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「ダークナイト」 [watching]

 人生でこれだけ映画を見ていても、期待を超えてくる作品なんて数えてもあるかどうか。そんな現実の中で、クリストファー・ノーランは大きくその境界を越えてきた。しかもこれがシリーズであることを考えるとこの作品の評価は二重に意味が大きい。

 すごい……。圧巻だ……。あのストーリーのボリュームを手ぬかりなく、最後までやりとおすなんて。その気力たるや想像を絶する。観てる方も先のことを思いやると気が遠くなるほどだった。 
 しかし、そんな弱音や、「言うても原作はアメコミやん」なんて陳腐な批評を想起する隙など与えないほど、このクリストファー・ノーランが作り上げた世界観の完成度は高い。作品を作り上げていく過程にあってはその世界観やキャラクターのあり方において大分俳優たちと意見を戦わせたみたいだから、この完成度は監督だけのアイディアだけで成り立っているものではなく、クリスチャン・ベールやヒース・レジャーの影響も相当あってのことだと考えるべきだろう。

 始まってすぐにこの映画の先の長さに圧倒された。というのも、物語の冒頭、ブルースもしくはバットマンとジョーカーの距離が遠すぎる。その複雑な筋書きに思わず絶句した。最初二人の関係は物理的には近いようでいて、実質的な関係としては遠い。二人の間に個別の関係がまるでない。だってジョーカーってただの泥棒なんだもん。その単に猟奇的なだけの泥棒が、バットマンに興味を持って追い詰めるまでに至るモチベーションのあげようったら長いよ。だし、そもそもバットマンに対しては、ジョーカーのやり口は直接対決ではない。人質を取ってバットマンを翻弄するのが目的だ。ジョーカーはバットマンを陥れるために気が遠くなるような手間をかけてバットマンを誘い出す。バットマンの命欲しさに街の組織犯罪を言いくるめてバットマンに近づこうとする二枚舌なやり口には、筋の複雑さに唖然として、こりゃクライマックスに辿り着くまで相当タフなストーリーになってるなと覚悟した。これが火花を散らすほど近くなるにはかなりの数の段を踏んで行かなきゃいけない。誰が書いたんだろうな。あの脚本。チャーリー・カウフマンみたいに神経質的なトリックではないにしろ、核心に触れるまでのあまりの層の厚さに軽くぐったりするほどだった。実際観ながら『ながい……』と思ったもん。けど、そこはクリストファー・ノーランとしては腕の見せ所。この人は複雑なプロットを扱うのには慣れている。だんだんとカオスの色を濃くしていく中盤を経て、これをどう終わるんだと思わせるクライマックスから、きちんと最後をたたんできた。さすがだと思う。

 この作品の面白いところは、テーマの核であり主人公となっているのが「世界」であることだ。「世界」というのはグローブ(地球)とかいう個体ではあるけれどその定義においては曖昧なもののことではなくて、バットマンのいる街、「ゴッサムシティ」のことなんだけど。ゴッサムシティを「世界」とするのは語弊と思うかもしれない。けれど、この物語にはゴッサムシティ以外の世界が存在しないから、この物語において世界と言ったらすなわちそれはゴッサムシティのことなんだな。と思ってる。この視点は、でも、観に行った連れが最初に指摘したものだった。そのあとプログラムを読んで、制作的に本当にそういう意図、テーマがあったということを知って驚いた。
 私はこの作品にはどこか宗教色が付きまっとった。最初にそう思ったのは、ジョーカーが悪魔に思えた瞬間だった。ただ冷淡なんじゃない。冷淡なんて言葉では足りない。というか、彼にはそんな人間味はない。そう思える瞬間が作品中にある。観てもらえれば分る。ジョーカーのその個性の発生の起源、つまり生い立ちみたいなものは掴みどころがなくて謎に包まれている。情報がないんじゃない。彼は語る。朗々と。ただしそこに真実は含まれない。同じ話を語らない。相手の心理を巧みに掴んで嘘で翻弄する。人々は驚くくらい簡単にジョーカーになびく。真に人を従わせるのは金ではなく、恐怖であることを彼は体現して見せる。バットマンは試される。その良心を。人であることを。悪意の焦点がバットマン一人にあてられている時、その存在はバットマンの燃えるような正義感に煽られて分かりにくいが、これが世界に向けられた時そのテーマは如実に浮かび上がる。日本語でそれを何と言っていいのかわからない。けど、私は"belief"と思う。
 人々は試される。非常に原始的で、本能的でさえあるから、その誘惑は強烈だ。だがそこにかかっているのは自分と同じ命である。命の重さをはかることはできない。本来なら。なのに、あの囚人が「10分前にすべきだったことをしてやる」と言って起爆装置を取り上げた時、私は目からうろこが落ちた。『そうじゃん…』と思って。だけど実際はそんな風にはいかないだろう。私たちは自分たちの差別意識の根の深さをスクリーンの前で改めて体験させられる。
 私、「コンタクト」を観て宗教って言うのが何なのかを理解した気がする。その前から短大の牧師さんにそれらしきことは言われ続けていたんだけど、「(神様を信じないで)何を信じるのですか?」とか。でも私の胸にそれほど響かなかったんだな。自分に問われても分らないことってある。逆にそいうことは人の振りをみて理解することも多い。私にとって宗教の意味がそうだった。「信じること」。今ではそう思っている。眼に見えないものを信じること。無条件に。ありてある。だから思うんだけど、なぜそれを人に強いるんだろう。だから間違い(宗教戦争とか)が起きるんだと言うのに。

