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「ノルウェイの森 ㊤、㊦」 [reading]

*** プロローグ ****

 この歳でこの物語を読むことは因縁の対決だった。
 もっと他にドラマチックな言葉があるだろうけど、今の私にはその表現以外に思いつかない。
 この本が何週も売り上げのランキング1位であるとこを、バブル期特有の中身のない夕方の情報チャンネルで頭の悪そうな女や男が騒いでいたのを覚えている。この本に関する記憶は、まだそんな私が子供だった場面から始る。
 中学生になって読書に興味を持ち始めた私は、それまでキングや、シェイクスピアや、とにかくクールで良質な外国のエンタテイメント文学を好んで読んでいた。「クールで上質」というのは、当然今から思えばということだけど。年齢から言って経験があるわけでもないのに、よく失敗もせずにそんな狭い分野ではずれを引かずに生きていたなと我ながら感心する。その目隠ししながらの平均台渡りみたいな選り好みを、そんな危険なこととも、選り好みとも思わずに、ただ自分の自然な欲求に従って本を選んでいるだけと思って実際生きていられたその純粋さをadolescenceって言うんだろうなぁとこの歳になってやっと定義できる。恥ずかしい話なのかもしれないけど、私は20代の前半までは自分はまだ青春の中にいるんじゃないかって思っていたし、つい最近まで青春ていつまでのことを言うんだろうなぁと思ってたんだよ。
 話が逸れたけど、ハルキのこの本はそんな偏見的な外国文学フリークの中学生が始めて手にした国産現代文学だった。

 当然、私はこの話を毛嫌いした。
 「なんじゃこりゃ。これが日本のベストセラーだって言うなら、もう二度と国内の文学は読まない」
 と、以来ハルキは私の中で多感な子供の心に固く誓わせた罪深い作家になった。つまり、そのつまらなさのショックの度合いはトラウマになったと言い得るものだったということだ。それでもね、私はまだ生徒だったし、学校やその他のふとしたきっかけで日本の古典文学に出会う機会は海外の逸れに比べてはるかに多い。小学生の頃に読んだ宮沢賢治の夢のような物語や、夏目漱石の奇跡のように美しい文章や、三島由紀夫のドラマ性には大きく心をゆすぶられた。そう言う出会いをするたびに、日本文学にもやはりすばらしいものがあるんだということを実感として認めないわけにはいかなかった。けれどそれはいつでも古典であったから、現代の日本文学に同じ賛美に値するものはないとハルキのこの話だけで中学生の私は結論付けていた。重ねて言うと、その結論に疑念を挟む余地は私が26の歳になるまで一切なかった。

 好きな人が出来ると、その人の趣味や考え、その人を成り立たせているもののことを知りたくなるものなんだということを、体験として知ったきっかけもハルキだった。つまり、それが時期的に私が26歳の時だったということになる。そもそも私の友達で趣味として本を読む人がまずいなかった。いたとしても暇潰しの程度だった。通勤の1時間を潰せればなんだっていいようなものを読んでいるわけだから、文学に対するこだわりとか、ましてや自分の考えみたいのがあるようには私には見えなかった。だから本に関して、文学に関して意見を交わすような友達というのを私はどの時代にも持ち合わせなかった。
 26になって、好きな人が出来て、好きというか、今でもよく思うけど、それは「憧れ」と呼ぶほうが相応しいようなまぶしい感覚だった。その人は本を読む人だった。本を読んで意見を言える人だった。その頃には自分の趣味がかなりアカデミックに偏ったものであることは自覚していたけれど、彼は私の読む作家も知ってたし、読んだこともあるようだった。中身は覚えてないっぽかったけれど。でも、彼には彼なりの世界観があって、文学観があった。私はその時そのありようの詳細まではまだ知らなかったけれど、でも、文学に対して自分の考えをちゃんと持った男性を私はその時初めて見た。それを自然とする人には理解が難しいと思うんだけど、本を読んで何か身のある意見を持つ人はなかなかいない。
 とにかく、そのように共通の趣味を通して、私は生まれて初めて個人的に尊敬出来る異性を身近に感じた。その感覚は、ただ単に好意とか、好感って言うのとは違っていたと私はその時から今でもずっとそう思っている。
 その人がハルキを好きだって言ったんで、そこから私のハルキをめぐる長い旅が始る。「ノルウェイ」が私にとってどういう作品かは最初にハルキの話が出たときに話してあったから、私の度はずっと「ノルウェイ」を避けてその周りをぐるぐるとまわっていった。もうこれ以上読むものがないという地点まで来て、初めてこの物語と対峙する気になった。それは、ここまで来てもはやハルキに対する考えみたいなのが決定的に変わってしまうと言う程のことは起こらないだろうという算段からだった。だってもうそれから6年も経ったわけだから。今までいくつ物作品を何回となく読み直して地道に築き上げた私のハルキに対する分析が、今更この一作品で塵となって吹き飛んでしまうような劇的なイベントは起こらないだろうという自負に近いものが持てるまでになっていたからということもある。でも万が一ってこともある。なんだかんだ言って、私が保証し得ない部分での不安はあった。なんたってこの人が私にとっては全ての現代的日本文学をあきらめさせた張本人なんだから。

