SSブログ

「タンノイのエジンバラ」 [reading]

 なんだかつまんないものを何度も読まされた感じ。いや、そのまんまだけど。
 つまんないと言うか、結局ね、長編なら1冊に凝縮されているエッセンスが短編になるとバラけて、「この話にはこれが入ってる」、「別のこの話にはこれが入ってる」みたいな感じで、逆につぎはぎ感があった。本来は長編の方につぎはぎ感を感じるべきなのかもしれないけど、長編の方を先に読んでてこの短編集を後から読んだからな。
 あと、素直にこの人は短編がそんなに上手じゃないのかもと言う感想も得た。ハルキのほうが内容はくだらなくて、砕けてても、まだ作品としてまとまってるし、やっぱり総体的にうまいと思う。短編ってもののあり方、捉え方がハルキのほうが私と似てるんだろうと思う。
 他の芥川賞の作品を読んでて思うんだけど、作りすぎじゃないかな。漱石がさらっと書いた「夢十夜」みたいな世界観を必死こいて短編で表現しようとしてないだろうか。短編は必然的にそうなったものだけが短編足りえるような気がする。だって読んでて違和感があるんだよ。それだけプロットが不自然だってことでしょ?不自然だってことは、本当は短編を狙って作ってるのに失敗してるってことだよね。
 長嶋有は長編も書けないけど短編も書けない。中篇が好きなんだよ。体質的に中距離ランナーなんだろう。その距離が最も得意でいい成績を残せる。「パラレル」は長編だけど、「なんでこの話をこの尺で語りたかったかな」と思うくらいしつこいし、くどい。そしてここに収められている話のいくつかは短編と言うにはちょっと冗長なんじゃないかと思わせる疲労感が読後に残った。まあ、扱ってるテーマもテーマなら、この人の書き方も書き方なのでぜっぜん楽しくないし。楽しめない話を何度も繰り返し読まされるとさすがに「もう当分長嶋はいいです」という気持ちになれた。
 ただ、「夕子ちゃん」や「猛スピード」の良さを振り返って考えてみるだに、これらのしつこさや冗長で無駄な感じの作品を書いたのが同じ人なのかと思うとかなりのショックだ。多分、彼が本当に体調がよくて気持ちの乗ってるときの走る中篇は確かに私好みなんだろうな。

 先に言ったけど、これまで読んだエピソードの切った貼ったがそこここに出てくる。長編でなら意味を持ったそれらも、ここではしつこい繰り返しにしか響かないことにがっかりさせられる。いっそのこと書かなくてよかったんじゃないかと思う。
 同じテーマが作品をまたいで繰り返し現れると言うのはハルキを読んでて何度となく体験したことだけれど、長嶋のこれはなんていうか、ただのネタに落ちてる。ハルキのはあくまでエッセンスとか、テーマとしてある。根源的には同じものでも、その物語にあった装いで現れて存在する。ハルキの持つそのテーマやエピソードのあり方は、あたかもそのテーマに人格が与えられているようで、同じテーマが違う顔をして個々の作品に存在する。複数のテーマが潜んでいる場合もあれば、一つだけに集中して描いている時もあるように思う。だから、読んでいて『今回はこっちがテーマなのか』とにニヤリとさせられる。そして全ては「カフカ」に向かって流れていたものだと言うのが私の持論。

 「タンノイのエジンバラ」
 スピーカー屋さんなんだ。こういうのは、あー、全く分らないけど。どこがいいとか。けど自国の土地の名前を製品名してるところは好感が持てた。センスのよい国家主義だと思う。
 【TANNOY】
 http://www.teac.co.jp/av/import/tannoy/index.html
 しかし、TEACが卸しててびっくりしたんだけど。なぜ?TEACってひょっとしてオーディオメーカーなの?ま、メーカーって訳ではないのかもしれないけど、ずっとPCの周辺機器メーカーだと思ってた。なんかAV系の電器屋みたいな感じだな。変な会社。
 脱線したけど、これが一番読みやすかったと思う。好きではないけれど。そういった意味では好きな作品はこの短編集の中には見つけられなかった。
 グーフィーとプルートのネタが異様にひっかかった。どっかの映画で観たんじゃないかと思うんだけど、そう言うすぐ足のつくネタを使っていいもんかとも思った。

 「夜のあぐら」
 ひょっとしてこういうのが長嶋らしいのかもしれない。と思わせた作品だった。「夕子ちゃん」とか「猛スピード」は結局その現実の上っ面で書いたファンタジーに過ぎないのかも。つまり、この作品の方が長嶋にとってはリアルなんじゃないかと。ここに出てくるどのキャラにも感情移入できないんで、これまた読んでてそわそわと落ち着きのない感じにさせられたが、夫婦の不和と、家族の離散と、兄弟の心理的な乖離は長嶋の一番得意で描きたいものなんじゃないだろうか。つまり、家庭の歪(ひずみ)。共通してるのは、主人公はその歪に対して何もしない側にいるってこと。この次女に到っては家族のことなどどうでもいいと言うふうにすら取れる。彼女は何が理由で彼等の間に関わり合っているのかが分らない。つまり彼女自身の家族に対する主体性が見えないんだな。弟の世話も面白いからしているだけにしか見えない。両親の離婚も、姉の煩悶も、弟の無気力も、全て知っていて自分には出来ることがないと、私は無力だと言うスタンスを取っているけれど、本当はどうでもいいんだよ。家族の問題を描きながら決して核心に触れることのないこの冷ややかさは一体なんだろう。そこにメッセージがあるのかないのか。もしこれを素で描いてるんだとしたら、長嶋の家族観には相当問題があるように思う。
 あと、長嶋の作中に出てくる姉と弟という設定の距離感も私には理解できない。仲良すぎないか?気持ち悪いと思うのは私だけだろうか。長嶋の作品に出てくる弟はみんな素直でいい子だ。ただ、いい年しておねえちゃんと一緒に遊びまわったり、ましてや部屋に泊まりに行くってどういうこと?これが普通ならすごいカルチャーショックを覚えるんだけど。私が直美と仲がいいのは直美が女の子であるからであって、これが弟だったりお兄ちゃんだったりしたらまずありえない。長嶋自身がこういう構成で育ったせいなんだろうか。
 最後に、この作品にこのタイトルはどうなんだろうと思った。

 「バルセロナの印象」
 これ読んでて、友達がみんなと集まって飲んでるときにその場にいない友達から来た手紙を読んだら泣いたりしたことを思い出した。と言うくらい、なんだかOLの旅行記を読まされている気分になった。長嶋の感覚ってちょっと女っぽいところがあるからな。ただの旅行自慢だよ。それにしてもバルセロナってところが多少でもどんなんか知っててよかった。でなきゃ、よっぽどつまんないことになっていただろうな。この人、文章はきれいだけど、描写がうまいって訳じゃないのかも。

 「三十歳」
 こーれはやだった。すごくやだった。やなものがつまってる感じだった。私の嫌いな話の代表になれるかもと思った。長嶋は何がよくてこういう社会不適合のニヒルで薄情な女を描きたがるんだろう。「猛スピード」のお母さんとはまた違う。強情なりの直向さとか、愚直なまでの実直さみたいなのがない。えー、つまり日向を歩いていないという印象。「猛スピード」のお母さんは白い目を向けられても、やましいことはないというプライドがあるから津よ日差しの下を歯を食いしばっても歩いていける生きてく力みたいなのを感じたけど、これは、もやしのような感じ。この全てを分ったつもりでいるシニカルさが私にはどうしても好きになれなかった。

タンノイのエジンバラ


nice!(0) 
共通テーマ:

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。