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Whiplash [watching]

エンドロールに切り替わった瞬間、

「見事だ」

という言葉が浮かんだ。

最初から最後まで音がジャズであふれてて、
すごく…かっこよかった……。

ジャズの映画って初めて見たかも。

最初に観たときはラストシーンでは我知らず言葉を失っていた。
映画が終わってもしばらく呆然としちゃったよ。
終わってふと我に返って、ここは立ち上がって拍手するところじゃないか?
と思った。

映画の始まりかたもすごく好きだった。
スネアを叩くテンポがだんだん速くなって最高潮のところから
ニーマンの練習が引き継ぐ。
それでもう私は心を奪われてしまった。
そこへ間髪入れずにフレッチャーが入ってきて雷鳴のように指示が鳴り響き、
息つく間もなくドラムの音だけが響く。
この時点ではまだニーマンがどんな子で、フレッチャーが何者であるか何も
語られないわけだけど、これがドラムの映画であるということを高らかに
宣言していることは誰にでもわかる。

あと、映像の色も私好みだった。
作品全編がジャズの色だった。
ずっとクラブの中みたいな、昼夜の区別がわからない黄緑がかった薄暗い
照明で、それは学院内での練習風景や大会のステージ上にとどまらず、
その色味は普段の生活風景にも使われていた。デート中のカフェや、
ニーマンの親戚んちのダイニングでさえでもその色で世界ができていた。
ほんとのシェイファー学院も朝からあんなクラブの中みたいな明りの中で
やっているんだろうか。
まあ音楽やるのにムードも大事だってのはわかる気がするけど、
私だったら朝9時に学校行って、すぐに夜のクラブみたいな中に放り込ま
れたら、昼夜の区別がつかなくてちょっと気が狂いそうだなと思った。

映画を何度か見た後で調べてみて分かったことに、ハリウッドでは脚本の
ブラックリストっていうのがあるらしい。なるほどね。でもヤバいっつっても、
上映できない方にヤバいんではなく、素晴らしすぎてヤバいリストなんだそう。
”Whiplash”は2012年にリストに載って、14年には上映してるんだから、
目をつけられてからはとんとん拍子だったわけやね。
しかもリスト掲載時の脚本はたった85ページだったそうな。
すごい。
超私好み。
優れた短編大好物。
結局出来上がった作品もなんと96分。ディズニーか。
のうち、9分以上がラストのドラムソロに費やされているらしいから、
いくら短いっていったってジャスが好きでない人には難しいかもな。

私は映画観るときに、先入観があるとしばらく観る気になれないことが
あるんだけど、ほんとはこの作品もそんなタイプの1つだった。
J.K.シモンズは好きな俳優の一人で、サム・ライミの「スパイダーマン」の
早口編集長は私のお気に入りだったから、スパルタ教師役と聞けばなるほど
似合いの役だろうなと思ってたし、内容もスポ根の音楽版と聞こえていたから
なんとなくそれ以上でもそれ以下でもあるまいと想像してた。

まあ、作品を要約すればとその通りだったんだけど、いろんな細部が、
というかおそらくすみずみまでもが、私好みであったことが、映画を見て
久しぶりに感激してしまった理由だと思う。
改めてジャズ好きだなと思った。よく知らんけど。

ある人のレビューで、映画のラストでフレッチャーがニーマンに正確な
演目を伝えていなかったことは額面通りの嫌がらせで、フレッチャーは
単純に生徒いびりの薄っぺらな奴と書いていて驚いた。
私が思うに、そんなに薄っぺらいキャラ設定という理解で、これほど
多くの脚本賞や監督賞や助演男優賞にノミネートされないと思う。

この映画の何度も丁寧にそのテーマをリフレインしている。
たった96分の中で。
とどめにフレッチャーが自らの口ではっきりきっぱりニーマンに語って
聞かせる場面を用意してもらっていてもその程度の理解力かと思うと
純粋に驚きを感じる。
いやはや文章だろうと、映像だろうと、人に思ってることを伝えることの
難しさったら今世紀中になんとかできるとは思えないスケールだよ。

フレッチャーは自ら二度にわたってニーマンに才能とはどうやって
磨かれるものかについて語っている。
それを自分に教えてくれているんだということに気づくまでが命がけ
だったという映画と私は理解している。
ニーマンはフレッチャーのクラスでの初めて授業を受けたときにもう
その教訓を聞いている。個人的に。
二度目は退学になった後、偶然クラブで演奏するフレッチャーを
見つけたときに。
フレッチャーはどちらも同じ話を繰り返し聞かせている。
どうしてチャーリー・パーカーが「バーディー」になり得たかを。
つまり、ニーマンは"Good job"という評価で終わってしまような
プレーヤーではないと、思わず聞いてるほうも歯の浮いてしまう
ようなメッセージを相手の目を見て直接語りかけているわけだが、
レベル19の経験値ではそれは単に解読不能な寓話だった。

フレッチャーはニーマンと再会したバーでこう持論を展開する。
「あそこでドラマーがシンバルを投げずに、”まあお前は頑張ったよ”
と言っていたらバーディーは生まれたか?」と。
しかしみんなの良心を代表するニーマンは少しの間の後こう問いかける、
「でも一線はあるんじゃないですか?あなたはやりすぎて次のバーディーを
つぶしてしまったのでは?」

「いや、本当のバーディーならつぶれはしない」

フレッチャーは迷わずにそう言った。
つまりフレッチャーは、自分はバーディーにシンバルを投げたドラマー
なんだとニーマンの眼前で言っているのだが、19歳のニーマン君には
フレッチャーの言っている「バーディー」が自分のことであるとはJVCの
ステージ袖でメソメソするまではついぞ気が付かなかった。
したがってもちろん、JVCのステージはフレッチャーがニーマンの
ためにお膳立てした舞台だ。

フレッチャーは初めてニーマンのドラムを聞いた時からその才能を
見抜いていた。ショーンを発見したときみたいに。
通りすがりに見かけただけの生徒に全米屈指のジャズ指揮者が
上着を脱いで、自ら拍子をとる。
これの意味するところは?
自らの指示に没頭するニーマンの姿をみて、脱いだ上着を思わず
忘れて退室するほどフレッチャーも我を忘れてたってことだよ。
私ならそう解釈する。
しかし、"Oops-a-daisy!"って「ノッティング・ヒルの恋人」以来だな。

フレッチャーには原石が岩に埋まってる状態で才能を見出せる
天賦の才がある。
つまり、それはフレッチャーにしか見えない才能なので、彼が引き
出してやるしかない。
で、彼の手法はといえば、それこそ他のどんな教師にもできないくらい
「必死」で生徒を「指導」することに他ならないが、その指導方法は
他人の目には生徒いびりにしか見えない。
言ってみればフレッチャーの指導者として生まれるべくして生まれた
類まれなる才能も過酷な運命に晒されているということだ。
やわな生徒のハートを踏みにじるという指導法しか彼にはないのだから。

この映画の批評で、ラストシーンの高潮感のままレビューを書いてる
人が多いと揶揄してる人がいて、この映画のどこのがいいのか
わからないといっている人がいたんだけれど、見たらもうおじいさん
みたいな人なので感度が下がってるのかもなと思った。
ちなみに私は二度目でもあのラストにゾクゾクしたよ。
なんなら三度目観るときにはワクワクしちゃったよ。

私もそうだけど、素直になにかに感動できる能力って年とともに薄れていく。
絶対に。
確実に。
私くらいの年になったらそれを手に取るように実感できるようになる。
年を重ねていくとびっくりすることって減っていくじゃん。
そんで無関心が増えるでしょ?
感動する能力が減ってくのはそういうのの一環だと思う。
きっとそのおじさんの心は、揺れる人の心とかを想像したり、感じるのが
鈍くなるくらい固くなっちゃってるんだろうなと想像した。
魂のきらめきをとらえる鏡が曇るというか。
映画の趣向からして、観てる方に万が一にもジャズに興味がないなんて
ことがあればそれも感受性の鈍る要因になると思う。
私がミュージカル映画苦手みたいなもんで。

前出のおじいちゃん批評家は、ニーマンにはラストのドラムソロができる
だけの環境が当時の彼にはなかったというのだけれど、私はあの才能を
ニーマンはとっくに獲得していて、フレッチャーはもちろんそれを承知の上
だったと思う。だからJVCのフェスに誘った。
ニーマンが命を削って磨いた才能をプロスカウトの目に留まらせる
千載一遇のチャンス。このチャンスを「絶対」に(フレッチャーはabsoluteって
言葉も好き)ものにするためには、それこそ「絶対的な」、渾身の嫌がらせ
が必要とフレッチャーは判断し、それがあの手だったというだわけだ。

おじいちゃん批評家はほかの批評家が映画のラストでフレッチャーと
ニーマンの軋轢が昇華されているという評論を受けて「どの辺で昇華
されているのか」と疑問を呈し、どこまで目が曇っちゃってるんだと
さすがに心配に思ったけれど、ニーマンが舞台袖にすっ飛んできた
お父さんに「さあ帰ろう」と言われてためらった時からそれは始まって
いたんだよ。
あの時初めてニーマンは、フレッチャーの嫌がらせに対する正しい
対応に気づいたんだよ。
フレッチャーのしたいことは、辱めて二度と立ち上がれないようにすること
ではなく、その屈辱から這い上がってきて叩きやがれってことだと。
ここで背を向けたらそれこそ再起不能というところまで追いつめられて
初めてニーマンはあばれはっちゃく並みに「ひらめいた!」んだよ。

ニーマンが呆然とする父親を舞台袖に置き去りにしてステージに戻ってきて
勝手に”CARAVAN”をやり始めて終わるまで二人のやり取りは続いてた。
そりゃ「昇華」なんて表現は、死に損なったニーマンにしてみればあまりにも
きれいごとすぎるかもしれない。
それは戻ってきたニーマンが突然演奏を始めておどろく(という演技の)
フレッチャーに「くそったれ」とかみつくニーマンの心境を察するに余りある
ってもんだ。
だけどそれこそフレッチャーが聞きたいセリフだったと思う。

それにどう贔屓目に考えたって、本当に戻ってきたニーマンを止めたいん
だったら、バンドの指揮者であるフレッチャーにはもちろんそれができた
はすだ。それをしなかったのはなぜか。
だし、ニーマンに復讐したい一心であんな演出をするんだとしたら自分の
キャリアにもリスクが大きすぎる。それを承知で強行したのはなぜか。
決定的なのは、ほかのメンバーはちゃんと”CARAVAN”を演奏する準備
をしてた。フレッチャーが演目としてほかのメンバーに伝えていたからに
他ならない。
本当にニーマンを苦境に追い込みたいならほかのメンバーに”CARAVAN”
の譜面を渡しとく必要すらない。なぜなら控えのドラマーも用意してない中、
一曲目でメインドラマーがいなくなる筋書なんだから。
でしょ?
オッカムの剃刀的に合理的な筋書として考えられるのは、フレッチャーには
必ずニーマンが戻ってくると確信あったということ。
戻ってくるのに多少時間がかかることも考慮して、もしくは期待を裏切って
戻ってこなかった時のことも考えて、もちろんドラムなしの楽曲も用意して
いた。
だからフレッチャーは、JVCのステージを個人的な恨みを晴らすという
ちっちゃな目的のために利用したんじゃなくて、次なる天才を世界に
知らしめるために彼なりの演出をしたんだと考える方が自然だと思う。

こうして辛くも指導者としては問題が多すぎる教師のメッセージは、
口先ばかりのぽかんとしたゆとり青年の胸にきっちりと収まった。
このラストシーンを見てなんもピンと来なかったんなら、その前の
1時間半は見てなかったも同然かもね。


