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「パーフェクト・プラン」 [reading]

 面白かった。最初、裏表紙読んで「代理母」とか「ES細胞」とか、とにかくてんこ盛りなのを見て、大丈夫なのかと抵抗を覚えたんだけど、「代理母」が「一号」に会いに行くところまで我慢して読んじゃえばあとは転がるように読んでいけた。

 あれ書いてる人が女の人だって、巻末の解説を読むまで気が付かなかった。すごいね。女の人で、しかもそんなに若くもないのにあんなにピコ秒な話を書けるなんて。それで私が思ったのは、この人がピコ秒なことを覚えたのは、きっと話の中で女刑事がピコ秒なことを独学するきっかけになったエピソードそのままなんじゃないかなってこと。でも、独学でそんなとこまで学べたんだとしたら、きっとこの人はそういう方面にもそうとう頭がいいんだろうね。センスがあるって言うのかな。それと受賞した当時47歳くらいでしょ?この人。それでいてこのキャラの描き方が出来るのは精神的にもかなり若いってことだよね。
 特にすごいなって思ったのは、ホストにはまったお母さんと、ハッカーの男の子の心理描写。私にはああいう壊れた精神っていうか、健全な狂気みたいなのは描けないな。
 ちょっと口惜しかったのが、それぞれのキャラ自身の背負ってるものとか、お互いの関係をもう一歩踏み込んで描けてたら作品にもっと深みが出たんじゃないかと思ったこと。
 私個人の意見として、どんなミステリーも物語のほころびはその根幹にあるっていうのがある。そもそもそんなことがなければこんなことにはならなかったみたいな。物語の分岐点ってあるじゃない。そこで『なんでそっちに行くかな』みたいな根本的な突っ込みどころがあることによってミステリーは支えられていると思う。つまり、そういう根本的に「それってどうなの?」みたいな理不尽がなかったら話が進まないという、半ば強引な条件の上に物語が成り立っていることが多いと思う。
 例えば今回のはまず、これってインサイダーにならないのかってことだった。それと、「インフィニティ」の不具合を突き止める姿勢が甘すぎると思う。3ヶ月もまともに動かなくって経営破たんを招きそうなくらいなら、もっと可能性を拡大して追求してみることしてもいいんじゃないの?でなきゃもう新しいシステムを別に作るとか。ちょっと緊張感足りないんじゃない?だから第三者による悪意の可能性に気が付くまでに時間がかかりすぎじゃないかという印象だった。よしんばそれを「うちに限って…」みたいな精神状態だったからと無視するとして、警察が乗り込んできてハッキングが認められた時点でなんでさっさとネットワークから切り離さないか。覘かれてると分ったら普通最初にやるだろそんなこと。大体、オンラインで商売しててセキュリティ甘すぎると思う。家で自分のメールを嫁に読まれ放題だなんて。ありえない。
 ハッカーがわざわざリスクを負ってソーシャル・エンジニアリングをしに来る必要が飲み込めなかったけど、あれは捕まりたかったってことでいいのかな。ハッカーの人物描写も物語の中枢を担ってて途半端な気がしたな。この子がこうなったいきさつも、それが彼の固執する父親の自殺とどう関わりがあるのかも。それから、その事実が明るみに出るまで代理母がエキセントリックな人柄である必要性も飲み込めてなかったんだけど、つまりは怪しい人物を見破る基本的な常識が欠如しててくれないといけなかったということでいいのかな。彼女が詩人でその詩集をハッカーのなき父親が持っていたって言うエピソードとか必要だったのかな。故郷の家の前で泣き崩れる場面なんかは唐突過ぎて『お前もか!』って感じだった。
 証券マンに息子が戻ったことも意外だった。この男の家庭を顧みない無責任が全ての元凶だって言うのに、そんな男に養子の、それも代理母に生ませたような子供を返すか?はたから見ても子供を育てる能力はないって思うだろ。代理母の元に戻るのかと思ってたのに。
 あと気になったのが、Joshuaの読み方。みんなして間違える。ちょっと英語を学んだことのある人なら、東欧ではJをイって発音すること知っててもいいと思う。ヨハネだってアルファベットで書いたらJohneじゃん。そうでなくても聖人にそういう名前の人がいるとか知らないもんだろうかと思ってその辺がちょっと引っかかった。

 それでもこの話面白かった。登場人物のみんなが同じ傷を脛に持ってたりして。みんな泣くし。同じようなことで。泣きすぎでちょっとうんざりするくらい。ただ、だから残念なのは、いい大人がそろってそんなにわんわん泣くほどの深みってものをもう少し与えてくれたらよかったのにって思った。

 物語の後半になると、この話の主人公が本当は誰かってことが分かってきて、Enigmaたちの人物描写がなぜ希薄に感じるのか納得いくようになる。この物語の中心はハッカーと女刑事だ。Enigmaのメンバーはあくまでストーリー上の素材に過ぎない。だから人物描写がほかの連中に比べてはっきりとした輪郭を持たなくて歯がゆく感じるんだろうなと思った。

