SSブログ

「ダークナイト」 [watching]

 人生でこれだけ映画を見ていても、期待を超えてくる作品なんて数えてもあるかどうか。そんな現実の中で、クリストファー・ノーランは大きくその境界を越えてきた。しかもこれがシリーズであることを考えるとこの作品の評価は二重に意味が大きい。

 すごい……。圧巻だ……。あのストーリーのボリュームを手ぬかりなく、最後までやりとおすなんて。その気力たるや想像を絶する。観てる方も先のことを思いやると気が遠くなるほどだった。 
 しかし、そんな弱音や、「言うても原作はアメコミやん」なんて陳腐な批評を想起する隙など与えないほど、このクリストファー・ノーランが作り上げた世界観の完成度は高い。作品を作り上げていく過程にあってはその世界観やキャラクターのあり方において大分俳優たちと意見を戦わせたみたいだから、この完成度は監督だけのアイディアだけで成り立っているものではなく、クリスチャン・ベールやヒース・レジャーの影響も相当あってのことだと考えるべきだろう。

 始まってすぐにこの映画の先の長さに圧倒された。というのも、物語の冒頭、ブルースもしくはバットマンとジョーカーの距離が遠すぎる。その複雑な筋書きに思わず絶句した。最初二人の関係は物理的には近いようでいて、実質的な関係としては遠い。二人の間に個別の関係がまるでない。だってジョーカーってただの泥棒なんだもん。その単に猟奇的なだけの泥棒が、バットマンに興味を持って追い詰めるまでに至るモチベーションのあげようったら長いよ。だし、そもそもバットマンに対しては、ジョーカーのやり口は直接対決ではない。人質を取ってバットマンを翻弄するのが目的だ。ジョーカーはバットマンを陥れるために気が遠くなるような手間をかけてバットマンを誘い出す。バットマンの命欲しさに街の組織犯罪を言いくるめてバットマンに近づこうとする二枚舌なやり口には、筋の複雑さに唖然として、こりゃクライマックスに辿り着くまで相当タフなストーリーになってるなと覚悟した。これが火花を散らすほど近くなるにはかなりの数の段を踏んで行かなきゃいけない。誰が書いたんだろうな。あの脚本。チャーリー・カウフマンみたいに神経質的なトリックではないにしろ、核心に触れるまでのあまりの層の厚さに軽くぐったりするほどだった。実際観ながら『ながい……』と思ったもん。けど、そこはクリストファー・ノーランとしては腕の見せ所。この人は複雑なプロットを扱うのには慣れている。だんだんとカオスの色を濃くしていく中盤を経て、これをどう終わるんだと思わせるクライマックスから、きちんと最後をたたんできた。さすがだと思う。

 この作品の面白いところは、テーマの核であり主人公となっているのが「世界」であることだ。「世界」というのはグローブ(地球)とかいう個体ではあるけれどその定義においては曖昧なもののことではなくて、バットマンのいる街、「ゴッサムシティ」のことなんだけど。ゴッサムシティを「世界」とするのは語弊と思うかもしれない。けれど、この物語にはゴッサムシティ以外の世界が存在しないから、この物語において世界と言ったらすなわちそれはゴッサムシティのことなんだな。と思ってる。この視点は、でも、観に行った連れが最初に指摘したものだった。そのあとプログラムを読んで、制作的に本当にそういう意図、テーマがあったということを知って驚いた。
 私はこの作品にはどこか宗教色が付きまっとった。最初にそう思ったのは、ジョーカーが悪魔に思えた瞬間だった。ただ冷淡なんじゃない。冷淡なんて言葉では足りない。というか、彼にはそんな人間味はない。そう思える瞬間が作品中にある。観てもらえれば分る。ジョーカーのその個性の発生の起源、つまり生い立ちみたいなものは掴みどころがなくて謎に包まれている。情報がないんじゃない。彼は語る。朗々と。ただしそこに真実は含まれない。同じ話を語らない。相手の心理を巧みに掴んで嘘で翻弄する。人々は驚くくらい簡単にジョーカーになびく。真に人を従わせるのは金ではなく、恐怖であることを彼は体現して見せる。バットマンは試される。その良心を。人であることを。悪意の焦点がバットマン一人にあてられている時、その存在はバットマンの燃えるような正義感に煽られて分かりにくいが、これが世界に向けられた時そのテーマは如実に浮かび上がる。日本語でそれを何と言っていいのかわからない。けど、私は"belief"と思う。
 人々は試される。非常に原始的で、本能的でさえあるから、その誘惑は強烈だ。だがそこにかかっているのは自分と同じ命である。命の重さをはかることはできない。本来なら。なのに、あの囚人が「10分前にすべきだったことをしてやる」と言って起爆装置を取り上げた時、私は目からうろこが落ちた。『そうじゃん…』と思って。だけど実際はそんな風にはいかないだろう。私たちは自分たちの差別意識の根の深さをスクリーンの前で改めて体験させられる。
 私、「コンタクト」を観て宗教って言うのが何なのかを理解した気がする。その前から短大の牧師さんにそれらしきことは言われ続けていたんだけど、「(神様を信じないで)何を信じるのですか?」とか。でも私の胸にそれほど響かなかったんだな。自分に問われても分らないことってある。逆にそいうことは人の振りをみて理解することも多い。私にとって宗教の意味がそうだった。「信じること」。今ではそう思っている。眼に見えないものを信じること。無条件に。ありてある。だから思うんだけど、なぜそれを人に強いるんだろう。だから間違い(宗教戦争とか)が起きるんだと言うのに。

