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「ゲド戦記III さいはての島へ」 [reading]

 映画であのシーンを見たときからかなり確信に近い思いではいたんだけど、やっぱり親殺しのエピソードは宮崎吾朗のトラウマだったんだな。大体、製作仲間にもバレバレなそんな安っぽいプロットをなんの恥ずかしげもなく入れてしまうところがなるほど素人か。父親の作品を観てても、父親の仕事をそばで見てても何も学べなかったのか。やっぱりそれを汲み取るセンスがその子供にはなかったと言うことなんだろうなぁ。大体、父親と比べられるのが嫌だっつって異業種に逃げ込むくらいだから。その時点で既に比べられてるってことに気付けよ。そんなに恵まれた環境にあって、絵を描くことが好きなら尚の事、なぜそのチャンスを活かさなかった。挑戦しなかった。そんなのがアレンに自分を投影するなんて、そりゃ原作者にも嫌がられるよ。宮崎吾朗が映画にしたのはこの3巻目と聞いていたけれど、実際にはこれまでのエピソードを、主語を入れ替えたりと好き勝手にした上でのごた混ぜで誰のキャラも掘り下げられていないし、世界観の上っ面さえ伝えられていなかった。
 あの映画の出来を観て、自分の想像力の源泉をいいようにいたぶられた父親の心痛はいかばかりか。
 
 そんな映画を先に観ていたせいで、本を読む前のアレンに対する印象はよくなかった。良くなかったと言うか悪かった。だって無類のヘタレだよ?だけど、そんな先入観があっただけに本の中のアレンは一層まぶしく見えた。
 ル=グウィンの描いたアレンはすごくかわいい。アイドルってこういうことだなと思った。若い頃のゲドも愛らしかったけれど、アレンにはそれを上回る素直さとひたむきさがあった。田舎者だったゲドには自分の力に対するうぬぼれと虚栄があったけど、いいとこの出であるアレンにはそれは慎むべきものであることをその歳で既に知っている。慎み深さこそが品位であることを小さい頃から教え込まれているからだ。もちろん、それは彼の両親が良い人々で、彼の受けた教育が質のいいものであったからだと思うけど。歳若い王子が美しいってだけでも奇跡的なのに、そこに知恵と勇気と、あろうことか善意が備わってるなんてこの人自身が奇跡みたいなもんだ。
 私のお気に入りは嫉妬するアレン。ローバネリーで知り合った半狂人の男を船旅に同行させようとするゲドと、それをなんとかして思い止まらせようとするアレンが言い争いになって、ゲドがそんなら旅やめようか?みたいな極論を持ち出して完全に子供のケンカみたいになってくると、アレンは目に悔し涙を溜めて言う、
 「わたしは申し上げたではありませんか。お供して、どこまでもお仕えすると。約束は守ります」
 なんていじらしいの…。私はアレンがかわいくってしょうがなかった。その後もアレンは度々ゲドに対する恋心にも似た忠誠をゲドに示す。いや、その気持ちはもう完全に恋なんだけど。アレンはこの気まぐれな魔法使いに恋してて、恋してるゆえにゲドの行動に悩まされる。だって、好きじゃなかったらとっとと放り出しちゃえばいいんだもんね。
 ゲドに恋わずらいしてるみたいなアレンは本当に愛らしかった。

