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「夕子ちゃんの近道」 [reading]

 長嶋有と伊坂幸太郎どっちか選べって言われたらちょっと悩むけど、私は長嶋有だな。文章のきれいな人が好きで。それは
「夢十夜」を初めて読んだときから変わらない。
 長嶋有はちょっと稀に見る美文を書ける作家だと思う。俳句も書くと知ってちょっと納得した。この人自身がきれいな文章に興味があるんだと思って。俳句も書く小説作家ってめずらしいよね。
 やさしいタッチの文章を書くだけなら誰だって出来ると思うんだけど、文章の優しさが装いのものだと読んでてすぐに分る。嘘の優しさは白々しくて鼻に付くから、読んでて不愉快な気分になる。けど、長嶋有の文章の穏やかさは本当にこの人自身から滲み出してくるものだ。言葉が上滑りしない。言葉が肉になってちゃんと届く。なぜこの人の言葉がこんなに心地よく耳に届くのか。
 自分でもちょっと改めて言うのをためらうくらい、この人の文章をきれいに思う。こんなことは本当に言いたかないけど夏目漱石以来だ。もう日本人であんなにきれいで美しい文章を書く人は出ないだろうと思ってた。だって、漱石がいなくなって何年経つ?あれは漱石だけのものだと思ってた。それだけにこんな形で、こんなにきれいなものに出会ったことに尚更驚いてる。全然、全く、何の期待もなく、ただ読むものがなかったので、その場にあるものの中で妥協的に、消去法的に手にした1冊だった。
ただ伊坂の独善的で技巧的なプロットにいささかあたり気味だったので、今はテンションの上がらない無害な日常小説が読みたいなと思って、他の何かと比べて結局これにしたんだった。1作が短い小作品集みたいなってるっていうんで、それも手を伸ばしやすい要素だった。
 乱暴に言うなら、伊坂にはドラマを作るのは得意だけど美文を書くのは苦手。一方で長嶋はドラマを作り出すのは苦手だけど美文を書くのは自然とできる。なんかそんな感じだたった。
 昔から読んでて分らない批評の一つにハルキは比喩がすごくうまいって言うのがあるんだけど、私にはそれが実感として感じられることがなかった。読んでて、『ああ、今これがみんなのいうハルキの比喩なんだろうけど、特に響くものはないな』といつも思う。つまり、なんていうか、ハルキの比喩はそれほど特別なことに感じないって言うのが私の感想。それでも、お気に入りの比喩が一つあって、ハルキはボブ・ディランの声のことを「雨に打たれた犬」みたいだって言ったんだ。それが好きだった。
 ところが、長嶋の比喩はいちいち私の気持ちをくすぐった。それは比喩っていうよりも、どちらかと言うとリフレインに近い。同じ響きの言葉の別の例って言う感じ。例えば、
 
 「うちはね。プロヴァンスよ。プロヴァンスはいいわよ」コラーゲンはお肌にいいのよみたいな調子だ。

 同じ音感の言葉を並べているからリフレインみたいに聞こえる。「」と主人公の独白に真がないからちょっと唐突に、乱暴に感じなくもないけど、比喩としては完璧だと思う。これが例えば、「なにかサプリメントでも薦めるみたいに言う」とかだったら、フランソワーズのこの大それたことをさも当たり前のことのように話すその抑揚が感じ取れないはずだ。
 この、「」の後に独白調で会話がダラダラと続くのは長嶋特有の描き方で、他に見たことがない。これには眉をひそめたし、未だに慣れないし、この先も多分好きになることはないだろうと思う。むしろそこを改めてくれないかなと思うくらい。つまり、そうすることで何を狙っているのかが読んでて分らないからなお不快に感じる。これさえなかったらと思うくらい本当にこの人はきれいな文章を描く。

 長嶋の書くテーマは「人のことを考える」かと思う。しょっちゅう考えている。なにかを。誰かを。自分の中で考察を繰り返している。思ったり、考えたりと言うのは孤独な作業だ。けど、それが私に響いたのかも。
だから他人から言われるまでもなく、自分で分っているつもりでいたけれど、実際に文章になってそれを実感とともに味わうと目からウロコの落ちる思いがした。

 「僕も勝手に身近な人たちのあれこれを思う。特にここに来てから、さまざまに思うことばかりをしてきた。今こうしているように、ガスコンロの火をみながら、あるいは信号を渡りながら、二階の鉄階段で立ち止まりしながら。自分の事もそれと同じくらい皆に思われていてもおかしくないのに、とても意外に感じてしまう。」

 他の人たちが私と同じように私のことを思っているとは思わないけどでも、誰かを思うことをごく当たり前に生きている「僕」をとても好ましく感じた。きっとそれが長嶋自身のことでもあるんだろうとまことしやかに思ったりもした。
 長嶋はまた古風な文章表現もする。それもこの他人を気に入った理由の一つだ。だから余計漱石に重なる。古風な言い回しでも、物腰が柔らかく、むしろその表現を使うことで柔和な印象が強まっている感じすらする。例えば、

 「へぇ、そうなの、といって、しかし買わなかった。」
 「もう少し向こうで暮らすつもり、という言葉がそもそも格好良すぎて、だが二十歳を過ぎたばかりの朝子さんに、もうそれは似合っている。」

 漱石自身がそうであったように、思うことを常とし、温和に暮らすことを美とする長嶋にドラマは描けない。いっそ似合わないといってしまってもいいかもしれない。それだけに最後の書き下ろしという作品には心底がっかりさせられた。発刊にあたってかいだものだろうが、わざわざその後を描くなんて。ドラマもないのに。美しくまとまった人生の一時期の、取り立てて言うこともない後記を書く必要があったとは思えない。つまりこの程度の後日談なら要らなかっただろうと思う。このエピソードはせっかく胸のすくようなエンディングを迎えた物語の印象を台無しにする以外の何者でもないと思う。
 私だったら、せっかくわざわざ改めてこのメンバーの話を書き下ろすなら、とりとめもない後日談で印象を濁すよりか、「僕」がフラココ屋に転がりこんだエピソードを入れただかろう。もしくは次の「僕」がフラココ屋に転がり込む瞬間を。

 それを除けばこの本は、予想しなかったところでずっと欲しかったものを見つけて、それまでの長い空白が嘘だったみたいに、いとも簡単に手に入れられてしまったみたいな、驚きと満足感と、そしてそうだな。やっぱり、幸福かんかな。を与えてくれた。
 プーで家出人であるという本来ならもっと所在無さげで、うんざりするほどの焦燥感が溢れててもいいのにそうならないのは、単にそれが長嶋の気概で、それが「僕」に映されているからなんだろう。
 作家としてよりも、長嶋有自身に興味が湧いて、手当たり次第に3冊も買い込んでしまったその始まりがこの本だった。

夕子ちゃんの近道


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