ここからは短くも良質な音楽映画で気付いたその他細かな点について。

まず、ニーマンのお父さん。
最初に観たときから『この人どっかでみたことあるなぁ……』と
思ってたんだけど、二回目観たときに
『そうだ!エイリアン2でエイリアンを持ち帰ろうとした企業の奴だ!!』
と気が付いて、お前どんだけエイリアン見とんねんと思って改めて
自分の映画好きに感心した。
だってこの人エイリアン以外で見た記憶がないのにもかかわらずだよ。

あと、個人的に好きだったシーンが、デートでピザ屋さんに行ったとき。
女の子が「いいお店よね、おいしいし」って話を合わせると、
ニーマンが「ここはBGMもいいんだ」って言うところ。
私だったらそこで惚れるとこだが、ヒロインはホームシックに同情を
示されて惚れていた。
なるほど。
女の子にモテるには理解を示せってやつだね。
でも私はお店のBGMもちゃんと聞いてるなんてすてきだなと思った。
ましてや「これは”When I wake”だよ」とか曲紹介してて私はなんとなく
交換を覚えたんだが、よく考えたらその姿に昔の自分を思い出し、
そう言えば私の時もまったく音楽に興味を示してもらえなかったので、
私の場合はデートの時に自分の音楽の趣味を持ち込むのはよくない
んだなと今になって思う。
ニーマンの部屋にかっこいいポスターが飾ってあって検索してみたら
どうやらあれがチャーリー・パーカーのようだった。
別の誰かの切り抜きっぽいのでかっこいーと思ったのが、
「才能がないならロックをやれ」って見出しのついたやつ。
これまではかっこいいとを「ローック(rock)」と言っていたかれど、
これからは「ジャーズ(jazz)」って言わなあかんかなと思ったよ。


フレッチャーの指導方法は確かに人には理解されないだろうけど、
ニーマンは、いやきっとショーンでさえ、命を懸けて到達した地に
満足してるんじゃないだろうか。
ちなみに、フレッチャーにはモデルがいる。
似たり寄ったりの実在の人物がいるってことだよ。

久しぶりにOSTを買わなきゃと思った映画でした。

whiplash.jpg

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またか [Journal]

でた。
しかも過去記事消える系。
思わず両手に顔をうずめる。
いやはやソネブロって過去10年でよくなったろことってあるんだっけ。

【終了】AFPBB Newsのニュース記事転載
いつもご利用いただきありがとうございます。

「AFPBB Newsのニュース記事の転載」サービスが2016年4月末で終了を予定しております。
詳細はこちら
http://www.afpbb.com/articles/-/3082077

これにより、ブログ転載サービスの一切の機能が使えなくなります。
なお、これまでお客さまがブログへ転載した記事枠部分につきましては、2016年6月29日(水)をもちまして非表示となりますので、あらかじめご了承ください。

急遽の終了で大変申し訳ございませんが、ご了承のほどよろしくお願いいたします。


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お召し [Journal]

「もう1冊」

と思ってた。

エーコが死んだのを18時のBBCの特番で流れるテロップで知った。
もうそろそろそんな時期だろうなとはしばらく前から思っていたけれど、
それでも昨日から通勤に「バウドリーノ」を携えていた私としては、
思わず悲鳴をあげちゃったよ。

一大事だが、日本のテレビはどこもそんなこと話してなかったし、
今年はボウイ以降、かつて浮名を流したおじさんたちがぽつぽつ死んだから
誰か著名人が死んだって話題にはテレビ的には食傷気味なのかも。
ネットの主要ポータルもまだニュース乗せてなかった。
ネットのが反応早いかと思ったけど。

でもソネブロのブログネタは外資系だから、時々日本のニュースでは
取り上げない面白いトピックを見つけるんで、そっちならあるんじゃないかと思ったら
ちゃんとあった。やっぱりね。

書かなくても、90までは生きてほしかった。
生きて彼がノーベル文学賞を受けるとこを見たかった。
村上春樹より前に。

日本では22日に「プラハの墓地」が発売されるけど、
死ぬのはもう1冊書いてからと願ってた。
なんとなく彼の仕事のペース的に、何かしらすでに書いてるんだろうなとは
思ってたんだけど、彼の死を意識してからは、死ぬのは長編をもう1冊
書いてからと願ってた。
長編といっても、エーコにかける期待だから並みのやつじゃない。
「バウドリーノ」や「フーコー」みたいに上下巻に分かれて、併せて買ったら
7~8,000円するやつ。

最後の作品は、それくらい読み応えのあるやつを残してほしかった。
別れの時間が長引くように。

高校2年生の時に「薔薇の名前」を読んで以来の付き合いなので、
彼の作品がもう読めなくなるのかと思うとほんとにさみしい。
高校生の当時は何行かづつ読み進めるのが精一杯で、読めても
何を言っているのさっぱりかわからないから、同じところを何度も
読んで、最後まで読んだけど言ってるとこの3割くらいしか分からなくても、
その時にはすっかり自分が読んだもの、想像のうちに目にしたものの
面白さに魅了されて、「フーコーの振り子」へと進むことになる。

学生の時は、全然ほんとに何言ってるのか分からなかった。
前述の2作品は今読んでも高度に専門的すぎて難しいと思う。
エーコの話してる世界を理解したくて、派生本的なものも何冊か
買ったけれど、それらは今も本棚の肥やしとなっている。
だけど不思議なことに、それらの参考書を読まずとも、ただ年を
とったというだけで、読むたびに、薄皮を剥ぐようにではあるけれど、
以前よりすんなりと自分に話が入っていくのを感じることができる。
ひょっとしたら、80まで生きれば、彼の言ってることを大体理解
できるかもと思ってしまう。

彼は基本的に、というか、性根がアカデミックな人間だから、
彼の作る物語を余すことなく楽しむには、高度に専門的な歴史的、
宗教的、美術的知識が必要とされるんだと思う。
だけど、それを知りたいと思うちょっとの探求心とユーモアを解する
心があれば、彼のドラマの面白さを理解するには十分だとも思う。

私のベスト・オブ・エーコは、「前日島」かな。
初めてエーコの言ってることがすんなりと耳に入ってきて驚いた作品。
社会人になってから刊行されたんだけれども、まだネットが社会に
普及する前だったから、彼の新刊が出ていることにその本屋で目にするまで
知らなかったんだけど、図らずとも私が手にしたそれはなんと初版本だった。

「フーコー」もそうだったけど、「前日島」はラストが一番好き。
締めくくりを物語の中で一番かっこよく、印象的に演出できるなんて、
物語の中で一番輝く部分を、ほんとに最後の最後の瞬間に持ってくるなんて、
読後思わず抜け殻になっちゃうよ。
センスというより、純粋に彼の才能だろうな。

こうして改めて彼の作品を振り返ってみて気が付くことがある。
私、ウェス・アンダーソンの作品が好きで、全部見てるんだけど、
私が好きだなと思うエーコの作品とウェス・アンダーソンの作品の
間には年の離れた師弟愛という共通点がある。
ウェス・アンダーソンの作品では常にそれが物語の土台だ。
で、私が好きな作品、たとえばそれはエーコの作品でなくてもよいのだけど、
ル・グウィンとかコニー・ウィリスでもいいんだけど、
で考えたら、どれもたいてい年老いたメンターのもとで成長する若者の話で、
私は常にその年老いたメンター(そして常に男性である)のほうがお気に入りで、
物語の中で指導者の登場が少なかったり死んだりするとがっかりするくらいだ。
ウェス・アンダーソンはエーコを読んでるだろうか。
エーコの話をどう思っているかな。

明日「プラハの墓地」が届く。
公式な発売日は22日だけど、Amazonはすでに今日ポチっとできた。
彼の最後の作品だからじっくり読みたい。
そしたら「薔薇の名前」にさかのぼって一気読みしよう。

年取って、余裕ができたら(というのはあまり想像できないけど)、
エーコーの監修した美術史の本も読んでみたい。
高いんだよね。
まあ、美術関連の本はなんでもそうだけど。

実は、生まれてこの方、将来どうしたいとか、個人的な夢みたいなのが
まるでイメージが持てなかったんだが、ほんとについ最近、ふと、
将来は毎日好きな本読んで暮らせたらいいなと思いついた。
そんで、読んだものの感想文を書いて過ごしたいなと。
突然そんななことを思いついた矢先に彼を失ってしまうなんて、
なんだか出鼻をくじかれたというか、目標を奪われたような気さえする。

「バウドリーノ」を読む前は、コニー・ウィリスを読んでいて、彼女が死にや
しないかと内心心配してた。彼女ももう若くはなし。
できれば彼女にはオックスフォード・シリーズに決着をつけてか死んでほしい。

「バウドリーノ」のオットーの言葉を借りれば、彼は、
「この世を去る。天に帰るとも言える」。
私は彼が天に召されたと考えたい。

神様が彼を人間に預けておくのをあと数年も我慢することができなかったのだろうと。
でも、エーコは地上から引き離される代わりに、とうとう人類が初めて言語を有する瞬間を、、
牛を見て「ウシ」と呼ばわる瞬間を目にし、言葉と記号に関するすべての謎がついに
彼の前に明らかにされる。
そうして彼は永遠の安らぎを得ることができた。
そう思いたい。
私が願うより早く死んでしまったのだから。
いま生きている私には決して超えることのできない永遠の向こう側に。

「バウドリーノ」のメンター、オットーは続けてこう話す。
「それは主の思し召ししだい。神意を議論すれば、今この瞬間にも雷に打たれかねないので、
わずかに残された時間を有効に使うほうがよかろう」

だから私は、私に残された時間でできるだけじっくりとエーコの作品を読もうと思う。
彼の言葉によく耳を傾けて、できれば死ぬまでにある程度理解したいと思う。
だって彼はずっと私の秘密のメンターだったのだから。


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四半世紀越しの拝謁 [music]

すごいかっこよかった。
厳密にいうと、やっぱりかっこいいと惚れ直す瞬間が時々あって、
『ああ、本当に私はこの人のことが好きなんだな』
と改めて思った。

言いたい文句は山ほどあるが、今宵は20年越しに見た彼の
惚れ直した姿だけを反芻しておくことにする。

私が想像してたよりがっかりするくらいステージ慣れしてて、
日本語が分からなくても、また英語が分かってそうな相手でなくても
お構いしなしにエンターテイナーぶりを発揮する相当立派なステージマンだった。
それが悪いわけではないし、すごくファンサービスにも気遣う人で
彼の温和な人柄がよく伝わってきたけれど、
私の中ではそういう親しみ感は一切ない人だというイメージが20年間もあって、
石のようになっていたそれが打ち砕かれたわけだから、
その衝撃たるや想像してみてほしい。
一言で言うなら

『こういうひ人だったんだー…』

っていう、なぜかちょっとがっかりする方向。
たとえて言うなら、高校生の時に好きだったクールな先輩が、
だいぶいい大人になってから偶然居酒屋で騒いでいるのを見かけて、
別に悪い人じゃないけど、『あ、ほんとはこういう人だったのね』と
知った瞬間のような。

リック・アストリーは当時からあまり情報のない人で、インタビューなんかも
殆ど読んだ記憶がない。
で、謎めいたパーソナリティを、私は彼の曲ざまから補ったんだな。
多分。

まじめな人だと思ってた。
もとい、まじめな人なんじゃないかと思ってた。
冗談が通じないタイプと言うか、ちょっと神経質な感じかと。
実際には180度違うタイプだった。
平たく言って、ひょうきんな人です。
人の笑いを誘うようなことをするタイプからは程遠いと思っていたのだけれど、
実際はまさにそんな人でした。

