの恋人」以来だな。

フレッチャーには原石が岩に埋まってる状態で才能を見出せる
天賦の才がある。
つまり、それはフレッチャーにしか見えない才能なので、彼が引き
出してやるしかない。
で、彼の手法はといえば、それこそ他のどんな教師にもできないくらい
「必死」で生徒を「指導」することに他ならないが、その指導方法は
他人の目には生徒いびりにしか見えない。
言ってみればフレッチャーの指導者として生まれるべくして生まれた
類まれなる才能も過酷な運命に晒されているということだ。
やわな生徒のハートを踏みにじるという指導法しか彼にはないのだから。

この映画の批評で、ラストシーンの高潮感のままレビューを書いてる
人が多いと揶揄してる人がいて、この映画のどこのがいいのか
わからないといっている人がいたんだけれど、見たらもうおじいさん
みたいな人なので感度が下がってるのかもなと思った。
ちなみに私は二度目でもあのラストにゾクゾクしたよ。
なんなら三度目観るときにはワクワクしちゃったよ。

私もそうだけど、素直になにかに感動できる能力って年とともに薄れていく。
絶対に。
確実に。
私くらいの年になったらそれを手に取るように実感できるようになる。
年を重ねていくとびっくりすることって減っていくじゃん。
そんで無関心が増えるでしょ?
感動する能力が減ってくのはそういうのの一環だと思う。
きっとそのおじさんの心は、揺れる人の心とかを想像したり、感じるのが
鈍くなるくらい固くなっちゃってるんだろうなと想像した。
魂のきらめきをとらえる鏡が曇るというか。
映画の趣向からして、観てる方に万が一にもジャズに興味がないなんて
ことがあればそれも感受性の鈍る要因になると思う。
私がミュージカル映画苦手みたいなもんで。

前出のおじいちゃん批評家は、ニーマンにはラストのドラムソロができる
だけの環境が当時の彼にはなかったというのだけれど、私はあの才能を
ニーマンはとっくに獲得していて、フレッチャーはもちろんそれを承知の上
だったと思う。だからJVCのフェスに誘った。
ニーマンが命を削って磨いた才能をプロスカウトの目に留まらせる
千載一遇のチャンス。このチャンスを「絶対」に(フレッチャーはabsoluteって
言葉も好き)ものにするためには、それこそ「絶対的な」、渾身の嫌がらせ
が必要とフレッチャーは判断し、それがあの手だったというだわけだ。

おじいちゃん批評家はほかの批評家が映画のラストでフレッチャーと
ニーマンの軋轢が昇華されているという評論を受けて「どの辺で昇華
されているのか」と疑問を呈し、どこまで目が曇っちゃってるんだと
さすがに心配に思ったけれど、ニーマンが舞台袖にすっ飛んできた
お父さんに「さあ帰ろう」と言われてためらった時からそれは始まって
いたんだよ。
あの時初めてニーマンは、フレッチャーの嫌がらせに対する正しい
対応に気づいたんだよ。
フレッチャーのしたいことは、辱めて二度と立ち上がれないようにすること
ではなく、その屈辱から這い上がってきて叩きやがれってことだと。
ここで背を向けたらそれこそ再起不能というところまで追いつめられて
初めてニーマンはあばれはっちゃく並みに「ひらめいた!」んだよ。

ニーマンが呆然とする父親を舞台袖に置き去りにしてステージに戻ってきて
勝手に”CARAVAN”をやり始めて終わるまで二人のやり取りは続いてた。
そりゃ「昇華」なんて表現は、死に損なったニーマンにしてみればあまりにも
きれいごとすぎるかもしれない。
それは戻ってきたニーマンが突然演奏を始めておどろく(という演技の)
フレッチャーに「くそったれ」とかみつくニーマンの心境を察するに余りある
ってもんだ。
だけどそれこそフレッチャーが聞きたいセリフだったと思う。

それにどう贔屓目に考えたって、本当に戻ってきたニーマンを止めたいん
だったら、バンドの指揮者であるフレッチャーにはもちろんそれができた
はすだ。それをしなかったのはなぜか。
だし、ニーマンに復讐したい一心であんな演出をするんだとしたら自分の
キャリアにもリスクが大きすぎる。それを承知で強行したのはなぜか。
決定的なのは、ほかのメンバーはちゃんと”CARAVAN”を演奏する準備
をしてた。フレッチャーが演目としてほかのメンバーに伝えていたからに
他ならない。
本当にニーマンを苦境に追い込みたいならほかのメンバーに”CARAVAN”
の譜面を渡しとく必要すらない。なぜなら控えのドラマーも用意してない中、
一曲目でメインドラマーがいなくなる筋書なんだから。
でしょ?
オッカムの剃刀的に合理的な筋書として考えられるのは、フレッチャーには
必ずニーマンが戻ってくると確信あったということ。
戻ってくるのに多少時間がかかることも考慮して、もしくは期待を裏切って
戻ってこなかった時のことも考えて、もちろんドラムなしの楽曲も用意して
いた。
だからフレッチャーは、JVCのステージを個人的な恨みを晴らすという
ちっちゃな目的のために利用したんじゃなくて、次なる天才を世界に
知らしめるために彼なりの演出をしたんだと考える方が自然だと思う。

こうして辛くも指導者としては問題が多すぎる教師のメッセージは、
口先ばかりのぽかんとしたゆとり青年の胸にきっちりと収まった。
このラストシーンを見てなんもピンと来なかったんなら、その前の
1時間半は見てなかったも同然かもね。


ここからは短くも良質な音楽映画で気付いたその他細かな点について。

まず、ニーマンのお父さん。
最初に観たときから『この人どっかでみたことあるなぁ……』と
思ってたんだけど、二回目観たときに
『そうだ!エイリアン2でエイリアンを持ち帰ろうとした企業の奴だ!!』
と気が付いて、お前どんだけエイリアン見とんねんと思って改めて
自分の映画好きに感心した。
だってこの人エイリアン以外で見た記憶がないのにもかかわらずだよ。

あと、個人的に好きだったシーンが、デートでピザ屋さんに行ったとき。
女の子が「いいお店よね、おいしいし」って話を合わせると、
ニーマンが「ここはBGMもいいんだ」って言うところ。
私だったらそこで惚れるとこだが、ヒロインはホームシックに同情を
示されて惚れていた。
なるほど。
女の子にモテるには理解を示せってやつだね。
でも私はお店のBGMもちゃんと聞いてるなんてすてきだなと思った。
ましてや「これは”When I wake”だよ」とか曲紹介してて私はなんとなく
交換を覚えたんだが、よく考えたらその姿に昔の自分を思い出し、
そう言えば私の時もまったく音楽に興味を示してもらえなかったので、
私の場合はデートの時に自分の音楽の趣味を持ち込むのはよくない
んだなと今になって思う。
ニーマンの部屋にかっこいいポスターが飾ってあって検索してみたら
どうやらあれがチャーリー・パーカーのようだった。
別の誰かの切り抜きっぽいのでかっこいーと思ったのが、
「才能がないならロックをやれ」って見出しのついたやつ。
これまではかっこいいとを「ローック(rock)」と言っていたかれど、
これからは「ジャーズ(jazz)」って言わなあかんかなと思ったよ。


フレッチャーの指導方法は確かに人には理解されないだろうけど、
ニーマンは、いやきっとショーンでさえ、命を懸けて到達した地に
満足してるんじゃないだろうか。
ちなみに、フレッチャーにはモデルがいる。
似たり寄ったりの実在の人物がいるってことだよ。

久しぶりにOSTを買わなきゃと思った映画でした。

whiplash.jpg

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「世界にひとつのプレイブック」 [watching]

*** プロローグ ***

 「世界にひとつのプレイブック」の原題てなんだろうと思って調べてみたら、”silver linings playbook”だった。Playbookはなんとなく分かる。スポーツやるときのマニュアルみたいのだろと思ったら、詳しくはアメフトの監督が持ってるノートのことだって。今日の対戦相手にどんな手を使うか書いとくもんだって。しかし、silver liningの方はこりゃなんか意味があるなと思ってさらにググってみると、ことわざのことだった。正しくは” every cloud has a silver lining”で、直訳すると、「どんな雲にも銀色の裏地がある」となる。“lining”って裏地、ライナーのこと。よくコートに取り外しできるライナーがいてたりするじゃん?あれ。だからライナーノーツっていうのは裏書きのこと。ジャケットの裏(中)に入ってるから。
 話をタイトルに戻すと、つまり、
 「地上から見れば黒い雲に覆われていてもしれないけど、その黒い雲の上(裏)は必ず銀色に輝いている」
 という様子のことをさしており、転じて辞書に曰く、「希望の兆し」を意味する。
 「止まない雨はない」という慣用句に似てるね。
 映画のタイトルからだけでもなかなかためになる作品でいちいち小賢しい感じだ。

 ともあれ、ということは、原題の意図するとことは「希望のためのプレイブック(戦術本)」ということになる。これはむしろ誰にでも向けられた励ましのメッセージと捉えるのが自然だと思うので、逆になんで「世界にひとつの」なんて限定的な邦題にしたのかが気になった。

 ちなみに、映画を見た人のブログで、作品中に何度も「silver lining」って言葉が出てくると言っていたのだけど、私は一度も聞こえなかった。ムムム。

***


 「プレイブック」は当時のアカデミー賞部門の全演技部門にノミネートされた作品だったらしいが、受賞したのは主演女優賞だけだったそうな。
どっちもすごい話だね。

 Wikipe見て驚いたんだけど、この映画はコメディドラマに分類されている。
 おそらくそれがオスカーを逃した最大要因ではないかと思った。オスカーってコメディ映画には厳しいから。しかし、この映画がコメディとは私は全然思わなかった。確かに笑える部分はたくさんあったけど、私の中ではコメディ映画って「オースティン・パワーズ」とか「Mr.ビーン」みたいにもっと荒唐無稽な笑いを取りに行くものコメディと思っているので、ちょっと話が面白いだけでコメディとされるのに驚いた。
 それとも、本当はもっと細かく分類されているのかな。コメディと、コメディ・ドラマとドラマみたいに。
 あり得るな。
 日立のアメリカにある販社のサービスメニューでBasic(基本)とStandard(標準)というサービスがあって私はすごく混乱した。基本と標準を使い分けてる例を初めて見たので。
 分かりやすく言うと、標準以下の提供物があるのかという驚き。その細かさがエグイなーと思った。
 それともストレージの分野では一般的なのか。

 話がずれたけど、この映画が面白いと思うのは、脚本以上に俳優たちの演技。
 特に、ヒロインのジェニファー・ローレンスにはびっくりした。こんな立派な演技ができるのかと思って。彼女の採用に当たっては他のスタッフや俳優陣たちの中で不安の声があったことは事前にNewsweekで読んで知ってた。私も彼女はすごく初心な子の印象だったので、いったいどんな演技が出来て賞をもら足んだろうと不思議だったけど、一目見てこりゃすげえと思った。ちゃんとできてる。
 Newsweekでもヒロインのティファニーはすごく複雑な役だというこを言っていたけれど、実際観てみて本当にそうだなと思った。パットに比べてステファニー自身のバックグラウンドが掘り下げられることがなかったのは残念なことなんだけど、彼女は一見してやさぐれていて、口が悪く、情緒不安定でセックス依存症だ。
 しかし、彼女とちょっと話せばわかることだけど、真の彼女はすごく頭がいい。口先だけで男のキンタマを潰す力強さを持つ一方で、ユーモアのセンスがあり、人を思いやる優しさもあって、そして何より、普通に恋する寂しい女の子だった。それってアカデミー賞の授賞式での天然ぶりや、「ハンガー・ゲーム」で見るような幼さからは到底想像もつかないような姿だった。
 ただ、私は知らなかったけど、「ハンガー・ゲーム」以前はもともと評判の高い子だったらしい。「あの日、欲望の大地で」という映画では、監督に「メリル・ストリープの再来か」とまで言わしめたらしいよ。
 ちなみに私は「プレイブック」を観て調べるまで、この「あの日~」っていう映画を知らなかったけど(日本未公開なのか?)、シャーリーズ・セロンとかキム・ベイシンガーとか豪華女優陣出ているらしいので見てみたいなと思う。

 あと全く期待していなかった主人公の演技もよかった。
 だってこの人、「特攻野郎 Aチーム」の優男(やさおとこ)だよ。他にとりえのない人だよ。どうせイケメンて言うだけで採用されたんだろと思ったけど、開けてみたらこっちもすごかった。
 ワーオ、演技がすごい冴えてる。キレキレやん。どうしたの。「特攻野郎 Aチーム」から想像だにしない域だった。いったいどうやってここまでパフォーマンスを持ち上げて来たんだろうと観てる間中感心しきりだった。
 もしくは最初からその才能は備わっていたけれど、あのお面が災いしているのかな。そうだったらかわいそう。自分の演技力を発揮できる作品を選ばないと。