 個人的にこの話で一番驚いたのは、女刑事が女だったってこと。私ずっと男だと思ってたんだよね。刑事が証券マンの家に乗り込んだのをハッカーが覗き見してて、向こうに女の人がいるって言うんでびっくりした。『女だったの?!』と思って。それまでこいつはゲイかと疑うくらい男と思い込んでた。あそこが一番のサプライズだった。
 逆にサプライズが裏切られてがっかりしたのが、ハッカーの名前。Joshuaをヨシュアって読めるのは自分の名前がそうだからかもしれないとかいうからさ、『えーーーっ、外人なのーーー???』と思って、ハッカーが外人である必要性とか、この話しにどう外人を結びつけるのかと思って、その後刑事がどうハッカーに迫っていくのかすごい楽しみにしてたのに普通に日本人だった。がっかり。

 最後に、虐待母のキャラは強烈だった。間違っている人は強い。正しい人は潔いゆえに脆い傾向があるけど、間違ってる人間ほど生に執着があるからしぶとい。土を舐めたって生きようとする。あんなにねじれた人格を、不健全な精神をよくこんな涼しい顔してすらすらと描けるなぁと思って感心した。
 桐野夏生を読んだときにもよく感じたことだけど、そういうのって私にはないものだ。歪んだ精神の残忍さや狂気って。ちょっとうらやましく感じる。多分、表現したい世界をポジティブなフィルターを通して見る人と、ネガティブなフィルターを通して見る人がいるんだと思う。私やハルキは多分前者で、この人や桐野夏生は後者なんだと思う。そういう自分が忌むものも描けたならもっと表現できる世界が広がるんだろうなとは思うんだけど、ただ問題なのは、あまり自分がそれを描きたいとは思ってないことなんだな。そういうことも描けた方が話を書く人間の技術として高いというのは絶対なんだけど。

宝島社文庫「パーフェクト・プラン」


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「ゲド戦記II こわれた腕輪」 [reading]

 これは、ゲドの話と言うより、テナーの話だった。そしてこの話が「千と千尋」のモチーフになっているんだろうなと言うのが読んだ直後の感想だった。というか、そもそも「影との戦い」からして宮崎駿の影を見ることが出来るんだけど。「ゲド戦記」の宮崎駿に対する影響力は想像以上に強くて驚く。「ナウシカ」に出てくるオームはエレス・アクベの倒した竜の名前そのものだし、凶暴で人になつきにくいテトもゲドが青年時代に飼っていたオタクのことだ。
 「千と千尋」で物語の核となって、「ゲド戦記」のモチーフと重なるのは物の名前の「縛り」だ。物につける名前が物そのものを縛ると言う概念は「陰陽師」で安倍清明も言っている。千尋は「千尋」と言う本名を失ってみて初めて成長するのだけれど、両親は名前を奪われて正体不明に陥ってしまうし、なにかと千尋を助けるハクは千尋が記憶を取り戻す過程で奪われていた本名を思い出して自分のアイデンティティを取り戻す。
 「物には本当の名前がある」。そしてその本当の名前にこそ自己を開放するアイデンティティの存在することが宮崎駿の物語と、ゲドの物語全体を通して共通するテーマだ。 「こわれた腕輪」は「千と千尋」の逆パターンだ。王子が姫の本当の名を明かして呪縛から解き放つ。

 宮崎吾朗の描いた「ゲド戦記」で出てきたテナーはアルハのことだった。純粋な心を持ち合わせて生まれたテナーは天下無双の巫女として植えつけられた高慢と日々葛藤する。世界に自分が知る以外の世界はなく、そこでは自分は王をもしのぐ権威だけれど、テナーとしての純朴さが権威自体に疑問を抱く。命の価値に優劣があるのか。人になぜ身分などと言う差別があるのか。だけど巫女であるというプライドが常にその疑問をはねつけてしまう。そこに常識を覆す存在が現れる。テナーは侵入者であるゲドに恋心にも似た気持ちを隠さないけど、それが恋心の発露であることに気が付いていないからこそその気持ちは幼いままで発展しない。その様子には少し安心した。ここでロマンスなんかが芽吹いちゃったら物語が台無しだと思ったから。

