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「流星ワゴン」 [reading]

 重松清は昔の職場の人に薦められたことがあって、じゃあまあいつか機会があったらと思いつつ、なかなか自分では触手が伸びずにいたけれど、たまたまその「機会」にぶつかった。
 この話は映画化されたことを先に知ってて、原作が重松清であることはこれを読むまで知らなかった。私の印象では映画自体は予告を見る限りでも地味ぃーーな感じで、とくに評判を呼んだという感じはしなかったけど。

 長い話を短くすると、「ずーーーっと辛気臭くてうっとうしかった」というのが率直な感想。最初パラパラめくってたまたま目の留まった、
 「死んじゃってもいいかなぁ、もう」
 という主人公の台詞に、それだけのドラマがあるんだろうなと期待してしまったとことがまず不幸だった。
 ドラマはある。あるにはあるが、問題はそのドラマに感情移入する隙がどこにもないということだった。読者って、大なり小なり自分の経験から想像力で話を膨らませるわけじゃない?しかし、今回に限ってはそれが出来なかった。多分、主人公に共感する部分が何もないからだろうと思う。重松本人、「「父親」になっていなければ書けなかった」と断言しているくらいだから、私でなくても大抵の女の人には分りにくいんじゃないかと思う。これはオジサンドラマである。
 主人公が必ずしもヒーローである必要はないと思う。けれど、この主人公の不甲斐なさをどうしろと言うんだ。この救いようのない家庭崩壊のクロニクルドラマは、例えそれが限りなくリアルだと分っていても、やはりただ不快でしかない。それでも決してこの話を否定しているわけじゃない。むしろこういう話も世の中に「必要」ですらあると思う。本当に。だって、こういう現実が存在するだろうから。私はどうであれ、これに共感する人、気に入る人がきっといると思う。そのために必要だと思う。
 しかしだ、それが私にとって100歩譲った建前であることははっきりさせておこうと思う。

 私は、前の職場の人が一体重松清の何を読んで私に薦めたのか首を捻るくらいこの話を読み進めるのはしんどかった。なんか、間抜けが集まって、よってたかってみんなあるかなきかのつまんない意地を張ってるから不幸になっただけのような気がするのは私だけか。自分の不幸はみんな自分のせいだと思う。お父さんが不幸なのはお父さんが意地を張ったからだし、その息子が不幸なのはその息子が意地を張ったからだし、その息子の奥さんが不幸なのはその息子の奥さんが意地を張ったからだし、その息子の奥さんの子供が不幸なのもその息子の奥さんの子供が意地を張ったからで、みんな好きで不幸に邁進しているようにしか見えない。まあ100歩譲って子供の不幸は親の監督不行き届きもあったとしよう。それでも本人があれだけ意地を張り続けていたならそれを改心させてまで中学受験を止められる人がいるだろうか。そうなったらそうなったでまた違う不幸に陥ったかもしれないじゃない。中学受験をしたいと言ったのはあくまで彼自身だ。小学生で、自分が不幸なのは自分の選択したことの結果だと言って突き放してしまうのは酷かもしれないけど、肝心なのは起きてしまったことをなかったことにしてやり直すのではなく、それをどう乗り越えて前に進むかだと思う。成長するってそう言うことだと思う。
 だけど、奥さんの場合はちょっと違う。彼女は純粋な病気だ。夫の不甲斐なさからストレスでセックス依存症になったわけじゃないから始末が悪い。奥さんに必要なのは夫の愛情じゃない。自分がセックス依存症だと夫に告白する勇気だ。他の依存症と同じで、まずは自分がそうであるということを自ら認めて公言できるようにならなければ、夜遊びの現場を1度や2度押さえられたところで治らないと思う。そんなの見つかったからしばらく大人しくしとくって言うあれと同じだよ。大事なのは、それを二人で話し合うということだと思う。しかし、「愛妻日記」の内容を聞きかじるに、きっと重松清はもともとそういう女の人が好きなんだろうというのが私の所見。

 つまるところ、この話は、肝心なことを何も話さずに上っ面だけで生活してきた形式的な家族がどういう不幸をたどるかという話のように感じた。そのくせその根は深くて救いようがないのに、ちょっと過去の事実を振り返って主人公が心を入れ替えただけで環境が好転していく兆しをみせるに到ってはことさら納得いかなかった。だから、主人公だけの問題じゃないだろが。にもかかわらず、それに気をよくした主人公は交通事故死した親子の命日に家族を連れて現場を訪れてみるとか言い出すし。気は確かかっつーの。一人で行けよ。

 そして、これが一番重要なんだけど、主人公と同い年の主人公の父親が現れる意味がいまいちよく分らなかった。いっそいなくてもドラマは成り立ったような気がするし、なにしろ帯にまでそこがフィーチャーされている割にはそこにドラマの核心はなかったように思う。それでもわざわざそういうプロットにしたのは、重松清が父親に作品を捧げたかったというだけのことなんだろうなと後書きを読んで思った。

 つまり、浅田次郎以外にもオジサンファンタジーを書く作家がいるということを知ったのがこの作品との出会いの総括になるかと思う。まあ、浅田次郎よりかは大分若いのかもしれないけど。

流星ワゴン


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