 この作品のストーリーで一番心が痛んだのは、ステファニーもかなり激しい経歴だけど、まあ彼女の寂しさは理解できるからまだいいとして、主人公のパット(主人公のお父さんの名前もパット)に起きた不幸だった。
 絶えられないよ。そりゃ頭おかしくなるよ。もともと躁鬱の毛があったことが災いしただけで、パットでなくても同じことをしたんじゃないのかな。心を病んでるパットの方が一方的に悪者にされる世間の無言の合意に、人々の中に既成概念としてある差別の意識をとても恐ろしく感じた。
 確かにパットはデブだった。確かにパットはことが起きる前から情緒が不安定だった。だけど、夫婦の共通の職場で同僚と不倫をして、あまつさえ配偶者の留守中に相手を自宅に招き入れ、玄関から風呂場まで服を脱ぎ散らかし、よりによって結婚式のテーマソングをかけながら不倫相手とシャワーの中で絡み合っているところを見つかったのは奥さんの方だ。
 誰が悪いの?
 ていうか、この話を聞いて誰の心がより病んでると思う?
 明らかにパットではないよね。私はそう確信する。もしくは100歩譲ってみんなパットと同程度に頭がおかしい。
 しかしその結果8か月間拘束されたのはパットだった。なぜなら、自分ちの風呂場で自分の妻の裸を舐め回してる素っ裸の同僚を死ぬほど暴行したから。ちなみに、死ぬほど暴行されたパットの同僚は、パットの妻の股ぐらから顔を上げて立ち上がるなりパットに向かって一言、「失せろ!」と罵りの言葉を投げた。
 だれの頭が一番おかしいのかな。

 以来、パットの頭の中にはその時の勘弁しろ級の映像がこびりついて離れない。日々の雑事に追われている中でも、なんの前触れもなくあの光景が発作的に彼を襲う。誰がこんな拷問に耐えられるだろうか。本来ならハッピーであるはずの思い出の曲を聴く度に、否応なく悪夢が蘇ってくる。一人でシャワーを浴びているはずの妻の股間から顔を上げる同僚の男を。
 大の男がピーピー泣き叫んでその悪夢から逃げ惑う。でも自分の頭の中から逃げられるわけがない。私には、よくこの状態で病院が放免したなと言う感じだった。容赦なくフラッシュバックする非情な光景に私も思わず心を患いそうだった。
 そもそも客観的に見れば、パットの言っていることは大概の場面において正気とされている人々よりも正しい。そのコントラストが皮肉だなと思って見ていた。
 彼の診察日に、診療所のロビーでウェディングソングを流すべきじゃないし、「私にはコントロールできない」という受付嬢の対応は間違っている。仮にパットに接近禁止命令が出ているのだとしても、それを破って昔の職場に立ち寄ってしまった彼に、奥さんがいるかどうかは言えないけど、不倫相手なら今いるわと伝えるのは甚だ間違っている。
 みんな彼が死ぬほど暴力をふるったことがあるという過去の過失と、その場のテンションの高さに恐ろしさを感じているようだったけど、それさえ無視してしまえば彼の言っていることに誤りを見出す方が難しい。そういう場面の一つ一つに彼の過失が偏見を持って広まってしまっていることを如実に表していたと思う。パットにとってはまさに生き地獄だ。幸いなのは、彼は大体1日中パニックを起こしていてそういうソーシャルな自分の立場や人の視線が気になってないってこと。
 職場の同僚の奥さんとのえげつない不倫現場をその夫に現行犯で抑えられた男をクビにしない学校なんて、学校と名乗るのもはばかられると思うし、その一面からだけでも、病んでいるのはパットではなく社会の方だなと思わせられる。

 パットのカウンセラーとか、先の受付嬢の対応も実際にはちょっとありえないなと思うけど、まあパットの苦しみを浮き彫りにするための演出なんだろうと理解する。情緒不安定な人たちしか来ない診療所の受付係があんな態度ではパットでなくても日に何人かは暴れることになると思う。そしてカウンセラーの先生も先生で、荒療治に過ぎる。あれでは命がいくつあっても足りない。この先生も相当おかしいなと確信したのは、その後、パットが友達の家に夕食に呼ばれたんで行こうと思うけど、フォーマルな格好よりも自分はイーグルスのジャージを着て行きたいと相談したとき。そのパッと見、ユダヤ人かスコットランド人かと言うようなカウンセラーはすかさず、
 「だれ(どの選手)のジャージだ」
 と聞き返し、パットがファンの選手の名を告げると、
 「最高の選手だ」
 と言って診察質のドアを閉ざす。
 いやいやいや。気持ちは分かるけど、招待されたディナーなんだからも少しフォーマルな方が相応しいんじゃないとかアドバイスすべきなのでは。このカウンセラーはその後、パットの父親もかくやと言う程のイーグルス狂であることが判明するが、それはもう既に驚くに値しない。

 パットの父親もパットと言うが、既に家族の生活を破たんさせるほどのギャンブル中毒なのを自他ともに認めていながら、誰も彼を病院に入れようとは思わない。私だったらそうアドバイスするし、自分の父親だったら絶対に病院に入れる。ギャンブルのかたに取られた店をギャンブルで取り戻そうなんて誰か止めるだろ。取られる前に。
 アメフトは大嫌いだというステファニーだったが、物語のハイライトで滔々とイーグルスの対戦成績を口述してパットの父親を圧倒する場面は、おそらく彼女もまた父親のギャンブルで苦労した家族のうちの一人ではあるが、スポーツ自体は愛しているのだろうという背景を想像させるエピソードだった。

 パットの兄の愛情表現は倒錯していて、もはや両親にすら理解不能だが、弟にだけは分かっていて、久しぶりの再会では傍から聞いてたら散々嫌味を言われているだけにしか聞こえないのに、実はそれが兄の愛情の裏返しで、大いなるアイロニーであること弟は承知していて、「それでも愛しているよ」とパットが言うと、二人して熱い抱擁を交わすのだった。ことここにいたると観ている方がどうにかなりそうになってくる。

 ディベロッパーの職に就くパットの親友は、自ら既に心がおかしいことを認めている賢明な人間のうちの一人だが、x-dayはそう遠くないと想像させる。彼は強権的な妻とバブリーな仕事のストレスに日夜さらされ、表向き温厚そうな人柄とは裏腹にその精神はギリギリのところで保たれている危うさを彼は親友に隠さない。しかしそのせいか、パットのあしらいが一番うまいのも彼だった。

 親友の妻はこの映画の中で最も健全な人間に近い位置に置かれている、それでいて最もたちの悪いタイプの人間だ。個人的には、こういう人間こそが一番悪質だし、一番よくいる勘違いしたタイプと思った。分かりやすく言うと、思いやりのない人間。思いやりがないからデリカシーもないし、ないないづくしでそもそも心が狭い。心が狭いから自分のことしか考えない。自分のことしか考えないから、他人も自分と同じように考えるはずだと思い込んでるその姿は、非常に愚かしいが、その愚かしい女性をジュリア・スタイルズは見事に演じきっている。そのキャラクターの人物像を本当にボトムまで理解している演技だなと思った。すごい。彼女も子役上がりの女優さんだけど、この作品を見て貫禄ついたなーと思った。それを裏付けるだけの演技力だったと思う。そして、ジェニファー・ローレンスとジュリア・スタイルズは姉妹役には感嘆するほどぴったりだった。ほんと、二重三重の意味でジェニファー・ローレンスにしてよかったじゃんと思った。

 おかしかったのは、パットの入院中に友達になったという黒人をクリス・タッカーがやってたんだけど、ちょっと出とは思えないほど超小気味いい演技をしている。あまりに太っていてあまりに唐突に表れたので、最初見た時は自信がなかったけれど、後で調べて彼の名前を見てああやっぱりそうだったんだと思った。クリス・タッカーの本領からは大分抑えた演技と言うべきなんだろうけど、彼と言うかキャラクター独特なリズムが既に絶好調で、役の潔癖症な部分をよく浮かしていたと思う。なんか理解不能なことを喋りまくって危なっかしいことこの上ないけど、それでいてこの映画で最もハッピーに見えるキャラクターだ。それぞれに問題を抱えながらも、「普通」の人の中に混じって生活を成り立たせられている人の一人だと思わせる。まあ、ちゃんと脚本がそうなっているということなんだろうけど。

 そして、パットの家に出入りするお巡りさん。このお巡りさんをやってる俳優は、私がデカプリオの「ロミジュリ」を見た時からの贔屓だ。さっき名前を調べてみて分かったんだけど、私彼の出てる映画は大概見てた。たまたまだけど、贔屓にしているので見れててよかったと思った。そして彼にはトゥレット障害というハンディがあることを知った。なんだろうと思ったら、チックとか、吃音とかの症状が出る病気みたい。意外だったのは、中には悪態をつくのも症状のうちの一つみたいで、汚言症と言うらしい。そんな病気ってあるんだと思って驚いた。まさかアルツハイマーとか脳腫瘍でも患ってるんでない限り、口汚いのが病気のせいだとは思わないよねと思って。Wikipe曰く、「未治療の場合、患者にとって社会的な不利益を生ずることが多い」だって。そりゃそうだろうね。これって軽快することはあっても治るってことはないのかね。
 役に話しを戻すと、このお巡りさんは職業柄、彼は正しい人で、常に正しい側についているという社会通念に守られているけれど、ティファニーを目にするや否やパットの前でデートに誘う。いかに職業が社会的モラルの象徴であっても、その中身の人間は心に問題を抱える多くの人々の一人にすぎないことを自ら露呈する。
 本当に問題があるのは誰の心だろう?
 これはそういうことを考えさせてくれる映画だと思う。

 最後にステファニー。前にも言ったが、彼女のキャラクターが彼女の口からしか語られないのは返す返すも残念だった。映画観たで調べて分かったけど、当初はアン・ハサウェイがキャスティングされていたんだってね。危ない危ない。彼女がやってたら話が最後まで見れないほど重くなってたよ。それにアン・ハサウェイは既にこの手の映画に出すぎてる。新鮮味がない上に、どんな演技か、どんな作品か簡単に想像ついちゃう。結局、アン・ハサウェイは「ダーク・ナイト ライジング」の撮影とかぶったんで降板したんだそうだが、バットマンを選んだ彼女の判断は正しかったと思う。恐らく彼女自身もうやんない方がいいと思ったんじゃないだろうか。
 前にも書いたけど、ジェニファー・ローレンスは「ハンガー・ゲーム」の幼さからは想像できないほど、すれっからしな演技が板についてて驚いた。育ちのよさそうなウサギっていうイメージだったから。彼女は人知れず人物観察とかして勉強してたんだろうなと想像した。ただ、賢い女性ならパーティーで乳首を隠すのがやっとみたいな服を着るのはいい加減やめた方がいいと思う。
 ステファニーは和解せぬまま夫に先立たれて心のささくれだった、ひねくれた不良だけど、本当は人の痛みのわかる思いやりにあふれた女性だ。なぜパットが何度もその優しさに救われているくせに、この女性の素晴らしさに気が付かないのか不思議なくらいだった。印象深いのは、パットがハロウィンの映画館の前で仮想した集団に囲まれてパニックを起こした時、ステファニーにはパットがそれと言わなくても彼の様子を見ただけでそれを察する。不倫の現場を思い出させるウェディングソングが頭の中で鳴り響く中、ティファニーがきっぱりと言う。
 ”It's just music. Don't make it a monster.”
 その声に励まされてパットはだんだんと正気を取り戻していく。
 パットはステファニーの素晴らしさが見抜けないにぶちんなので、ステファニーが仕込んだ手紙を本当に奥さんからだと思い込むが、私はそれがタイプしたものであるのを見た瞬間に偽物だなと思ったよ。
 パットは、本質的なところを表現すれば、疑う心を持たない純粋な人ということなんだが、個人的な深い考察を省くと、単純に「おめでたい人」でか片付けられてしまうタイプの人間だ。
 ステファニーにはパットに会った瞬間に運命の人だと見抜く賢さがあったけど、パットはマヌケなので、ステファニーの努力や周りの人の支えという遠回りをしてようやく自分が本当に求めている人が分かるようになる。

 これはパットが自分の妻の不倫の現場を押さえるという悪夢とその呪縛から自らを解き放つまでを描いた物語だ。だからステファニー個人はそんなに掘り下げられていないのだけれど、セックス依存症って男性よりも女性の方がつらいだろうなと想像する。男は吐き出しちゃえばいいけど、女性はその吐き出したのを受け止める方だから。好きでもない人を受け入れるってどんな気分だろうと思うと果てしなくゾッとする。終わった後でどれだけ自己嫌悪に陥るだろう。よく自殺しなかったなと想像する程だよ。ステファニーはなぜか自分の経歴を知っているパットに自分の依存症を咎められても、「それはもう終わったの」とあまりにもさっぱりと言うけれど、それまでの道のりがどんなものだったろうかということは、同性としては想像もできないくらいだ。
 でも、それだけ自己完結しててきっちりさっぱり立ち直ったステファニーが四の五のごねるパットを選ぶのは、ひょっとしてダメンズに惹かれる傾向が?と、ちょっとステファニーの前途を案じたけど、でも、パットはああ見えて個人的なこと以外にはしっかりし過ぎているほどしっかりいてるから、物を考える時の距離の取り方を学べばきっとうまくいくと思う。パットはちょっと自分も含めて周りを見失いやすいだけ。前述のお巡りさんの前で、まだよく知りもしないしてファニーのことを1ミリの疑いもなく擁護する姿はちょっと見直したもん。ああいう人少ないと思う。

