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「コクリコ坂から」 [watching]

 なんで「コクリコ坂から」なんてタイトルなのかということが最後まで分からなかった。
後でプログラムを読んで分かったけれど、海の住んでるおうちがコクリコ荘というらしく、そのおうちが建っているとこがコクリコ坂と呼ばれているらしいのだ。しかしドラマにコクリコ坂という場所は、ほとんどというか、まったくと言っていいほど絡まない。この坂の上り下りを通して主人公たちの成長やらドラマが展開されていくっていうんならまだしも、その家や坂にコクリコという名前がついていることすら作中では語られない。そもそもコクリコってなんだ。花か?あ、フランス語でひなげしのことだって。ひなげしってポピーだろ。ポピー咲いてたか?つーかなんでフランス語?この辺フランス人街だったの?それともフランスかぶれしてた時代なのか?それとも原作者がフランスかぶれなのか。ヒロインの女の子は海(うみ)なのにフランス語をもじってメルとかさ、カルチェ・ラタンとか出てくるしね。海(うみ)って名前の子にわざわざメルってつけへんやろ。へんなの。
 ただ、私の率直な感想として、単に原作の漫画のタイトルを踏襲したのだとしても、これが映画のイメージを代表しているタイトルになっているとはお世辞にも言い難いなと思った。つまり、映画はタイトルを変えてもよかったのではないかと思う。「旗」とかね。まあそれは冗談だけど。

 「コクリコ坂から」は電車の時間までのつなぎで観た映画で、前評もさっぱり耳にしたことなかったし、ましてやまた息子が監督したとあっては、全く期待していなかったというか、むしろダメだろうと思ってんだけれど、これはいいよ。観た方がいいと思う。細部を丁寧に作り込んだいい作品だと思う。監督は息子だけれど、駿のこだわりを執拗に探ってあるなと、はっきり言って感心した。苦労が滲み出てたもん。商店街の裸電球の明かりに。こんだけやったら駿もさぞかし満足だろうと思ったのだけれど、ツレの話では、試写を見終わった駿は泣きながら「こんなの全然ダメだ」と言ったらしい。泣くほどダメだったのか。

 頑張ったと思うんだよ。息子は。自分では目にすることのできない親父の想像の中のノスタルジーを手探りで、でもそんなだっただろうという現実感も見ごとに再現できてたと思う。その苦悩というか、苦労はプログラムの中に、読んでるこっちが唖然とするほど何の恥ずかしげもなくマルッと書いてある。そして、今は素直に「親父という存在が吐いちゃうほどプレッシャーです」と憑き物が取れたみたいに認めるこの人を、今は素直に頑張れよと応援してあげたいと思う。
 「ゲド」の時は、なんとなくそこには触れられたくなくて、みんなにはバレバレなのに本人だけは知れっとしてるみたいだったけれど、「コクリコ」のプログラムの中で息子は「父親から逃げていた」とも認めている。多分もう、白状せずには何も前に進められないということに気が付いたんだろう。やっと正しい判断をしたんだな。みんなに向かってではなく、自分自身に。「ゲド」作った時はそんな根性はないと思ってた。というかむしろそんな奴にこんな程度の映画を作らせた駿がどうかしてると思った。しかし、人にどう思われおうと、自分自身に正直になれれば、あとは地道にコツコツと自分の出来ることを積み重ねていくだけだもの。その道が残されていたということが彼にとっての一番の幸運だろう。世の中の君以外の人はね、その最後の道すら残されていない人が多いんだよ。息子はその道を残してもらえたことをせいぜい感謝して励むことことだね。

