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「猛スピードで母は」 [reading]

 「夕子ちゃんの」を読んで、他のも読んでみたくなって、本屋さんに行ってみたけれど決めれられず、結局あるだけ買ってきてしまったうち一番初めに読んだ本。芥川賞を獲っている事は当時から知っていた。ただ、世間で言ってる前説を読んでもどちらかというと遠ざけたいタイプの作品にしか思えなかったので手にとろうとも思わなかった。ニューエイジとか、時代の寵児みたいな触れ込みにはまず手を出さない。そんな移ろいやすくて実体のないものに魅力を感じたことがない。でもそれが一方的な偏見であったということがよく分る。もうあれから3年も経ってたのか。私が買ったのは文庫だった。

 芥川賞に選らばれる作品は短い。短くて淡々としている。そしてどちらかというと生活感を感じさせない。主題はそれこそ生臭いものだったりするのに、なぜかみんなそんな直接的な生活のことを書いていてもどこかふわふわとしていて足の着けどころがないような、白昼夢めいたファンタジーみたいな印象がある。これもファンタジーといえばファンタジーか。リアルタイムjな話じゃない。過去の回想録だ。長嶋は過去を振り返るときの視線がとても感傷的だ。そんな風にして振り返ることは、きっと懐かしいというよりも、痛々しいだろうなという気さえする。なぜって、彼の幸福な思い出は必ず不幸で包まれているから。長嶋が描写するその視線は徹底してセンチメンタルだ。けど、決してメランコリックではない。彼は夢を見ているわけではない。当時の自分の純粋な感慨を、今になってみれば分る事実や現実との分析にかけて理性的に捉えようとする。だから、当時の感情は、喜びにしろ悲しみにしろ、もっと大胆なものだったんじゃないかと思う。

 「猛スピードで」は2編が収録されていて、どちらも子供が主人公の話だけれど、それを大人になった本人や、第三者が回想することで語られる。だから純粋に子供の気持ちが描かれているわけじゃない。大人になった本人がそう言っているに過ぎないのだ。大人になるまでに身に付けた色々なフィルターを通して子供の頃の感情を語ってる。文章であれ、生身であれ、子供の心象を実際に捉えるのは本当に難しいと思う。

 前編は「サイドカーに犬」。こっちの話は好きになれなかった。「洋子さん」はいい女なのに負け犬の「お父さん」に片想いで、「お父さん」には家出された「お母さん」がおり、「お父さん」はこれを前にすると逃げ出すような小さい人間で、しまいには会社の金庫を盗んで捕まる。こんな人間の何に惹かれてしまうんだろう。理解できなかった。一番不愉快に思ったのは優秀そうな「洋子さん」が愛人の子供の世話なんかするところだ。なぜ?自分との関係を清算も出来ない男の子供の世話なんて。しかも、子供の置いてきぼりは、その母親が責任放棄した結果なのに。どれだけの男だったらそこまでしていいと自分に納得させられるんだろうと思った。
 長嶋は子供の頃のエピソードをたくさん持っている。それだけに子供の描写を身近に感じることが出来る。「サイドカー」なら風船に絵を描くところろか、「猛スピード」なら雲状形定規を蛍光灯の明かりに透かしてみるところとか。この人の物語では孤独な子供の一人遊びの描写が映える。自分だけのお気に入りや癖を、その瞬間は誰にも共有できないその子だけの世界としてうまく描き出せていると思う。そこに感心した。
 それにしても、父親が逮捕されるというプロットには私もかなり驚かされた。本当にどうしようもない男だったんだなと心底あきれる。あきれる一方でだからやっぱりなんで「洋子さん」はこんな男の何がよくて付き合っていたんだかが不可解だった。
 あと、私の印象としてあまり「薫」が女の子らしく感じなかった。子供の頃の彼女をそう思うんじゃなくて、それを回想している彼女自身を。これまでで長嶋の作品は3つ読んだことになるんだけど、既に彼の描く、もしくは描きたい人間像の趣旨がつかめてしまったように思う。それを悪いことだとは思わないけど。彼はとてもよくキャラクターが描けていると思う。うーん、なんかそう言うと語弊があるんだけど、つまり、彼の描きたい人をかけているように思う。彼はこれらのキャラクターを気に入って書いているんだなというのが読んでてよく分る。ハルキなんかは不愉快なキャラもちゃんと書けるけど。桐野夏生とか。でも長嶋は多分そう言うタイプじゃないんだろう。私もそうだ。嫌いな人は描けない。描いたことがないから描きたくないというのが本当か。
 長嶋は自立した女性を描く。黙々と、歩んでいく女性というか。なんかイメージとしては、小柄なんだけど、でも意志が強くてたくましそうなしっかりとした顔つきをした女性が周りには目もくれずせっせと歩いている感じ。でも多分自分がどこへ行こうとしているのかそれほど分っているわけじゃないんだよ。それでもせっせと歩き続けてる感じ。「サイドカー」の「洋子さん」もそんな感じだった。小柄って印象はなかったけど。きっと長嶋はそう言う女性が好きなんだろう。
 そしてその一方で男はみんなダメダメだ。フラココ屋の店長しかり、「薫」の父親しかり。意志薄弱とかそう言うんじゃなくて、精神の向いてる方向がもうダメだ。なんか軟派で堅気じゃない感じ。それにしてもラストで急転直下父親が「逮捕」されるという展開は面食らって面白かった。なるほど。そう言う人間なのかとそれまで単に不快だった気持ちに一様の着陸点をつけてあげられた感じだった。