 話がずれたけど、この作品は、そのキャラクター作りにおいての精巧さが際立っている。どの俳優も独特の個性のキャラクターを演じながら、その誰かの演技が突出してしまっているわけではない。それぞれがキャラの個性をいかんなく発揮しつつ、それでいて演技は作品の雰囲気で統一されている。すなわち、みな抑えられていた。一番抑えたのは無論バットマンだろうな。アルフレッドも意外な経歴を披露して、かつブルースにかなり強面で偏っているとさえ取れるアドバイスを呈する場面であっても、彼はあくまでエレガントで作品の雰囲気を損なうことはない。抑えた演技の雰囲気は二人の会話の中にこそ発揮されていると思う。冗談を言い合っているにもかかわらず幸福の光のささないニヒルな印象は、クリストファー・ノーランが得意とする演出じゃないだろうか。
 ジョーカーの演技は非常に軽い。身軽とさえ思えるあの軽い演技が余計リアリティを持たせていたと思う。常に小躍りするような軽い演技の裏に、ヒース・レジャーの自身の演技に対する満足感が透けて見えるような気がした。彼はジョーカーを気持ちよく演じていたんじゃないだろうか。ジョーカーに生活感が何一つないところが好きだった。アジトもなければ仲間もいない。普段どうしているんだろうなんて疑問が似つかわしくないキャラに仕立て上げられててそこがよかったと思う。最後までジョーカーって誰だったんだろうと思わせるミステリアスさが彼の最大の魅力だったと思う。
 アーロン・エッカートの役はある意味汚れ役だが、ゲイリー・オールドマン同様、小市民を代表するキャラとしてよかったような気がする。印象的だったのは、公判で命を狙われてもひらりとかわし、守衛に連れて行かれる証人を眼じりに判事に向かって「まだ質問が済んでいません」と涼しい顔をして見せる。公判は検察と弁護側それぞれの悪趣味な演出による舞台であることをたった2分で表現してる。この映画の脚本を書いた人ほんとすごい。話が逸れないうちに戻ると、もう一つ象徴的なシーンが、市民の命を天秤にはかけられないとして弱気になるブルースに”You can't give in!”と繰り返し叫ぶ姿。白馬の騎士と呼ばれる正義感がよく出ていたと思う。しかしその白さも鈍るくらいこの作品の放つ光は暗い。そんな純白のセレブが堕ちていく。大事な人をだしにされ、簡単にジョーカーの罠にはまる。そんな自分を観たらかつての恋人がなんて思うかも考えずに。あっけなく憎しみに染まる。その人の弱さ、脆さ、感情に流されてただ堕ちていく姿がこの作品の中で一番悲しいかもしれない。ハーヴィー・デントにアーロン・エッカートをあてたのはいい判断だったと思う。
 今回ゲイリー・オールドマンの役はこれだけのヒーロー役に囲まれると、かなりみっともないものだったが、自分の家族を守るのがせいぜいの現実の中で生きている底辺の人々の代表として必要不可欠なというか、この作品のテーマには欠かせないキャラだったと思う。家族や恋人の命の前にあっては高尚な正義感や信念なんて彼らにはなんの値打もない。彼らの問題は常にいかに家族を、大事な人を守るかだ。国一つ買えるブルースとは違う。なぜって正義も平和もただでないことは彼らが一番よく知って分っているから。そんなものと何物にも代えがたい家族、大切な人々を比べることなんてできない。お金で買える正義や平和と彼らの家族を交換するわけにはいかない。そんな欺瞞に満ちた正義や平和は金払ってでも欲しい奴が買っとけって話だ。
 この作品で一番良かったところ。ブルースの恋人が死んでくれたこと。前回から気になってしょうがなかった彼女の存在がこれできれいさっぱりなくなった。彼女が死んでくれてほんとすっきりした。けど、なぜマギー・ギレンホールだったんだろう。もっといくらでも美人でカリスマ的なのがいるだろうに。あの、役のキャラというよりは、ケイティ・ホームズのキャラを引きずっているとしか思えないふにゃふにゃしたしゃべり方はが気に障ってしょうがなかった。あんなののどこがよくてハーヴィーやブルースが前後不覚になるくらい惚れるんだか全く理解できなかった。しかし、アニメにはない映画オリジナルのキャラであることが判明してなおさらほっとしたし、だから死ぬ筋書きも賢明な判断だったなと思う。間違ってもキャットウーマンかなんかで生き返させないでほしいと願うばかりだ。