 今回の話ではゲドはあくまで第三者でしかない。1作目でゲドに好意を抱いてしまっていたので、ゲドがいつ出てくるかと待ち焦がれていた私はこの物語の主人公がテナーであるとあきらめるまでは、かなりしんどい思いをして話を読まなければならなかった。テナーの物語の片隅にゲドが出てくるだけで、それはゲドの物語を別の視点から語るに過ぎない。
 テナーが見せる成長で一番好きな場面は、それが使命であったとは言え、人の命を自分の選択か殺めてしまったのを後悔するところだった。特に、醜いけれど育ての親のように慕っていたマナンを誤って崖下に突き落としてしまうところは痛々しかった。なぜなら、マナンも親心からテナーを守ろうとしただけだったのだから。
 腕輪を取り戻し、ゲドに豊かな生活を保障されても、自分の犯した罪の意識をぬぐいきれない謙虚さは実際の人間にはなかなか見ることはできない。ここは書き手の理想論だとは分っていてもだからこそ美しく感じる場面でもあった。テナーは腕輪を奪還したものとして華々しく生きるのではなく、真実を得るためにそれ相応の罪を背負った者としてひっそりと暮らすことを選んだ。そんなことは誰にも言わなければ分らないことだし、話したとしてもきっと彼女の置かれていた状況を考えれば尤もなことだと理解もされたろうに。だからこそここはル=グウィンの理想論なのだと思う。どんな理由があるとしても、事実は事実として自分の犯した罪は償うべきだと言う。

 「こわれた腕輪」では描く世界がファンタジーであるのをいいことに、現実世界では面と向かって議論されることがはばかられる宗教とか信仰心と言った微妙な問題にあっさりと踏み込んでみせる。最高位にあるものが実は腹の底では神など信じてはいないこと。現実的な権威にだけ従順であるというスキャンダルをかなりリアルな醜い姿を晒した格好で盛り込んでいることにショックを受けた。これって子供の読み物ではないの?ただ抜け目ないのは、それも一つの例であると言う説明を付け加えるのを忘れていないことだ。片方の者は権威に移り気でも、もう片方の物は死の床にあってさえテナーに自分たちが信じる宗教について教え語ることをやめない。信仰の火を絶やさないという一心で。だからこそテナーは「そういう人もいる」という理解をするのだ。それが救いだったし、また真実だとも思った。一心不乱に信じる人もいれば、そんな考えを全く寄せ付けない者もいて、身分が低く日々の生活に忙しければ、信じてはいても敬虔さは二の次になることを、テナーは実際の生活から学んでいく。そして自分はどうであろうかということを考える。テナーはずっと考えるキャラクターであったように思う。そしてゲドが来て選択を迫られる。自分の疑問に対する答えを求めるがためにゲドについていくことを選ぶ。結局はテナーは自分の人生を自分で選んだ。ゲドは機会を与えただけだった。テナーの恋心にも似た気持ちに全く気付くそぶりもないのには閉口したけど。ゲドは自然にはあんなに感受性が強いくせに、女心にはあきれてしまうほどのニブチンだった。

 天地のひっくり返ったテナーのこの先の人生を考えると少しかわいそうな気もしたけれど、それでも自由になれたこと自体は非常にすがすがしかった。この世に何のしがらみもなくなってしまった彼女は確かに心細く頼りない存在だけど、でもだからこそ彼女の前にあわられた前途は無限だ。それを思うと不安よりもまぶしい思いがするくらいだった。
 それでもやっぱりゲドの出番の少ない2作目は私にとってはちょっとつまらなかったな。せっかく成長したゲドが見れると思っていたのに。

ゲド戦記 2 こわれた腕環


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「ゲド戦記I 影との戦い」 [reading]

 読む価値のある本。そんな作品にこの歳になって初めて出逢ったと思う。それ自体は多分恥ずべきことなのかもしれないけど。
 好きな作家はいくらかいるけど、私の趣味は偏ってるし、自分が面白いと思ったからと言って、それで他の人にもそれを読んで欲しいなんて感想を持ったことはついぞなかったけど、これは読み終わって自然とそういう気持ちが後に残った。これは誰が読んでもいいと思う。どんな年齢の、男でも女でも、きっとその人たちなりの受け止め方が出来る逸品じゃないかと思った。語られる言葉は一つでも、読み手一人一人に広がる物語はきっとその数だけある。こういうのを不朽の名作って言うんだろうな。名作って言うのは、一部の人にしか理解できないような小難しいテーマや、技巧的なプロットや凝った表現にあるのではなくて、きっとこの話みたいに、本当にシンプルな表現で多くのものを物語る作品のことを言うんだろうなと思った。私の中では、「アマデウス」や「コンタクト」に近い。映画だけど。要は、いろんな要素で完全に近いっていうか。別な言い方すると、相対的にバランスが取れていて完全に近いって感じ。
 シリーズ全体はどうであれ、少なくともこの第一作は間違いなく一生に一度は読んでおく価値があると思う。