 作品の話に戻るが、私には、その駿のこだわりを何とかして手応えのあるものに再現しようとした努力したあとが作品の中に、特に背景や風景によく見えた。駿がやっても遜色なかったんじゃないかと思うくらいだ。
 たとえばさ、カルチェ・ラタンの中。ガリ版制作してる姿とか。坂の下の雑踏。土と木でできた繁華街の様子。蛍光灯ではなく、電球の灯り。海の台所。夕げの支度。朝げの風景。驚いたのは、昔って暗かったんだなぁということ。商店街の裸電球はそこだけ見りゃ明るいようで、買い物や歩こうと思ったら暗くてよく見えない。私は、自分が小学生の時、コロとかタロウと夜散歩していた時のことを思い出して、夜の暗さを思い出していた。真っ暗だったなぁ。外灯はあったのに。それで足を踏み外して田んぼに落ちたりした。真っ暗な空を見上げては、お父さんがあれは夏の大三角形だとか言って、私は空に三角形に見える星を探したりした。
 そう言う明かりの作り出す暗さとか、その時代の景色の細部を丁寧に描き出していたと思う。観てて、『ああ、駿の好きそうなシーンだな』と思って見てた。郷愁たっぷりの昭和20年代のイメージだ。
 しかし息子は、そのイメージを頭に浮かべながらも、呪われたように「脚本に劣らない画になっているか」と常に自問していたそうだ。そういう強迫観念のようなセリフがプログラムの中に少なくとも2回は出て来た。息子の中にどっかりを腰を据えた父親の存在はいかばかりかと思う。「父がプレッシャーだ」と白状したのも、もうなりふり構っていられなかったからだろう。自分が監督とはいえ、この世界にも締切があって、それを待ってる無数のスタッフがいて、しかもただ作り上げなきゃいけないというだけでなく、2回目だからこその興行的に成功させなきゃいけないという課題があったと思う。監督1作目は酷かったから。まあ、うがった見方をすれば、弱音を吐くことで楽になれるということに味を占めたかもしれない。だって、「コクリコ」制作のプレッシャーと言ったら、「『ゲド戦記』の時にもなかった苦労」などどぬけぬけと言いやがって、あきれるやらがっかりするやら。しかし、だからやっぱりあの映画はあんなに不出来だったのだなと改めて納得というか、あきらめもついたけど。

 物語の舞台が作品の最初の頃、コクリコ坂という固有名詞が出てこないのと同様に、物語の舞台がどこであるかということは、わざと伏せてでもいるかのように一切触れられない。物語が進むにつれ、そんな色の煙が出てていいのか?と思うような、赤や青の煙を吐く大きな煙突を見て、『工業地帯だな』とか、そんないかにも有害そうな色に煙る街を見て私は公害を連想し、鉄橋の上を走る赤い電車を見て、私は『川崎?横須賀とか?』と思ったけれど、ツレは「横浜じゃない?(電車は)東横線じゃないかな」などと当たりを付けたところで、唐突に「東京へ行こう!」というセリフが飛び出して、ツレの推測の方が正しかったことを知る。そのタイミングが絶妙だったんで面白かった。最初は伏せていた地名が、観客にもだんだんと見当がつくようになっていく。おおよその当たりがついたころで地名が具体的に明かされるという図ったようなタイミングが憎らしくもあり、小気味良かった。

 脚本もよくできてた。途中、『駿映画でまさかの近親相姦?!』とドギマギしちゃったけど、海の素直なというか、がむしゃらというか、若者らしい結果を顧みない勢いで道を切り開いていく姿がまぶしかった。若いって素晴らしい。
 駿の映画ってなんでも元ネタ、というより原作があるものだけど、今回は少女漫画だったとは驚きだ。
 私だったら、俊(ヒーロー役)に「お前のお父さんが俺の本当のお父さんなんだ」とか言われる以前に、避けられちゃったり、距離を置かれた時点であきらめちゃうかもなと思ったけれど、しかし、自分が生徒だった頃を思い出すと、無視されたら椅子を投げたり、牛乳パックを投げたり、逃げる背中に走ってってジャンピングキックしたり、いじめっ子の女の子が泣き出してしまう程みんなの前でやり込めて、逆に周りになだめられたりしていた姿が思い出され、同じ年頃ならそうでもなかったかも……と考え直して、改めて今は年を取ったんだなと思った。だって、こんなにすぐにあきらめやすくなってしまって。当時の私が見たらがっかりするかもな。でも疲れるんだよ。アホの相手するの。こんなアホを相手にせにゃならん自分の不運に思わず落ち込んでしまうんだよ。それに、どんなに私が正しくても、キレまくってる私の方が悪い人で、私に責められてる人の方が気の毒と思うも大勢いるんだよ。だから余計やってらんねー。だからね、そのうち、そんな奴らとは金輪際かかわらなくて済むように、人を避けて静かに生きたいとか仙人みたいなことを思うようになっちゃうんだよ。