 最近映画のCMってテレビでは見ないけど、CM活動自体は盛んなようで、ただし場所が違うみたいね。今はネットが主な広告媒体なのかな。プログラムにはかなり野心的なCM活動の跡が見受けられた。公開にあたっては通常のオフィシャルサイト以外に30もキャンペーンサイトが立ち上がっていたらしい。しかもそのうちの少なくとも3つは作品の内容やキャラクターそのものがスピンアウトした関連サイトになってる。すごい凝ってる……。相当フリーキーな奴が製作にかかわってんだなきっと。
 「私はハーヴィー・デントを信じてるドットコム」
 これはハーヴィーが検事に出馬した時のキャンペーンスローガン。
 「なんでしかめっ面なんだドットコム」
 これはジョーカーが顔についた傷の逸話を人質に話して聞かせた時の台詞から。
 「ゴッサムケーブルニュースドットコム」
 ここではハーヴィーのインタビューなんかを流してる。こういうのすごい珍しいと思う。作品とは関係なく、役のままサイト用に別コンテンツを作って載せるなんて。相当お金かかってると思うんだけど。これの費用対効果ってどうやってはかるんだろう……。
 DVD出る時はまたなんかやるんだろうな。この分じゃ。

 初めて「パトレイバー2 The Movie」を観た時、作品全体を覆うあのの緊張感とあまりのリアリティに、『アニメは実写を超えたな…』って唖然としたけど、「ダークナイト」はその時の感想を彷彿とさせる作品だった。クリスチャン・ベールだったと思うんだけど、「この映画はアメコミの品格を上げた」というようなことを言っていた。私もそう思う。その言葉は、萩尾望都がその人生をかけて漫画の認知度を上げた手塚治の功労を語った時のことを思い出させた。体制に認められない少数派やその文化はよき理解者や体現者を通してのみ体制に理解される。そう思ってる。少数派である彼らだけが努力したところで彼らの持っている本当の良さというのは伝播しない。それを支える「マス」が必要だ。
 アメコミの世界観を趣味の悪いファンタジーと片付けず、そのアニメが根本にもつテーマと真摯に向き合い、理解して、自分なりの解釈を改めて「バットマン」という形で表現することでクリストファー・ノーランと、彼のクリエイティビティを支えた俳優達は、「バットマン」という世界観を見事に昇華させた。原作者もこれには鼻を高くしているんじゃないかな。

 トイレ行ってて最初の2分位を見損なったのを差し引いてももう一回観たいと思わせる映画だった。一作目をはるかに超えてる。そう思えるからこそ、ヒース・レジャーの評価が生きてこそのものであったらよかったのにと悔やまれた。

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「俺たちダンクシューター」 [watching]