 私は「情熱と冷静の間」みたいに10年ひとっ飛びみたいな書き方は嫌いなんだけど、これはそういうストリーというか、人生の空洞化みたいなのを全く感じさせない文章力があって、それに脱帽した。物語は簡単に月日を飛び越えて、隣の文章ではいきなり2年後の様子になっていたりする。でもその描かれていない1年や2年の間にもまめまめしいゲドの勉学や生活の日々が透けて見える。手ごたえさえ感じる。だから、次の文章でいきなり1年2年後のゲドが現れてもその成長を嘘っぽく感じない。これはすごいよ。あれだけ切り詰めた文章にそれだけのものを込められるなんて。どんな修錬を積んだらそんな文章を書けるようになるんだろうと思った。
 だから、この作品はその内容から児童文学みたいな位置づけにあるけど、それでいて実はかなりの文学的品格を備えた立派な文学作品だと思う。人に薦められて無理矢理ハリポタを読んだこともあったけど、あれなんかよりよっぽど文学作品としてレベルが高い。まあ、ちょっと説教臭い道徳的なメッセージが見え見えなとこが「児童文学」の看板を下ろせない理由なんだろうけど、それでもハリポタなんかよりはよっぽど「文学」してたと思う。

 今回のもう一つの発見として、愛しい、愛すべきキャラクターと言うのにも初めて出会った。なんにもない田舎の山奥で母親の愛情も知らず「雑草のように育った」ゲドは、粗野で乱暴で傲慢な山猿みたいだったのに、自分の才能に気付き、人に出会い、人の愛情を学び、技を学び、自分の愚を知って、最後は、人としてよくあろうと願い生きる青年になる。その過程は本当に愛しかった。特に長い間影に怯え、自分を拾ってくれた魔法使いの元に憔悴しきって逃げ帰ってきたときに見せた慎み深い礼節と、透明な水のような反省は痛く心を突くものだった。

 教訓と言ってしまうと陳腐な響きになってしまうけど、それでも作者が作品に込めた希望や、道徳的なメッセージをいたるところに見つけることが出来る。それがゲドを成長させていく工程に布石のように置かれている。このあたりの計算はどうやってしたんだろう。最初は田舎の子供だったゲドの粗野な言葉遣いも態度も、慈悲と慈愛の権化みたいなオジオンに見出されて、学院で学び、一人前の魔法使いとして世に出て行く過程で、彼の言葉遣いや物腰が彼の経験と共に成長していく様子がそれと言わなくてもちゃんと現れていてそれにすごく感心した。最初のうちは方言みたいな乱暴な言葉をしゃべっていたのが、人に師事したり、学術的に研究したり、その上で挫折やらなんやらを経験していくうちに、気が付くときちんと自分にふさわしい言葉遣いが出来る人間になってた。敬う人に対してそれにふさわしい言葉で自分の気持ちを伝えられるようになってた。その成長は読んでるこちらを親みたいな気持ちにさせるものがあった。

 ゲドは理想の子供、もしくは人間だ。素直で、感受性が強く、善と悪を失敗から学び、その結果として常に正しい方へ歩もうとするまっすぐな精神。健やかな体に健全な魂が宿っている。だけど、実際には学院に入って以降のゲドの人生にはどちらかと言うと暗い影が付きまとう。それがとてもリアルに感じて私としては好ましかった。夢みたいな幸せな日々からはこんなにしなやかな精神は生まれない。大きな失敗に傷ついて自分自身に絶望しても、またそこから立ち上がれる強さが人に本当の誇りを与える。ゲドはそうして大きくなる。

 物語のキャラクターたちはみんな一人ひとりが何かの象徴だ。ゲドはしなやかな精神。オジオンは慈愛。カラスノエンドウは信頼。ヒスイは虚栄。竜は誇り。そして、ゲドを誘惑する者たちは堕落。
 私の気に入りのキャラクターは友情に厚いカラスノエンドウよりも、時々魔性をうかがわせるせるヒスイだった。ヒスイの出身は高貴だけれど、その心は驕りでいっぱいだ。身分がその精神の品格を保障するものではないことを端的に物語っている。けど、私が惹かれたのはそんな単純なメッセージではなくて、ヒスイと同じ精神の芽がゲドにも宿っていて、ゲド自身それを後ろめたく思っている節が好きだった。ヒスイと同じ気持ちは誰にでもある。ゲド自身、自分の才能に酔っている。要は彼らがそれにどう向き合っているのかが物語だったように思う。物語のクライマックスで影がヒスイの姿を借りてゲドの前に現れた時なんかは読んでて小躍りしたくなるくらいだった。
 ゲドは周りの人々に恵まれているので、どちらかと言うとゲドが痛い目にあっているときの方が好きだった。ゲドを慈しんでくれる人々はそれゆえに無条件でゲドになにもかも投げ出してくれる。でも本当の意味で人が大きくなるには、転んだとこから自分で起き上がらないと。ただ激しく落ち込んでいるとそうもいかない。そういう時は人の優しさが自分の足を前に出してくれる。ゲドにはそういう場面で必ず手を差し伸べてくれる人がいた。大勢いた。そういう意味ではゲドは非常に恵まれていたということだろうね。だからこそ、ゲドが躓いたり落ち込んだりしている場面は小気味よかった。それこそが彼を大きくすると思えば。