なんだかんだマンチェスターと比べるので、マンチャスターの出身なのかと思いきや
全然違うところだったので、どおりでベッカムより断然聞きやすいと思った。
なぜマンチェスターを話題に出したのか。

とにかく、クールでまじめで作品には情熱的なアーティストみたいな優等生像が
ポーンとどこかへすっ飛ばされてしまって、なんだか落ち着かないくらいだった。
これ誰なんだろう、みたいな感じで。

だけど、そうやってお構いなしに英語でガンガンしゃべって会場の笑いを誘う合間に
時々見せる本気の姿に何度も胸を打たれた。
ああ、やっぱかっこいいなと。
リック・アストリーにかぎらないけど、私はアーティストが観客を忘れて、
自分の中に入り込んで歌っている姿が好きだ。
歌の中に入り込んでいると言った方がいいのかな。

歌手が、その歌が好きで、その歌を歌うことに情熱を傾けている姿には
独特の美しさみたいなものがあると思う。
他人には入る余地のない、歌と歌い手との真剣なやり取りを目の当たりにして
私は胸を打たれる。

だから、それを公演の中で何度か見られてよかったなと思った。
人となりは私が想像していた繊細で情熱的な王子様みたいなのからは
かけ離れていたかもしれないけれど、歌に向き合ったときの彼の様子は
私が聞いて育ったリック・アストリーに間違いなかったから。
その時の姿を思い返すだけでも胸がいっぱい。
ああいう曲がもっとたくさん聞きたかった。

まあ、あの人となりじゃ、自分がステージを楽しみたいタイプなんだろうけどね。
ほんとに曲のイメージからは想像しない人柄なんだよ。
表紙で本を判断しちゃいけないっていうけどさ、本の中身を読んでもなお
書き手は想像し得ないということだね。
まいいけど。

しかし、今日のセットリスト作ったやつ殺す。

rick.JPG
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【ブログ開設10周年記念】 犬に噛まれる話 [Journal]

今日、人生で初めて四つ葉のクローバーを見つけた。

この時期、犬を連れて行く先々にクローバーが生えている。
最近、四つ葉のクローバーって見つけられないもんかなと思って
眺めていても見当たらないので、
やっぱりなかなか見つからないもんかなと思っていたのだが、
今日ふと足元を見たら最初に目に留まったクローバーが四つ葉だった。

なんてラッキー。

それもすごいでかいやつだ。
まあでかいからふと見て見つかったんだけど。
そのあと妹も一緒になって探して、結局7つ摘んで帰った。
ラッキーセブン。

で、そのあと犬におしっこさせようと思って行った公園で
よその犬に右手を三回咬まれた。
血は出なかったが、半日経った今でも痛くて手に力が入らない。
人を咬んだ犬を怒るよりも、怒ってる犬をなだめようとする
ドッグリテラシーの低い飼い主で、
咬まれたのは私なのになぜか彼女の方が涙目になっていた。
しっかりしてくれよ。泣くまえにすることがあるだろ。
犬を怒れないなら飼わないことだよ。
だいたい気の立ってる犬に飼い主本人がびくついちゃってるし。

よその犬に噛まれたのは初めてだ。
しかも何度も噛まれるというのは生まれて初めてだ。
そもそも自分の犬にも噛まれたことは、今の子と、
その前の子で1度ずつしかない。
自分ちの犬に噛まれるのはいい。
人を噛んじゃいけないという教訓になるし、
実際それ以降二匹とも二度と人を噛んでない。
しかしよその犬を、その飼い主の目の前で締め上げて
降参するまでグーで殴りつけるとかできないし。

最初に噛みつかれた時は、びっくりした気持ちしかなくて、
痛みが分かんなかった。

『え?噛みつかれた?』

と思っているうちに二度噛まれ、
三度目に噛みつかれたときは犬の顔が私の手から離れないのを見て、

『え、なんで私の手に噛みついてるの?』

と思った所でようやく、『私、犬に噛まれてるんだ』と理解した。
痛みはそのあとやってきた。頭に。
犬にて噛まれると頭が痛くなるのね。
びっくりした。

書いて説明すると長いけど、実際には一瞬の出来事で避けられなかった。
あえて文字で表現するなら、

「ガブガブガブーーーーーッ」

って感じ。
そのよその犬は離れてもまだ怒ってた。
いったい何に?

だが私にはなんでその犬が噛みついたのか大体見当が付く。
その犬はいつもうちの犬にに吠え立てるので、
臭いで私が飼い主だって分かったんだと思う。

しかし、その小さな悪魔は私のところに笑いながら近づいて来たのでした。
しかも私のとこに来る前は、別の犬友のおじさんの手から
おやつをもらっていたんだから、その人馴れした様子の直後に、
まさか噛みつかれるなんてことは微塵も疑わなかった。

おじさんの手からジャーキーをもらったその犬は、
食べ終わると私の顔を見上げながらツツツと寄ってきて、
私の臭いを嗅ぎたいのかなと思ったので、
ペットボトルのキャップを握った右手の甲を差し出したら、
豹変した瞬間を視認できないほどの素早さで噛みつかれた。

「挨拶をしようとしている風体からの噛みつき」
みたいな豹変ぶりが柴犬にありがちなのは分かっているつもりだったけれど、
「飼い主以外のおじさんの手からおやつをもらう人懐っこそうな姿からの噛みつき」
はよもや私の想像力の範疇ではなかったよ。
あの犬種はほんとによくわかんねーな。

でもね、犬が悪いとは思わない。
犬は咬むもんだし、犬は人との接し方は飼い主からしか教われないから。
だからその分飼い主の責任が重いと言うことには、
全く異議の無い所なんだけど、
実際に人噛んで処刑される過酷な運命にあるのは
犬の方であることを考えると
世の中の不条理にいつも胸が痛む。

賢い犬なら自信が無ければ、
うちの犬みたいに自ら接触を避けるのだけれど、
時々彼の嫌がるのを無理して触ろうとする愚かな人間もいる。
さらに言えば、それで噛まれたとしても、そういうタイプの人は、
その愚かさゆえに噛まれた理由が自分にあるとは気が付かない。
そして、シーザーの番組を見ている人なら誰でも知っているように、
自信のない飼い主ほど犬の群れを守る本能を高めるので
犬は強気になる傾向がある。

私を咬んだ犬はまさにそのパターンだろうと思う。
私を咬んだ後、周りにいた別の飼い主たちとその犬たちが
ドン引きした空気を作り出したので、
噛んだ犬の方はそれを感じ取ってる風だったけど、

「今まで人を咬んだことなんかないのに!どうして噛んだの??」

と言いながら飼い主がついさっき人の手を噛んだ犬の頭を撫ではじめたので
(たぶん犬の気をなだめるつもりだったのだろうけど)
周りのみんなの協力は全て水の泡になっただろうと思う。

これまでの私の噛まれ経験と、ムツゴロウの見識からすると、
動物は人に悪いことをしたと思うとその人と距離を置いたり、
目を合わせないようにする。
私を咬んだ直後はしばらく主人にさえ唸っていたけど、
みんなのドン引きした空気を察知した後は、
私を目を合わそうとしなかったので、

『何かがまずいことをした?』

と言うようなことは薄々感じていたのではないかと思う。

一晩私に預けてくれたらもう少しましな犬にしてやるところだけど、
それ以上に肝心なのは飼い主が認識を改めて
犬への態度を変えることなので、
私がその犬を躾けても私に対して咬まなくなるだけで、
気弱な飼い主に連れられてればきっとまた同じことが起きる。

で、ショックのさなかにあった私の耳には届かなかったのだけれど、
私が咬まれた時、一番離れたところにいたうちの犬は
一応加勢のつもりか、その犬に吠えていたらしい。
それを聞いて、今回一番賢く立ち回ったのはおまえかと思った。

君主危うきに近寄らず。

いつもそいつに吠えられているうちの犬なら見抜けたことだったかもしれない。
あの笑顔が仮面だって。
もーー、改行のキーを押すのもいてえっつーの。

しかし、噛まれてすぐにその場を立ち去るのは噛んだ犬によくないと思い、
ちょっとヒステリー気味になってる飼い主を無視して
私はその場にとどまり続けたが、
私が犬に話しかけたり覗き込んだりするたびに飼い主が動揺する姿に、
なんだかこっちが悪いことしてるみたいな気がしてきちゃって、
妹が傷を心配してることもあるから、
手を洗って(既に青たんになって腫れ上がっていた)帰ろうとしたら、
飼い主が濡れた手を拭けとウェットティッシュをくれた。

なんだかなー。
そんなことよりギリで穴の開いてない噛み跡を見て、私の頭によぎったのは、

『狂犬病の注射受けてますか?』

ってことだったけど、
涙目で私に謝ることしかできない飼い主にそんなこと聞けなかった。
人に噛みついてあんなに取り乱す主人に飼われている犬も災難っちゃー災難なんだが。

しかしその後、なぜか家に帰って来てからうちの犬がふさぎ込んでしまって、
そう言や車の中でもおとなしかったなと思ったらお兄ちゃんが、
「お前を助けられなかったからじゃない?」
と言うのを聞いてギクリとした。
マジか。

確かに車の中で、

「なーんで助けてくれないんだよーー」

とかさんざんからかっちゃった。
うちの犬、気が優しいのはいいんだけど、メンタル弱くて泣けてくる。
ほんとその辺は妹に似てるな。

まあでも咬まれたのがうちの犬でなくて良かった。
私、目の前でうちの犬が噛まれたりしたら相手の犬本気で殴っちゃうもん。
手加減とか無理だと思う。相手が本気できてんのに。

まあ、あの中で誰が咬まれときゃ一番問題が無かったかと言えば
それは私なんだろうからそれはいいけど、
私がもっと賢きゃ噛まれること自体を避けられたんじゃないかと思うと
さすがにそれは落ち込む。
そしたらうちの犬をしょんぼりさせることもなかったんだ。

まあ、そもそも悪いことをしたのは私では無い訳だが、
降りかかった火の粉を振り払う知恵があるかないかというのも
サバイバルには重要な要素だよね。

でも、そういうスマートな生き方は私にはもっとも縁遠いからなー。
その辺はもう天性の勘というか才能みたいな気がする。
私、そういう才能ないしな。
自分で言うのもなんだけど噛まれる人生の方が似合ってる気がする。
自分が傷ついて他の人を守れるなら最低限オッケーみたいな。

噛んだ犬と別れた後、公園の中を歩いてたら妹に

「四つ葉のクローバー、あんなに摘んだのにね」

と言われてグーの音も出なかった……。
たしかに……。

私の不運は四つ葉のクローバーの希少性が束になっても敵わない程の凶悪さを兼ね備えている。

私が一番最初に見つけた一番大きいのを押し花にしてツレにプレゼントしようと思ったけどやめておく……。
犬に噛まれるかもしれん……。

まあとにかく噛まれたのが私でよかった。
もっと悪いことにはならなかったんだから。

願わくは一匹でも多くの犬たちが健康で幸せに生きられますように。

いや、でも、すげー痛いけどね。

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「世界にひとつのプレイブック」 [watching]