 話がずれたけど、この作品は、そのキャラクター作りにおいての精巧さが際立っている。どの俳優も独特の個性のキャラクターを演じながら、その誰かの演技が突出してしまっているわけではない。それぞれがキャラの個性をいかんなく発揮しつつ、それでいて演技は作品の雰囲気で統一されている。すなわち、みな抑えられていた。一番抑えたのは無論バットマンだろうな。アルフレッドも意外な経歴を披露して、かつブルースにかなり強面で偏っているとさえ取れるアドバイスを呈する場面であっても、彼はあくまでエレガントで作品の雰囲気を損なうことはない。抑えた演技の雰囲気は二人の会話の中にこそ発揮されていると思う。冗談を言い合っているにもかかわらず幸福の光のささないニヒルな印象は、クリストファー・ノーランが得意とする演出じゃないだろうか。
 ジョーカーの演技は非常に軽い。身軽とさえ思えるあの軽い演技が余計リアリティを持たせていたと思う。常に小躍りするような軽い演技の裏に、ヒース・レジャーの自身の演技に対する満足感が透けて見えるような気がした。彼はジョーカーを気持ちよく演じていたんじゃないだろうか。ジョーカーに生活感が何一つないところが好きだった。アジトもなければ仲間もいない。普段どうしているんだろうなんて疑問が似つかわしくないキャラに仕立て上げられててそこがよかったと思う。最後までジョーカーって誰だったんだろうと思わせるミステリアスさが彼の最大の魅力だったと思う。
 アーロン・エッカートの役はある意味汚れ役だが、ゲイリー・オールドマン同様、小市民を代表するキャラとしてよかったような気がする。印象的だったのは、公判で命を狙われてもひらりとかわし、守衛に連れて行かれる証人を眼じりに判事に向かって「まだ質問が済んでいません」と涼しい顔をして見せる。公判は検察と弁護側それぞれの悪趣味な演出による舞台であることをたった2分で表現してる。この映画の脚本を書いた人ほんとすごい。話が逸れないうちに戻ると、もう一つ象徴的なシーンが、市民の命を天秤にはかけられないとして弱気になるブルースに”You can't give in!”と繰り返し叫ぶ姿。白馬の騎士と呼ばれる正義感がよく出ていたと思う。しかしその白さも鈍るくらいこの作品の放つ光は暗い。そんな純白のセレブが堕ちていく。大事な人をだしにされ、簡単にジョーカーの罠にはまる。そんな自分を観たらかつての恋人がなんて思うかも考えずに。あっけなく憎しみに染まる。その人の弱さ、脆さ、感情に流されてただ堕ちていく姿がこの作品の中で一番悲しいかもしれない。ハーヴィー・デントにアーロン・エッカートをあてたのはいい判断だったと思う。
 今回ゲイリー・オールドマンの役はこれだけのヒーロー役に囲まれると、かなりみっともないものだったが、自分の家族を守るのがせいぜいの現実の中で生きている底辺の人々の代表として必要不可欠なというか、この作品のテーマには欠かせないキャラだったと思う。家族や恋人の命の前にあっては高尚な正義感や信念なんて彼らにはなんの値打もない。彼らの問題は常にいかに家族を、大事な人を守るかだ。国一つ買えるブルースとは違う。なぜって正義も平和もただでないことは彼らが一番よく知って分っているから。そんなものと何物にも代えがたい家族、大切な人々を比べることなんてできない。お金で買える正義や平和と彼らの家族を交換するわけにはいかない。そんな欺瞞に満ちた正義や平和は金払ってでも欲しい奴が買っとけって話だ。
 この作品で一番良かったところ。ブルースの恋人が死んでくれたこと。前回から気になってしょうがなかった彼女の存在がこれできれいさっぱりなくなった。彼女が死んでくれてほんとすっきりした。けど、なぜマギー・ギレンホールだったんだろう。もっといくらでも美人でカリスマ的なのがいるだろうに。あの、役のキャラというよりは、ケイティ・ホームズのキャラを引きずっているとしか思えないふにゃふにゃしたしゃべり方はが気に障ってしょうがなかった。あんなののどこがよくてハーヴィーやブルースが前後不覚になるくらい惚れるんだか全く理解できなかった。しかし、アニメにはない映画オリジナルのキャラであることが判明してなおさらほっとしたし、だから死ぬ筋書きも賢明な判断だったなと思う。間違ってもキャットウーマンかなんかで生き返させないでほしいと願うばかりだ。