 私はこの映画のロマンスの描き方すごく好きだった。特にパットとステファニーのベッドシーンがなかったことにとても好感が持てた。そしてその創意こそが、あの不倫現場の忌まわしさ浮きだたせているのだと思う。
 パットに拒絶され続けてもあきらめないステファニーのしつこさもよかった。ひたむきと言うより、熱意を感じる。
 なんというか、つまり、ちょっと強引だけど、真剣さを感じた。今の人はそれをストーキングと言うのだろうけど。
 そして、ラストシーンでは、普通の映画だったら告白したパットの首にすぐさま飛び付きそうだけど、ステファニーくらいになると真剣だからプロセスが違う。まず、泣きべそかきながらパットの告白を復唱する。
 「そう、あなたは私のこと愛してるの。ならいいわ」
 と確認してからキスをする。まじめなステファニーの性格が出ているなと思ってすごく好感のもてるシーンだった。

 観てて思ったことが、こんなに情緒の不安定な人々の行動をつぶさに表現できているなんて、家族とか自身に経験のある人なんだろうかと言うことだった。経験のある人ならわかるけど、この作品に出てくる人たちは本当によく描けている。私自身はカウンセラーのお世話になったことはないけど、身近にそういう人がいるからそういう障害のある人との生活がどんなものかと言うことを多少なりとも知っている。そういう視点から見てもこの作品の人物描写は驚嘆に値する。本当によく描けている。誇張でなくて素直によく再現できていると思う。思わず吹き出してしまうようなあの滑稽さは私にはむしろ真実だ。
 パットが投薬を嫌がって家族ともめるシーンは「精神疾患あるある」のうちの一つだと思う。患者は家族や同居人がいるのなら、彼らの前で薬を飲むのがまずはルールでありマナーだと思うけど、個人的には自分に合わない、もしくは使用感が不快だと思うものを我慢して続ける必要もないと思う。新しい精神疾患の病名が増え続けている昨今、代わりになる薬なんてジェネリックになっていようといまいとゴマンとはるはずだ。
 治療や薬に不満があるなら悩まず医師と相談するべきだ。代えれるものならばさっさと代えたらいいと思う。そんなのは精神疾患にかかわらないと思う。私だって自分に合うピルに出会うまでに3~4種類試した。めまいがするとか、異様にむくむとか、眠くなるとか、思考が曇って仕事に支障が出るなんて薬を常用させるなんてもってのほかだし、どうしてもその必要があるならそもそも退院させるべきじゃないだろうと考える。
 カウンセリングや薬にまつわる患者と家族の葛藤や試行錯誤は、実際にその経験のある人でないと分からない空気があると思う。

 だから不思議だったのは、そういう経験がなくてこの作品を面白いと思える人がそんなに多くいたなんて逆に意外だ。だって、経験のない人には理解しがたい日常だと思う。彼らの嵐のような心の変わりようを、その背景にある苦痛を想像することは難しいだろうと思うから。
 だけど、ちょっと調べて得心したことがある。この作品に絡んでいた監督のネーム・バリューが作品の印象を高めるのに手伝ったところが大きいんじゃないかなって。最終的に作品の形にしたのはラッセル監督だけど、ラッセルの手に渡る前に、映画化権を持っていたのはシドニー・ポラックとアンソニー・ミンゲラだという。
 わーお。そりゃすげえ。この二人が既に死んでいることを考えればそれだけで二階級特進できるってもんだよ。だけど、そんな大看板に倒れなかったのはひとえにラッセルの身近に実際に精神的な病を抱える家族がいればこそ養われた暖かい視点の賜物だろうと思う。彼の息子が双極性障害で強迫観念症だという話だが、それは健常者でしか構成されない生活圏の人々に想像すら難しい日常生活ではないかと思う。
 でも、もしもあなたの生活の中にそういう疾病と戦っている人がいるなら、この作品に出てくる人々の行動のや気持ちをいちいち考えるまでもなく、経験のあるものとして隅から隅まで手に取るようにして分かるはずだ。そして、その彼の家族に対する愛情あふれる視点こそが、まさに人々に、私に、届いているものだと思う。

 ステファニーの気持ちがパットに届くラストシーンは心温まるけれど、現実にはそんなハッピーエンディングが、同じような病気を抱える人たちにとってどれだけハードルの高いおとぎ話かと言うことは、傍で見ているだけの私でもよく分かる。
 それでも、と思う。
 それでも、こういう映画が、今まさに同じような悩みを抱えている人たちの気持ちを少しでも慰め、原題に込めらたように少しでも彼らの希望になるのであればいいなと心からそう思う。

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「コクリコ坂から」 [watching]

 なんで「コクリコ坂から」なんてタイトルなのかということが最後まで分からなかった。
後でプログラムを読んで分かったけれど、海の住んでるおうちがコクリコ荘というらしく、そのおうちが建っているとこがコクリコ坂と呼ばれているらしいのだ。しかしドラマにコクリコ坂という場所は、ほとんどというか、まったくと言っていいほど絡まない。この坂の上り下りを通して主人公たちの成長やらドラマが展開されていくっていうんならまだしも、その家や坂にコクリコという名前がついていることすら作中では語られない。そもそもコクリコってなんだ。花か?あ、フランス語でひなげしのことだって。ひなげしってポピーだろ。ポピー咲いてたか?つーかなんでフランス語?この辺フランス人街だったの?それともフランスかぶれしてた時代なのか?それとも原作者がフランスかぶれなのか。ヒロインの女の子は海(うみ)なのにフランス語をもじってメルとかさ、カルチェ・ラタンとか出てくるしね。海(うみ)って名前の子にわざわざメルってつけへんやろ。へんなの。
 ただ、私の率直な感想として、単に原作の漫画のタイトルを踏襲したのだとしても、これが映画のイメージを代表しているタイトルになっているとはお世辞にも言い難いなと思った。つまり、映画はタイトルを変えてもよかったのではないかと思う。「旗」とかね。まあそれは冗談だけど。

 「コクリコ坂から」は電車の時間までのつなぎで観た映画で、前評もさっぱり耳にしたことなかったし、ましてやまた息子が監督したとあっては、全く期待していなかったというか、むしろダメだろうと思ってんだけれど、これはいいよ。観た方がいいと思う。細部を丁寧に作り込んだいい作品だと思う。監督は息子だけれど、駿のこだわりを執拗に探ってあるなと、はっきり言って感心した。苦労が滲み出てたもん。商店街の裸電球の明かりに。こんだけやったら駿もさぞかし満足だろうと思ったのだけれど、ツレの話では、試写を見終わった駿は泣きながら「こんなの全然ダメだ」と言ったらしい。泣くほどダメだったのか。

 頑張ったと思うんだよ。息子は。自分では目にすることのできない親父の想像の中のノスタルジーを手探りで、でもそんなだっただろうという現実感も見ごとに再現できてたと思う。その苦悩というか、苦労はプログラムの中に、読んでるこっちが唖然とするほど何の恥ずかしげもなくマルッと書いてある。そして、今は素直に「親父という存在が吐いちゃうほどプレッシャーです」と憑き物が取れたみたいに認めるこの人を、今は素直に頑張れよと応援してあげたいと思う。
 「ゲド」の時は、なんとなくそこには触れられたくなくて、みんなにはバレバレなのに本人だけは知れっとしてるみたいだったけれど、「コクリコ」のプログラムの中で息子は「父親から逃げていた」とも認めている。多分もう、白状せずには何も前に進められないということに気が付いたんだろう。やっと正しい判断をしたんだな。みんなに向かってではなく、自分自身に。「ゲド」作った時はそんな根性はないと思ってた。というかむしろそんな奴にこんな程度の映画を作らせた駿がどうかしてると思った。しかし、人にどう思われおうと、自分自身に正直になれれば、あとは地道にコツコツと自分の出来ることを積み重ねていくだけだもの。その道が残されていたということが彼にとっての一番の幸運だろう。世の中の君以外の人はね、その最後の道すら残されていない人が多いんだよ。息子はその道を残してもらえたことをせいぜい感謝して励むことことだね。

 作品の話に戻るが、私には、その駿のこだわりを何とかして手応えのあるものに再現しようとした努力したあとが作品の中に、特に背景や風景によく見えた。駿がやっても遜色なかったんじゃないかと思うくらいだ。
 たとえばさ、カルチェ・ラタンの中。ガリ版制作してる姿とか。坂の下の雑踏。土と木でできた繁華街の様子。蛍光灯ではなく、電球の灯り。海の台所。夕げの支度。朝げの風景。驚いたのは、昔って暗かったんだなぁということ。商店街の裸電球はそこだけ見りゃ明るいようで、買い物や歩こうと思ったら暗くてよく見えない。私は、自分が小学生の時、コロとかタロウと夜散歩していた時のことを思い出して、夜の暗さを思い出していた。真っ暗だったなぁ。外灯はあったのに。それで足を踏み外して田んぼに落ちたりした。真っ暗な空を見上げては、お父さんがあれは夏の大三角形だとか言って、私は空に三角形に見える星を探したりした。
 そう言う明かりの作り出す暗さとか、その時代の景色の細部を丁寧に描き出していたと思う。観てて、『ああ、駿の好きそうなシーンだな』と思って見てた。郷愁たっぷりの昭和20年代のイメージだ。
 しかし息子は、そのイメージを頭に浮かべながらも、呪われたように「脚本に劣らない画になっているか」と常に自問していたそうだ。そういう強迫観念のようなセリフがプログラムの中に少なくとも2回は出て来た。息子の中にどっかりを腰を据えた父親の存在はいかばかりかと思う。「父がプレッシャーだ」と白状したのも、もうなりふり構っていられなかったからだろう。自分が監督とはいえ、この世界にも締切があって、それを待ってる無数のスタッフがいて、しかもただ作り上げなきゃいけないというだけでなく、2回目だからこその興行的に成功させなきゃいけないという課題があったと思う。監督1作目は酷かったから。まあ、うがった見方をすれば、弱音を吐くことで楽になれるということに味を占めたかもしれない。だって、「コクリコ」制作のプレッシャーと言ったら、「『ゲド戦記』の時にもなかった苦労」などどぬけぬけと言いやがって、あきれるやらがっかりするやら。しかし、だからやっぱりあの映画はあんなに不出来だったのだなと改めて納得というか、あきらめもついたけど。

 物語の舞台が作品の最初の頃、コクリコ坂という固有名詞が出てこないのと同様に、物語の舞台がどこであるかということは、わざと伏せてでもいるかのように一切触れられない。物語が進むにつれ、そんな色の煙が出てていいのか?と思うような、赤や青の煙を吐く大きな煙突を見て、『工業地帯だな』とか、そんないかにも有害そうな色に煙る街を見て私は公害を連想し、鉄橋の上を走る赤い電車を見て、私は『川崎?横須賀とか?』と思ったけれど、ツレは「横浜じゃない?(電車は)東横線じゃないかな」などと当たりを付けたところで、唐突に「東京へ行こう!」というセリフが飛び出して、ツレの推測の方が正しかったことを知る。そのタイミングが絶妙だったんで面白かった。最初は伏せていた地名が、観客にもだんだんと見当がつくようになっていく。おおよその当たりがついたころで地名が具体的に明かされるという図ったようなタイミングが憎らしくもあり、小気味良かった。

 脚本もよくできてた。途中、『駿映画でまさかの近親相姦?!』とドギマギしちゃったけど、海の素直なというか、がむしゃらというか、若者らしい結果を顧みない勢いで道を切り開いていく姿がまぶしかった。若いって素晴らしい。
 駿の映画ってなんでも元ネタ、というより原作があるものだけど、今回は少女漫画だったとは驚きだ。
 私だったら、俊(ヒーロー役)に「お前のお父さんが俺の本当のお父さんなんだ」とか言われる以前に、避けられちゃったり、距離を置かれた時点であきらめちゃうかもなと思ったけれど、しかし、自分が生徒だった頃を思い出すと、無視されたら椅子を投げたり、牛乳パックを投げたり、逃げる背中に走ってってジャンピングキックしたり、いじめっ子の女の子が泣き出してしまう程みんなの前でやり込めて、逆に周りになだめられたりしていた姿が思い出され、同じ年頃ならそうでもなかったかも……と考え直して、改めて今は年を取ったんだなと思った。だって、こんなにすぐにあきらめやすくなってしまって。当時の私が見たらがっかりするかもな。でも疲れるんだよ。アホの相手するの。こんなアホを相手にせにゃならん自分の不運に思わず落ち込んでしまうんだよ。それに、どんなに私が正しくても、キレまくってる私の方が悪い人で、私に責められてる人の方が気の毒と思うも大勢いるんだよ。だから余計やってらんねー。だからね、そのうち、そんな奴らとは金輪際かかわらなくて済むように、人を避けて静かに生きたいとか仙人みたいなことを思うようになっちゃうんだよ。

 話がずれたけど、大戦中、大戦後の混乱の中で生きる人たちにとっては、今こうして画面を見るだけの私たちと違って、「それ、言っとかなまずいやろ」というような重要なことですら、日々の雑事の中に消えて行ってしまうことが本当にあったんだと思う。そんな、ただ生き延びるってことだけが最重要で、そんな中では子供を預かってくれ(育ててくれ)とかいう激しい変化が日常だった時代があったってことだよね。今の時代を厳しい厳しいと言いながら生活している私たちは、それに比べたらはるかに平和で物質的にも制度的にも豊かであると言わざるを得ない。それでも、はだか電球の明かりに照らし打される彼らの暮らしの方がずっと幸福に見えるのはなぜだろう。長澤まさみはインタビューの中で映画の当時を、「何もなかった時代だから」と言ってるけれど、私にはあそこにはすべてがあるように見える。何もかもあるように見える。あるとかないとか、私たちは何を指して言っているのかと不思議に思う。
きっと、映画の中と今とでは、幸せであることの定義がさっぱり変わってしまっているんだろう。