*** プロローグ ***

 「世界にひとつのプレイブック」の原題てなんだろうと思って調べてみたら、”silver linings playbook”だった。Playbookはなんとなく分かる。スポーツやるときのマニュアルみたいのだろと思ったら、詳しくはアメフトの監督が持ってるノートのことだって。今日の対戦相手にどんな手を使うか書いとくもんだって。しかし、silver liningの方はこりゃなんか意味があるなと思ってさらにググってみると、ことわざのことだった。正しくは” every cloud has a silver lining”で、直訳すると、「どんな雲にも銀色の裏地がある」となる。“lining”って裏地、ライナーのこと。よくコートに取り外しできるライナーがいてたりするじゃん?あれ。だからライナーノーツっていうのは裏書きのこと。ジャケットの裏(中)に入ってるから。
 話をタイトルに戻すと、つまり、
 「地上から見れば黒い雲に覆われていてもしれないけど、その黒い雲の上(裏)は必ず銀色に輝いている」
 という様子のことをさしており、転じて辞書に曰く、「希望の兆し」を意味する。
 「止まない雨はない」という慣用句に似てるね。
 映画のタイトルからだけでもなかなかためになる作品でいちいち小賢しい感じだ。

 ともあれ、ということは、原題の意図するとことは「希望のためのプレイブック(戦術本)」ということになる。これはむしろ誰にでも向けられた励ましのメッセージと捉えるのが自然だと思うので、逆になんで「世界にひとつの」なんて限定的な邦題にしたのかが気になった。

 ちなみに、映画を見た人のブログで、作品中に何度も「silver lining」って言葉が出てくると言っていたのだけど、私は一度も聞こえなかった。ムムム。

***


 「プレイブック」は当時のアカデミー賞部門の全演技部門にノミネートされた作品だったらしいが、受賞したのは主演女優賞だけだったそうな。
どっちもすごい話だね。

 Wikipe見て驚いたんだけど、この映画はコメディドラマに分類されている。
 おそらくそれがオスカーを逃した最大要因ではないかと思った。オスカーってコメディ映画には厳しいから。しかし、この映画がコメディとは私は全然思わなかった。確かに笑える部分はたくさんあったけど、私の中ではコメディ映画って「オースティン・パワーズ」とか「Mr.ビーン」みたいにもっと荒唐無稽な笑いを取りに行くものコメディと思っているので、ちょっと話が面白いだけでコメディとされるのに驚いた。
 それとも、本当はもっと細かく分類されているのかな。コメディと、コメディ・ドラマとドラマみたいに。
 あり得るな。
 日立のアメリカにある販社のサービスメニューでBasic(基本)とStandard(標準)というサービスがあって私はすごく混乱した。基本と標準を使い分けてる例を初めて見たので。
 分かりやすく言うと、標準以下の提供物があるのかという驚き。その細かさがエグイなーと思った。
 それともストレージの分野では一般的なのか。

 話がずれたけど、この映画が面白いと思うのは、脚本以上に俳優たちの演技。
 特に、ヒロインのジェニファー・ローレンスにはびっくりした。こんな立派な演技ができるのかと思って。彼女の採用に当たっては他のスタッフや俳優陣たちの中で不安の声があったことは事前にNewsweekで読んで知ってた。私も彼女はすごく初心な子の印象だったので、いったいどんな演技が出来て賞をもら足んだろうと不思議だったけど、一目見てこりゃすげえと思った。ちゃんとできてる。
 Newsweekでもヒロインのティファニーはすごく複雑な役だというこを言っていたけれど、実際観てみて本当にそうだなと思った。パットに比べてステファニー自身のバックグラウンドが掘り下げられることがなかったのは残念なことなんだけど、彼女は一見してやさぐれていて、口が悪く、情緒不安定でセックス依存症だ。
 しかし、彼女とちょっと話せばわかることだけど、真の彼女はすごく頭がいい。口先だけで男のキンタマを潰す力強さを持つ一方で、ユーモアのセンスがあり、人を思いやる優しさもあって、そして何より、普通に恋する寂しい女の子だった。それってアカデミー賞の授賞式での天然ぶりや、「ハンガー・ゲーム」で見るような幼さからは到底想像もつかないような姿だった。
 ただ、私は知らなかったけど、「ハンガー・ゲーム」以前はもともと評判の高い子だったらしい。「あの日、欲望の大地で」という映画では、監督に「メリル・ストリープの再来か」とまで言わしめたらしいよ。
 ちなみに私は「プレイブック」を観て調べるまで、この「あの日~」っていう映画を知らなかったけど(日本未公開なのか?)、シャーリーズ・セロンとかキム・ベイシンガーとか豪華女優陣出ているらしいので見てみたいなと思う。

 あと全く期待していなかった主人公の演技もよかった。
 だってこの人、「特攻野郎 Aチーム」の優男(やさおとこ)だよ。他にとりえのない人だよ。どうせイケメンて言うだけで採用されたんだろと思ったけど、開けてみたらこっちもすごかった。
 ワーオ、演技がすごい冴えてる。キレキレやん。どうしたの。「特攻野郎 Aチーム」から想像だにしない域だった。いったいどうやってここまでパフォーマンスを持ち上げて来たんだろうと観てる間中感心しきりだった。
 もしくは最初からその才能は備わっていたけれど、あのお面が災いしているのかな。そうだったらかわいそう。自分の演技力を発揮できる作品を選ばないと。

 この作品のストーリーで一番心が痛んだのは、ステファニーもかなり激しい経歴だけど、まあ彼女の寂しさは理解できるからまだいいとして、主人公のパット(主人公のお父さんの名前もパット)に起きた不幸だった。
 絶えられないよ。そりゃ頭おかしくなるよ。もともと躁鬱の毛があったことが災いしただけで、パットでなくても同じことをしたんじゃないのかな。心を病んでるパットの方が一方的に悪者にされる世間の無言の合意に、人々の中に既成概念としてある差別の意識をとても恐ろしく感じた。
 確かにパットはデブだった。確かにパットはことが起きる前から情緒が不安定だった。だけど、夫婦の共通の職場で同僚と不倫をして、あまつさえ配偶者の留守中に相手を自宅に招き入れ、玄関から風呂場まで服を脱ぎ散らかし、よりによって結婚式のテーマソングをかけながら不倫相手とシャワーの中で絡み合っているところを見つかったのは奥さんの方だ。
 誰が悪いの?
 ていうか、この話を聞いて誰の心がより病んでると思う?
 明らかにパットではないよね。私はそう確信する。もしくは100歩譲ってみんなパットと同程度に頭がおかしい。
 しかしその結果8か月間拘束されたのはパットだった。なぜなら、自分ちの風呂場で自分の妻の裸を舐め回してる素っ裸の同僚を死ぬほど暴行したから。ちなみに、死ぬほど暴行されたパットの同僚は、パットの妻の股ぐらから顔を上げて立ち上がるなりパットに向かって一言、「失せろ!」と罵りの言葉を投げた。
 だれの頭が一番おかしいのかな。

 以来、パットの頭の中にはその時の勘弁しろ級の映像がこびりついて離れない。日々の雑事に追われている中でも、なんの前触れもなくあの光景が発作的に彼を襲う。誰がこんな拷問に耐えられるだろうか。本来ならハッピーであるはずの思い出の曲を聴く度に、否応なく悪夢が蘇ってくる。一人でシャワーを浴びているはずの妻の股間から顔を上げる同僚の男を。
 大の男がピーピー泣き叫んでその悪夢から逃げ惑う。でも自分の頭の中から逃げられるわけがない。私には、よくこの状態で病院が放免したなと言う感じだった。容赦なくフラッシュバックする非情な光景に私も思わず心を患いそうだった。
 そもそも客観的に見れば、パットの言っていることは大概の場面において正気とされている人々よりも正しい。そのコントラストが皮肉だなと思って見ていた。
 彼の診察日に、診療所のロビーでウェディングソングを流すべきじゃないし、「私にはコントロールできない」という受付嬢の対応は間違っている。仮にパットに接近禁止命令が出ているのだとしても、それを破って昔の職場に立ち寄ってしまった彼に、奥さんがいるかどうかは言えないけど、不倫相手なら今いるわと伝えるのは甚だ間違っている。
 みんな彼が死ぬほど暴力をふるったことがあるという過去の過失と、その場のテンションの高さに恐ろしさを感じているようだったけど、それさえ無視してしまえば彼の言っていることに誤りを見出す方が難しい。そういう場面の一つ一つに彼の過失が偏見を持って広まってしまっていることを如実に表していたと思う。パットにとってはまさに生き地獄だ。幸いなのは、彼は大体1日中パニックを起こしていてそういうソーシャルな自分の立場や人の視線が気になってないってこと。
 職場の同僚の奥さんとのえげつない不倫現場をその夫に現行犯で抑えられた男をクビにしない学校なんて、学校と名乗るのもはばかられると思うし、その一面からだけでも、病んでいるのはパットではなく社会の方だなと思わせられる。

 パットのカウンセラーとか、先の受付嬢の対応も実際にはちょっとありえないなと思うけど、まあパットの苦しみを浮き彫りにするための演出なんだろうと理解する。情緒不安定な人たちしか来ない診療所の受付係があんな態度ではパットでなくても日に何人かは暴れることになると思う。そしてカウンセラーの先生も先生で、荒療治に過ぎる。あれでは命がいくつあっても足りない。この先生も相当おかしいなと確信したのは、その後、パットが友達の家に夕食に呼ばれたんで行こうと思うけど、フォーマルな格好よりも自分はイーグルスのジャージを着て行きたいと相談したとき。そのパッと見、ユダヤ人かスコットランド人かと言うようなカウンセラーはすかさず、
 「だれ(どの選手)のジャージだ」
 と聞き返し、パットがファンの選手の名を告げると、
 「最高の選手だ」
 と言って診察質のドアを閉ざす。
 いやいやいや。気持ちは分かるけど、招待されたディナーなんだからも少しフォーマルな方が相応しいんじゃないとかアドバイスすべきなのでは。このカウンセラーはその後、パットの父親もかくやと言う程のイーグルス狂であることが判明するが、それはもう既に驚くに値しない。

 パットの父親もパットと言うが、既に家族の生活を破たんさせるほどのギャンブル中毒なのを自他ともに認めていながら、誰も彼を病院に入れようとは思わない。私だったらそうアドバイスするし、自分の父親だったら絶対に病院に入れる。ギャンブルのかたに取られた店をギャンブルで取り戻そうなんて誰か止めるだろ。取られる前に。
 アメフトは大嫌いだというステファニーだったが、物語のハイライトで滔々とイーグルスの対戦成績を口述してパットの父親を圧倒する場面は、おそらく彼女もまた父親のギャンブルで苦労した家族のうちの一人ではあるが、スポーツ自体は愛しているのだろうという背景を想像させるエピソードだった。

 パットの兄の愛情表現は倒錯していて、もはや両親にすら理解不能だが、弟にだけは分かっていて、久しぶりの再会では傍から聞いてたら散々嫌味を言われているだけにしか聞こえないのに、実はそれが兄の愛情の裏返しで、大いなるアイロニーであること弟は承知していて、「それでも愛しているよ」とパットが言うと、二人して熱い抱擁を交わすのだった。ことここにいたると観ている方がどうにかなりそうになってくる。

 ディベロッパーの職に就くパットの親友は、自ら既に心がおかしいことを認めている賢明な人間のうちの一人だが、x-dayはそう遠くないと想像させる。彼は強権的な妻とバブリーな仕事のストレスに日夜さらされ、表向き温厚そうな人柄とは裏腹にその精神はギリギリのところで保たれている危うさを彼は親友に隠さない。しかしそのせいか、パットのあしらいが一番うまいのも彼だった。

