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「金閣寺」 [reading]

 「この世界を変貌させるものは認識だ」
 確かにそうかも。でも私はこの片輪の柏木が好きになれなかった。なんだかファウストみたいで。気味悪いと言うか、人の不幸を目端で見てほくそ笑んでる感じ。しかも、一見親切にしているようでいて、実はそれで人を不幸に陥れてる感じもするし。ただ、柏木はそんなことにせこせこしてて、それはそれで虚しくも見える。だって、それで彼に何か残ってるように思えない。彼自身、臨済録の示衆(これ読み方が分んないんだけど)を引き合いに出して、「まだ殺し方が足りんさ」と言っている。これってつまり自分のその残忍さが貫き通せてないってことでしょ?きっと。それに片輪の癖して言うことがいちいちキザっぽくてむかつく。

 ここで引き合いに出されている臨済録の示衆って調べてみたらちょっと面白かった。三島の作品に曰く、
 「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん」
 とするこの臨済さんの教えは、聞こえは実に物騒で、だけどそれだけドラマチックに胸に響く。けど、実際に自分の父母を殺せと言っているんではない。自分の信じる教えの祖を殺せといっているんではない。殺せと言うのは、八万四千(具体的なリストがあるんだろうか。仏教って適当な数を付けるのが好きだよね「五十六億七千万年後」とかさ)とも言われる煩悩を払うための一重に抽象的な行為のことで血なまぐさいことじゃない。つまり、真の解脱をするには、究極的には仏の教えと言うことからすらも解き放たれなきゃいけない、言い換えれば「殺す」と言うのは「退ける」ことということらしい。「退ける」と言う言葉を使ったのは、この教えに出てくる父母って言うのが人のことじゃないから。臨済は八万四千の煩悩をはらむ無明を2つに分けたらしいんだよね。すなわち、貪欲をもって「父」、痴愛をして「母」。で、この無明の父母から派生するあまたの煩悩をさして「親眷」と便宜的に考えた。言い得てつまり、これらの煩悩を殺さない限り、更にはそれを導く仏の教えすらを超えなければ本当の意味での解脱は成し遂げられないと言うことらしい。
 まったく、一行理解するのにしっかり宿題させられちゃったよ。それはいいんだけど、ただね、洋館の令嬢を柏木は「羅漢」だと言ったんだよね。それが分らない。羅漢?なんで?羅漢てさ、修行を積んで俗人とは違うレベルの人のことだよねえ?あのこのなにがそんなにすごかったんだ?結局柏木は彼女に惚れてたのかもしれない。
 で、全然関係ないんだけど、でもこの臨済録の示衆を読んで、キリスト教にある
 「今から家族に5人あらば、その後2つが3つに、3つが2つに分かれて争うようになる。父は息子に、息子は父に、母は娘に、娘は母に、姑は嫁に、嫁は姑に」
 を思い出した。最初にこのフレーズに出会ったのは恥ずかしながら「パトレイバー the movie 2」だった。意味はさっぱり分らなかったんだけど、家族がそれぞれに向かって争うなんて修羅場な様子をそらんじる姿が印象的でよく覚えてた。その後、入った短大で習ったバイブルのクラスで実際の文言を目にした。始めてそれを見たときはこれのことだったんだと感激したよ。クラスではルカの福音書を扱ってた。バイブルのクラスはいろんな方向で私の世界を広げる役に立ったと思う。音楽のフレーズに使われていたり、映画の台詞に出て来たり。宗教を習うって、私にとっては意味の重いことだったと、いや、であると、時間が経つほどそう思う。こんな時代だからこそかもしれないけれど。

 話がそれたけど、
 あと、片輪っていうのもこの本を読んで私の辞書に増えた語彙。これ読み始めたときに、「片輪の人が出てくる話だよね」と言われて『なに片輪って』と思った。きっと今じゃ差別用語で使わしてもらえてないんだろうな。だって、辞書に出てこないもんね。Webだけど。パソコンで打ち込んでも変換しないし。それで思い出したのが、漱石の「抗夫」読んでて、「ヽヽ」って書いてある所があって、注が付いていたのでなんだこれと思って見てみたら、「原文の差別的表現を伏せたもの」って書いてあってひどく驚いた。すごいショックだった。大声で「今はいいじゃん!」と叫びたくなった。今時さ、どんな差別表現を使ってたって作者の意図を尊重してそのまま使うもんでしょう。この本、このままずっと伏字を使い続けるつもりなんだろうか。それともいつかは元の表現を戻すつもりなんだろうか。この対処にはなんだかすごくがっかりさせられた。

 「内飜足」って言うのも出て来ない。出てこないからよく分らないけど、これって、X脚のことかな。昔、そう言う子がいた。知り合いではないけど、同じ学校だったし、歩くの大変そうなのにいつも一人で家の前を歩いてたのでよく覚えてる。双子の姉だか妹だかがいるはずなのに、いつも一人で見ててなんだかかわいそうだった。荷物を持てとか、そんなことは思わなかったけど、姉妹なんだし、なんで一緒に学校に行かないんだろうと思ってよく妹と不思議がってその光景を見てた。私と妹は毎日一緒に学校に行ってたから。
 あれは小児麻痺でなるのかな。小児麻痺って、なにでなるんだろう。自然と?それともなんかウィルスで?