 あと、印象的だったのは物語の最初の方で、ゲドの故郷が海賊に襲われそうになって、村を守るためにない知恵絞って自分の持てる呪文だけでなんとかしようとした時のこと。海賊を文字通り煙に巻こうとして呪文を唱えるんだけど、それがコンピュータでコマンド打つのと似てるなと思って一人にんまりした。私はプログラマーじゃないから何か専門的なことを知ってるわけじゃないけど、ネットワーク情報を知りたくてDOS窓から簡単なコマンドを打つことはある。それを個人的に「呪文」と言っているんだけど、あまりにその様子がそっくりだったんで、本当にそうなんだなと思っておかしかった。

 人ひとりの半生を物語るには余りに短いように思うけど、それでいて書かれている以上のことを深く考えさせるこの物語は立派に叙事詩の威厳を持つ。
 ともかく、シリーズの一作目としては間違いなくゲドのその後どうなったか知りたくなるように出来ている話だったし、これ一作だけでも独立した完成度を持った作品だった。そしてその完成度の高さは稀に見るものだった。

ゲド戦記 1 影との戦い


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「風に舞い上がるビニールシート」 [reading]

 このタイトルを見て思い出したのは、「アメリカン・ビューティー」に出てくるオタク少年が路地裏に風が吹きだまってコンビニ袋を舞い上げるのをビデオに撮ってるシーン。彼に惹かれる女の子が「なんでそんなの撮るの?」って聞くとオタク少年は簡単に「美しいから」と言ってのける。このタイトルはその場面を思い起こさせた。

 この本がオムニバスだと言うのは帯に書いてあったので分っていたんだけど、んーーー、これのどの辺りが直木賞だったんだろう?「鐘の音」???こういうオムニバスの評価ってどうなってんだ??
 まあいい。「鐘の音」は面白かったよ。仏像オタクが出てきて。そのオタク度合いの狂気じみたところに凄みを感じた。なんたって憧れの八手観音様にヌイてもらう夢を見るくらいだから。それも相手は8本も手があるもんだから、「これほどの愉悦をこの世で味わえるはずがない」というくらいの快感を得て、その仏像オタクはその観音様と「たしかに一つになった」と思い込む。勘違いですから。世間のしがらみを振り切ってまで仏と共に生きると言うわりには君と仏さんの関係は随分生臭いもんなのね。一夢、ニマス、三本番って言葉を知らないのか。まあ、私も最近人から聞くまで知らなかったけど。しかし、この観音様にあの手この手でいじられて「あられもないよがり声を上げ」てるところを想像するのはかなり笑えた。
 読んでて、相当勉強したんだろうなと思った。もしくは作者自身がそもそも仏像オタクなのか。物語のクライマックスで職人同士が関心しきりになるところなんて読者はまるで置き去りだ。何がそんなにすごいんだか、意外なんだかさっぱり分らない。それでもこの話が一番よく書かれているなと思った。ただ、オチがちょっと安っぽかったが。

 他の話はなんだかみんな私の心には響かなかった。どれも前向きないい話なんだけど、ちょっと画一的で、なんか優等生のおせっかいみたいな話ばっかでつまらなかった。つまらないというか、違和感を覚えたと言う方が近いか。
 例えば、「器を探して」。彼氏がプロポーズをするつもりでクリスマスイヴの予定を立てているのを知っていながら、自分に断れない仕事が入って会えなくなってしまったので彼氏がキレると、「自分こそ、昨日から何をやってるの?一体どれだけ私の携帯に電話やメールを入れたの?自分の仕事はどうなってるの?ねえ高ちゃん、人のことはいいから、自分の事をやろうね。」と言い放って携帯の電源を切ってしまう。私はこの光景に呆然とした。そんなのありなのか?彼氏がプロポーズをするって日に仕事を断りきれなくてデートをドタキャンしたのはあんたじゃん。「仕事はどうなってるの?」ってそれこそ大きなお世話だよ。いい大人なんだからどうにかなってるよ、そんなもん。「人のことはいいから」って人のことじゃないだろう、結婚は。二人の問題じゃんか。あんた頭大丈夫か?結婚したいの?したくないの?って言うか、あなた、この人が好きですか?ぞっとしたのが、この器を探してる人が結婚する理由。
 「高典との結婚を気にヒロミの攻撃が過熱するのか下火になるのかは定かではないが、夫婦と言う筋金入りの「安定」さえ手に入れてしまえば、もはや多少の障害で関係がぐらつくこともないと信じていた。」
 おいおい、結婚は接着剤かなんかか。全く勘違いですから。そんなに結婚って制度に信用があるなら「性格の不一致」みたいなあいまいな理由で離婚する奴いねーよ。大丈夫か?この作者はこのキャラをどれくらい肯定して書いてるんだろうなぁ。すごい心配なんだけど。さらに、それだけ相手の気持ちを損ねておいて、撮影用に使ったムース一つを手土産に買えれば機嫌が直ると思っている。んなわけねえ。そんなに単純な奴なら、仕事でデートができなくなったと言う時点ですっぱりあきらめてるよ。
 ただしこの男の方もかなり食わせ者で、二人の大事な日に嫌がらせで入れられた仕事を断る甲斐性のない彼女にこう言う。
 「冷静に考えれば弥生ちゃんにだって分るはずだよ、あの先生のそばでちょろちょろ動きまわってるのと、僕のそばでちょろちょろ動きまわっているのと、どっちの方が幸せかって。ね、いい機会だから今夜はしっかり考えてごらん」
 私だったら、こんなこと言う奴と結婚とか言う前に付き合わないと思うけど。どうでもいいけど、人の仕事に口出して辞めろとか辞めないとか、そういうことを全部話し合った上でプロポーズしろよ。
 そんな感じで、のっけの話のすみからすみまで不愉快な気持ちにしかさせられなかったので、2話以降はもう殆ど読み飛ばす勢いだった。だって、これがそういうキャラの設定で書いているんであって、作者の思惑と重なるところはないんだって言うなら逆にすげーなと思うくらい不愉快なキャラばっかだった。