 話がずれたけど、大戦中、大戦後の混乱の中で生きる人たちにとっては、今こうして画面を見るだけの私たちと違って、「それ、言っとかなまずいやろ」というような重要なことですら、日々の雑事の中に消えて行ってしまうことが本当にあったんだと思う。そんな、ただ生き延びるってことだけが最重要で、そんな中では子供を預かってくれ(育ててくれ)とかいう激しい変化が日常だった時代があったってことだよね。今の時代を厳しい厳しいと言いながら生活している私たちは、それに比べたらはるかに平和で物質的にも制度的にも豊かであると言わざるを得ない。それでも、はだか電球の明かりに照らし打される彼らの暮らしの方がずっと幸福に見えるのはなぜだろう。長澤まさみはインタビューの中で映画の当時を、「何もなかった時代だから」と言ってるけれど、私にはあそこにはすべてがあるように見える。何もかもあるように見える。あるとかないとか、私たちは何を指して言っているのかと不思議に思う。
きっと、映画の中と今とでは、幸せであることの定義がさっぱり変わってしまっているんだろう。

 作品の舞台になるのは、タイトルであるコクリコ坂よりもカルチェ・ラタンだろう。カルチェ・ラタンてどういう意味かと思ったら、パリの24区に実際にある地名なんだってね。もともとこの地区は大学のある学生街なんだだそうで、カルチェって「地区」って意味で、ラタンって「ラテン語」って意味で、合わせて「ラテン語を話す学生の集まる地区」ってことらしい(Wiki先生より)。ラテン語って昔から高等学問のイコンみたいなもんだから、カルチェ・ラタンとやらがインテリ学生の街であっただろうことは想像に易い。しかし私だったらそんな所、うっとーしくてあまり近寄んないだろうな
 でも、作中のカルチェ・ラタンは私の嫌うそういう感じじゃない。一言でいうなら自由闊達な場所だった。ただしおそらく死ぬほど男臭いので、やはり近寄らなかったとは思うが。みんな高校生とは思えない知識と志の高さだよ。独立心も高いから自分と学校が対等で交渉できる立場にあるという自尊心もある。実際、自分たちで抗議活動なんかして、今の子たちじゃ絶対にやらないであろう講堂の大掃除なんかやっちゃったりする。一番驚いたのは、実際には意見の分かれる生徒グループが、講堂で暴動が起きる寸前までハッスルしても、ひとたび校長の足音が近づいて来るや否や、偵察役の生徒が行動にすっ飛んできて、それまでもみ合ってた生徒たちが肩を組んで腹の底から校歌を歌い始める。全員で。女の子たちでさえも。学校側に集会の自由を奪われないためだ。
 しかし、そんな風に学校と対峙する生徒の姿は今の学校教育ではただの伝説だ。お父さんの中学生や高校生の頃の話をよく聞いたけれど、そんな革命は自分の時代ですら起きなかった。私の時には、先生の意向ってのを組んで、そつなく先手を打ち、そつなく効率よく立ち回るっていうのがスタイルだったな。
 だから、あの映画に描かれている生徒たちのあの自主性とか連帯感の強さは今の学校現場にはないものだ。そういう風に育ててないんだから。今だったらああおいう場面には間違いなく保護者がひしめいているはずだ。親がそんなにしゃしゃり出て解決できることなんて実際にはそんなにないんじゃないだろうか。多分、学校って、多かれ少なかれ、ああした個々の自尊心とか自立心を育てるきっかけや、延ばせる環境を用意してあげるところだと思うんだよね。だから親の手から放して、わざわざ別の社会の中に、子供たちだけの社会の中に放り込んでるんじゃないのかな。あの映画の生徒たちの志の高さを見せつけられちゃうと、あれはもう同じ人間ではないよ。人間の質が全然違うと思う。あの自立心と高さと連帯感の強さは、今の教育現場では育てられないし、生まれても来ないものだと思う。