 「俺たちフィギュアスケーター」はまともに予告を観たことすらなかったが、その画面からはどうしてもいや~な感じしか受けなかったので、しつこくお誘いがあったけど私も粘り強く断った。けど、こっちは何となくピンときた。これなら大丈夫そうと。過大な期待をしたわけではなかったけれど、予想外な楽しみがあって結果として観て良かったかなと思う。ただまあ、こういうのはなにも劇場にまで行ってみなくてもいい類の映画ではあるよね。なので、観終ったあとやたら贅沢をした気持ちになったのは確か。これから観に行くという人も少ないだろうが、もしいれば、前売り券を購入して行かれることをお勧めしたい。

 ウィル・フェレルとティム・ファレルと間違えて会社の子に説明してしまっていたことを、プログラムを観て思い出したが、彼女もきっとティム・ファレルと聞いて別のものを想像していたに違いないと思い、特に罪悪感は湧いてこなかった。ウィル・フェレルとティム・ファレル。どっちもコメディアンで、特にティム・ファレルがウィル・フェレルの年取ったバージョンにしか見えないほど外面も似通っているとあっては、この迷惑甚だしい芸名はウィル・フェレルの狙いだろうと思わざるを得ない。
 サタデー・ナイト・ライブ出身と聞いても驚かなかった。ハリウッドで成功するコメディアンの多くがSNLの出身だし、SNLがコメディアンにとっての映画進出の登竜門的存在になっていることは、SNL側の意識がどうあれ既に歴然とした事実となってしまっている。マイク・マイヤーズ、アダム・サンドラー、クリス・ロック、などなど。むしろ、ジム・キャリーみたいなのが異例か。SNL出身でもなく、ましてやナメリカ人でもないピンのコメディアンがハリウッドの映画で常連だなんて。

 話が逸れたけど、ウィル・フェレルがどういう仕事をするかはいくつか他の映画を観て知っていたので、大体予想がついた。この人の演技は大体どれも一緒で、ましてやこういう映画ばっか撮ってて、完全にこの人の仕事自体がパターン化されてるのに、よくこんなんであきられないなとちょっと不思議に思う。「主人公は僕だった」はエマ・トンプソンがノイローゼの作家という彼女らしいエキセントリックな役に挑戦していて、他の共演者も豪華でありながら私に二の足踏ませた嫌な感じの出所はやはりこいつではなかったかと思う。70年代のエロバカナンセンスも、当人の出た「オースティン・パワーズ」がもうしばらく前っていう過去の領域に追いやられたから手を出せるテーマだ。ひょとしたら彼にとってはそれがあったから湧いたアイディアで、その頃から温めていたのかもしれないなとも考えた。
 私は予告を観ててハレルソンの出てるのがずっと気になってたんだけど、なんとなくギリギリセーフな感じで終わってくれてほっとしたというのが感想。フツーの人の役だった。フツーの人を、フツーに演じてて、改めて『この人はやろうと思えばこんなにそつなく仕事ができるのにもったいないなぁ』と思った。今ちょっと思い立ってググってみたんだが、お父さんがマフィアの殺し屋で終身刑を食らってて、今も服役中だとか。なんじゃそらと思ったけど、確か「ナチュラル・ボーン・キラーズ」ん時にそんな話を聞いたような気もするね。何となくだけど、ウディはもうというか、最初からそうだったのかもしれないけど、少なくとも当初よりかは演技することにこだわりを感じなくなっているのかもしれない。なんか生活の中心としたいものが別にありそうで。映画はその為にお金を稼いでくる手段でしかないのかもしれない。「ラリー・フリント」でオスカーにノミネートされたとき、『きっとこれがウディのキャリアで最も輝ける瞬間なんだろうな』と悲しい確信の予感は現実になりつつある。彼がもう46歳だって言うのをプログラムを読んで知って驚いた。
 ウディの恋人役がERで看護婦やってた人なんだけど、もともとハスキーだった声がさらにかすれてしまって違う人の声みたいになっているのに驚いた。連れがこの人を気に入っていた。この人を最初に観たのは「ライアー・ライアー」でジム・キャリーの奥さん役だったんだけど、縁があるのかその後もちょいちょい見かけたが、どうも彼女は所帯染みた感があるのか、見かけるたびに必ず誰かの奥さん役だった。まあいいんだけど。確かに素朴で落ち着いた印象の女性だ。だから自分の生活以外に何かこだわりがあって、仕事も遊びもバリバリのキャリアウーマンとかいう都会的な女性のイメージはそぐわない。それにしても、彼女とウディの色恋沙汰はあまりにもパッとしない話だったので、別にこのプロットはなくてもいいなぁと観ながらでさえそう思わされた。体を張ったシーンもあるので、彼女には悪いとは思うんだけど、でも、作品の品格をも一つ上げるんだったら、このもっさいロマンスはこの際おいといて、か、少なくとももっとプラトニックなものに抑えて、最初から最後まで男臭いスポ根友情ものにした方が後味もさっぱりして、映画が引き締まったと思うんだよな。って、多分そう言う「締まり」も、「さっぱり」感もこの作品作りにかかわった人たちの目指す物の中には含まれていなかったんだろうけど。
 で、も一人、年で驚いたのがいて、クラレンス役のアンドレ・ベンジャミン。同い年だった。あそう。もちょいうえかと思っていたが、私も言うほど若くない。なんとも冴えない芸名だが、しかしこれで既に何本か出てしまっているらしい。という事実にも驚いた。しかし、どれも私のまず観なさそうな映画なのでしょうがない。この作品一番の楽しみは、アウトキャストのこの人の演技を観れたということだった。アウトキャストのPV観てる頃から芝居っけのある人だとは思っていたけれど、この程度の演技なら慣れたものって言う感じだった。シリアスな場面になってしまうと途端に歯が浮く印象が画面にへばりついてしまってその辺はまだかっこ悪いけど、二足のわらじとしてコメディをこなす分くらいには十分演技ができると思った。コートでのなりきったパフォーマンスを観て、『ああ、この人ちゃんとクラレンスのキャラをつくってきているんだな』と思って感心した。「クラレンスのキャラ」と言ったら大げさかもしれないけど、弱小チームの尊大なワンマンプレーヤーがそれでもみんなに愛されるようなしぐさを彼らしく演じてみせていたと思う。本人もバスケでどうやってプレーヤーがパフォーマンスするかということを頃得ているんだろうな。それにしてもクラレンスはかっこよかった。作品中クラレンスばっか意識してた。一番ユニフォームが似合ってたし、それがまた彼の自慢のアフロを引き立ててた。