 作品の舞台になるのは、タイトルであるコクリコ坂よりもカルチェ・ラタンだろう。カルチェ・ラタンてどういう意味かと思ったら、パリの24区に実際にある地名なんだってね。もともとこの地区は大学のある学生街なんだだそうで、カルチェって「地区」って意味で、ラタンって「ラテン語」って意味で、合わせて「ラテン語を話す学生の集まる地区」ってことらしい(Wiki先生より)。ラテン語って昔から高等学問のイコンみたいなもんだから、カルチェ・ラタンとやらがインテリ学生の街であっただろうことは想像に易い。しかし私だったらそんな所、うっとーしくてあまり近寄んないだろうな
 でも、作中のカルチェ・ラタンは私の嫌うそういう感じじゃない。一言でいうなら自由闊達な場所だった。ただしおそらく死ぬほど男臭いので、やはり近寄らなかったとは思うが。みんな高校生とは思えない知識と志の高さだよ。独立心も高いから自分と学校が対等で交渉できる立場にあるという自尊心もある。実際、自分たちで抗議活動なんかして、今の子たちじゃ絶対にやらないであろう講堂の大掃除なんかやっちゃったりする。一番驚いたのは、実際には意見の分かれる生徒グループが、講堂で暴動が起きる寸前までハッスルしても、ひとたび校長の足音が近づいて来るや否や、偵察役の生徒が行動にすっ飛んできて、それまでもみ合ってた生徒たちが肩を組んで腹の底から校歌を歌い始める。全員で。女の子たちでさえも。学校側に集会の自由を奪われないためだ。
 しかし、そんな風に学校と対峙する生徒の姿は今の学校教育ではただの伝説だ。お父さんの中学生や高校生の頃の話をよく聞いたけれど、そんな革命は自分の時代ですら起きなかった。私の時には、先生の意向ってのを組んで、そつなく先手を打ち、そつなく効率よく立ち回るっていうのがスタイルだったな。
 だから、あの映画に描かれている生徒たちのあの自主性とか連帯感の強さは今の学校現場にはないものだ。そういう風に育ててないんだから。今だったらああおいう場面には間違いなく保護者がひしめいているはずだ。親がそんなにしゃしゃり出て解決できることなんて実際にはそんなにないんじゃないだろうか。多分、学校って、多かれ少なかれ、ああした個々の自尊心とか自立心を育てるきっかけや、延ばせる環境を用意してあげるところだと思うんだよね。だから親の手から放して、わざわざ別の社会の中に、子供たちだけの社会の中に放り込んでるんじゃないのかな。あの映画の生徒たちの志の高さを見せつけられちゃうと、あれはもう同じ人間ではないよ。人間の質が全然違うと思う。あの自立心と高さと連帯感の強さは、今の教育現場では育てられないし、生まれても来ないものだと思う。

 観終わって気づいたことだが、私は駿映画で初めてファンタジーでないものを見た。いや、まあ、これだってファンタジーと言えばファンタジーなんだろうけど、つまり妖怪とか空想の生き物が出て来ない作品を初めて見たという意味で。「耳をすませば」も人間の恋愛ドラマらしいけど、私は実は意外と駿作品を見たことがない。「トトロ」も見たことないし、「ラピュタ」も見たことがない。駿自身がこの作品の引き合いに出している「耳をすませば」も見たことがない。ちらっと見かけた感じでは普通の少女とバイオリンを弾く少年の恋愛ものかなと思った。それをジジイたちがヤキモキしながら見守るみたいな。ちょっと目にした印象では、その設定が感情移入しにくいかなと思った。

 峻君の声を聴いてすぐにアレンだなと思った。どうやらは駿に気に入られたらしい。駿というより息子か。アレンは「ゲド」に出てたんだから。俊君はともかく、海の声に時々違和感を感じた。冷たいっていうか、ふてぶてしい響きがあって。学校から帰ってきた海が、アイロン掛けしてるお手伝いさんに「すみません」って声かける時とか。まったく「すまな」く思っているように感じない。あと、学校の理事長に直談判しに行ったときの理事長に対する態度。とても目上の人にお願いをしに行っている態度じゃないと思う。ものすごくつっけんどんな受け答えで、分かりやすく言うと、「私の父は兵隊に捕られて死にましたがなにか?」みたいな、毅然としているというよりは私には鷹揚な態度にしか見えなかった。横で男の子二人がドギマギしている様子だったが、ほんとはあれは海の態度に内心ヒヤヒヤしてたのかも。あんな態度で。ひょっとすると海の時折みられる不遜な態度はわざとなんじゃなかろうかと、あれはそういう演出なのかもしれないと思いたくもなった。しかしここでまた自分が子供だった頃のことを思い出し、私自身もあんなふうに憎たらしい声色で小癪なことを言う子供だったかも。とツレに言うと、ツレは「横柄なんじゃなくて、媚びないんじゃない?」と言った。なるほど、媚びないね。と思いなおしてみた。そして、その言葉を思い浮かべながら、理事長の質問に答える海の顔を再び思い出したらけれど、「かわいくない」の間違いじゃない?という気もした。
 しかし確かに言われてみれば、「媚びなさ」は駿作品のヒロイン(ヒーローにも共通かな)における最重要共通項かもしらん。駿作品のヒーローは頭がよくて、ハンサムで、度胸があって、運動神経抜群(例:コナン)。ヒロインは目力があって、根性が座ってて、包容力のある、しなやかな精神の持ち主。ツンツンはしてるけど、デレッとはしない。デレッとはしないけど、必ず泣くよね。いずれにしろ、そのギャップがいいんだろうね、駿には。少女の強さを支えている弱みがあるってことだよ。
 媚びないか。私には見抜けなかったな。なるほどね。ツレは駿と女の子の趣味が合うかもしれないね。

 「コクリコ坂から」には原作があるということをプログラムの駿のプロダクションノートを読んで知った。それも漫画と聞いて、しかも「なかよし」に掲載されていたと知って、『駿が「なかよし」を?!』と思って衝撃を覚えたよ。ちなみに私は「りぼん」派だったけれど。一体、どの時点で駿はその作品に気が付いたんだ?当時「なかよし」を毎号買っていたのか?本屋の軒先で今月号の「なかよし」をむっつりした顔で手に取る駿の姿が目に浮かんだり浮かばなかったり。なくもない話だとは思うが、ウンベルト・エーコもそうだけど、彼らで言うところの「テクスト」という原典を、彼らはいつもどこからどうやって見つけてくるのだろう。不思議。なんかいいネタないかと思っていろんな文献や漫画やらを漁っている彼らの実際の活動がどんなものなのかちょっと知ってみたい。たまの土日にヴィレッジ・ヴァン・ガードに行くって訳でもあるまいに。でもそういうたゆまぬ探求が彼らの継続した創造を可能にしているんだろうな。
 そういうふうに創造する人もいるんだよね。オリジナルではなく、すでにある話を自分の思うように脚色して自分の作品として世に出すっていう人が。
 駿作品には必ず元ネタがあるよね。そういう創作をする人もいるんだね。
 ふーん。
 短大の時に比較文学で、物語のリメイクについてレポート書かされたのを思い出しちゃった。
 あのレポートはどこへ行ったのやら。


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「ドアーズ/幻の世界 When You’re Strange」 [watching]

 実は、こんな映画があること自体、映画館に行くまで知らなかった。
 めずらしくごはん食べた後なんかに映画を観ようと言われて困ってしまったけど、近くの映画館を覗いてみたらかかっていたのがこれだった。他にも「遠距離恋愛 彼女の決断」とか言うのがあったけど、私的にはそれよりかははるかにこっちのが観たい気がするということですごく久しぶりにレイトショーに入った。

 ドアーズは私が高校生の時に少々聞きかじった。ロックが好きだと言うなら聞いておくべきものとして。というより、オリバー・ストーンの「ドアーズ」に出てるヴァル・キルマーがかっこよくて、そっから入ったんだけどね。
 もちろんドアーズの音楽は好きになんかなれなかった。ねちっこいメロディーラインに、間の抜けた電子音。確かに詩には興味をそそられたけど、当時の私にあの楽曲を好きになれって言うのは無理な話だった。今だって無理だ。理解はするけれど。当時の私が聞いてるのは、モトリーやエアロやガンズや、その対極のソウルアサイラムやサウンドガーデンやブラインドメロンだった。ドアーズを聞くには既に洗練された音楽を聞きすぎてる。
 とは言え、確かに魅力はある。ドアーズを初めて見聞きするツレも、カメラに向かっていたずらっぽく笑ってみせるジム・モリソンにそう感想を漏らしたくらいだ。だけど、退廃的に過ぎるんだよね。楽曲的に言えば単調すぎる。最初に聞いたのは20年前だけど未だにそう思う。でもその退廃的で単調でつまらないという行き詰った雰囲気こそが、60年代そのものだったんだろうと想像する。ヒッピーにブートニク。反戦運動で貧しいながらも一つになっていた気運も、みんなが望んだように敗北を認めた瞬間、アメリカ経済は後退の一途をたどっていく。停滞する社会の鬱憤の中から産声を上げたのはパンクであり、さらなる堕落とも言えるグラムロックだった。
 みんなベトナム戦争を責めるけど、ヒッピー文化は逆説的にその比護のもとで栄華を極めたような文化だ。戦争が終わった途端に経済がしぼんでいったのもうなずける話じゃない?アメリカの60年代って言うと私にはそんなイメージだな。国家権力による暗黒時代と言うか。この映画でも60年代を象徴する生々しい映像が使われてる。別にだからと言って今アメリカ政府がフェアでクリアでクリーンな組織になったなんてこれっぽっちも思っていない。けど、公民権運動や、反戦運動、特にたった一握りのアイドルの扇動によって国家体制がどれだけ揺さぶられるかと言うことを嫌と言うほど思い知らされた後なら、少しはやり方を考えるってもんだろ。

 話がずれたけど、とにかくドアーズはそんな60年代の雰囲気を全てまとった、まさに時代の申し子だったんじゃないかな。映画の中で"so much better than the Beatles!"というファンの声があるけど、分かる気はする。ビートルズはデビュー当時はアイドルの扱いだったしね。ドアーズは90年代で言うニルヴァーナみたいなもんだったんじゃないかな。彼らは時代の申し子で、だからこそ息が短かった。たとえあそこでジム・モリソンが死ななかったとしても、いずれにしろドアーズがあの空気の外で生きていけたとは思えない。後に続く新しい時代をドアーズとして生き抜けたとは思えない。
 ただ、ジム・モリソンの27歳で死んだと言うのが今の私には少々ショックだった。私そんなに長生きしてるのかと改めて思った。30前に死ぬのがロックなのかもな。ジム・モリソンなんかが生きたヒッピー世代では、"Don't trust over 30."って標語があったくらいで。それをアーティスト自らが体現してみせたと言うのなら、なんとストイックなプロ根性であることよ。しかし、生き続けてなおかっこよくいることの難しさは、生き残ったヒッピー世代自身が一番よく知っているだろう。

 ドアーズの引き合いに出したニルヴァーナだけど、このレビューを書くにあたり、改めて調べてみたら、実はカートも27歳で死んでるんだよね。なんと空恐ろしい偶然であることよ。しかし、カートのことを考えれば、それがほんとに偶然なのかどうかちょっと怪しい気もするけど。シャノン・フーン(ブラインドメロンのボーカル)は28で死んだ。リヴァー・フェニックスは23。その時私はまだ高校2年生だった。
 それから自分が彼らの年齢を超えるたびに、私は自分の生きていることを実感した。特に感傷的になったりした訳ではないけれど、彼らの死を悼み、その行為がおのずと自らの生を実感させると言う、人生の通過儀礼的なアイロニーだ。だけど、カートが死んだって聞いた時はほんとにショックで、以来ニルヴァーナを聞くのをやめてしまった。当時ニルヴァーナはライブを観てみたいバンドの一つだったし。ライヴ。死んでしまってはライヴは出来ない。
 今でもカートの死を知らされた時のことはよく覚えている。短大に入って初めての授業で友だちから教えられた。私は状況も顧みず、「うそ!」と大声をあげていた。何度も大声で「うそ!」と繰り返す私に、出稼ぎ英国人講師が「黙りなさい!」と一喝したけど、私は奴を睨み反した。以来、その講師とは折り合いが悪く、1年を通して成績が悪かったが、2年になって講師が変わった途端に私の成績は超優等生並みになった。
 次の授業の時、同じ友達がテレビでコートニー(カートの嫁)が読み上げたというカートの遺書と言うものを紙に書きとめて持ってきてくれて、それを読んでほんとにどん底に突き落とされた気持ちになった。手書きのメモにはこう書いてあった。