 親友の妻はこの映画の中で最も健全な人間に近い位置に置かれている、それでいて最もたちの悪いタイプの人間だ。個人的には、こういう人間こそが一番悪質だし、一番よくいる勘違いしたタイプと思った。分かりやすく言うと、思いやりのない人間。思いやりがないからデリカシーもないし、ないないづくしでそもそも心が狭い。心が狭いから自分のことしか考えない。自分のことしか考えないから、他人も自分と同じように考えるはずだと思い込んでるその姿は、非常に愚かしいが、その愚かしい女性をジュリア・スタイルズは見事に演じきっている。そのキャラクターの人物像を本当にボトムまで理解している演技だなと思った。すごい。彼女も子役上がりの女優さんだけど、この作品を見て貫禄ついたなーと思った。それを裏付けるだけの演技力だったと思う。そして、ジェニファー・ローレンスとジュリア・スタイルズは姉妹役には感嘆するほどぴったりだった。ほんと、二重三重の意味でジェニファー・ローレンスにしてよかったじゃんと思った。

 おかしかったのは、パットの入院中に友達になったという黒人をクリス・タッカーがやってたんだけど、ちょっと出とは思えないほど超小気味いい演技をしている。あまりに太っていてあまりに唐突に表れたので、最初見た時は自信がなかったけれど、後で調べて彼の名前を見てああやっぱりそうだったんだと思った。クリス・タッカーの本領からは大分抑えた演技と言うべきなんだろうけど、彼と言うかキャラクター独特なリズムが既に絶好調で、役の潔癖症な部分をよく浮かしていたと思う。なんか理解不能なことを喋りまくって危なっかしいことこの上ないけど、それでいてこの映画で最もハッピーに見えるキャラクターだ。それぞれに問題を抱えながらも、「普通」の人の中に混じって生活を成り立たせられている人の一人だと思わせる。まあ、ちゃんと脚本がそうなっているということなんだろうけど。

 そして、パットの家に出入りするお巡りさん。このお巡りさんをやってる俳優は、私がデカプリオの「ロミジュリ」を見た時からの贔屓だ。さっき名前を調べてみて分かったんだけど、私彼の出てる映画は大概見てた。たまたまだけど、贔屓にしているので見れててよかったと思った。そして彼にはトゥレット障害というハンディがあることを知った。なんだろうと思ったら、チックとか、吃音とかの症状が出る病気みたい。意外だったのは、中には悪態をつくのも症状のうちの一つみたいで、汚言症と言うらしい。そんな病気ってあるんだと思って驚いた。まさかアルツハイマーとか脳腫瘍でも患ってるんでない限り、口汚いのが病気のせいだとは思わないよねと思って。Wikipe曰く、「未治療の場合、患者にとって社会的な不利益を生ずることが多い」だって。そりゃそうだろうね。これって軽快することはあっても治るってことはないのかね。
 役に話しを戻すと、このお巡りさんは職業柄、彼は正しい人で、常に正しい側についているという社会通念に守られているけれど、ティファニーを目にするや否やパットの前でデートに誘う。いかに職業が社会的モラルの象徴であっても、その中身の人間は心に問題を抱える多くの人々の一人にすぎないことを自ら露呈する。
 本当に問題があるのは誰の心だろう?
 これはそういうことを考えさせてくれる映画だと思う。

 最後にステファニー。前にも言ったが、彼女のキャラクターが彼女の口からしか語られないのは返す返すも残念だった。映画観たで調べて分かったけど、当初はアン・ハサウェイがキャスティングされていたんだってね。危ない危ない。彼女がやってたら話が最後まで見れないほど重くなってたよ。それにアン・ハサウェイは既にこの手の映画に出すぎてる。新鮮味がない上に、どんな演技か、どんな作品か簡単に想像ついちゃう。結局、アン・ハサウェイは「ダーク・ナイト ライジング」の撮影とかぶったんで降板したんだそうだが、バットマンを選んだ彼女の判断は正しかったと思う。恐らく彼女自身もうやんない方がいいと思ったんじゃないだろうか。
 前にも書いたけど、ジェニファー・ローレンスは「ハンガー・ゲーム」の幼さからは想像できないほど、すれっからしな演技が板についてて驚いた。育ちのよさそうなウサギっていうイメージだったから。彼女は人知れず人物観察とかして勉強してたんだろうなと想像した。ただ、賢い女性ならパーティーで乳首を隠すのがやっとみたいな服を着るのはいい加減やめた方がいいと思う。
 ステファニーは和解せぬまま夫に先立たれて心のささくれだった、ひねくれた不良だけど、本当は人の痛みのわかる思いやりにあふれた女性だ。なぜパットが何度もその優しさに救われているくせに、この女性の素晴らしさに気が付かないのか不思議なくらいだった。印象深いのは、パットがハロウィンの映画館の前で仮想した集団に囲まれてパニックを起こした時、ステファニーにはパットがそれと言わなくても彼の様子を見ただけでそれを察する。不倫の現場を思い出させるウェディングソングが頭の中で鳴り響く中、ティファニーがきっぱりと言う。
 ”It's just music. Don't make it a monster.”
 その声に励まされてパットはだんだんと正気を取り戻していく。
 パットはステファニーの素晴らしさが見抜けないにぶちんなので、ステファニーが仕込んだ手紙を本当に奥さんからだと思い込むが、私はそれがタイプしたものであるのを見た瞬間に偽物だなと思ったよ。
 パットは、本質的なところを表現すれば、疑う心を持たない純粋な人ということなんだが、個人的な深い考察を省くと、単純に「おめでたい人」でか片付けられてしまうタイプの人間だ。
 ステファニーにはパットに会った瞬間に運命の人だと見抜く賢さがあったけど、パットはマヌケなので、ステファニーの努力や周りの人の支えという遠回りをしてようやく自分が本当に求めている人が分かるようになる。

 これはパットが自分の妻の不倫の現場を押さえるという悪夢とその呪縛から自らを解き放つまでを描いた物語だ。だからステファニー個人はそんなに掘り下げられていないのだけれど、セックス依存症って男性よりも女性の方がつらいだろうなと想像する。男は吐き出しちゃえばいいけど、女性はその吐き出したのを受け止める方だから。好きでもない人を受け入れるってどんな気分だろうと思うと果てしなくゾッとする。終わった後でどれだけ自己嫌悪に陥るだろう。よく自殺しなかったなと想像する程だよ。ステファニーはなぜか自分の経歴を知っているパットに自分の依存症を咎められても、「それはもう終わったの」とあまりにもさっぱりと言うけれど、それまでの道のりがどんなものだったろうかということは、同性としては想像もできないくらいだ。
 でも、それだけ自己完結しててきっちりさっぱり立ち直ったステファニーが四の五のごねるパットを選ぶのは、ひょっとしてダメンズに惹かれる傾向が?と、ちょっとステファニーの前途を案じたけど、でも、パットはああ見えて個人的なこと以外にはしっかりし過ぎているほどしっかりいてるから、物を考える時の距離の取り方を学べばきっとうまくいくと思う。パットはちょっと自分も含めて周りを見失いやすいだけ。前述のお巡りさんの前で、まだよく知りもしないしてファニーのことを1ミリの疑いもなく擁護する姿はちょっと見直したもん。ああいう人少ないと思う。

 私はこの映画のロマンスの描き方すごく好きだった。特にパットとステファニーのベッドシーンがなかったことにとても好感が持てた。そしてその創意こそが、あの不倫現場の忌まわしさ浮きだたせているのだと思う。
 パットに拒絶され続けてもあきらめないステファニーのしつこさもよかった。ひたむきと言うより、熱意を感じる。
 なんというか、つまり、ちょっと強引だけど、真剣さを感じた。今の人はそれをストーキングと言うのだろうけど。
 そして、ラストシーンでは、普通の映画だったら告白したパットの首にすぐさま飛び付きそうだけど、ステファニーくらいになると真剣だからプロセスが違う。まず、泣きべそかきながらパットの告白を復唱する。
 「そう、あなたは私のこと愛してるの。ならいいわ」
 と確認してからキスをする。まじめなステファニーの性格が出ているなと思ってすごく好感のもてるシーンだった。

 観てて思ったことが、こんなに情緒の不安定な人々の行動をつぶさに表現できているなんて、家族とか自身に経験のある人なんだろうかと言うことだった。経験のある人ならわかるけど、この作品に出てくる人たちは本当によく描けている。私自身はカウンセラーのお世話になったことはないけど、身近にそういう人がいるからそういう障害のある人との生活がどんなものかと言うことを多少なりとも知っている。そういう視点から見てもこの作品の人物描写は驚嘆に値する。本当によく描けている。誇張でなくて素直によく再現できていると思う。思わず吹き出してしまうようなあの滑稽さは私にはむしろ真実だ。
 パットが投薬を嫌がって家族ともめるシーンは「精神疾患あるある」のうちの一つだと思う。患者は家族や同居人がいるのなら、彼らの前で薬を飲むのがまずはルールでありマナーだと思うけど、個人的には自分に合わない、もしくは使用感が不快だと思うものを我慢して続ける必要もないと思う。新しい精神疾患の病名が増え続けている昨今、代わりになる薬なんてジェネリックになっていようといまいとゴマンとはるはずだ。
 治療や薬に不満があるなら悩まず医師と相談するべきだ。代えれるものならばさっさと代えたらいいと思う。そんなのは精神疾患にかかわらないと思う。私だって自分に合うピルに出会うまでに3~4種類試した。めまいがするとか、異様にむくむとか、眠くなるとか、思考が曇って仕事に支障が出るなんて薬を常用させるなんてもってのほかだし、どうしてもその必要があるならそもそも退院させるべきじゃないだろうと考える。
 カウンセリングや薬にまつわる患者と家族の葛藤や試行錯誤は、実際にその経験のある人でないと分からない空気があると思う。

 だから不思議だったのは、そういう経験がなくてこの作品を面白いと思える人がそんなに多くいたなんて逆に意外だ。だって、経験のない人には理解しがたい日常だと思う。彼らの嵐のような心の変わりようを、その背景にある苦痛を想像することは難しいだろうと思うから。
 だけど、ちょっと調べて得心したことがある。この作品に絡んでいた監督のネーム・バリューが作品の印象を高めるのに手伝ったところが大きいんじゃないかなって。最終的に作品の形にしたのはラッセル監督だけど、ラッセルの手に渡る前に、映画化権を持っていたのはシドニー・ポラックとアンソニー・ミンゲラだという。
 わーお。そりゃすげえ。この二人が既に死んでいることを考えればそれだけで二階級特進できるってもんだよ。だけど、そんな大看板に倒れなかったのはひとえにラッセルの身近に実際に精神的な病を抱える家族がいればこそ養われた暖かい視点の賜物だろうと思う。彼の息子が双極性障害で強迫観念症だという話だが、それは健常者でしか構成されない生活圏の人々に想像すら難しい日常生活ではないかと思う。
 でも、もしもあなたの生活の中にそういう疾病と戦っている人がいるなら、この作品に出てくる人々の行動のや気持ちをいちいち考えるまでもなく、経験のあるものとして隅から隅まで手に取るようにして分かるはずだ。そして、その彼の家族に対する愛情あふれる視点こそが、まさに人々に、私に、届いているものだと思う。

 ステファニーの気持ちがパットに届くラストシーンは心温まるけれど、現実にはそんなハッピーエンディングが、同じような病気を抱える人たちにとってどれだけハードルの高いおとぎ話かと言うことは、傍で見ているだけの私でもよく分かる。
 それでも、と思う。
 それでも、こういう映画が、今まさに同じような悩みを抱えている人たちの気持ちを少しでも慰め、原題に込めらたように少しでも彼らの希望になるのであればいいなと心からそう思う。

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事件や [music]

マアーーージかあーーーーー。 ワシちょっと見てみたいやんけー。(チエちゃんのおとん風)
ちなみに、チケッツはおいくら万円ですのん? でももう年が年だから、ビール片手にバルコニー席の先っぽの方から安全に観たい。
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「コクリコ坂から」 [watching]