 最近映画のCMってテレビでは見ないけど、CM活動自体は盛んなようで、ただし場所が違うみたいね。今はネットが主な広告媒体なのかな。プログラムにはかなり野心的なCM活動の跡が見受けられた。公開にあたっては通常のオフィシャルサイト以外に30もキャンペーンサイトが立ち上がっていたらしい。しかもそのうちの少なくとも3つは作品の内容やキャラクターそのものがスピンアウトした関連サイトになってる。すごい凝ってる……。相当フリーキーな奴が製作にかかわってんだなきっと。
 「私はハーヴィー・デントを信じてるドットコム」
 これはハーヴィーが検事に出馬した時のキャンペーンスローガン。
 「なんでしかめっ面なんだドットコム」
 これはジョーカーが顔についた傷の逸話を人質に話して聞かせた時の台詞から。
 「ゴッサムケーブルニュースドットコム」
 ここではハーヴィーのインタビューなんかを流してる。こういうのすごい珍しいと思う。作品とは関係なく、役のままサイト用に別コンテンツを作って載せるなんて。相当お金かかってると思うんだけど。これの費用対効果ってどうやってはかるんだろう……。
 DVD出る時はまたなんかやるんだろうな。この分じゃ。

 初めて「パトレイバー2 The Movie」を観た時、作品全体を覆うあのの緊張感とあまりのリアリティに、『アニメは実写を超えたな…』って唖然としたけど、「ダークナイト」はその時の感想を彷彿とさせる作品だった。クリスチャン・ベールだったと思うんだけど、「この映画はアメコミの品格を上げた」というようなことを言っていた。私もそう思う。その言葉は、萩尾望都がその人生をかけて漫画の認知度を上げた手塚治の功労を語った時のことを思い出させた。体制に認められない少数派やその文化はよき理解者や体現者を通してのみ体制に理解される。そう思ってる。少数派である彼らだけが努力したところで彼らの持っている本当の良さというのは伝播しない。それを支える「マス」が必要だ。
 アメコミの世界観を趣味の悪いファンタジーと片付けず、そのアニメが根本にもつテーマと真摯に向き合い、理解して、自分なりの解釈を改めて「バットマン」という形で表現することでクリストファー・ノーランと、彼のクリエイティビティを支えた俳優達は、「バットマン」という世界観を見事に昇華させた。原作者もこれには鼻を高くしているんじゃないかな。

 トイレ行ってて最初の2分位を見損なったのを差し引いてももう一回観たいと思わせる映画だった。一作目をはるかに超えてる。そう思えるからこそ、ヒース・レジャーの評価が生きてこそのものであったらよかったのにと悔やまれた。

darknight.jpg
nice!(0) 
共通テーマ:映画

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。