 「熱いものを失ってしまった」

 あの、ひざから崩れ落ちるような失望感をなんと言っていいのか分からない。しかし、これじゃ救えるわけがないとも思った。これじゃ死んじまうと。アーティストが情熱を失っちまったんじゃあ死ぬしかねえ。だけど、そうだけど、それでもなにか彼に思いとどまらせるものが一つでもなかったのかと思って、実際になかったことが私には一番ショックだった。子供のころから一緒に育った友達も、略奪愛の末に結婚した妻も(このbitchは後ほど暗殺容疑を噂される)、彼にそっくりな青い目の子供も、何もかも捨てて彼はいってしまった。この世の中に彼が生きる価値を見いだせるものが何もなかったという事実がショックだった。私たちは?待っている人がこんなに大勢いるのに。そんな風に思った。けど、冷静に考えれば、「ファン」て言うのは彼が忌み嫌ったメディア側の存在だから、ファンのために思いとどまるなんて最もあり得ない選択肢だったろう。
 アーティストが熱いものを失ってしまったんじゃあおしまいだから、2年くらい後にマイケル・ハッチェンスが死んだってまた友達に聞かされた時にはもうあまり驚かなかった。死んだ理由を当てさえした。「創造力の枯渇でしょ?」その通りの言葉が記事になっていた。

 私もマイケル・ハッチェンスの年に近くなり、最近はたと気がついた。私も熱いものを失ってしまっていることに。
 気が付いた時にはもう遅かった。それは、ショックと言うよりは、電車を乗り過ごしたような無気力感みたいなものだった。失いつつあるんじゃない。もう失ってしまった。だから気づいた時には私にはなすすべがなかった。乗り過ごした電車を、ホームで見送るしかできない。そんな感じだった。マイケル・ハッチェンスが死んだ時も、「想像力の枯渇」ってどういうことなのかまるで想像もつかなかった。なぜなら当時の私には考えなくてもそれは内側から溢れてくるもので、宇宙から降ってすら来るものだと思っていたから。でも、今ならわかる。それは本当に起こることなんだよ。自分で自分が同じ人間とは思えないくらいだ。
 途中、自分に欠けていくものを感じながらも、まだ代わるものがあると気に留めないでいたけれど、どの時点で私は後戻りができないほど深刻に失ってしまったのかが思い当らない。でも、もう次の電車に乗っても間に合わない。熱いものがないって言うのは、陳腐な表現になるけれど、すごく寒々しい気持ちの状態だと言うことを身を持って知った。

 しかし、この映画のエンディングに、さばけた口調でなんの感慨もなく早口にジョニー・デップが言う。

 「ジム・モリソンの最後は燃え尽きてしまったかのようだ」

 とかなんとか。
 そして、

 「しかし、情熱がなければ燃え尽きもしない」

 私は、目を覚まさせられた思いだった。

 確かに。

 熱いものがあったからこそ、燃えられもしたんだよね。
 この先、自分に熱いものが戻ってくるなんてことがあるとも思えないけど、でも、この言葉に私の気持ちは慰められた。あんなぶっきらぼうなナレーションに、少しだけ癒された。

 ツレがロック得意でないのはよく知っているので、この映画を観るのは気が引けたけんだど、でも、私は観れてよかった。私のために。偶然にしては稀にみる素敵な出会いだったんじゃないかと思う。気を遣って映画に誘ってくれたツレに感謝したい。
 そして、いつかまた私の心を温めてくれる何かに出会えることを祈って。


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「トイ・ストーリー3」 [watching]

 年甲斐もなくアニメなんぞを観て胸がときめいてしまった……。

 映画の冒頭、暴走する列車の窓から無数のフラ・トロールが色とりどりのトサカ頭をのぞかせた瞬間、私は自分の胸が躍るのをはっきり感じた。「ドキン」としてしまった……。

 そんな観ててワクワクするような映画は本当に久しぶりのことだった。子供の頃には映画館ならいつでも感じていたんだろうそんな気持ちを一瞬でも蘇らせてくれた。そんな作品だった。

 ツレがそれまでの「トイ・ストーリー」をちゃんと観たことがないというので、下記のように簡単に説明したところ、ツレは大いに興味をそそられたようだった。
「1」は、新しいおもちゃが来て捨てられるんじゃないかと言う話。
「2」は、間違って本当に捨てられる話。
「3」は、子供が大人になったので最終的に捨てられるんじゃないかと言う話。

 この映画は作ってよかったと思う。
 観終わってそう感じた。
 というか、作る意義さえあったように感じられた。
 実際、そう思って貰えるように、作り手側の執念とも言えるような努力があったことをプログラムを読んで知った。キャラクターのイメージがこれまでのものとずれないように、相当苦心したそうだ。しかし、私に言わせれば、どうしたらずれちゃうんだろうと思って不思議だったけれど。

 大抵のシリーズ映画って、シリーズである意味とか意義ってなかったりするじゃない。その多くは最初から連作という設定じゃないって言うのもあるし、そんな映画の続編を作る時の理由は後付けにならざるを得ないから。
 「007」でも「ダイ・ハード」でもいいんだけど、シリーズのそれぞれはあくまで初期作品のキャラや設定だけを借りてきた完全に別のストーリーとなっているので、はっきり言ってシリーズって言っても前作と関連性はまるでない。つまりそういうシリーズものはどの作品も「焼き直し」に近い。ひどいとキャラの雰囲気がちょっと変わっちゃっていたりする。
 この作品も、最初から一貫したテーマを念頭に製作されてきたかと言えば疑問だけれど、でも、「子供の成長」というか、「家族の歴史」というか、そういう普通の家庭にならどこにでもおきる結構普遍的なテーマを背景にすることが出来ていているので、ストーリー性の軸が大きくぶれずに済んでいるんだと思う。
 実際、「3」を製作した人たちは、全作品との一貫性を作品に持たせることにこ相当苦心をしたようだ。プログラムのインタビューにそんな話が何度も繰り返し出てくる。
 まあ、「2」で幼児向けと言う主題よりも、クリエイターを楽しませるためのストーリーになっちゃってることは否めないから、先に話した一貫性に努力したってって言うのは、「3」だけの話で、意地悪く言うとシリーズの帳尻合わせを「3」で図ったともとれるけれど、結果としては、その努力がみごとに講を奏していると私は思う。「3」を作って、シリーズ全体を意味あるものに見せることに成功していると思う。

 今回一番感心したのは、脚本。そのプロット。実際、その辺の実写映画なんかよりよっぽど練られて、考え抜かれていると思った。悪役人形たちの気持ちの変化が唐突過ぎるというのは否めないけど、それくらいの強引さは子供向けの90分という時間の中では仕方がないとあきらめてもいいと思う。
 そしてその90分と言う制限の中に、たくさんのピンチやチャンスが散りばめられている。人形には人形の現実があって、失望があって、希望があって、友情がある。今回はいくつものピンチを潜り抜けてきたウッディでさえ絶望を感じる瞬間が訪れる。焼却炉の炎に向かって崩れ落ちていくゴミの中で仲間たちが手をつなぐシーンには人間を超えたものすら感じさせてくれるよ。そして真のヒーローが現れる。
 オオオオオオオオオオオオ。
 エラバレシモノ。
 あれじゃ子供でなくてもワクワクするに決まってる。映画には辛いニューズウィークが「傑作」と賞したのもうなずけた。

 「1」のころから何故バズの声に所ジョージなのかと思ったら、結構ティム・アレンの声に似てるのね。台詞棒読みな所もそっくりだった。まあ、棒読みなのは所ジョージで、ティム・アレンは演技だけど。
 そして、うかつだったことに、ジェシーの声をジョーン・キューザックがやっているということを初めて知った。すごい南部訛りなんで全然気が付かなかったよ。
 トム・ハンクスの年齢も声だけなら気にならなかった。永遠のヒーロー、ウッディの声が歳取っちゃってたら悲しいもんね。
 でも、ウッディの恋人のボーがいなくなっちゃってた。戸田恵子だったのに。きっとガレージセールにでも出されちゃったんだろう。ボーは妹が持ってる設定でもよかったと思うんだけどな。
 今回アンディが青年になっていることで、ボーの他にも既にいなくなってるおもちゃは多い。グリーン・アーミー・メンも昔はバケツ一杯にいて、私もいっぱい買おうかと思ったくらいだったのに、今回は3体しかいなくなっていた。3たいだけ想い出に取っておいたと言うことなんだろう。「1」で大活躍だったラジコンカーもいなかった。トロール人形や「おさるでござる」もいない設定だったけど、冒頭の回想シーンでは大活躍だったのでうれしかった。
 今回は小さなキャラに結構贅沢な俳優陣を使っていたことにプログラムを読んで気がついた。パンツをはいた熊はティモシー・ダルトンだと知ってちょっとうれしかった。「オレは役に集中してるんだ」という一言だけで私を虜にしてみせた。タコのグミ人形はウーピー・ゴールドバーグと言うことらしいんだけど、後から思いだしても台詞なんてあったっけ?と言う感じだった。面白かったのが、「3」にはケン(バービーの彼氏人形ね)が出てるんだけど、その声をマイケル・キートンがやってるの。笑っちゃったよ。ケンていう存在が既に笑えるキャラなのに、ましてやその声をマイケル・キートンがやってんのかと思ったら、私は彼をこのキャラの声優にあてたキャスティング手腕に感心した。でも、ちょっと調べたら、マイケル・キートンは映画じゃ最近めっきりご無沙汰だなと思ったら、声優業が盛んなようで、ディズニーが扱う宮崎駿作品も含め、ピクサー作品では常連のよう。あ、そうそう。「3」ではトトロのバッタもんみたいなぬいぐるみが出てきてた。いいのかなと思ったけど、ジブリ作品の版権はアメリカではディズニーが持ってんだってね。声はついてなかったけど。
 しかし、そうなんだぁ。じゃあやっぱり彼のコメディアンとしての才能が認められてるってことなんだね。

 マイケル・キートンは昔でこそ(今もかもしれんが)二枚目俳優の印象かもしれないけど、「から騒ぎ」以来、私にとってはコメディアンとしての才能が印象深くて、二枚目よりもむしろ三枚目の役の方が彼の才能を十分に活かせると思っている。
 ケネス・ブラナー監督の「から騒ぎ」のキャスティングは今なら到底望めないようなそうそうたるメンバーが名を連ねている。エマ・トンプソン(離婚前)、デンゼル・ワシントン(若い)、キアヌ・リーブス(本家棒読み俳優)、ケイト・ベッキンセール(超若い)、ロバート・ショーン・レナード(今はいずこ)。俳優たちの生き生きとした演技を捕えたケネス・ブラナーの「から騒ぎ」は彼の監督作の中でももっとも出来のいいものだと私は思う。そんな青春の(ちょっと年齢層が高めだが)匂いぷんぷんのすがすがしい作品の中で、マイケル・キートンはひどく汚らしいけど忠実で、勤労な、おつむの弱い警官役を見事に演じています。映画が好きなら、そしてシェイクスピアに興味があるならなおのこと、ぜひ一度は観てみることをお勧めします。 

 「トイ・ストーリー3」は一応3Dって言うことになっているけど、3Dにする必要はなかったなと私は思った。これは観ての印象だけど、あの迫力に欠ける感じは、もともと2Dで製作してたのを編集でむりくり3Dに間に合わせたんじゃないのかな。映像に奥行き感があんまり感じられなかったんだよね。メガネもうっとーしいし、なんだかいまいちな3Dで見せられるくらいなら、いっそ2Dで心おきなく大画面で観たかった。
 しかしこのことは、はからずしもこの映画のいいところは3Dにあるんじゃないということを証明することになったと思う。

 作品の善し悪しは使ってる技術の高さじゃない。
 私はクリストファー・ノーランを支持します。

*** エピローグ ***

 見に行ってよかった。
 ツレが興味なさそうだったので、これも見逃すかなとあきらめていたのだけれど。

 「トイ・ストーリー」は学生の頃の友だちとひとしきりはまったキャラクターたちだった。私にはエイリアンがかわいくって、よく物真似した。そんなキャラものアイテムが欲しくてフィギュアショップにしょっちゅう足を運んでいた頃を思い出す。単館映画のチラシを漁ったり、グリーン・アミー・メンのバケツ売りを買うか本気で悩んだり、インディアンの酋長のスマーフのフィギュアが1200円で高いと渋っていたら友だちが誕生日に内緒で買ってくれたりしていた頃。
 「2」は、「私は映画はトイ・ストーリー」しか観ない」と言う友達と観に行ったけど、「3」はどうやら置いて行かれたようだ。

 この作品には私自身のそんな思い入れも含まれている気がする。
 でも、その勝手な「思い入れ」を超えていい作品になっていた。

 新しい人生を自らの手で選んだウッディたち(というかウッディの独断、というかとっさの思いつきだけど)に敬意を表したいと思う。

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「借り暮らしのアリエッティ」 [watching]

 このレビューは書きづらくて悩んでしまって、観た後暫く手をつけられなかった。
 というのも、ツレは面白かったと言って喜んでいたから、それはそれでよかったんだけれど、私自身は正直、「面白い」とは程遠い作品だと思ったので。

 例えて言うなら、コーエン兄弟は、3回に1回くらいの割合で良い作品を作ると言われているけれど、ジブリ作品の良しあしもそれに似ている。個人的にはジブリ作品の方がそのインターバルは大きいと思ってる。
 「アリエッティ」が駿監督の作品でないことは、なんと観終わってプログラムを読むまで知らなかったんだけど、しかし、この中途半端さはだからこそかと納得もした。
 思うにやはり、駿の作品づくりにかける情熱とか、思い入れとかって言うのが人並み外れているので、いくら駿が元ネタを出したところで、それを他の人間が手掛けるのではこの程度だということなんだろう。「ゲド戦記」もそうだったじゃない。やっぱ思い入れの強い物の方がいい作品になるよ。普通。