 トリの「風に舞い上がるビニールシート」に到っては、最初の数ページと真ん中と最後をパラパラとめくってみただけで大体どういう話か想像がついた。アンジェリーナ・ジョリーとクライブ・オーウェンの出てる映画を思い出したよ。

 6話が6話、どれも「いい話」に落としてて前向きなメッセージを仄めかして終わるその画一さが逆に嘘臭いという印象しか残らなかった。別にハッピーエンドが嫌いってわけじゃないんだけど、もともとハッピーエンドにリアリティを感じにくい体質なので、それがこれだけ束になってこられると余計ダメだね。
 まあ、でも女性作家の描くキャラにこれだけ不愉快にな気持ちにさせられたのも初めてだったのでその点では面白い読み物だったと思う。

風に舞いあがるビニールシート


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「まほろ駅前多田便利軒」 [reading]

 すごい面白いかった。こんなにエンターテイメントな話を読んだのは久しぶりだな。ストーリー性とかプロットとかキャラクターとかよく考えられていて、それを上手に楽しく読ませるようになっていたと思う。しかもなんだか知らないけど主人公がすごいいい男で驚いた。見た目はどうだか分らないけど、そんな奴いねえっていうくらい絵に描いたようないい男で面食らったけど、読み終わって作者が女と気付いて納得。なるほどね。

 それにしてもヒーロー活劇のアニメみたいな話で、いろんな事件やら騒動やらが起きるのに、悪い人間と言うのが一人も出てこない作品だった。本当に一人も出てこない。敵役で表向きは悪ぶってるけど本当はいいやつみたいな。どうなのこの生ぬるさ。一見すねに傷があったり、後ろ暗い過去をしょってそうに見えるんだけど、開けてみれば聞くも涙、語るも涙みたいないい話になって終わる。誰も悪い人はいない。みんな赦されている。簡単に言うとお涙頂戴的なオムニバスだった。

 主人公のお人よしと言うか、度を越したおせっかいというか、なのには閉口したけど、多田にしろ、行天にしろ出てくるキャラクターがみんなよく書けていた。挿絵があるのにもちょっと抵抗を感じたけど。ライトノベル出身なの?この人。
 行天で続編でも書くつもりなのか、行天の家族観についてはついに触れられずに終わっていた。最後、あれだけ「知りたいんだ」と言っていた彼の気持ちが何処から来るのか分らずじまいだった。単に多田がずっと言いたかったことを言って清々して終わってしまったような気がする。個人的には少年だった頃とは全く別人のような変化を遂げた行天の過去の方が気になったな。
 またかなりドラマも軽い。持ち上がるイベントはみんな相当にでかいんだけどその事件の核心に迫ったりすることはない。物語は色々なイベントの上を滑っていくだけ。希望も未来も美貌もある女子高生が実の父親にセックスを強要されてて、それを理由に母親もろとも殺してしまっても、物語は真実の周りをぐるぐる廻っているだけ。彼女が背負わされた過去とか、それを振り切るために彼女がしてしまったことの重大さについては全く触れられない。どんなにスキャンダルな事件が多田と行天の目の前で起きても、果ては実際に巻き込まれたりしても、そんなのはみんな日常を彩る素材に過ぎない。なんかてきとー過ぎないか?と思わなくもない。