 そんなわけでユニフォームがほしかったが、売店には売ってなかったし、プログラムの最後にも通販のページすら設けられていなかった。おかしいなぁ。欲しい人いっぱいいると思うんだけど。ナメリカだと買えたりして。

 適当な造りの映画なので、可もなく不可もないが、だからと言ってこの「俺たち」シリーズをバカみたいに続けないで欲しいと願うばかりだ。

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「雪国」 [reading]

 孤独な人生だったんだな。
 て言うのが私の川端康成に対する感想。本人もその孤独に悩まされながら生きていたんだろうなと、彼の人生の簡単な描写から思った。父母を亡くし、二人きりの兄妹の妹を亡くし、育ての祖父母の最期を看取った時まだ15歳だった。一番愛情を受けたい時期に肉親を一人づつ、そして一人残らず亡くしていくのをただ受け入れるしかなかった。そんな悲しい人生がそれでも川端康成という美しく研ぎ澄まされた孤高の魂を作ったわけだから、それを考えるとやるせない。不幸がその人の才能を開花させたというならそれより不幸なことがあるだろうか。康成は皮肉にもその孤独を囲って文壇を上りつめていく。それでも最後はやはり自ら死を選んだことを考えると、結局孤独に自分を明け渡してしまったんじゃないかと思う。
 康成は幸せだったかな。人を遠ざけ、また人の営み自体を蔑むような彼の生き方を後悔したりはしてないだろうか。宝塚のレビューのように用意されたきらびやか階段をただ昇りつめて行くような彼の功績とは裏腹に、焦点を彼個人にあてると、その情景はなんだか急に色を失ってしまう。見ない方がよかったんじゃないかという罪悪感すら漂わせて。

 実は川端康成の作品読んだの初めてだ。と思う。少なくとも私の学校の授業では扱わなかった。ひょっとしたら何かしら抜粋みたいな形では教科書に載ってはいたのかもしれないけど。でもどうだろうな。この人は大人の関係の生々しいところを書きたがるんで、生徒に読まる内容じゃないと思うし。