 なんで「コクリコ坂から」なんてタイトルなのかということが最後まで分からなかった。
後でプログラムを読んで分かったけれど、海の住んでるおうちがコクリコ荘というらしく、そのおうちが建っているとこがコクリコ坂と呼ばれているらしいのだ。しかしドラマにコクリコ坂という場所は、ほとんどというか、まったくと言っていいほど絡まない。この坂の上り下りを通して主人公たちの成長やらドラマが展開されていくっていうんならまだしも、その家や坂にコクリコという名前がついていることすら作中では語られない。そもそもコクリコってなんだ。花か?あ、フランス語でひなげしのことだって。ひなげしってポピーだろ。ポピー咲いてたか?つーかなんでフランス語?この辺フランス人街だったの?それともフランスかぶれしてた時代なのか?それとも原作者がフランスかぶれなのか。ヒロインの女の子は海(うみ)なのにフランス語をもじってメルとかさ、カルチェ・ラタンとか出てくるしね。海(うみ)って名前の子にわざわざメルってつけへんやろ。へんなの。
 ただ、私の率直な感想として、単に原作の漫画のタイトルを踏襲したのだとしても、これが映画のイメージを代表しているタイトルになっているとはお世辞にも言い難いなと思った。つまり、映画はタイトルを変えてもよかったのではないかと思う。「旗」とかね。まあそれは冗談だけど。

 「コクリコ坂から」は電車の時間までのつなぎで観た映画で、前評もさっぱり耳にしたことなかったし、ましてやまた息子が監督したとあっては、全く期待していなかったというか、むしろダメだろうと思ってんだけれど、これはいいよ。観た方がいいと思う。細部を丁寧に作り込んだいい作品だと思う。監督は息子だけれど、駿のこだわりを執拗に探ってあるなと、はっきり言って感心した。苦労が滲み出てたもん。商店街の裸電球の明かりに。こんだけやったら駿もさぞかし満足だろうと思ったのだけれど、ツレの話では、試写を見終わった駿は泣きながら「こんなの全然ダメだ」と言ったらしい。泣くほどダメだったのか。

 頑張ったと思うんだよ。息子は。自分では目にすることのできない親父の想像の中のノスタルジーを手探りで、でもそんなだっただろうという現実感も見ごとに再現できてたと思う。その苦悩というか、苦労はプログラムの中に、読んでるこっちが唖然とするほど何の恥ずかしげもなくマルッと書いてある。そして、今は素直に「親父という存在が吐いちゃうほどプレッシャーです」と憑き物が取れたみたいに認めるこの人を、今は素直に頑張れよと応援してあげたいと思う。
 「ゲド」の時は、なんとなくそこには触れられたくなくて、みんなにはバレバレなのに本人だけは知れっとしてるみたいだったけれど、「コクリコ」のプログラムの中で息子は「父親から逃げていた」とも認めている。多分もう、白状せずには何も前に進められないということに気が付いたんだろう。やっと正しい判断をしたんだな。みんなに向かってではなく、自分自身に。「ゲド」作った時はそんな根性はないと思ってた。というかむしろそんな奴にこんな程度の映画を作らせた駿がどうかしてると思った。しかし、人にどう思われおうと、自分自身に正直になれれば、あとは地道にコツコツと自分の出来ることを積み重ねていくだけだもの。その道が残されていたということが彼にとっての一番の幸運だろう。世の中の君以外の人はね、その最後の道すら残されていない人が多いんだよ。息子はその道を残してもらえたことをせいぜい感謝して励むことことだね。

 作品の話に戻るが、私には、その駿のこだわりを何とかして手応えのあるものに再現しようとした努力したあとが作品の中に、特に背景や風景によく見えた。駿がやっても遜色なかったんじゃないかと思うくらいだ。
 たとえばさ、カルチェ・ラタンの中。ガリ版制作してる姿とか。坂の下の雑踏。土と木でできた繁華街の様子。蛍光灯ではなく、電球の灯り。海の台所。夕げの支度。朝げの風景。驚いたのは、昔って暗かったんだなぁということ。商店街の裸電球はそこだけ見りゃ明るいようで、買い物や歩こうと思ったら暗くてよく見えない。私は、自分が小学生の時、コロとかタロウと夜散歩していた時のことを思い出して、夜の暗さを思い出していた。真っ暗だったなぁ。外灯はあったのに。それで足を踏み外して田んぼに落ちたりした。真っ暗な空を見上げては、お父さんがあれは夏の大三角形だとか言って、私は空に三角形に見える星を探したりした。
 そう言う明かりの作り出す暗さとか、その時代の景色の細部を丁寧に描き出していたと思う。観てて、『ああ、駿の好きそうなシーンだな』と思って見てた。郷愁たっぷりの昭和20年代のイメージだ。
 しかし息子は、そのイメージを頭に浮かべながらも、呪われたように「脚本に劣らない画になっているか」と常に自問していたそうだ。そういう強迫観念のようなセリフがプログラムの中に少なくとも2回は出て来た。息子の中にどっかりを腰を据えた父親の存在はいかばかりかと思う。「父がプレッシャーだ」と白状したのも、もうなりふり構っていられなかったからだろう。自分が監督とはいえ、この世界にも締切があって、それを待ってる無数のスタッフがいて、しかもただ作り上げなきゃいけないというだけでなく、2回目だからこその興行的に成功させなきゃいけないという課題があったと思う。監督1作目は酷かったから。まあ、うがった見方をすれば、弱音を吐くことで楽になれるということに味を占めたかもしれない。だって、「コクリコ」制作のプレッシャーと言ったら、「『ゲド戦記』の時にもなかった苦労」などどぬけぬけと言いやがって、あきれるやらがっかりするやら。しかし、だからやっぱりあの映画はあんなに不出来だったのだなと改めて納得というか、あきらめもついたけど。

 物語の舞台が作品の最初の頃、コクリコ坂という固有名詞が出てこないのと同様に、物語の舞台がどこであるかということは、わざと伏せてでもいるかのように一切触れられない。物語が進むにつれ、そんな色の煙が出てていいのか?と思うような、赤や青の煙を吐く大きな煙突を見て、『工業地帯だな』とか、そんないかにも有害そうな色に煙る街を見て私は公害を連想し、鉄橋の上を走る赤い電車を見て、私は『川崎?横須賀とか?』と思ったけれど、ツレは「横浜じゃない?(電車は)東横線じゃないかな」などと当たりを付けたところで、唐突に「東京へ行こう!」というセリフが飛び出して、ツレの推測の方が正しかったことを知る。そのタイミングが絶妙だったんで面白かった。最初は伏せていた地名が、観客にもだんだんと見当がつくようになっていく。おおよその当たりがついたころで地名が具体的に明かされるという図ったようなタイミングが憎らしくもあり、小気味良かった。

 脚本もよくできてた。途中、『駿映画でまさかの近親相姦?!』とドギマギしちゃったけど、海の素直なというか、がむしゃらというか、若者らしい結果を顧みない勢いで道を切り開いていく姿がまぶしかった。若いって素晴らしい。
 駿の映画ってなんでも元ネタ、というより原作があるものだけど、今回は少女漫画だったとは驚きだ。
 私だったら、俊(ヒーロー役)に「お前のお父さんが俺の本当のお父さんなんだ」とか言われる以前に、避けられちゃったり、距離を置かれた時点であきらめちゃうかもなと思ったけれど、しかし、自分が生徒だった頃を思い出すと、無視されたら椅子を投げたり、牛乳パックを投げたり、逃げる背中に走ってってジャンピングキックしたり、いじめっ子の女の子が泣き出してしまう程みんなの前でやり込めて、逆に周りになだめられたりしていた姿が思い出され、同じ年頃ならそうでもなかったかも……と考え直して、改めて今は年を取ったんだなと思った。だって、こんなにすぐにあきらめやすくなってしまって。当時の私が見たらがっかりするかもな。でも疲れるんだよ。アホの相手するの。こんなアホを相手にせにゃならん自分の不運に思わず落ち込んでしまうんだよ。それに、どんなに私が正しくても、キレまくってる私の方が悪い人で、私に責められてる人の方が気の毒と思うも大勢いるんだよ。だから余計やってらんねー。だからね、そのうち、そんな奴らとは金輪際かかわらなくて済むように、人を避けて静かに生きたいとか仙人みたいなことを思うようになっちゃうんだよ。

 話がずれたけど、大戦中、大戦後の混乱の中で生きる人たちにとっては、今こうして画面を見るだけの私たちと違って、「それ、言っとかなまずいやろ」というような重要なことですら、日々の雑事の中に消えて行ってしまうことが本当にあったんだと思う。そんな、ただ生き延びるってことだけが最重要で、そんな中では子供を預かってくれ(育ててくれ)とかいう激しい変化が日常だった時代があったってことだよね。今の時代を厳しい厳しいと言いながら生活している私たちは、それに比べたらはるかに平和で物質的にも制度的にも豊かであると言わざるを得ない。それでも、はだか電球の明かりに照らし打される彼らの暮らしの方がずっと幸福に見えるのはなぜだろう。長澤まさみはインタビューの中で映画の当時を、「何もなかった時代だから」と言ってるけれど、私にはあそこにはすべてがあるように見える。何もかもあるように見える。あるとかないとか、私たちは何を指して言っているのかと不思議に思う。
きっと、映画の中と今とでは、幸せであることの定義がさっぱり変わってしまっているんだろう。

 作品の舞台になるのは、タイトルであるコクリコ坂よりもカルチェ・ラタンだろう。カルチェ・ラタンてどういう意味かと思ったら、パリの24区に実際にある地名なんだってね。もともとこの地区は大学のある学生街なんだだそうで、カルチェって「地区」って意味で、ラタンって「ラテン語」って意味で、合わせて「ラテン語を話す学生の集まる地区」ってことらしい(Wiki先生より)。ラテン語って昔から高等学問のイコンみたいなもんだから、カルチェ・ラタンとやらがインテリ学生の街であっただろうことは想像に易い。しかし私だったらそんな所、うっとーしくてあまり近寄んないだろうな
 でも、作中のカルチェ・ラタンは私の嫌うそういう感じじゃない。一言でいうなら自由闊達な場所だった。ただしおそらく死ぬほど男臭いので、やはり近寄らなかったとは思うが。みんな高校生とは思えない知識と志の高さだよ。独立心も高いから自分と学校が対等で交渉できる立場にあるという自尊心もある。実際、自分たちで抗議活動なんかして、今の子たちじゃ絶対にやらないであろう講堂の大掃除なんかやっちゃったりする。一番驚いたのは、実際には意見の分かれる生徒グループが、講堂で暴動が起きる寸前までハッスルしても、ひとたび校長の足音が近づいて来るや否や、偵察役の生徒が行動にすっ飛んできて、それまでもみ合ってた生徒たちが肩を組んで腹の底から校歌を歌い始める。全員で。女の子たちでさえも。学校側に集会の自由を奪われないためだ。
 しかし、そんな風に学校と対峙する生徒の姿は今の学校教育ではただの伝説だ。お父さんの中学生や高校生の頃の話をよく聞いたけれど、そんな革命は自分の時代ですら起きなかった。私の時には、先生の意向ってのを組んで、そつなく先手を打ち、そつなく効率よく立ち回るっていうのがスタイルだったな。
 だから、あの映画に描かれている生徒たちのあの自主性とか連帯感の強さは今の学校現場にはないものだ。そういう風に育ててないんだから。今だったらああおいう場面には間違いなく保護者がひしめいているはずだ。親がそんなにしゃしゃり出て解決できることなんて実際にはそんなにないんじゃないだろうか。多分、学校って、多かれ少なかれ、ああした個々の自尊心とか自立心を育てるきっかけや、延ばせる環境を用意してあげるところだと思うんだよね。だから親の手から放して、わざわざ別の社会の中に、子供たちだけの社会の中に放り込んでるんじゃないのかな。あの映画の生徒たちの志の高さを見せつけられちゃうと、あれはもう同じ人間ではないよ。人間の質が全然違うと思う。あの自立心と高さと連帯感の強さは、今の教育現場では育てられないし、生まれても来ないものだと思う。