***

 結果として、中学生の私が感じていたことは正しかったんだじゃないかなと結論付けられたことが読み直しての最初の印象。私は当時と全く同じ部分で、他の作品では見たこともないようなつまらなさを感じた。本当に衝動的に本を放り出したくなるような等級のつまらなさに襲われた。それも上巻の冒頭部分でだ。物語の端っこにも届いていないような部分でだ。で、当時の我慢を知らない私はその衝動のままに本を投げ出して、以来手をつけなかった。だから私は物語がその後どういう実際的な体裁を取って、どう終わるのかということを知らないままだった。知っているのは人づてに聞いた上辺だけの感想で、それは具体的な形を成さなかった。
 話が前後しちゃったけど、そんなわけで私は二度目にやはり同じ部分で同じような感覚に襲われたとき、『この話を本当に理解して面白いと思えた日本人て何人いるの?』という疑問が頭を過ぎった。これがベストセラーになれたなんて、本当に未だに、改めて読んでみても信じられない。結局世相の問題なんだろうか。バブル期のあらゆる芸術活動に対する軽薄な空気が勝手に増殖してった結果なんだろうか。結局これも意見を持たない人間たちのなし得る中身のない結果なんだろうか。村上春樹って言う同世代なら反応しないわけにはいかないブランド、恋愛という手軽で身近な印象。しかしてその実態は、ほんとにこれを最後まで読み通して理解できた人間なんているのか?と思わせるほど病んだ内容だった。これをベストセラーに押し上げた人々が一人残らずこれに感情移入できたって言うなら、尋常じゃない数の日本人が相当に心を病んだ心を抱えて生きていたってことになる。第一、バブルで毎週末浮かれ騒いでいるような人間が手に取るタイプの本じゃない。なんでみんなこれを読んだの?
 と改めて時代の現象を責めたい気持ちになった。恋愛という感情の動きを理解できる年頃ではなかったということもあるかもしれないけれど、それにしたってこの拭い切れない程の嫌悪感ははやりハルキ独特なものだと思う。
 飛行機の中の場面、特に「僕」の意識が朦朧と思い出の中をさまよい始める場面。あれがどうにも嫌い。訳も分からないまま、すごい吸引力で「僕」の鬱に引きずり込まれてしまう。そういう重苦しい感情の巻き起こる理由の一つも理解できないのに、その感覚だけが圧倒的に吹き付ける。この場面はハルキの言う砂嵐に似てる。これがなんだかはさっぱり分からないけど、この理不尽さを抜けなかったらその先にあるものには辿り着けない。物語の核心を見ることは出来ない。
 で、この時は先に進むことが出来た。この砂嵐を過ぎると、そこから先は恐ろしくフツーの世界だった。冒頭のあの感情の渦だけが他の作品には見られないパワーで、それ以降は私の知っているハルキに再び出会うようなもんだった。ただ、違う名前と違う時代なだけで、それは既に何度も違う作品の中で語られてきた話だった。帯の中でハルキは「この小説はこれまでに僕が一度も書かなかった種類の小説です。」と言っているけれど、ハルキよ、君が「違う話」なんかしたことはこれまでただの一度もないよ。これまで君が違う「僕」を一度も語ったことがないように。