 「猛スピード」はとても素敵なお話だった。それまでの2作品が一人称だったので、ついそれでしか描けないのかと思っていたんだけど、この話は三人称だったからちょっと驚いた。最初は違和感さえ感じたんだけど、それでも読み進めてたらすぐになれた。不思議なことに長嶋の三人称は一人称となんら変わらない語り口である印象を受ける。だから気持ちよく読めた。この人は私が思う以上にいろんな描き方が出来る人なんじゃないかとそのとき思った。
 主人公の「慎」はやっぱりダメダメで、友達のいないもやしっ子だ。でも、引きこもりというのとは違う。「夕子ちゃんの」のテーマが人のことを思うことであったように、ここでも考察することが主人公の生活の中心になっている。「慎」は一緒に登下校している友達に「なんで話さないの?」と問われて曰く、
 
 「考えてるの」

 私はこの「考えてるの」と言った「慎」よりも、それを聞いて「ふうん」としか言わずに、それでもその答えを了承しきってしまったみたいな「慎」の友達の「須藤君」が好きだった。自分から進んで選んだわけでもなく、そう言う貴重な友達を得られた「慎」をうらやましく思った。
 「猛スピード」で私が気に入ったのは母親のエピソードよりも、みんな「慎」のエピソードだった。根暗な「慎」の雲形定規を蛍光灯の明かりにかざしてみるようなファンタジックな習性や、「サクラ」をずっと気にしてる姿勢や、自らに対するいじめを肯定していたつもりが、須藤君の健やかな魂に触れて(これはどこかで根暗な「薫」が、息子に理不尽な要求をするにもかかわらず反抗心のかけらもない「須藤君」を見くびっていたということだろう)、手塚治虫のサイン本を預かってくれという場面なんかには全く予期していなかったほどの感動を感じてしまった。

 作品の終わりに、このお互いこそがお互いを支えているような親子が、その絆を確かめ合う場面ではなぜだか読んでる私の方がここの澱をほぐされていくような気持ちになった。それが全くわざとらしくも、白々しくも、ましてやかっこ悪くも感じな異事がとても意外だった。普通だったら何を括弧のいい子といってやがんだと鼻であしらうような筋である。
 明け方の街に夢のように現れた色とりどりのワーゲンのパレードを、むきになって追い越していく母親と、それを見守る息子の姿は、読んでるこちらも何かを突き抜けたような、胸のすくような余韻を残す爽やかなラストシーンだった。

 今まで芥川賞ってこんなんでいいのかなと思うようなのしか読んだことなかったけど、長嶋は、長嶋のこの作品は、讃えられるに値すると読み終わって思った。

猛スピードで母は


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