 観終わって気づいたことだが、私は駿映画で初めてファンタジーでないものを見た。いや、まあ、これだってファンタジーと言えばファンタジーなんだろうけど、つまり妖怪とか空想の生き物が出て来ない作品を初めて見たという意味で。「耳をすませば」も人間の恋愛ドラマらしいけど、私は実は意外と駿作品を見たことがない。「トトロ」も見たことないし、「ラピュタ」も見たことがない。駿自身がこの作品の引き合いに出している「耳をすませば」も見たことがない。ちらっと見かけた感じでは普通の少女とバイオリンを弾く少年の恋愛ものかなと思った。それをジジイたちがヤキモキしながら見守るみたいな。ちょっと目にした印象では、その設定が感情移入しにくいかなと思った。

 峻君の声を聴いてすぐにアレンだなと思った。どうやらは駿に気に入られたらしい。駿というより息子か。アレンは「ゲド」に出てたんだから。俊君はともかく、海の声に時々違和感を感じた。冷たいっていうか、ふてぶてしい響きがあって。学校から帰ってきた海が、アイロン掛けしてるお手伝いさんに「すみません」って声かける時とか。まったく「すまな」く思っているように感じない。あと、学校の理事長に直談判しに行ったときの理事長に対する態度。とても目上の人にお願いをしに行っている態度じゃないと思う。ものすごくつっけんどんな受け答えで、分かりやすく言うと、「私の父は兵隊に捕られて死にましたがなにか?」みたいな、毅然としているというよりは私には鷹揚な態度にしか見えなかった。横で男の子二人がドギマギしている様子だったが、ほんとはあれは海の態度に内心ヒヤヒヤしてたのかも。あんな態度で。ひょっとすると海の時折みられる不遜な態度はわざとなんじゃなかろうかと、あれはそういう演出なのかもしれないと思いたくもなった。しかしここでまた自分が子供だった頃のことを思い出し、私自身もあんなふうに憎たらしい声色で小癪なことを言う子供だったかも。とツレに言うと、ツレは「横柄なんじゃなくて、媚びないんじゃない?」と言った。なるほど、媚びないね。と思いなおしてみた。そして、その言葉を思い浮かべながら、理事長の質問に答える海の顔を再び思い出したらけれど、「かわいくない」の間違いじゃない?という気もした。
 しかし確かに言われてみれば、「媚びなさ」は駿作品のヒロイン(ヒーローにも共通かな)における最重要共通項かもしらん。駿作品のヒーローは頭がよくて、ハンサムで、度胸があって、運動神経抜群(例:コナン)。ヒロインは目力があって、根性が座ってて、包容力のある、しなやかな精神の持ち主。ツンツンはしてるけど、デレッとはしない。デレッとはしないけど、必ず泣くよね。いずれにしろ、そのギャップがいいんだろうね、駿には。少女の強さを支えている弱みがあるってことだよ。
 媚びないか。私には見抜けなかったな。なるほどね。ツレは駿と女の子の趣味が合うかもしれないね。

 「コクリコ坂から」には原作があるということをプログラムの駿のプロダクションノートを読んで知った。それも漫画と聞いて、しかも「なかよし」に掲載されていたと知って、『駿が「なかよし」を?!』と思って衝撃を覚えたよ。ちなみに私は「りぼん」派だったけれど。一体、どの時点で駿はその作品に気が付いたんだ?当時「なかよし」を毎号買っていたのか?本屋の軒先で今月号の「なかよし」をむっつりした顔で手に取る駿の姿が目に浮かんだり浮かばなかったり。なくもない話だとは思うが、ウンベルト・エーコもそうだけど、彼らで言うところの「テクスト」という原典を、彼らはいつもどこからどうやって見つけてくるのだろう。不思議。なんかいいネタないかと思っていろんな文献や漫画やらを漁っている彼らの実際の活動がどんなものなのかちょっと知ってみたい。たまの土日にヴィレッジ・ヴァン・ガードに行くって訳でもあるまいに。でもそういうたゆまぬ探求が彼らの継続した創造を可能にしているんだろうな。
 そういうふうに創造する人もいるんだよね。オリジナルではなく、すでにある話を自分の思うように脚色して自分の作品として世に出すっていう人が。
 駿作品には必ず元ネタがあるよね。そういう創作をする人もいるんだね。
 ふーん。
 短大の時に比較文学で、物語のリメイクについてレポート書かされたのを思い出しちゃった。
 あのレポートはどこへ行ったのやら。


コクリコ.jpg
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「ドアーズ/幻の世界 When You’re Strange」 [watching]

 実は、こんな映画があること自体、映画館に行くまで知らなかった。
 めずらしくごはん食べた後なんかに映画を観ようと言われて困ってしまったけど、近くの映画館を覗いてみたらかかっていたのがこれだった。他にも「遠距離恋愛 彼女の決断」とか言うのがあったけど、私的にはそれよりかははるかにこっちのが観たい気がするということですごく久しぶりにレイトショーに入った。

 ドアーズは私が高校生の時に少々聞きかじった。ロックが好きだと言うなら聞いておくべきものとして。というより、オリバー・ストーンの「ドアーズ」に出てるヴァル・キルマーがかっこよくて、そっから入ったんだけどね。
 もちろんドアーズの音楽は好きになんかなれなかった。ねちっこいメロディーラインに、間の抜けた電子音。確かに詩には興味をそそられたけど、当時の私にあの楽曲を好きになれって言うのは無理な話だった。今だって無理だ。理解はするけれど。当時の私が聞いてるのは、モトリーやエアロやガンズや、その対極のソウルアサイラムやサウンドガーデンやブラインドメロンだった。ドアーズを聞くには既に洗練された音楽を聞きすぎてる。
 とは言え、確かに魅力はある。ドアーズを初めて見聞きするツレも、カメラに向かっていたずらっぽく笑ってみせるジム・モリソンにそう感想を漏らしたくらいだ。だけど、退廃的に過ぎるんだよね。楽曲的に言えば単調すぎる。最初に聞いたのは20年前だけど未だにそう思う。でもその退廃的で単調でつまらないという行き詰った雰囲気こそが、60年代そのものだったんだろうと想像する。ヒッピーにブートニク。反戦運動で貧しいながらも一つになっていた気運も、みんなが望んだように敗北を認めた瞬間、アメリカ経済は後退の一途をたどっていく。停滞する社会の鬱憤の中から産声を上げたのはパンクであり、さらなる堕落とも言えるグラムロックだった。
 みんなベトナム戦争を責めるけど、ヒッピー文化は逆説的にその比護のもとで栄華を極めたような文化だ。戦争が終わった途端に経済がしぼんでいったのもうなずける話じゃない?アメリカの60年代って言うと私にはそんなイメージだな。国家権力による暗黒時代と言うか。この映画でも60年代を象徴する生々しい映像が使われてる。別にだからと言って今アメリカ政府がフェアでクリアでクリーンな組織になったなんてこれっぽっちも思っていない。けど、公民権運動や、反戦運動、特にたった一握りのアイドルの扇動によって国家体制がどれだけ揺さぶられるかと言うことを嫌と言うほど思い知らされた後なら、少しはやり方を考えるってもんだろ。

 話がずれたけど、とにかくドアーズはそんな60年代の雰囲気を全てまとった、まさに時代の申し子だったんじゃないかな。映画の中で"so much better than the Beatles!"というファンの声があるけど、分かる気はする。ビートルズはデビュー当時はアイドルの扱いだったしね。ドアーズは90年代で言うニルヴァーナみたいなもんだったんじゃないかな。彼らは時代の申し子で、だからこそ息が短かった。たとえあそこでジム・モリソンが死ななかったとしても、いずれにしろドアーズがあの空気の外で生きていけたとは思えない。後に続く新しい時代をドアーズとして生き抜けたとは思えない。
 ただ、ジム・モリソンの27歳で死んだと言うのが今の私には少々ショックだった。私そんなに長生きしてるのかと改めて思った。30前に死ぬのがロックなのかもな。ジム・モリソンなんかが生きたヒッピー世代では、"Don't trust over 30."って標語があったくらいで。それをアーティスト自らが体現してみせたと言うのなら、なんとストイックなプロ根性であることよ。しかし、生き続けてなおかっこよくいることの難しさは、生き残ったヒッピー世代自身が一番よく知っているだろう。

 ドアーズの引き合いに出したニルヴァーナだけど、このレビューを書くにあたり、改めて調べてみたら、実はカートも27歳で死んでるんだよね。なんと空恐ろしい偶然であることよ。しかし、カートのことを考えれば、それがほんとに偶然なのかどうかちょっと怪しい気もするけど。シャノン・フーン(ブラインドメロンのボーカル)は28で死んだ。リヴァー・フェニックスは23。その時私はまだ高校2年生だった。
 それから自分が彼らの年齢を超えるたびに、私は自分の生きていることを実感した。特に感傷的になったりした訳ではないけれど、彼らの死を悼み、その行為がおのずと自らの生を実感させると言う、人生の通過儀礼的なアイロニーだ。だけど、カートが死んだって聞いた時はほんとにショックで、以来ニルヴァーナを聞くのをやめてしまった。当時ニルヴァーナはライブを観てみたいバンドの一つだったし。ライヴ。死んでしまってはライヴは出来ない。
 今でもカートの死を知らされた時のことはよく覚えている。短大に入って初めての授業で友だちから教えられた。私は状況も顧みず、「うそ!」と大声をあげていた。何度も大声で「うそ!」と繰り返す私に、出稼ぎ英国人講師が「黙りなさい!」と一喝したけど、私は奴を睨み反した。以来、その講師とは折り合いが悪く、1年を通して成績が悪かったが、2年になって講師が変わった途端に私の成績は超優等生並みになった。
 次の授業の時、同じ友達がテレビでコートニー(カートの嫁)が読み上げたというカートの遺書と言うものを紙に書きとめて持ってきてくれて、それを読んでほんとにどん底に突き落とされた気持ちになった。手書きのメモにはこう書いてあった。

 「熱いものを失ってしまった」

 あの、ひざから崩れ落ちるような失望感をなんと言っていいのか分からない。しかし、これじゃ救えるわけがないとも思った。これじゃ死んじまうと。アーティストが情熱を失っちまったんじゃあ死ぬしかねえ。だけど、そうだけど、それでもなにか彼に思いとどまらせるものが一つでもなかったのかと思って、実際になかったことが私には一番ショックだった。子供のころから一緒に育った友達も、略奪愛の末に結婚した妻も(このbitchは後ほど暗殺容疑を噂される)、彼にそっくりな青い目の子供も、何もかも捨てて彼はいってしまった。この世の中に彼が生きる価値を見いだせるものが何もなかったという事実がショックだった。私たちは?待っている人がこんなに大勢いるのに。そんな風に思った。けど、冷静に考えれば、「ファン」て言うのは彼が忌み嫌ったメディア側の存在だから、ファンのために思いとどまるなんて最もあり得ない選択肢だったろう。
 アーティストが熱いものを失ってしまったんじゃあおしまいだから、2年くらい後にマイケル・ハッチェンスが死んだってまた友達に聞かされた時にはもうあまり驚かなかった。死んだ理由を当てさえした。「創造力の枯渇でしょ?」その通りの言葉が記事になっていた。