 「カフカ」がハルキの作品の集大成なら、「ノルウェイ」はその組成の一部としてはかなり濃いエッセンスだったと思う。恋愛に関する心の動きは全てここに集約されているんじゃないかと思えるくらいだった。「僕」は死んでいった人々に囚われている。あきらかに「僕」がいながらそれよりも死を選ばれてしまった直接的な被害者としての心的外傷。そんな誰にでも起こりえることでない傷をこの人は信じられないくらいたくさん持っている。この人の周りには自ら死を選ぶような友達しかいない。緑がいなかったら「僕」は立ち直れなかったと、現実に自分を繋ぎとめておくのは相当に難しかったろうと思う。それでいてはつらつとした緑の存在は物語的にいまいちピンとこない。曇っている。ヒロインという感じがまるでしない。むしろ、幽霊のような直子の存在感の方がこの物語を通して圧倒的に大きい。印象も薄いし、台詞だって、現実的な登場場面だって少ないのにだ。そして「僕」の気持ちは緑を選んでおきながら、直子の方を向いている。「僕」にとっては直子こそが永遠の女性だで、緑は現実をともに生き抜くための同士みたいなもんだ。きっと緑は「僕」とのこの先の人生で何度となくその事実にぶつかって嫌な思いをするだろう。けど、現実的に二人は二人以外に分かり合えないことを知っているから離れるわけにはいかない。つまり、緑と「僕」は現実的な仲なんだね。それ以上のものを望むなんてひょっとしたら贅沢なのかもしれないけど。私が甘ったれたことを言っているだけなのかもしれないけど。けど、それは悲しくない?好きな人の心の大半は死んでしまった人が占めている。生きて今目の前にいる私でなく。そしてその永遠性は生きているものには侵しようがない。つまりその気持ちの固さに生きてる人間は勝てっこないってこと。不公平だけど、「僕」と一緒にいたいなら緑はその不公平を飲み込まなければならない。あるいは緑は現実的に「僕」には自分だけだと思えればそれで満足するかもしれない。一貫して現実的な人だから。

 これ読んでてめずらしいなと思ったのが、漢字をよく使っていることだった。最近の作品ではわざとひらがな表現を使っているようにすら思えるのに、この作品ではわざと常用しない漢字表現を使っている気がした。「木樵女」って言うのは有名な話らしいね。正確な読み仮名はネットでは分からなかったな。造語だったりしてね。「きこりめ」とか「きこりおんな」だろうというのが大筋か。あと「顰蹙(ひんしゅく)」とかね。書けないでしょう、そんな漢字。
 あと、めずらしいと言えば、「僕」がセックスの流儀を彼女に気遣って自粛する姿なんてこの作品以外では見られない。ので、直子との思い出を大事にしたいからという「僕」理由は今更私にしてみれば空々しくさえ響いた。こんだけ散々しまくった後で。それこそ直子にはどうでもいいんでは。おそらくだけど、セックスを誰とするかということはハルキにとってはあまり問題ではないんだろう。多分、これに関して私とハルキが見解を等しくする日が来ることはないと思う。