 まずこの映画の最初の罪は、主題歌を日本語で歌わせていること。いいじゃん、原語で。彼女が自分の言葉で歌ってるのを聞いて気に入ったんでしょ?なんでわざわざ彼女にとって意味の分からない日本語で歌わせるの?どんだけ尊大なんだよ日本人。無理矢理外人に日本語で歌わせたところでいい歌であるわけがない。原語で歌ってる曲に惚れたんなら、映画も原語での曲を採用するべきだった。歌ってる本人だって思い入れが違うよ。なんだって日本語でなんか歌わせようと思ったんだろ。子供たちが歌えるようにとかいう気遣いなら、そもそも外人なんか採用すんな。しかもだ、そこまでさせて、ちっとも印象に残らない曲だった。歌手としては歌い損だぜ。

 アリエッティはもちろん駿好みの「強い」女の子だった。初対面の人間の男の子に「君たちは滅びる運命だ」みたいな不躾極まりない言葉を浴びせかけられても、気丈に自分の将来の展望を持って反論するという度胸がある。とても初めて人間を相手にしているとは思えない。きっと子供だからなんだろうなと思った。怖い物がないんだよ。怖い物を知らないって言うか。ポッドやホミリーではとてもじゃないが、人間とそんな風に語り合おうなんて気は起こさないだろう。実際、人間に見られたかもしれないという可能性をほのめかしただけでもポッドは、二度と近付かないようにとアリエッティにピシャリと言いつけた。という言いつけにあっさり背いて男の子に会いに行くアリエッティ。愚かだ…。愚かだが、若者らしい好奇心だなとも思った。若い頃は、怖い物がない上に、視界が狭い。自分の世界だけで完結しちゃってるから、まさか自分の思慮を欠いた行動が自分たちの生活を脅かすようなことで、ましてやお母さんを人間に捕られて瓶詰めにされるような事態を招くとは思いもしなかった、と後で振り返って反省することなどを思い付きもしないくらいだ。これらの災厄はみんなお前のせいだというのに。アリエッティ。アリエッティに兄弟がいたならきっともっと違ったんだろうなと思う。はやり、子供は家庭に兄弟がいた方がいいね。

 翔って男の子もヘンだった。驚かなさ過ぎだよ。いくら心臓が悪いからっつったって。せっかく夢の小人に会えたんだからさ、子供らしい発見の喜びとか、興奮があった方が、アリエッティとの出会いがもっとこのヘタレ少年にとって意味深い物になっるってことが観てる方に伝わったんじゃないだろうか。
 普通、小人なんか見つけたらびっくりしないか??いくら心臓が悪くても。息を飲むくらいのことはあっても良かったと思うのに。なんつーか、この病弱少年のおかげでこの映画は、特に微妙であるはずのアリエッティと少年の間柄は、ひどく緊張感のない物になってしまっていた。なんだかもう、最初からそういう関係であったかのように振舞いやがってつまらない。この家には小人が出ると知っていた少年の方はまだしも、日々人間という存在を警戒しながら生きているはずのアリエッティが病弱少年になれなれしすぎるのが鼻に付いた。違う価値観の世界に住む二人が助け合う話なんだから、二人の絆がそれほどまでに深まっていく過程をもっと丁寧に描くべきだったと思う。そしたら私ももっと感情移入出来たよ。
 しかし、ジブリ作品でここまで魅力のない男の子キャラはめずらしい。これも駿作品でないせいかしらと思った。

 緊張感があったのはむしろ人間関係の方だった。小人手に入れたさに、家主が預かってる子供を部屋に閉じ込める老家政婦の姿にはぞっとした。この映画で一番緊張感の入る瞬間だ。本当に危険なのは、特別な人じゃなく、普段からあなたの一番近くにいる人というホラー。おばあさん独特の邪悪さってあるじゃない?舌切り雀の昔から、悪いおばあさんて言うのはいて、そう言う人は、隣人に対して不寛容で、疑り深く、嫉妬深い。それゆえに目をつけたものがあると、そのために他人を出し抜こうとしたり、陥れようとしたりする。しかも、恐ろしいことに、やってる本人はそれが人として恥ずべき行為であるなどとは露ほども思っていない。罰が当たるまでは。それをハルさんでよく表現で来てたと思う。

 そして、なにより残念だったのは、私はアリエッティの住むミニチュア世界をそれほど魅力的とは思えなかったことが、この作品を楽しめなかった大きな理由だと思う。だって、なぜ生活様式が西洋風なのだ。先祖はヨーロッパから渡って来たのか。そして、借り暮らしとは言いながら、きっと返すことはないのだろう。まあ、元ネタはイギリスかどっかのおとぎ話とは聞いていたけれど、まさか生活様式そのまんま持ってくるとは……。そりゃ滅ぶよ。ていうか、人から盗んで生きてるなら遅かれ早かれ見つかると思うよ。

 そんな中、突如現れたよその生き残りがジムシーだったのには驚かされた。ジムシーの先祖って小人だったのか……。声優に藤原竜也を当てているけれど、台詞なんてあったっけ?って感じ。
 ジブリは「もののけ姫」辺りから芸能人を声優に当てるようになったけれど、私は基本的にそれが好きじゃない。ハリウッドのアニメ映画なんかはもっと露骨にやるけれど、役のイメージに合った声を持つ、アテレコが上手い芸能人なんて殆どいない。なぜ素人じみた演技しかできない芸能人なんか使ってわざわざ作品の出来を下げるんだろう。なぜプロフェッショナルな声優を使わないのか理解に苦しむ。

 理解に苦しむと言えばラストシーン。薬缶はまずいだろう。薬缶は。そんなのすぐ見つかるって……。
 しかもロープのガイドまし付いてるんじゃん。まあ、よしんばロープは使用後取り外すんだとしてもだよ、川の上を薬缶で移動するというだけで十分目立ち過ぎなのに、ましてやその蓋の上に乗って木の実なんか食べてるようでは、とても住み慣れた家を捨てる羽目になった理由をアリエッティが反省しているとは思えない。確かにあの家族はたくましいが、娘のその向こう見ずな性格ゆえに、病弱少年の預言の通り、いずれ遠からぬうちに滅ぶであろう。
 あんなに堅実なポッドが持ち前の「慎重さ」を娘に教え込まずに、あそこまで好奇心を野放しにしておいたのが意外だ。自分たちは遠からず滅ぶ運命だからとあきらめて好きにさておいたのか。まあ、森に引っ越したら人間以上に獰猛な敵はわんさといるから、娘も嫌でも「慎重さ」を学ぶだろうけど、学んだときにはもう死んでるかもしれんな。

 駿も最近は後継者育成を気にしてるような製作をしているけれど、私たちもあといくつ本人が手掛けた作品を観ることが出来るのやら。個人的には、自分の亡きあとを憂いで、後継者育成と言ってヘタに他人に自分のアイディアをいじらせるよりも、死ぬまで自分の手で一生懸命作品作って後は知らんてやった方がベストだと思うんだけどな。それが一番いい後継者育成になると思うんだけど。
 つまりね、ボスの目の黒いうちは誰もジブリの看板背負ってのびのびとなんか仕事できないんだから、だったらボスが好き勝手にやって、たくさんいい作品を残して、生きている間は精一杯仕事をしてる姿を見せてやることの方が後に残される人間にとっては勉強になるんじゃないかなってこと。
 まあ、本人にはそんな気はさらさらなくて、後継のことなんか気にしておらん、単に若いもんにチャンスを与えているだけだって言うかもしれないけど。
 だったら、そのチャンスが十分に活かせていないみたいなので、やっぱり自分で作ってくださいと私は言いたい。

 久しぶりのジブリ作品だったけど、観た感想は残念としか言いようがなかった。
 監督が駿でない分、それもいたしかたないのかなと思うので、ここはぜひ見逃している「ポニョ」と「ハウル」を観てみたいと思う。実は「ハウル」は昔から気になっていたんだけれど、キムタクが声をやっているというので、どうしても観る気がしないのだが、「アリエッティ」がここまで期待外れだと、過去に見逃した作品に当たりがあったのではと思いたくもなるもの。
 キムタクがやってないブルーレイとか出ないかな。
 ね。


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「インセプション」 [watching]

 面白かった。
 連れは当初からこの映画に関してはいまいちな反応で、観逃しちゃっても良さそうな感じだったのだけれど、映画館を出てきたときに「映画館で見てよかったね」と言ったのは連れの方だった。
 そうだろうとも。

 私としては、「ダークナイト」のあの、執拗に執拗に、練りに練って考え抜かれたプロットに比べちゃうとやはり、細部における完成度がいまいちな感が残ったけど、それでも十分見応えあったし、見どころいっぱいで面白かった。
 連れがあまりに乗り気でないので、とうとう見逃してしまうかと半ばあきらめていたけれど、これを劇場で見れたというだけでも満足のできるものだった。
 それと、日に1回午前中にしか上映がなくなるほど、つか、観に行った次の日にはブルーレイの予約が始まるほど公開から時間が経っちゃってても、プログラムがまだ残っていたということも、作品に満足できた大きな要因であった。
 みなさん、プログラムは映画を見る上には欠かせないアイテムですよ。

 世の中には劇場で観なくてもいい作品と、劇場で観ないと作品本来のダイナミックさを味わえなくて作品の楽しみが半減する作品とがある。
 この作品に限って言えば、劇場で観れなかった人、非常に残念だと思います。
 私もプログラムを読むまでは知らなかったけれど、ノーランはアンチ・デジタル派だから、劇場で観てもデジタル映画独特の画面のチラつきとか、パンした時によく出るパンの速度に画面が追いついてないみたいな、気持ち悪いぼやけとかもなくて、素朴に画面の迫力を味わえた。あきらかにいまいちな3D技術がもてはやされる昨今にしてはめずらしく味わい深さのある作品に仕上がっているのも非常に好感が持てた。つまり、おかしな話だが、3Dでない方が、直観的に映像の迫力を味わえた。この映画を観て改めて思ったけど、真面目に丁寧に作るなら、ヘタに3Dにするよりも、鑑賞者に訴えられるものは多いんじゃないかな。
 私はあんまり3D映画には興味ないな。「トイ・ストーリー3」は観たかったけど、それは別に3Dでなくても観たかったし。

 映画始まってすぐにある男の子が気になった。毎度おなじみの、『私、どっかでこの人観たことあるな』と言う感覚。その顔と細身な体からはちょと想像しないような、デカプリオのそばで、結構堂々とした役回り。その子の顔が映し出されるたびに、『どっかで観たような……』と頭を悩まして、ある時チーン!と符合する。思わず、「この子、ヒース・レジャーにそっくりだよ」と連れに耳打ちした。ほんとにヒース・レジャーにそっくりだ。嘘だと思う人はこちらでご確認ください。彼が熱心に話す様子なんかも見れて面白いですよ↓↓↓。
 hitRECord
 (Googleの検索窓に「hitre」まで入れたら完全一致の候補が出てきた。スゲ……。そんな有名なサイトなんだ……)
 この子は映像や音楽のインディペンデント活動にご執心のようで、その辺りもノーランに気に入られた一因かしらとこのサイトを見て思った。彼のそういう活動が報われるといいなと思う。

 そして気が付けば、脇はノーラン・バットマン・ファミリーが固めてるんじゃないか。渡辺謙もそうだけど、スケアクロウもいて、『スケアクロウ役の俳優(キリアン・マーフィー)気に入ってたんだ…』と思ってびっくりしたし、しまいにゃアルフレッドまで出てきた。アルフレッド(マイケル・ケイン)は「バットマン ビギンズ」以来、ノーランの映画にはずっと使ってるんだって。おお、そう言えば「プレステージ」にも飲んだくれのインチキ師匠役で出てたわ。つーか、そういや「プレステージ」にはバットマンも出てたな。なんじゃい。
 話が逸れたけど、そこへ来てヒース・レジャー似の男の子。本当はヒース・レジャーを使いたかったのかなと思ったけれど、ヒース・レジャーと、ヒース・レジャー似の男の子とでは、纏ってる雰囲気がまるで違う。ヒース・レジャーの顔つき、体つきじゃ、どうしたってあのヒース・レジャー似の男の子が見せる洗練されたエレガントな佇まいは引き出せない。ヒース・レジャー似の男の子には、もともと育ちがいいのかなと思わせるほど品の良さが表面ににじみ出てしまっていた。それがとても好印象で作品自体を引き立てていたと思うので、ヒース・レジャーが生きててもきっとこの子を使っただろうということで連れとは意見が一致した。
 この映画では、ヒース・レジャー似の男の子(ジョセフ=ゴードン・レヴィットって言うんだけど)が一番すてきに見える。レオのカウンターを務めるかなり大きな役どころなのになぜか、終始地に足の着いた演技で、所作に無駄な緊張感がなくて(おかげで怒るシーンでは迫力に欠けたが、元来怒るのが難しい人なのかもしれない)、しなやかな感じなんだよね。でも、その理由はプログラムを読んでちょっと分かった気がする。この子が一番撮影を楽しんでいたんだろうなとインタビューを読んで思った。だから、のびのびと演技が出来たんじゃないだろうか。大した情報量もないプログラムでもあるけれど、一番の見せ場をワクワクして撮影に臨んでる雰囲気を良く伝えていた。その気負わない無邪気さが彼を光らせている一因だったかも。