 きれいな文章だ。品があって、凛としてる。康成の文章の物静かな美しさは、ちょっと梶井基次郎の文章を思い起こさせた。

  「それは夜深く海の香をたてながら、澄み透った湯を溢れさせていれ渓傍の浴槽である」

 康成と梶井の文章や描き出す世界から受ける印象は実際には異なる。だけど、二人の文章から呼び起される清涼感が似ている。基次郎は、弱い体を引きづりながらも命を燃やして生きているから静かな中にも自然の躍動感が感じられる。血の通った温かみのある清涼感だ。自分が享受したものを素直に、開け広げに表現する。だからそこに計算とか、打算みたいなものはない。子供じみているといえばそうかもしれないけれど、子供に美しさを言葉にする技術はない。康成は、直接語らない。美しさや、そこから受ける喜びを努めて隠す。文字にはしない。なぜしないのかしら。自分の心が感じ取る美は表現しない。目に見えるもの。形とか、音とか、色とか、匂いとか。実際にそうしてそこにあるものについては敬意をこめて丁寧に表現する。けれどそこからどれほど自分の心が乱されたか、動かされたかと言うことについては触れない。当時社会的にそう言う風紀だったのだろうけれど。そもそも康成の扱う恋の形や人間関係は社会から疎まれるはずのものだから、きっとそこに生々しい感情を入れてしまったらただのポルノになってしまっていただろう。大事にしたい気持だったからこそ美しくだけ見えるように形を整えたんだろう。宝石を研磨するみたいに。
 あったことを書かないという、贔屓目に言ってじれったいほどの奥ゆかしさは、そこに隠した秘め事を康成が大切にしたいという表れなんだと思うことにした。

 いずれにしても、彼らの表現してきた美に共通して言えるのは、それが今の文学が真似しようと思っても出来ない類のものであることだ。例えば色。たくさんの聞いたこともないような色が出てくる。

 濃深縹色(ふかはなだいろ)…濃い藍色
 玉蜀黍色…とうもろこしみたいな色なんだろうな
 檜皮色(ひわだいろ)…檜の木の皮のように黒みががった赤茶色
 桑染色(くわぞめいろ)…桑の木の汁で染めた薄い黄色
 紅葉の赤錆色(あかさびいろ)…モミジの赤が濃いやつなんかのことかな

 桑の木の汁で染めた色なんて見たことある?注解読んで思ったのは、説明されても結局損な色は見たことがないということだった。実際に目に映るどんな色のことをさしてこんな名前を付けたんだろう。想像つかなくない?大体、木を見て「あれが桑の木だよ」って言える?私は言えない。
 
 それでも桑の木は私が生まれた時から家の前にあった。ただそのことを知ったのはつい最近で、お父さんにそう言われたからだった。その桑の木は手入れする人もないまま、もう育ちすぎて、通りに体が半分覆いかぶさってた。雨が降ると顔の前まで枝が垂れてきてて、私はそんなふうに旺盛に茂ってる木が身近にあることをうれしく思ってた。お父さん曰く、この辺の人たちも昔蚕を飼ってて、その木はその名残りなんだと言っていた。私は思いがけなく、自分の住んでる場所の知らなかった歴史に触れて感動すら覚えた。けれど、そんな喜びも束の間、雨の日に顔の前まで枝をしならせていた桑の木は、交通の便のためにある朝突然なくなっていた。よく思うんだけど、お父さんが生まれてからの50年、こんな田舎のこの地域でさえその変貌はめまぐるしいものだったに違いない。その殆どが偽善的な近代化という名目のために、昔の姿をかなぐり捨てるという方法で。

 話が逸れたけれど、つまり、昔の人たちは、実際に桑の木の汁で染ったものを見たことがあるから使える表現なわけで、元禄袖(げんろくそで)や袷(あわせ)、絣(かすり)、伊達巻(だでまき)や元結い(もとゆい)、一重の襦袢(じゅばん)と言った生活様式自体を文化として失ってしまった私達にはもはや想像することすらできない。それらの美しい響きのものが既に失われてしまった時代のものなんだと言うことが改めて悲しく思われた。
 いまを生きる私たちが彼らの紡ぎだす雰囲気を美しいと感じる心を持っていて、彼らの表現をなんとなく理解できたつもりにはなれたとしても、実際の景色が失われてしまっていては康成と同じ地平に立つことすらかなわない。つまり彼らの表現した美は既に失われた時代にのみ属する、失われてしまった文化なんだ。康成が見聞きし、嗅いで、感じたその距離感で私たちがそれらをとらえることはもうできない。私たちは私たちの時代の普遍的な美の表現と言うのを見つけなければならない。しかしそんなものが今この時に存在するのかどうかも甚だ疑問ではあるけれど。
 