 私もマイケル・ハッチェンスの年に近くなり、最近はたと気がついた。私も熱いものを失ってしまっていることに。
 気が付いた時にはもう遅かった。それは、ショックと言うよりは、電車を乗り過ごしたような無気力感みたいなものだった。失いつつあるんじゃない。もう失ってしまった。だから気づいた時には私にはなすすべがなかった。乗り過ごした電車を、ホームで見送るしかできない。そんな感じだった。マイケル・ハッチェンスが死んだ時も、「想像力の枯渇」ってどういうことなのかまるで想像もつかなかった。なぜなら当時の私には考えなくてもそれは内側から溢れてくるもので、宇宙から降ってすら来るものだと思っていたから。でも、今ならわかる。それは本当に起こることなんだよ。自分で自分が同じ人間とは思えないくらいだ。
 途中、自分に欠けていくものを感じながらも、まだ代わるものがあると気に留めないでいたけれど、どの時点で私は後戻りができないほど深刻に失ってしまったのかが思い当らない。でも、もう次の電車に乗っても間に合わない。熱いものがないって言うのは、陳腐な表現になるけれど、すごく寒々しい気持ちの状態だと言うことを身を持って知った。

 しかし、この映画のエンディングに、さばけた口調でなんの感慨もなく早口にジョニー・デップが言う。

 「ジム・モリソンの最後は燃え尽きてしまったかのようだ」

 とかなんとか。
 そして、

 「しかし、情熱がなければ燃え尽きもしない」

 私は、目を覚まさせられた思いだった。

 確かに。

 熱いものがあったからこそ、燃えられもしたんだよね。
 この先、自分に熱いものが戻ってくるなんてことがあるとも思えないけど、でも、この言葉に私の気持ちは慰められた。あんなぶっきらぼうなナレーションに、少しだけ癒された。

 ツレがロック得意でないのはよく知っているので、この映画を観るのは気が引けたけんだど、でも、私は観れてよかった。私のために。偶然にしては稀にみる素敵な出会いだったんじゃないかと思う。気を遣って映画に誘ってくれたツレに感謝したい。
 そして、いつかまた私の心を温めてくれる何かに出会えることを祈って。


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「トイ・ストーリー3」 [watching]

 年甲斐もなくアニメなんぞを観て胸がときめいてしまった……。

 映画の冒頭、暴走する列車の窓から無数のフラ・トロールが色とりどりのトサカ頭をのぞかせた瞬間、私は自分の胸が躍るのをはっきり感じた。「ドキン」としてしまった……。

 そんな観ててワクワクするような映画は本当に久しぶりのことだった。子供の頃には映画館ならいつでも感じていたんだろうそんな気持ちを一瞬でも蘇らせてくれた。そんな作品だった。

 ツレがそれまでの「トイ・ストーリー」をちゃんと観たことがないというので、下記のように簡単に説明したところ、ツレは大いに興味をそそられたようだった。
「1」は、新しいおもちゃが来て捨てられるんじゃないかと言う話。
「2」は、間違って本当に捨てられる話。
「3」は、子供が大人になったので最終的に捨てられるんじゃないかと言う話。

 この映画は作ってよかったと思う。
 観終わってそう感じた。
 というか、作る意義さえあったように感じられた。
 実際、そう思って貰えるように、作り手側の執念とも言えるような努力があったことをプログラムを読んで知った。キャラクターのイメージがこれまでのものとずれないように、相当苦心したそうだ。しかし、私に言わせれば、どうしたらずれちゃうんだろうと思って不思議だったけれど。

 大抵のシリーズ映画って、シリーズである意味とか意義ってなかったりするじゃない。その多くは最初から連作という設定じゃないって言うのもあるし、そんな映画の続編を作る時の理由は後付けにならざるを得ないから。
 「007」でも「ダイ・ハード」でもいいんだけど、シリーズのそれぞれはあくまで初期作品のキャラや設定だけを借りてきた完全に別のストーリーとなっているので、はっきり言ってシリーズって言っても前作と関連性はまるでない。つまりそういうシリーズものはどの作品も「焼き直し」に近い。ひどいとキャラの雰囲気がちょっと変わっちゃっていたりする。
 この作品も、最初から一貫したテーマを念頭に製作されてきたかと言えば疑問だけれど、でも、「子供の成長」というか、「家族の歴史」というか、そういう普通の家庭にならどこにでもおきる結構普遍的なテーマを背景にすることが出来ていているので、ストーリー性の軸が大きくぶれずに済んでいるんだと思う。
 実際、「3」を製作した人たちは、全作品との一貫性を作品に持たせることにこ相当苦心をしたようだ。プログラムのインタビューにそんな話が何度も繰り返し出てくる。
 まあ、「2」で幼児向けと言う主題よりも、クリエイターを楽しませるためのストーリーになっちゃってることは否めないから、先に話した一貫性に努力したってって言うのは、「3」だけの話で、意地悪く言うとシリーズの帳尻合わせを「3」で図ったともとれるけれど、結果としては、その努力がみごとに講を奏していると私は思う。「3」を作って、シリーズ全体を意味あるものに見せることに成功していると思う。

 今回一番感心したのは、脚本。そのプロット。実際、その辺の実写映画なんかよりよっぽど練られて、考え抜かれていると思った。悪役人形たちの気持ちの変化が唐突過ぎるというのは否めないけど、それくらいの強引さは子供向けの90分という時間の中では仕方がないとあきらめてもいいと思う。
 そしてその90分と言う制限の中に、たくさんのピンチやチャンスが散りばめられている。人形には人形の現実があって、失望があって、希望があって、友情がある。今回はいくつものピンチを潜り抜けてきたウッディでさえ絶望を感じる瞬間が訪れる。焼却炉の炎に向かって崩れ落ちていくゴミの中で仲間たちが手をつなぐシーンには人間を超えたものすら感じさせてくれるよ。そして真のヒーローが現れる。
 オオオオオオオオオオオオ。
 エラバレシモノ。
 あれじゃ子供でなくてもワクワクするに決まってる。映画には辛いニューズウィークが「傑作」と賞したのもうなずけた。

 「1」のころから何故バズの声に所ジョージなのかと思ったら、結構ティム・アレンの声に似てるのね。台詞棒読みな所もそっくりだった。まあ、棒読みなのは所ジョージで、ティム・アレンは演技だけど。
 そして、うかつだったことに、ジェシーの声をジョーン・キューザックがやっているということを初めて知った。すごい南部訛りなんで全然気が付かなかったよ。
 トム・ハンクスの年齢も声だけなら気にならなかった。永遠のヒーロー、ウッディの声が歳取っちゃってたら悲しいもんね。
 でも、ウッディの恋人のボーがいなくなっちゃってた。戸田恵子だったのに。きっとガレージセールにでも出されちゃったんだろう。ボーは妹が持ってる設定でもよかったと思うんだけどな。
 今回アンディが青年になっていることで、ボーの他にも既にいなくなってるおもちゃは多い。グリーン・アーミー・メンも昔はバケツ一杯にいて、私もいっぱい買おうかと思ったくらいだったのに、今回は3体しかいなくなっていた。3たいだけ想い出に取っておいたと言うことなんだろう。「1」で大活躍だったラジコンカーもいなかった。トロール人形や「おさるでござる」もいない設定だったけど、冒頭の回想シーンでは大活躍だったのでうれしかった。
 今回は小さなキャラに結構贅沢な俳優陣を使っていたことにプログラムを読んで気がついた。パンツをはいた熊はティモシー・ダルトンだと知ってちょっとうれしかった。「オレは役に集中してるんだ」という一言だけで私を虜にしてみせた。タコのグミ人形はウーピー・ゴールドバーグと言うことらしいんだけど、後から思いだしても台詞なんてあったっけ?と言う感じだった。面白かったのが、「3」にはケン(バービーの彼氏人形ね)が出てるんだけど、その声をマイケル・キートンがやってるの。笑っちゃったよ。ケンていう存在が既に笑えるキャラなのに、ましてやその声をマイケル・キートンがやってんのかと思ったら、私は彼をこのキャラの声優にあてたキャスティング手腕に感心した。でも、ちょっと調べたら、マイケル・キートンは映画じゃ最近めっきりご無沙汰だなと思ったら、声優業が盛んなようで、ディズニーが扱う宮崎駿作品も含め、ピクサー作品では常連のよう。あ、そうそう。「3」ではトトロのバッタもんみたいなぬいぐるみが出てきてた。いいのかなと思ったけど、ジブリ作品の版権はアメリカではディズニーが持ってんだってね。声はついてなかったけど。
 しかし、そうなんだぁ。じゃあやっぱり彼のコメディアンとしての才能が認められてるってことなんだね。

 マイケル・キートンは昔でこそ(今もかもしれんが)二枚目俳優の印象かもしれないけど、「から騒ぎ」以来、私にとってはコメディアンとしての才能が印象深くて、二枚目よりもむしろ三枚目の役の方が彼の才能を十分に活かせると思っている。
 ケネス・ブラナー監督の「から騒ぎ」のキャスティングは今なら到底望めないようなそうそうたるメンバーが名を連ねている。エマ・トンプソン(離婚前)、デンゼル・ワシントン(若い)、キアヌ・リーブス(本家棒読み俳優)、ケイト・ベッキンセール(超若い)、ロバート・ショーン・レナード(今はいずこ)。俳優たちの生き生きとした演技を捕えたケネス・ブラナーの「から騒ぎ」は彼の監督作の中でももっとも出来のいいものだと私は思う。そんな青春の(ちょっと年齢層が高めだが)匂いぷんぷんのすがすがしい作品の中で、マイケル・キートンはひどく汚らしいけど忠実で、勤労な、おつむの弱い警官役を見事に演じています。映画が好きなら、そしてシェイクスピアに興味があるならなおのこと、ぜひ一度は観てみることをお勧めします。 

 「トイ・ストーリー3」は一応3Dって言うことになっているけど、3Dにする必要はなかったなと私は思った。これは観ての印象だけど、あの迫力に欠ける感じは、もともと2Dで製作してたのを編集でむりくり3Dに間に合わせたんじゃないのかな。映像に奥行き感があんまり感じられなかったんだよね。メガネもうっとーしいし、なんだかいまいちな3Dで見せられるくらいなら、いっそ2Dで心おきなく大画面で観たかった。
 しかしこのことは、はからずしもこの映画のいいところは3Dにあるんじゃないということを証明することになったと思う。

 作品の善し悪しは使ってる技術の高さじゃない。
 私はクリストファー・ノーランを支持します。

*** エピローグ ***

 見に行ってよかった。
 ツレが興味なさそうだったので、これも見逃すかなとあきらめていたのだけれど。

 「トイ・ストーリー」は学生の頃の友だちとひとしきりはまったキャラクターたちだった。私にはエイリアンがかわいくって、よく物真似した。そんなキャラものアイテムが欲しくてフィギュアショップにしょっちゅう足を運んでいた頃を思い出す。単館映画のチラシを漁ったり、グリーン・アミー・メンのバケツ売りを買うか本気で悩んだり、インディアンの酋長のスマーフのフィギュアが1200円で高いと渋っていたら友だちが誕生日に内緒で買ってくれたりしていた頃。
 「2」は、「私は映画はトイ・ストーリー」しか観ない」と言う友達と観に行ったけど、「3」はどうやら置いて行かれたようだ。

 この作品には私自身のそんな思い入れも含まれている気がする。
 でも、その勝手な「思い入れ」を超えていい作品になっていた。

 新しい人生を自らの手で選んだウッディたち(というかウッディの独断、というかとっさの思いつきだけど)に敬意を表したいと思う。

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