 観終わって気づいたことだが、私は駿映画で初めてファンタジーでないものを見た。いや、まあ、これだってファンタジーと言えばファンタジーなんだろうけど、つまり妖怪とか空想の生き物が出て来ない作品を初めて見たという意味で。「耳をすませば」も人間の恋愛ドラマらしいけど、私は実は意外と駿作品を見たことがない。「トトロ」も見たことないし、「ラピュタ」も見たことがない。駿自身がこの作品の引き合いに出している「耳をすませば」も見たことがない。ちらっと見かけた感じでは普通の少女とバイオリンを弾く少年の恋愛ものかなと思った。それをジジイたちがヤキモキしながら見守るみたいな。ちょっと目にした印象では、その設定が感情移入しにくいかなと思った。

 峻君の声を聴いてすぐにアレンだなと思った。どうやらは駿に気に入られたらしい。駿というより息子か。アレンは「ゲド」に出てたんだから。俊君はともかく、海の声に時々違和感を感じた。冷たいっていうか、ふてぶてしい響きがあって。学校から帰ってきた海が、アイロン掛けしてるお手伝いさんに「すみません」って声かける時とか。まったく「すまな」く思っているように感じない。あと、学校の理事長に直談判しに行ったときの理事長に対する態度。とても目上の人にお願いをしに行っている態度じゃないと思う。ものすごくつっけんどんな受け答えで、分かりやすく言うと、「私の父は兵隊に捕られて死にましたがなにか?」みたいな、毅然としているというよりは私には鷹揚な態度にしか見えなかった。横で男の子二人がドギマギしている様子だったが、ほんとはあれは海の態度に内心ヒヤヒヤしてたのかも。あんな態度で。ひょっとすると海の時折みられる不遜な態度はわざとなんじゃなかろうかと、あれはそういう演出なのかもしれないと思いたくもなった。しかしここでまた自分が子供だった頃のことを思い出し、私自身もあんなふうに憎たらしい声色で小癪なことを言う子供だったかも。とツレに言うと、ツレは「横柄なんじゃなくて、媚びないんじゃない?」と言った。なるほど、媚びないね。と思いなおしてみた。そして、その言葉を思い浮かべながら、理事長の質問に答える海の顔を再び思い出したらけれど、「かわいくない」の間違いじゃない?という気もした。
 しかし確かに言われてみれば、「媚びなさ」は駿作品のヒロイン(ヒーローにも共通かな)における最重要共通項かもしらん。駿作品のヒーローは頭がよくて、ハンサムで、度胸があって、運動神経抜群(例:コナン)。ヒロインは目力があって、根性が座ってて、包容力のある、しなやかな精神の持ち主。ツンツンはしてるけど、デレッとはしない。デレッとはしないけど、必ず泣くよね。いずれにしろ、そのギャップがいいんだろうね、駿には。少女の強さを支えている弱みがあるってことだよ。
 媚びないか。私には見抜けなかったな。なるほどね。ツレは駿と女の子の趣味が合うかもしれないね。

 「コクリコ坂から」には原作があるということをプログラムの駿のプロダクションノートを読んで知った。それも漫画と聞いて、しかも「なかよし」に掲載されていたと知って、『駿が「なかよし」を?!』と思って衝撃を覚えたよ。ちなみに私は「りぼん」派だったけれど。一体、どの時点で駿はその作品に気が付いたんだ?当時「なかよし」を毎号買っていたのか?本屋の軒先で今月号の「なかよし」をむっつりした顔で手に取る駿の姿が目に浮かんだり浮かばなかったり。なくもない話だとは思うが、ウンベルト・エーコもそうだけど、彼らで言うところの「テクスト」という原典を、彼らはいつもどこからどうやって見つけてくるのだろう。不思議。なんかいいネタないかと思っていろんな文献や漫画やらを漁っている彼らの実際の活動がどんなものなのかちょっと知ってみたい。たまの土日にヴィレッジ・ヴァン・ガードに行くって訳でもあるまいに。でもそういうたゆまぬ探求が彼らの継続した創造を可能にしているんだろうな。
 そういうふうに創造する人もいるんだよね。オリジナルではなく、すでにある話を自分の思うように脚色して自分の作品として世に出すっていう人が。
 駿作品には必ず元ネタがあるよね。そういう創作をする人もいるんだね。
 ふーん。
 短大の時に比較文学で、物語のリメイクについてレポート書かされたのを思い出しちゃった。
 あのレポートはどこへ行ったのやら。


コクリコ.jpg
タグ:宮崎駿
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