 雪国はその出だしの一文が、作品を読んだことのない人でも知っているくらいに有名だ。だけど私の心に響いたのはその後に続く短い文章の方だった。

 「夜の底が白くなった。」

 文学はメタファーなんだと康成を読んでて改めて思った。文学は「言葉に表す」という行為だと思う。気持ちを言葉に表す。景色を言葉に表す。美しさを言葉に表す。難しいことだ。必ずしも自分の表現したい気持ちや情景を表せる言葉があるとは限らない。それは哲学者が何千年も前から取り組んできた限界だ。だからメタファーって言うのがある。
 小説には、「しゃべっているだけ」という作品もある。エンターテイメントな作品は大体そうだと思う。東野圭吾とか、伊坂幸太郎かさ。技巧や構成上のトリックはあってもそう言うのって文学ではないと思う。文学ってそこに書かれている言葉が読んでいる人に何かを思い起こさせる力のあるものだと思う。星を想像させ、痛みを伝える力のあるものだと思う。だから、手軽で口当たりのいいだけのレトリックの恋愛小説とか、プロットに気を取られてストーリーやキャラに深みの出ないミステリーなんかとは格が違う。文章を表現とたエンターテイメントの種類ではあるけれど、文学と思ったことはあまりないな。

 物語の出だしが好きだ。冬の山奥の田舎の厳しい寒さと、暖房で暖められた汽車の中のコントラストが幻想的なまでだ。闇に浮かび上がる雪のほの白さ、汽車の明かりが灯す温かいオレンジ。島村の視線だけで追ってゆく描写は、一人ものが旅をしている情景を物静かに浮かび上がらせる。

 きっと康成自身が清潔感を好むが故に、作品全体に襟元を正したような清潔感が漂っている。作品中に何度も「清潔」、「清潔」と出てくる。康成が「清潔」という印象を受ける景色を私も実際に見てみたかったなと思わせるほどだった。
 そのくせ康成は生臭いテーマを書くのが好みらしい。島村が汽車の中で気を取られている女の顔が映る車窓に駒子を見て慄然としたりする場面には、ホラーの臭いさえ強く漂って、私はちょっとそこが好ましかった。それで思い出したのは、「源氏物語」だった。いつの世も人の心を捕えるのは情、怨念なんだなと思って。けど、これは私の印象だけど、たぶん康成は基本的に女の人が好きなんだと思う。それも駒子たちみたいに影のある。つまり、意地悪く言えば、付け入る隙のあるタイプの女性が。そう言う都合よく振り回せそうなのが。冒頭の汽車の中でも、そのあと温泉場についても葉子が気になってしょうがない。傍目に見ても駒子の方が見た目とかじゃなく、人の気質としていい女そうなのに、駆け落ちでもして駒子との縁を無理やりに切ろうかしらと妄想すらする。その過程で結局この葉子の気性がおかしいなと言うことに気付いて島村の葉子に対する気持ちもしぼんでいくわけだけれど、そうでなければ島村はいつまでたっても葉子の『悲しいほど美しい声』や子供をあやす無邪気さに捕らわれていたことだろう。