 この作品の中で一番好きだったのは、直子の追悼に不思議なおばさんがギターで50曲休みなく弾き続ける場面。あれは圧巻だった。その情熱。故人に対する想いの全てがそこに現れている気がした。「あんなふうに人は死んじゃいけないんだ」とメソメソする「僕」とは全く対照的である。結局、泣いたカラスがおばさんのまっすぐな情熱にほだされて、最後にはちゃっかりセックスしちゃう。物語にはあまり明確には描かれないけど、でもおばさんが「僕」にとってどれほど重要な人物かということを「僕」自身があまり気付いていないようだったのが残念だった。でも、それが普通なのかもしれない。特に自分が若いときには。「僕」はこの不思議なおばさんなしには直子という深い森を抜けてはこれなかっただろうと思う。そして森を抜けた先に緑という女性が待っていなかったなら。それこそ「僕」はバラバラと意味のない形に崩れていてしまって、そこからまた「僕」という人間に一つにまとめるあげることなんて出来なかったんじゃないだろうか。「僕」はおばさんにもっと感謝の気持ちを抱いてもいいんじゃなかと思った。
 あとは、「僕」が緑のお父さんと二人きりになってしまう場面。余命少ない病人を前に、「僕」は突如として饒舌になる。「キウリ」(キュウリとは表記しなかった)の話をしたり、デウス・エクス・マキナの話をしたり、尿瓶に尿を取ってあげたりする。人間の命の費えるときの貴重な時間を、善意を持って、あるいは敬意を持って心温まる場面にしたと思う。

 なんだかんだで、これは結局ハーッピーエンディングな物語なんじゃないかと思った。まあ、そう言う話自体、ハルキの作品の中ではかなり稀であることは確かなんだけど。一見、このエンディングはハルキ特有の、読者に投げやりなぼやけた終わり方のように思えるかもしれないけれど、これは「僕」の心の問題であって、緑は現実の人でそこにちゃんといて「僕」を見つけ出せる。「スプートニク」の時とはちょっと訳が違う。二人とも現実の人間で求め合っているということだな。
 このエンディングはむしろ贅沢すぎるかもしれない。緑という女性が出来すぎているだけに。きっとこの人がハルキの奥さんなんだろうなと読んでて思った。緑はその海のように深い心で「僕」に起きた理不尽で淋しくて不幸な別れのことをなんだって理解して許すだろう。「僕」は今目の前の失ったものの大きさに目を奪われてて、当然のようにそこにある幸運の大きさにはまだ実感が持てていない。読後にはそんな印象が残った。
 初めて「僕」を羨ましいと思った。どれだけ「僕」の周りで不幸が吹き荒れようと、最後には自分が誰を本当に必要としているのかを発見して、そしてその人を手に入れることが出来た。こんな幸運は滅多にない。そんな類稀な幸福が自分に訪れたことに気付けば、自分を置いて行ってしまった人達のことももう少し許せたんじゃないかと思った。

 それでもだ、「僕」がこのいなくなった人達、特に直子に対する「僕」の愛情や憧れは痛々しいまでに純粋で、特に二人でいるときの様子は、他の何者も入り込む隙のないほどに二人の関係が親密で特別なのがよく分かる。はっきり言って、それでよく緑の方がいいなんて思えるなというくらい「僕」の目ににも頭にも直子のことしかない。
 でもね、結局「僕」は心のどこかでは直子が自分のものにはならないだろうということを世界の真理として知っていたから緑を選んだんじゃないなとも思える。直子が死を受け止め切れなくて放浪に出た僕は思う、「おいキスギ、とうとうお前は直子を手に入れたんだな」。この辺りには「僕」の大切な人々をこの世に繋ぎとめられなかった悔しさがかなり率直に表現されていると思う。

*** エピローグ ***

 ハルキの言うとおりこれは喪失の物語だ。10代とか20代の多感な時期にこんな経験をすることをちょっと私は想像できない。なんて複雑な森を抜けてきたんだこの人はと思うと、深いため息を付かないわけにはいかないけれど、でも、ハルキは今生きているわけだから、その森を抜けたところでハルキの得た物を知りたいと思った。
 ハルキはその後の人生にどんな意味を付与するんだろう。何度も言ういけど、これまでハルキの描く話は名前と場所と時間が違うだけでいつも同じ物語だった。けど、その螺旋の描く弧も「カフカ」で閉じられた。それはハルキの意図したことではなかったかもしれないけれど、それはそれとして次のテーマに移る時なんじゃないんだろうか。「その後の僕」の話に。

 最初にこの本を放り出して20年近く経った今、読み直して最後に考えたのが、そんなハルキの新しい歩みについてだったことに今とても満足している。

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タグ:村上春樹
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