 そして、この作品を見て、渡辺謙に関してはっきりしたことが一つだけある、

 あんたの代表作は「沈まぬ太陽」だ。

 ハリウッドでナメリカ人が想像する日本人なんかやってないで、「沈まぬ太陽」みたいに自分でやりたいと思った作品をやった方があなたは断然光る。
 まあ、プロとして、頼まれた仕事をそつなくこなせるというのも、ある意味「できる俳優」には必要な技量なのかもしれないけれど、ナメリカ人に渡辺謙の良さを最大限に引き出すのは無理だろう。渡辺謙の次のハードルは、海外での躍進ではなくて、「沈まぬ太陽」を超える作品を作れるかどうかだと思う。
 しかし、改めて振り返ってみると、日本を代表する俳優が役所広司と渡辺謙しかいないってのも(北野武は俳優に入れない)さみしい話だなぁと思った。日本人て基本幼く見えるから、ある程度年齢がいかないと興味を持たれないのかもしれないな。

 キリアン・マーフィー(スケアクロウ)は今まで見た中で一番いい演技をしていたように思う。この人はこの顔のおかげで、今まで私が観たどの映画でもヘンな人の役だったけれど、こんなにフツーにナイーブな青年の役もできるんだなと思って感心したくらいだった。
 アルフレッド(マイケル・ケイン)は「作品にヒューマニティ(人間性)を与える」と言うことで、ノーマンのご贔屓にあずかっているらしい。確かに、彼はノーマンの作品では常に道徳的な立場に置かれているな。

 この映画はレオ様以外の脇が素敵な映画であった。
 一見軟派なイームス役のトム・ハーディは唯一作品のユーモアを担当する役どころであったけれど、いざという時には頼りになって、ユーモアに崩れ過ぎず、良識とのバランスのとれた「良い人」という印象が強く残った。
 あと、観る前はなぜ「ジュノ」の女の子なんか使っているのかと思っていぶかしんでいたけれど、観て納得がいった。アリアドネは学生だから、その純粋さと、優秀であるという聡明さを兼ね備えた「少女」が欲しかったんだね。エレン・ペイジはその肩書きにぴったりだった。スーツ姿が似合わないというところまで学生臭くて見事だった。コブに対する執着心が、本人も気づかないうちの恋心なのか、それとも単純な好奇心なのかはっきりとしないところも(私は後者だと思うけど)アリアドネの純粋性を引き上げるよい演出だったと思う。
 連れはマリオン・コティヤールを「魅力がない」と言って嫌がっていたけれど、私は、神経症を患って死んでしまうような人としては、これくらい痩せぎすしてて、神経質な感じの人の方が説得力があるんじゃないかと思った。
 レオは、スコセッシと仕事して以来、どの映画観ても同じ。もともとそんなに幅のある役者じゃないんだろうけど、本人広げようともしてないし、むしろ狭めてきてるんだと思う。演技は悪くないと思うのに、全体としてはなんだか残念な感じがぬぐえない。

 この映画で最初に気を惹かれた瞬間は、レオなんかが渡辺謙の夢で、建物が大きく揺れて崩れだして、「上の階だな…」って言った時。その脈略のない言葉に、これがすぐ不完全な夢なんだって気が付いた。
 夢が階層になるアイディアは面白かった。実際私も2レイヤーくらいまでは経験がある。でも夢ってあんな風に具体的で実際の物事に即した動きをしないから、あんな風に見えること自体には現実味を感じなかったけれど。
 夢の階層ごとに番人がいるというルールも面白かった。そのおかげでヒース・レジャー似の男の子の見せ場が出来た訳だから。無重力でのファイトシーンをあんなにかっこよく立ちまわってみせるなんて、相当トレーニングしたんだろうなと感心しきりだった。ノーマンはCGすらも嫌う傾向にあるようなので、基本アクションは全てライヴなんだって。てことは早回しとかなしにあの無重力ファイトをやってるんだよ?すごいって。この作品ではあの2回層目の無重力シーンが一番の見せ場だったと思う。そこをあの男の子に任せたんだから、ノーマンも相当あの子に入れ込んでいたということなんじゃないかな。

 しかし、観終わって思ったのは、この稼業ってすごいリスクのある仕事じゃない?寝ないと仕事出来ないんだから、寝てる間に物理的な体の方を殺されちゃったらどうするんだろ。そこんところは論じられていなかったような気がするな。私が忘れてるだけかもしれないけど。一応、現実でも仲間の一人が寝てる仲間を監視している訳だけど、作品の最初に出てくる仕事で現実に戻った後、あっさり仲間が敵に寝返ったことを考えると、起きてる一人が寝てる仲間を殺すことだって考えられるだろうに。危ないよ。

 あと、私の想像を絶したのが、現実の世界を捨てて、夢の中で生きて、そして年を取るという選択をした二人の発想。貧困窟で死を待つばかりの老人たちが夢の中に逃げるのは分かる。あのシーンは、甲殻機動隊(Solid State Society)を見た人ならだれでもニヤリするエピソードだ。しかし、夢も希望もある若い二人が、家庭を持って子供も二人ももうけたのに、そんな現実は追いやっちゃって、夢の中で生きたいって狂人的な発想に飛び付いた発端が分からなくって、それが細部の完成度が甘いと思わされた要因の一つ。コブとモルのドラマが掘り下げられないことには、コブのオブセッションの根幹は見えてこない。この作品の根源的な問題が不明瞭なままで、それが観終わった後の消化不良感につながっているんだともうんだけどね。でも、状況証拠からだけでも、夢の中で生きたいなんて、そんな発想自体が危ないから、モルはコブに言いくるめられて現実に戻ってくる以前から精神を病んでいたんじゃないかと思うのが普通じゃないかな。そもそも、モルの秘密ってなんだったんだかも明言されずじまいだった。観てる間に何度突っ込もうと思ったことか。作品中に3回くらいレオが「モルの秘密」って言うからね。だからなんだよそれ。話が見えねーんだよ。

 私はと言えば、とてもじゃないが夢の中に住もうなんて思えない。夢は怖い場所だ。少なくとも私にとっては。だって、夢が自分の思い通りになったためしなんてないよ。いつだって不条理で、理不尽で、そのくせ異様に生々しくて、十中八九私の見たくないものしか見せない。そんなものが現実味を帯びるなんて、それこそ気が狂っちまうよ。
 私の夢にいろんな人がいろんな形で訪れる。死んだ人や動物でさえ。その訪れる形を私が選べない。それがどれだけ恐ろしいことか。夢の中の私でさえビビってる。死んだはずだという認識が無意識化から湧いてくるからだろう。
 現実に生きている人たちに会うんでも、それが好ましい形ではない時もあるし、なにしろ自分自身夢の中ですることが現実の私には考えられないことだったりする。
 確かに夢は逢いたい人に会わせてくれる時もあるけれど、そういう夢を見る意味を考えると怖くなる。他の夢、自分が朝目が覚めていきなり恐ろしげな感覚に包まれるそう言った類の夢も同じ理由から見るのだとしたら?

 私は、夢を探って宝に出会えるなんてとうてい思えない。
 そこにあるのは無意識化に横たわる人間の本性だ。
 そんなもの誰が見たい?
 そんなもの見ちゃったらきっと正気ではいられないよ。

 そうして、でも、私は今日も眠る訳だけれど。

 最後に、コブが現実に戻れたかどうかという疑問だけれど、連れは戻れたと自信を持って答えていた。コマが倒れそうだったから。確かに物語はコマが不安定な音を立てて終わる。でも、私に引っかかるのは、コブを迎えにアルフレッドが空港へ出向いていたこと。そんなこと、追われる身のコブが言うと思うか?2つ目には再会した子供たちの大きさが、コブの夢の中に比べて小さすぎること。あの年齢の事どもなら日進月歩で成長するだろうから、コブの記憶よりもっと大きくなっていてもいいと思った。それより何より、コブが仕事から目が覚めてすぐにコマを回さなかったこと自体が怪しい。

 それでも、あのコマの倒れそうな不安定な音に希望を託したいと思う。
 コブと、仲間たちと、子供たちのために。
 それが、私の感想。


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「のだめカンタービレ 最終楽章 後編」 [watching]

 前編のが面白かった。

 というのが結論。

 「音楽と向き合う」という言葉が作品中に何度も出てくるし、のだめ自身もそう何度も口にするんだけど、結局のだめがどう「音楽と向き合」ってるのかさっぱり分からなかった。
 というか、のだめのいろいろが分からなかった。
 センパイとコンチェルトで共演することが夢だという割には、ピアノを器用に弾くセンパイの才能に嫉妬し、センパイの出世に嫉妬し、自分よりも先にセンパイと共演する他のアーティストに嫉妬し、センパイとのだめの仲がいいのは音楽を離れている時だけのような気がする。
 のだめは、世界的に一流な大学の、世界的に一流の先生に見染められているにもかかわらず、そのレッスンに身が入らないほど周りの人のキャリアが気になっちゃってしょうがない。いったい、他の人の何がそんなに羨ましいんだろう?自分は既に十分以上のものを与えられていて、そこで出すべき結果を求められているのに、それを差し置いてまでコンクールに執着する焦りの理由が私にはちょっと理解できなかった。
 はたから見てて、のだめで言うところの音楽って、とどのつまり「センパイ」でしかないんじゃないのかなって気がしてならない。のだめが音楽でやりたいことはないの?なにを目指してるの?それが映画観ててまったくわからなかった。そういう根本的なモチベーションが「センパイ」だったとしたら、そんなんではたして音楽が続けられるんだろうか。クラッシック音楽にまったくの素養のない人間が言うのもおこがましいのかもしれないが、「先輩とコンチェルトをやること」とか言ってんのって、馴れ合いなんじゃないの?本当に音楽やって生きてきたいって思ってるの?
 「音楽と私」っていう禅問答があって、それに対する自分なりの姿勢があってこそ、センパイとも向き合えるんじゃないだろうか。のだめの「音楽と私」がサッパリわからなかった。つーか、それがないように見えて、だからこの映画はつまらないんだと思う。
 だって、センパイにどんだけ助けてもらうの、その課題。つーくらい課題手伝ってもらってたじゃない。のだめが精神衰弱に陥ると、センパイやシュトレーゼマンという神の手が必ず差しだされて、どうでもいいが、それじゃオクレール先生はいい面の皮じゃないか。普通、破門じゃないのあの身勝手さは。
 それでいてそんなダメダメなのだめしか見てないのに、センパイの愛はつのる一方。おかしくないの?その心の動かされ方は。その子練習してないよ?センパイ、「いつの間にかあいつとの将来のことでいっぱいになってる」って、そこまでぞっこんになっちゃうきっかけとか過程がまるっきり分からないんですけど。なんか私映画一本見逃した?私こそ、『いつの間にそんなに好きになっちゃってんの???』って感じだよ。センパイの情熱にも付いていけず、つまりこの映画には一切感情移入する隙がなかった。

 そんな体たらくだから、結構最初の方で、のだめは「才能はあるのに根性がない奴なんだな」という結論がふと頭に浮かんでしかしぎくりとした。

 『それって身近な誰かのことなんじゃないの……』

 私も仕事のことはいろいろ助けてもらった。教えてもらったことを並べたらそれだけで切り抜けられたことも山ほどある。教えてもらえれば大抵のことは出来たから、それは私の才能もあったんだろうと思うけど、でも、そのさらにもっと才能のある人に恵まれて、助けてもらわなかったらこんなに出来るようにはならなかったと思う。
 いくつか(も)あった自分の転機を振り返ってみて、私の根性が足りなかったのかなとか、もっと辛抱すればよかったのかなと思うこともあるけど、逆にもっとセーブするべきだったとギリギリまで頑張ってしまったことを後悔したことも何度もある。
 だから私は未だに仕事とのバランスのとり方が下手くそということなんだろう。

 私も人のこと言えない……。
 根性がないことに関しては、本人ももはやどうしようとも思わないほど根性がない。

 けど、私には「音楽と私」がある。
 「センパイ」と戦わせる「音楽」がある。と思う。
 ちょっと間違ってたり、大分偏ってたりするかもしれないけれど、それはそれでいいと思う。私の「音楽」なんだから。
 とにかく、それがなくてどうして「センパイ」と向き合えるだろう。
 もっと「センパイ」という人に近づくために、「センパイ」を理解しようと努力すれば、もっと興味深い付き合いが出来て、より深い絆が出来るんじゃないかと思うんだけど。

 という観点から、私はのだめはセンパイとコンチェルトをやるべきではないと思う。それぞれが自立した「音楽」を目指すべきだと思う。その過程でお互いを高め合うなり、支え合うなりすることの方が意味があるんじゃないかと思う。
 コンチェルトは二人だけのものとしてプライベートでやったら愛もなお深まるんではないのかな。

 後編は何ともまとまりが悪くて、センパイの心境の裏付けも良く分かんなければ、のだめの成長みたいのもよくわかんない。観終わって茫然とした。せっかくクラシックをウリにしてるのに後編はセンパイとのだめの関係に集中しちゃってて、音楽のからませ方が弱かった気がする。もっと映画観てよかったと思えるような名曲を沢山からませてくれた方が私にはうれしかった。
 ストーリーも、恋愛にふわふわしてるどうにも精神的にアマチュアの二人より、その周辺で「音楽」に向き合おうとしている人間たちをもっと掘り下げてくれた方が物語に深みが出たと思う。ターニャがどういう思いでコンクールに挑もうとしているのか、屋根裏の幽霊学生とか他の学生がどう「音楽」と向き合ってるのか、それをのだめが身近に学んで成長出来たら他のキャラの意味も深まって物語としてもっと味が出たんじゃないかと思うんだけど。今回はふわふわした二人以外は、みんな人数合わせみたいな感じの存在感だった。

 まあ、これでのだめも終わるのかと鼻であしらってプログラムを閉じようとしたら、最後のページに「Fin?」て、疑問符が打ってあった。
 まあ、どうでもいいけどね……。
 これで次がもっと大人な関係になって、ドラマ性あふれるストーリーになってたりしててくれたらそれで全て丸く収められる。

 でも、そのプログラムの最後のページの写真、これだけはよかったと思う。

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「劇場版TRICK 霊能力者バトルロイヤル」 [watching]

 私が日本の映画を見ない理由のひとつに、

 「なぜ映画にするのか理解しがたいスケール感」

 というのがあるんだけど、この映画はその最たる例の一つだ。

 なぜ?