 とにかくそのようにして島村は、表面上の美しさにこだわる訳だけれど、その清潔感を褒められて好かれた駒子がうらやましかった。清潔感漂わせてる人なんて周りにいる?私はちょっと思い当たらない。きっときれいな人なんだろうなと思った。駒子は情が深くてかわいらしくて、確かにいい女だと思った。島村みたいな男にはもったいない。これと言って大事にしてくれるわけでもないのに駒子は島村の何に惹かれたんだろうなぁ。第一、島村は駒子の個人的資質に関しては否定的な言葉しか投げかけない。島村の否定的な発言は、明らかに駒子の感受性の豊かさ、気質の気高さへの嫉妬から来ている。取り敢えず、100%見た目から入って行く島村が、その人の本質を知って惹かれていくという現象時に島村の自信が揺さぶられるさまもよく描かれていたと思う。しかし、日記をつけていることも、読んだ小説のメモをとっていることも、意外と文化に精通していて歌舞伎なんかに詳しく、独学で三味線や唄が島村の鳥肌を立てる程であること、つまり駒子の才能自体が島村には気にくわないようだった。こんな田舎の温泉場で芸者というか、お酌風情に身を落としているような娘はもっと憐れまれるべきというふうな差別意識がにじんでる。まあでもきっと駒子はしっかりした女性だからきっと島村のことなど振り切って新しい人生をどんどん歩いて行ってしまったろうと思うんだけど。きっと置いてけぼりを食らうのは島村の方だったろう。そう思ったら少し胸がすいたし、駒子が島村を過去のものにして自分の人生を歩んでいく姿を想像したら晴れがましかった。むしろ過去のものにされていく島村の方が気の毒に思えたくらいだった。

 島村はマニアだ。それは随所に表れている。女性の美しさを語る時には誰でも格好を付けたがるもんだから、分かりづらいかもしれないけれど、一人で山歩きするのを好む一家の主って言う時点で相当偏執的だと思ったし、その上個人的な趣味から発展して外国の舞踏などの翻訳を生業としているなんて説明された日には『オタクじゃん』という判断をするに到った。それがもっともらしく表されているのが縮(ちぢみ)のくだり。
 縮って、この地方で名産とされている麻の夏衣のこと。「雪国」の舞台はどうやら新潟のようであるけれど、注解にある「北越雪譜」に書いてある産地4ヶ所で造られるものを「小千谷縮(おぢやちぢみ)」と呼ぶみたい。駒子の住まう温泉場の近くがこれの名産地で、春になると立つという縮市の話は私も好きだった。昔の人間らしい根拠のない差別に満ちた逸話ではあるけれど、それを信じで暮らしてきた人々の文化が築いてきた逸話でもある。25歳を超えたらいい糸がつくれないだなんて。シャネルに意見しながらコレクションを作ってるおばさん達が幾つだと思ってんの。年齢に限界を作りたがるのはなぜなのかしらね。女の人の場合は健康な赤ちゃんを産むのが社会的責任と決めつけられてしまっているからなんだろうな。まあだったら女をもっと大切に扱うように社会的に優遇したらいいと思うけど。機会は均等に与えられるべきとは思う。だけど、それ以前に性における役割が全然違う。男の社会に組み入れるだけのシステムなら均等などという定義からは程遠い。命を産むことができるのが女性だけだと分っているなら、女性が自分の社会的な役割において自らする選択をもっと社会は支援すべきと思う。それがあってこその機会均等だと思う。まあだから世界は男のやりやすいようにしか出来ていないってことだな。

 話が逸れたけど。
 このように詳細に語られるこだわりには、おそらくこの小説を読んだ誰もが、『島村=川端』という印象を受けるに違いない。その証拠に、ご丁寧にも注解に下記のような補足がある。
 
 「島村は私ではありません。男としての存在ですらないようで、ただ駒子を映す鏡のようなもの、でしょうか」

 はたしてそうかな、康成君。
 島村が縮められないこの駒子との距離感は、康成自身の人生観じゃないのか。

 「駒子が自分の中にはまりこんで来るのが、島村には不可解だった。駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子に通じていそうにない」

 誰にも打ち解けることをよしとしなかった、君自身が「孤児根性」と呼ぶ気質からくる孤独じゃないのか。素直になることができなかった康成の葛藤が透けて見える気がする。

 駒子と島村はお互いの距離を縮めることはできない、これは不倫だから。それでも魂は呼応する。その二人の魂が自然に惹かれあう様が実に美しいと思った。駒子の嘘のないそのありようが、島村に美しいものを見せている。孤独な島村を暖めている。そんな気がした。だから島村は駒子を求めるのだろうと。

 物語の終わり、島村は駒子に言われるまま夜空を仰ぎ見て、体が掬い上げられそうになる程の浮遊感を経験する。ここを読んで男って女に言われなかったら空を見上げない生き物なのかしらと思った。
 きっと島村は夜空を見上げるたびに駒子を想うことになったろう。


雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

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