 アレンは王子としての育成の結果として、異様に正義と義務感が強いけれど、その権威に関しては全く気負ったところがなくて、驚くほど自分の気持ちに素直な子供だった。いやらしく言えば、大人に気に入られるコツを心得た子供だった。それは本人も否定していない。彼の周りには大人ばかりだったから考え方がませていて、誰かに師事することに慣れていた。けれど多分彼の本当の美徳は、その中にきちんと自分の純粋性を囲っていたことだろうと思う。つまり彼が少年であることこそがその力の源のように感じる。
 それはゲドについても言えることだった。なので、ゲドがロークの院長の座についていると知ったときはすごい驚いた。あのゲドが。学校の校長なんかの座に収まって生きてる。いかにも不似合いだし、不自然なことのように思えた。なので、ゲド自身が後で
 「いちばんつまらんのが、この大賢人というやつだ。」
 と言うのを聞いてどれほど安心したことか。
 だから、アレンの出現にゲドは大喜び。長たちの前でこそ体面を取り繕って一応の威厳を漂わせているけれど、内心は完全にウキウキしてる。子供みたいに。早く旅に出たくてしょうがないって感じが伝わってくる。この話でのゲドは壮年と言うからには40は越しているはずだけれど、それでいて素顔のゲドはすごく子供っぽい。アレンをあきれさせてしまうほどの子供っぽさだ。その幼年性がやはりこの人の力でもあるんだろうと思った。年をとらない。永遠の子。苦労をしていないからと言うわけでなく、むしろ人の経験し得ない視線を超えた経験を何度もしているのにだ。ゲドのゲドたるゆえんはその幼さにあると私は思った。
 そんなゲドの大人気なさが発揮されるのはアレンと二人で海に出ているとき。つまり人の目が届いていないとあきえるほど子供っぽくなる。まあそんだけアレンに対しては正直に向き合っていると言うことなのかもしれないけど。でも、どんなに仲のいい友達とか恋人だって言っても、長い間一緒に旅していたら一度もケンカせずに済むなんてことはないよね。それは経験上私もよく分かる。アレンとゲドも海上で二人っきりのときにその絆を試される。旅先で色々あって観るもの全てに不安を覚えるランの気持ちををもう少し分ってあげてもいいと思うんだけど、ゲドはアレンの不安に押されての質問攻めを子供っぽい癇癪ではねつけてしまう。その様子はほんとにびっくりするほど大人気ない。
 例えば、航海中に二人がケンカなんかすえると、最終的に歩み寄るのはアレンだ。ゲドがアレンの質問の多さにへそを曲げて黙り込んでしまうと、アレンは健気にもその場を和ませようとして、
 「歌をうたってはお邪魔でしょうか?」
 と進言すると、ゲドは
 「うむ、うまいか、へたかによるな。」
 と不機嫌そうに答える。オッサンどんだけ大人気ないんだよ。
 もう一つは、ゲドが自分の生まれ故郷をアレンに見せたときのこと。自分の生まれ育った森の美しさを語って聞かせた後でこう言う。
 「やれ、わしが、もしも、ゴントに戻れることになっても、そなたには、ついてこさせはしないからな。」
 そう言って悪戯っぽく笑った彼が一番好きだった。それを読んで結局、この人はやんちゃなまま、とうとう大人になることがないまま大人になってしまったんだなと思った。

 すがすがしかったのは、旅がクライマックスへ近づくのを目前に、ゲドが来るべきフツーのおじさんとしてのリタイア人生に目を輝かせる場面。ゲドはアレンに出会った瞬間からこの出会いが意味するもの、その運命とそれが自分たちを何処へ連れて行こうとしているかも全てその瞬間に理解する。
 ゲドは自分の果たすべき運命に酔っていたと言ってもいいかもしれない。自分が果たすべき試練と、その結果がもたらす栄光、そしてその向こうに待つ自分の知らない全く新しい生活に対する希望や期待というものがよく伝わってきた。そのために命を投げ出すことなどなんでもないみたいだった。それが必要ならそれをするまでと言った感じだった。

 ハルキがよく言うことに、
 「人が人生で自から選べることなんて殆どない」
 っていうのがあって、私はこれに抵抗を感じているんだけど、ゲドも同じようなことを言うんで、みんなそう思っているのかなと思った。ホート・タウンに向かう船の上でゲドがアレンに自分にとってどれほど航海の時間が貴重であるかを説いて曰く、

 「まだ若かった頃、わしは、ある人生とする人生のどちらかを選ばなければならなくなった。わしはマスがハエに飛びつくように、ぱっと後者に飛びついた。だが、わしらは何をしても、その行為のいずれからかも自由にはなりえないし、その行為の結果からも自由にはなりえないものだ。ひとつの行為がつぎの行為を生み、それが、また次を生む。そうなると、わしらは、ごくたまにしか今みたいな時間が持てなくなる。」

 これってひょっとして私とハルキの中道なんじゃないかと思った。結局、人生の岐路に立って何かを選んでも選ばなくてもその結果から自分が逃れることは出来ない。ただ、ハルキは選ばない人生の連続で、私は選ぶ人生の連続だったというだけで、そのどちらかが、何かからより自由であるなんてことはないんだ。
 「才能が人生を決めることもある」
 と「ナス」を書いた人も言っている。それをベストと思って何かを選ぶことと、圧倒されてしまって何も選べないことの間にはきっとそれほど明確な差はないんだと思う。

 それでも、既に世界の大賢人に上り詰めた男が、リタイアを目前に人生で最高の栄光を手にし、そして同時に全てを失うこの話のラストでは、ヒーローの輝きもフェイドアウトしてゆく。
 物語のラストには消えていったヒーローを偲んで2つのエピソードが挿入されている。私は前者の方が好きだった。ゲドが全てを失ってしまったことを思えば、それはありないと分っていながら、それでも前者であったらいいなと思った。ゲドのものを慈しむ姿がよく現れていると思ったから。ゲドを追ってセリダーから一人帰ってきた果て見丸に声をかけるゲドは、すごく、らしかった。

 2巻目で全くなりを潜めてしまっていただけに、今回は大分ゲド自身を楽しめた感じはするけど、でも、人生の郷愁の時期に差し掛かった姿はやはりさみしいとしか言いようがなかった。

ゲド戦記 3 さいはての島へ


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