 なぜこれを映画にしたい?

 前観てもつまらなかったのに、今回も観に連れてきておいて「つまらないね」という連れ。

 なぜ観たい?

 このつまらなさを観たいからに他ならない。

 理解に苦しむけど、つまりそう言うことなんだろう。というか、そうとしか思えない。

 つまらない映画を見せておいて腑に落ちないのが、私が映画を見ながら突っ込みを入れると必ず連れが私の口を覆う。なんでやねん。そうは思わんのか。
 あんなでかいちん○ん、最初から出しといたら全てが丸く収まったんちゃうのか。
 そして帰り際に「山田に好きだって言ったところであんなに大きいんではうまくいかないな」と言ったらつねられた。だってあんなん山田じゃなくたってうまくいかんだろうが。そうは思わんのか。

 どーでもいいけど、こんだけ人が死んでて軽すぎる。
 終いにゃ、甘えん坊将軍を刺しちゃった男の子がかわいそうになっちゃった。あの子はこのあと絶対に人生を踏み誤るよ。
 つか、村長もそんなかわいそうな男の子に「しっかり罪を償って」って、お前ら全員殺人ほう助だよ。何寝ボケたこと言ってんだよ。
 桜井の肩持つ訳じゃないけど、話の筋ってだけで安易に、しかも無意味に人を殺しすぎだ。
 矢部に至っては絡んで来なくても良かったんじゃないの。
 オチも雑すぎて、中学生の書いた脚本か?と思いたくなる。

 映画の中身がないので、映画で使われた要素だけで反省会を盛り上げるしかない。
 双子が疎まれる風習が一時期あったことはなんとなく他の本なんかで知ってた。一人を家の中、例えば蔵とかに隠して育てたんで、そっからそれら不詳な子供の存在をカモフラージュするために座敷わらしのようなフィクションが生まれたという説も。年がら年中蔵に隠してたんじゃかわいそうだからつって、年に何度かお祭りとか、大勢で集まるイベントのある時に、人出の多さにまぎれて外に出したりするもんだから、いつもの子供の数だけおやつを用意しといたら足りなくなったりする都市(田舎)伝説の背景という説とか。
 連れが、双子はいっぺんに手がかかるから、「口減らしのためであったんじゃないの」とめずらしく冴えたコメントを口にしたものだから、「でも、だったらわざわざ蔵に匿って生かしといたりするのは道理にはずれてない?」って突っ込んだら、「だから裕福な家庭なら」というのを聞いて、なるほどと合点がいってしまった。
 つまり、座敷わらしって悪い霊じゃない。縁起物っていうか、吉兆だと思われているよね。現れたうちに福を呼び込むって。だから、例えば、リッチな家庭、庄屋とか、地主とかに双子が生まれたとする。普段小作人なんかには口減らしさせている手前、自分のとこだけおおっぴらに二人育てる訳にも行かないので、一人を座敷奥や蔵に閉じ込めたとしたら?結構つじつまの合う推測だよね。

 それにしても甘えん坊将軍の立ち位置も中途半端だったなー。なんで火が外側に向かって行ったのかも分からんかったし。あからさまなリング系の要素の盗用も、いかにもやっつけ映画にしか見えなかった。

 こんだけつまらないの見た後も、暫く方がが続く予定。


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「沈まぬ太陽」 [watching]

 ジャッコの「This Is It」も観たいところだったけれど、ツレがこれも面白いとしつこく主張するので、観念して観てみたが、これが3時間22分とは思えないほどよく出来た作品だった。
 ほー。

 プログラムもよく出来ていて感心した。出演者へのインタビューを編集した形になっているけれど、丁寧にまとめられていて、編集した側の出演者に対する敬意みたいのが感じられるくらいだった。編集されすぎてなきゃいいんだけどね。制作側としてはそれくらい気合の入った作品だったのかもしれない。いろいろ揉めたみたいだからね。公開後もうだうだ言ってるみたいだし。それも社内報で。文句言うならちゃんと広報通してコメント出した方がいいと思うけど。映画作られちゃってるんだから。そういう無意味な封鎖的な態度こそが問題視されてるんじゃないの。鈍い奴だな。

 話がずれたけど、その気合みなぎるプログラムを読む限り、この作品のテーマは「矜持」らしい。監督も、三浦友和も渡辺健も同じ言葉をインタビューの中で繰り返している。「矜持」か。私には「信念」に映った。それぞれが正しいと信じていること。それがそれぞれに違う。恩地も行天も突き詰めれば、なそうとしたことは一緒で、理想の実現だと思う。ただその「理想」が恩地と行天でまったく正反対の物だったってことなんだと思う。だけどどっちが正しいのか、たとえ行天が不正にまみれていようと、一概には言えないと私は思う。なぜなら、なぜならば、恩地の豪語する正義もまた、みんなを救ってくれるとは限らないから。現に彼自身の家族が犠牲になる。彼を信じて意を同じにた後輩が破滅する。彼が矜持の名の元に挫かれていったものはきっと彼が想像するよりはるかに多いと思う。
 人が理想を掲げる裏で、偽善は常に存在する。もしも型どおりの正義だけでみんなが公平に扱われて生きていけるなら階級や差別と言った言葉は生まれなかっただろうから。また人間はそういうふうにして自己保存するようになっているんだと思う。公平さが見せかけである限り、世界平和なんてあり得ない。多分本当の意味で人間がそれを勝ち得るには、もっと別の次元に到達しなければ見えてこないことなのかもしれない。

 渡辺健のインタビューを読んで彼の演技が確かに作品に反映されているなと思い当たる節があって、彼の考察とその演技力に感心させられた。恩地って人は自分をコントロールする能力にたけている。例えばさ、些細なことだけど、娘のお見合いの席で、相手の両親の卑しい下心に恩地が気付いて思わず家を飛び出してしまうシーンがあるけど、その後を追っかけて出てきた奥さんに「あのベンチのろころまで行ったら帰るぞ」と宣言して、そこまで行くと備え付けの灰皿で吸いかけのタバコをもみ消して戻ろうとする。それをみてすごい自制心だなと思った。私だったらとてもじゃないけど、そんな短い時間で体制立て直せないと思うし、そもそも家を飛び出してくなんてことしないで、相手を追い出して全てを仕切り直したと思う。どっちかっていうと、この縁談はなかったことにするために。単純に考えると私には恩地みたいな辛抱強さがないってことなんだろうな。理不尽を飲み込んだ上で、活路を見出すみたいな。私ならきっとそれがだめなら別の道を探すってとこだろうな。別の楽な道か。水は低きに流れるじゃない?
 それでも「矜持」を誇示する恩地は現実的にはヒーローではない。才能はあっても不遇の極みに甘んじて身を置いている。当たり前の倫理観や正義を主張した者が企業にどう扱われるか。働かないけど権利だけは主張したい一介の会社員たちにはいい見せしめだ。作品の中心は御巣鷹山での事故だと渡辺健も言っているけれど、私にはそうは感じられなかった。この作品の中心はどこをとっても恩地彼自身だ。ただひたすら恩地の生きざまを、社会とのコミットのし方を描いた作品にしか私には見えなかった。御巣鷹山の一件は彼を通り過ぎた様々な理不尽の、悲劇の、一つでしかない。
 作品の最後で、恩地がお遍路に出た御巣鷹山の犠牲者の父親に書いた手紙が印象的だった。「家族を全て失ったあなたの絶望に比べたら、それまでに自分が囲った不幸などはどれほど些細なことであったか」みたいなことを言って、その年老いた父親を慰めた。普通だったらあり得ない理不尽を飲みこんできた恩地の言う言葉だからこそ響く言葉だと思った。
 しかし、年老いた父親をアフリカまで呼び寄せるならチケットも送ってくれないと困るよね。実際問題として。
 あと、恩地の人間性で私が唯一納得できなかった点はハンティングを趣味にしていたこと。動物をむやみに殺すなんて悪趣味にも程がある。

 三浦友和もこれほど研究してキャラを作るというのは私の想像の範疇にはなかったことなので、素直に感心してしまった。ナントカ京香のキャラ作りが結構適当だなと浅く映ってしまうほどだったよ。
 一番理解できなかったキャラは松雪の。あれは人間の屑なんだと思う。そうであれば納得できる。ろくでもない男との逢瀬のために嘘をついてまで後輩にシフトを代わってもらった結果、事故に遭わせて死なせてしまったという自責の念みたいのが微塵も感じられない松雪の演技には背筋も凍る。さらに身の毛のよだつのは、その後もそのろくでなしの愛人を辞めず、あろうことか死なせた後輩の親に取り入って遺族の個人情報をまんまとせしめ、言われるがままに会計調査に任じられた恩地をスパイし、どういう神経かそのすべてを恩地に吐き出した上で「行天を助けてやって」と言うに至っては私は失神するかと思ったよ。お前こそ助けてもらえよ。何言ってんだ。
 しかし、そんな気違い女の扱いもそつのない恩地に私は改めて感心させられたりもした。はー。恩地スゲー。

 御巣鷹山の一件は私が想像してたより作品中では存在感が薄かった。もっとあの事件が話の中心になるのかと思ったけれど、観てる間ずっとそんな感じは受けずに終わった。
 企業が利益を優先させた結果として人命が犠牲になるといった話はむしろ近年ありがちな企業体質としてよく耳にするくらいだ。JALは映画化にあたり一切協力しなかったらしいけれど、これが事実無根で完全なフィクションだと言うなら、その立場を作品上はっきりさせた上で(してたと思うんだけど)、協力を惜しまないほうが懐の深い企業だと逆にイメージアップになったんじゃないのかな。結局後ろ暗いところが自分たち自身拭えないから協力できなかったんじゃないだろうか。たとえば、遺族と補償の話を進めるにあたってのあこぎなやり口はあれが例えばJALじゃなくたって、そうするだろうってことが容易に想像付く。
 素人考え的にはむしろこれはJALにとってイメージアップになるいい機会でもあったと思うんだよね。それを自らネガティブキャンペーンであると訴えて回ったというふうに映る。のみならず、経営陣は制作側を訴えることも辞さないとかって姿勢だそうで、ただでさえ税金使って会社を再建させてもらってるって言う肩身の狭いこの時にだよ?世論を敵に回すような発言は慎んだらと思うのは私だけ?訴えるのは誰のお金で?つか、そんな余裕はないですよね?と人に思われるとは考えないんだろうか。
 おとなしくしてりゃまだいいものを、なまじ反論するもんだから、フィクションだと言っている原作もあながち嘘ではないと思われても仕方ないと思うよ。
 ちなみに恩地のモデルと言われている小倉貫太郎の1999年の東大駒場祭における講演のログによると殆ど本当にあった話のように受け取れるけどね。
 小倉貫太郎 「私の歩んできた道」
 ログは小倉さんの語り口調をそのままなのかなと思わせるんだけど、だとしたらなかなか好感の持てるおじいさんだなと思った。私の印象では勝海舟に似てる。信念は固いし、熱意もあるんだけど、その実、さばさばとしていて、いい感じに力が抜けてるからなんか掴みどころがないというか。
 この人はもっと国益のために有名になるべきだったなとログを読んで思った。小倉さんは2002年に既に亡くなっているらしいんだけど、本人がこの作品を見たら、渡辺健の演じる自分を見たらなんて思ったかしら。

 
*** エピローグ ***

 今の会社に入って、要求されることの意味とか価値とかがどうしても理解できなくて、どう自分を納得させたらいいなのか分からずに途方に暮れてた時、「とにかく長く会社にいることが大切だと思う」とアドバイスしてくれた人がいた。その時は『そんなこと言われてもなんの助けにもならねーよ』と思って、どういうつもりでこんなに大変な時にそんなのんきなことを言うのかその意図がまったく理解出来なかったけど、この映画を観てたら自然とその言葉を思い出して気が付いた。
 その人も恩地の姿を知っていたからそう言ったんだな。

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