 主人公は柏木に本質を突かれても、あくまで「世界を変えるのは行為だけだ」と強がってそれを貫き通す。ここでも結局柏木の言動は単に主人公の背中を押してしまうだけに過ぎない。真実を言っても止められないことを、むしろ拍車がかかることを分っててやってるような気がしてならない。それでもね、主人公のやることには一理あると思う。命は続く。姿を変えても。だから生臭坊主なんて、この和尚を殺したところで、また違う生臭坊主に変わるだけだ。けど、金閣寺みたいな命のないものはそれゆえに普遍的で、だからこそかけがえがない。そういう交換不可能なものを損なうことこそが主人公曰く、「とりかえしのつかない破滅であり、人間の作った美の総量の目方を確実に減らすことになる」という解釈は私にも通じるところだった。タリバンだってバーミヤンの石仏を壊したじゃないか。命のないものを必死になって残していこうとすることはひょっとしたら、この宇宙の営みからしたらバカバカしいことなのかもしれないな。ねえ?
 けど、度々気になったのが、三島の描いたこの頃は金閣寺ってひょっとして金箔を張り替える前だったんだろうか。あんなに金ピカになったのは最近なんだろうか。なんだか、話の中に「黒ずんで」みたいなことが書いてあったんで、ひょっとして今とは外観が違うのかなって気になった。だって、そしたら金閣に惚れるのはちょっと難しいんじゃないかと思って。建物のデザインだけなら銀閣寺の方が私は好きだし、金閣寺が素敵なのは金ピカだからなんじゃないかなと思うんだよね。

 あと、いいなと思ったのが、三島って花の名前に詳しい。それがいいなと思った。女の人でもそうだけど、ましてや男の人で草花の名前をいろいろ知ってるのはかっこいいなと思った。別に、野に咲くものの名前をマニアックなまでに知っているとかじゃなくて、和風庭園ならごく普通に見られる草花の程度をさらりと言えるのはとてもセクシーだと思う。私なんて、木賊なんてどんなんだかさっぱりわかんないよ。多分、三島はいいとこの出だから、きっと柏木みたいに生花が出来て、それで草花に詳しいんじゃないかなと想像した。

 最後、死ぬのかと思っていたけれど、結局最後はなりふり構わず金閣寺から逃げ出したもんだから、死ななくてなんだか拍子抜けしたけれど、主人公の最後の台詞に救われた。
 「生きようと私は思った」
 ならよかった。死んでしまってももちろんよかっただろうけど、最後の最後で生に対する執着を見せてくれたことになぜか私はすごくほっとした。よかったと思った。捨て鉢になっていた若者が、なんであれ、短絡的な死ではなく、生きることに道を見出してくれたことがなぜか私を慰めた。生きていて欲しいと願ったわけではなかったんだけど。

 「金閣寺」は高校生のときの国語の教科書に載っていたはずなんだけど、授業では扱わなくて、あらすじ紹介みたいなところだけを読んで、『これ読みた~い』と憧れたのを覚えてる。いつでも読めたはずなのにこんな時期になってしまったとは。人間生きてるうちになにをどれだけ読めるかって分らないもんだよね。

 もっと古典をいろいろと読みたいなと改めて思った。

金閣寺


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「蹴りたい背中」 [reading]

 思ったより楽しめたのが意外だった。けど、最初の印象は、やっぱり『こりゃ文章と言うよりメールだな』ということ。文学的な表現をちりばめてはあるけれど、高校一年生の一人称で進むこの話は文学的とは言うよりも、単に感傷的って感じだな。感傷的なのはこの年代の特権じゃん?読んでてちょっと自分の日記思い出しちゃったよ。ポエティックな感じはするかもね。後書きで女の人も「音感的」と評していた。

 終わり方もいかにも芥川賞が好みそうな感じだった。「蛇を踏む」とかもそうだったよね。結局落ちがないみたいな、「そこでこの話が終わっちゃったらこのドラマはどうなるの???」みたいなね。ハルキもよくそう言うのを書いていたので、私はそれをさして「読者置いてけぼりエンディング」と言っていたけど、先の二つみたいなのはハルキのとは趣向が違うし、程度としてはもっとひどい。ハルキのは一応の決着みたいのがあって、エンディングに余韻を持たせるような趣の置いてき方なんだけど、先の二つはドラマはオチとか決着とかそういうテーマとは無縁だ。つまり、表層的なことだけを綴っているようなもんで、物語と自分の距離感は最後まで詰まらない。まあ、「蹴りたい」は自分の日記を思い出したくらいだから、まるで共感できなかったって訳じゃない。「今時の」なんて評したって、実際のところ、私のときと、もしくは後書きを書いた女の人の少女時代となんら変わるところはないはずだ。変わったように見えるのは、その表面上の問題なんだよ。表面的なことに気をとられすぎなんじゃない?それこそ、高校生活という体裁を取り繕うのに必死になってる「絹代」みたいに。テーマはいつだってそこにあるんだよ。普遍的なものとして。人間の本質なんて変わんないんだから。ましてや日本人の集団意識なんて。
 だから、これで芥川賞が獲れるだなんて日本人の書く文学ってこんなもんかと驚いてしまう。中学生かよ。自分の日記を切り広げただけみたいな作品が他のあまたのノミネートに敵わなかったなんて。日本人の物書きの程度が低いんだか、選考員が悪趣味なんだか。

 いい文章を書く素質は持ってると思う。けど、「話」を書く才能があるかどうかはちょっとこれ読んだ限りだと私には見えない。この自分の日記を切り抜いたみたいな、エッセイみたいな域を超えない限り、本当に話を書く作家としての才能があるかどうかは分らないな。
 しかし、芥川賞って選考基準が甘いなぁ。こんなんで賞あげちゃっていいんだろうか。っていうか、意味あるのかな。日本ファンタジーノベルとかの方がよっぽど力があってストーリーテリングがあって、芥川っぽいけどなぁ。

 まあ、なんでもそうだけど、十人十色とか言う中で、1つの同じ価値を見出すって大変だよねえ。

蹴りたい背中


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