 話やキャラに深みはないけどその分どたばたコメディ並みにドラマはある。これってきっと月刊誌の連載だったんだよね。項数も決まってるだろうしドラマの展開だけを追っていくなら、物語の厚みとか深みで言えばこれが精一杯だろうなと思う。そう考えると、よくハルキは「ねじまき鳥」みたいた重いのを連載なんかで書いてたな。しかも、あんだけ読んだあとでもどこにも連れてかない落ちのない話を。

 この作品、誰かがドラマにしそうだな…。

まほろ駅前多田便利軒


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「門」 [reading]

 「門」は弟子に言われてつけたタイトルだそうで、で、タイトルがタイトルなんで仕方なくむりくり禅寺の門をくぐらせたと言う。そんなかよ。 もーーー、もーーー、本当に読むのが億劫だった。だって、面白くないんだもん。

 第一、何が言いたいのか分らないよ。この本なんで書いたん?「それから」には少なくともメッセージがあったし、「三四郎」には文学の一作品としてちゃんとした形になってる。けど、これって何か伝えたいことがあるんだろうか。怪しすぎる。
 作品としてかなり未熟すぎると思うのは私だけ?物語の構成がさ、『習作なんじゃないのこれ?』って言うくらいぎこちないっていうか、荒っぽすぎる。現在とそれを説明する過去が交互に出てきて読みづらい。特に章立てしているわけでもないから、隣の段落からいきなり過去に飛び移っちゃってることになるし、相関関係を説明するために過去に飛ぶので時系列的に整然としてないもんだから、『ここで話している過去はこっちで説明している過去の前で宗助と御米がくっついた後』みたいに話がこんがらがっちゃってて、読んでるほうで過去を並べ替えていかなくちゃいけない。しかも、この話で一番大事なドラマ、宗助と御米の馴れ初めの核心部分を全く掘り下げないで、話の上っ面をなめただけで終わりにしている。これには拍子抜けした。二人の関係がどのようにして持ち上がったかを説明しているのは作品全体でこのたった3行だけ。

 「大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上がった時は何処も彼処も既に砂だらけであったのである。彼等は砂だらけになった自分達を認めた。けれどもいつ吹き倒されたかを知らなかった。」

 えーーーーーーーー、そんな、抽象的過ぎる。こういう抽象的な表現は具体的なドラマの上に成り立つもんじゃないの?なんか、これじゃきれいごとだよ。こんなんじゃ、なぜ親兄弟に絶縁され、親戚にも顔が立たず、友達も失う羽目にまでなったのかが全然伝わって分らない。漱石には経験不足でそこんとこのドラマが書けなかったのかな。文字にして起こすには実際にそれがどんなもんか知りえなかった?人の家庭を壊して、自分の親も親戚も友達も、自分のそれまで住んでた世界の全てを捨ててまで一緒になることを選んだ二人の関係が、こんなたった3行で済まされちゃうなんて。それはそれですごいのかもしれないけど、ドラマにはなってないよ。しかも、この表現じゃ悪いのはお互いを選んだ自分じゃなくて、その時たまたまそこを砂嵐が通ったからだみたいな言い方じゃん。これもまた漱石特有の受身キャラなのか。それとも漱石自身がそうだったのかな?なんか自分で選んだり出来ない人生だったのかな?まあ、話を書くこと自体、神経症の治療にって人に勧められてだからなぁ。「気が付いたらそうだった」みたいな現象の方が彼としては理解しやすい人生のあり方だったのかもしれない。

 そしてこの夫婦は、そうやって自分の持ってる全てに代えても選んだ相手と一緒にいながら、なぜかちっとも幸せそうじゃない。お金がなくて日々の暮らしにキュウキュウしてるというよりも、いつもビクビクして暮らしてるみたいな印象だった。日陰を選んで暮らしてると言うか。だったらやめとけよって感じ。
 わかんない。なんなんだろう、その消極さ。なんでそんなにちっちゃくなって暮らしていなきゃなんない?いくら略奪愛だっつったって、天下の下に夫婦になったんじゃん。何を恥じることがあるのよ。お互い愛し合って選んだ相手なんじゃないの?なんでそんなにこそこそするかと思ってそれが不愉快だった。そんなんだから御米が弱っちゃうんだよ。ま、もっともこそこそしてるって言うのは印象の問題なんだけど。
 時代の違いなのかなぁ。そうかなぁ。当時は妾って市民権もあったんだから、そんな風に人から奪ったつったってちゃんと夫婦になってるなら、そんなに後ろめたく思って暮らすことはないんじゃないのかなぁ。親戚とか友達に顔を合わせずらいって言うのは分るけど、世の中全体に対してそんなに卑屈になることはないんじゃないかと思った。

 漱石の主人公の条件にもれず宗助にも甲斐性はない。しかし働いてはいた。漱石の話で初めて働いている主人公にあたったよ。しかし、どうにもこうにも意気地がない。自分で選んで飛び込んだ人生なのに、それが及ぼした結果に対して潔く責任を取ろうとしない。その不甲斐なさはいっつも私にどうして奥さんはこんなのと一緒になろうと思ったかなぁと首をひねる。こんな男のどこに面倒を起こしてまで一緒になる価値を見出したんだか傍目から見てて分らない。例えばさ、新春にささやかな庭先に鶯がとまって鳴くのを御米が、
 「本当に有難いわね。漸く(ようやく)のこと春になって」
 って言うのに、
 「うん、然し又じき冬になるよ」
 って言うんだよ?つっまんねー男。こんなのといて楽しいのかな。
 この話で不幸なのは小六だ。宗助の怠慢は弟の小六の荒廃も呼ぶ。しかし宗助は、これを自分の関知しない所と思って、と言うか頼りにされるのを迷惑だくらいに思って、小六の悩めるのを見て見ぬふりを決め込んでいる。で、御米も御米でそんな宗助をたしなめるどころか、調子を合わせてしまう。なるほど、似合いの夫婦ってわけか。でも、あれだけ学校に戻りたいと、勉強したいと言っていた小六が最終的に自分は飼い殺しにされているんだと言うことを汲んでグレていく様子は痛ましかった。それでも、宗助には小六の将来の可能性を自分がダメにしていると言う責任を感じている様には全く見えなかった。この宗助って小さい人間が気にしているのはもっぱら世間の目であるようだった。そんなものを気にするほどの人としての誇りが君にあるとは思えないけどな。

 最悪なのは、御米の前夫が自分の大家の家に出入りすると聞くや否や、経済問題に直面している家庭を抱えているにもかかわらず仕事をほっぽりだして、御米すらも置き去りにして禅寺へ駆け込んでしまう。最低だな。断っておくがこの男に信仰心なんて高尚なもんがあってそんなことをするわけではない。文字通り目の前に降ってきた問題から逃げ出して駆け込んだだけだ。故に、そもそも真剣に何かを悟ろうと言う気も毛頭なく、どうしようどうしようと思っているうちに、やっと『御米があぶないかも?!』って事に気が付いて今度はまた慌てて帰る。何しにきたのかさっぱり分らん。と言うか、いざとなれば人から奪い取った妻でさえ置いて逃げるなんて、筋金入りのロクデナシだなと思って本気であきれた。
 家に戻ってみたところで、結局、宗助はこの局面に向き合うと言うような度胸はついに湧かず、頭かくして尻隠さずみたいにしてその場を何とかごまかしてやり過ごしただけだった。

 読み終わって、きっとこの夫婦はこのまま一生こんなふうに不幸な雰囲気の中に生活していくんだろうなと思った。そしてその不幸って言うのはただの勘違いなのだった。

 私にとって議論を呼んだのは、本文よりも巻末の批評だった。曰く、
 「われわれがある女(または男)を情熱的に欲するのは、彼女(または彼)が第三者によって欲せられているときである。もちろん、三角関係として顕在化しない場合ですら、恋愛はそのような構造を持つ。」
 えーーーーー、そーかなぁ?それってつまり、自分の彼女がモテればモテるほどより好きになるって構造?そんなロジック聞いたことねえ。しかも続いて、
 「しかし、相手を獲得したとたんに情熱は冷め、その後はなんとなく相手を腹立たしく思う。」
 とかぬかす。冷めねーよ。なに言ってんだ。これはあれか?男が浮気性なのを擁護するメモかなんかか?バカらしい。「その後はなんとなく腹立たしく思う」ってどういうことだよ。何の話してんだよ。ここで言ってる「情熱」って何のことだよ。性欲か?そんな低俗な話してたんじゃないだろう。愛情のことなんじゃないの?この世に不変なものなんてないけど、獲得したとたんに冷めるような愛情は愛情じゃないよ。それはただの勘違いだよ。まあ、この批評が書かれたのは私が3歳のときだから、今となってはあんまし通用しないのかもしれないけど。

 後半は現実からどうにか逃げようとする宗助よろしく、私も飛ばすように読んでしまった。今まで知らなかったけど、巻末の漱石の作品紹介を読む限り、漱石ってこんな話ばっか書いてる。批評にも書いてあったけど、漱石がこんなんばっか書くから実際本人がそういう関係にあるんじゃないかっていう見方もあるらしい。当然だろうね。私は漱石個人の歴史をよく知らないから実際のところはどうだか知らないけど、でも、私の作品から受けた印象では自分で相手を選ぶ恋愛に憧れていたんじゃないかって気がする。相手が既婚にしろ、未婚にしろ実際にその対象がいたかもしれないね。ただ、その相手と実際に関係を結ぶまでには行かなかったから自分の作品の中で二人がどういう風に砂嵐にはまったかと言う一番重要なドラマに肉付けすることが出来なかったんじゃないかな。と言うのが私の読み。

門


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