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「こころ」 [reading]

 いまでも高校生の国語の教科書に載っているらしい。私もその頃この話を読んだ。教科書だから断片的にだけど。読んでいけば教科書に載っていたのがどの辺だったか思い出すかなと思っていたんだけれど、最後まで読み通してしまっても実感の沸く箇所を見つけられなかった。これのどこが載っていたんだろう。
 当時印象に残ったのは掲載された本文ではなくて、その脇にあった作品全体を通したあらすじの内容だった。記憶では、教科書には多分、先生の遺書部分が載っていたんだろうと思うんだけど、その中では先生の友達が自殺したことや、ましてや先生自身がそれを苦に結局自分も自殺したなんてことには触れていなかった。高校生の私に響いたのは、親友を陥れるっていう人の心の暗さと、自殺っていうスキャンダル性だった。「裏切り」と「自殺」。この二つのテーマは高校生の好奇心にかなり強烈に響いた。それが印象的だったのを覚えてる。

 「こころ」は実際の内容とは裏腹に全編を通して世俗を離れたのどかな雰囲気で覆われていた。それは、「私」も「先生」も社会の一部として生きていないからだろうと思うけど、でも、この夢見たいな雰囲気は「三四郎」からの三部作に比べたら私にとってはよっぽど漱石らしいと思える世界観だった。
 話が海辺から始まる辺りなんかは好ましかった。鎌倉の海岸にひしめく観光客の賑わいとは対照的に「私」の視線はただ「先生」だけを追っていて、彼の思索が周囲のざわめきから遠く離れているように感じられる。「先生」も後で直接「私」に言ってるけど、その様子はまるで恋の始まりみたいだ。周りが見えてない。音が聞こえてない。自分の思考にだけ集中してて「先生」しか見えてない。「私」は鎌倉の海岸で「先生」を見て一目惚れをする。そんな感じだった。

 漱石の話を読むって言うのは、不思議とハルキとの共通点を見つけるって言うことでもあって、それが驚きだった。ハルキの話に出てくる人はみんな大抵経済的に余裕がある。仕事のあるないや、それの好き嫌いに関わらずそれで一応の成功を収めている。私の個人的な印象では、それはまるで経済的に逼迫していたら物語にならないとでも言う感じ。
 漱石の描く主人公もしかり。まず働かない。にもかかわらず経済的に逼迫してない。っていうか経済的な感覚がない。「先生」も働かない。万が一、自分が妻より先に死んだ場合を想像して、後に残された彼女の生活を心配して見せたりするわりにはそのために少しでも多く財産を残すために働こうとはこれっぽっちも考えない。「こころ」では何度も「厭世的」と言う言葉が出てくる。これは大なり小なり漱石自身の意見だろうなと思う。彼は世の中に出て働いてもいたけれど、最後は胃潰瘍で死ぬくらいだから、世の中とちょっと距離をとりたいという気持ちはあったんじゃないかな。それで、「先生」は全くこの「厭世的」であるために社会に出て働くことをしないんだけど、それってはたから見るとただの甲斐性なしじゃん。って言うかなんだろう、ニート?引きこもり?社会に出るのが嫌で働かないけど、趣味はあって、その趣味に浪費することは厭わないんだから。稼ぎもないのに季節毎にやれ避暑だ紅葉だって旅行に出かけて、旅先から流暢にハガキなんぞを送りつけてくる。「私」じゃなくても、働きもせずにどんだけ資産があったらそんな暮らしが出来るんだろうと思うだろ。
 働かずにいい暮らしができると言う社会のありようは、ウッドハウスの書く話を思い出させた。ちょっと考えてみると時代も合っているような気がする。片や貴族社会の延長線上に存在する気楽な荘園暮らし。片や旧体制を崩壊させて経済発展を遂げようとする新体制の中で台頭してきたバブリーブルジョア。ジョージ5世と明治天皇の時代。社会のあり方は違うだろうけど、その時代は特に社会的義務を果たさなくても生活を保障された人々がめずらしくなく存在したってことだろう。だって、そんなのがめずらしかったらそんな境遇のやつを主人公にしたって共感できる人なんかいないだろう。まあ、共感で出来る出来ないは別として、当時はイギリスでも日本でもそういう人のめずらしくない時代だったんだろうと思う。

 「私」は若い気持ちの赴くままに素直に自分の気持ちを「先生」にぶつけていく。漱石で驚くのはキャラの書き分け方のうまいことだ。露出がどんだけ少なくてもちゃんとキャラが伝わってくる。また、これだけストーリーが似てるのに書いててどうしてこれだけキャラがかぶらずにいられるんだろうと思う。すごい。実際のモデルって言うのが身近にいたんじゃないだろうか。それとも完全に才能なのか。
 「私」は本当に幼い。でも、坊ちゃんや、三四郎と違って、おっとりしたのんびりした素直な性格を思わせる。自分の気持ちに正直で、他人に対しても開け広げで、経験が浅く、それゆえに遠慮とか建前ということが分らない。恋も知らないし。自分が「先生」に恋をしていると言うことにも気が付かないくらいだから。そして幼くて経験不足な人間に適当な教育だけ与えてしまったありがちな結果として、東京での学業に憧れ、学問の素養のない人間を蔑むような安っぽい偏見を抱いている。自分の教育費や生活費を文字通り命を削って稼いでいる両親を無学だと決めつけてそれを恥ずかしく思っている。それでいて自分が何者だか、社会的な立場を反省してみることはついぞない。だけどこの概念は漱石の描く主人公にに共通だ。これが漱石自身の意見なのか、それとも当時の学生の一般的な考えを代表しているだけなのか。いずれにしてもこんな差別的な考えを主人公に代弁させるのにはぞっとする。特に母親に対する軽蔑的な視線が不愉快だ。生みの親に対するこの軽薄さはなんだろう。それでいて、無学なはずの田舎者である両親に正論を吐かせて良識が必ずしも学問に備わるものでないことを示している。漱石の作品では主人公以外のところに作品の良心が生きている。「坊ちゃん」で言えば山嵐みたいな。でも良心の立場はいつも弱い。その良心をどうするか、どう汲み取るかは主人公の器量に委ねられている。むしろ読者に委ねられていると言った方が正確かもしれない。漱石の場合、主人公は漱石自身の投影ではないと思う。

 「先生」は本当に良心の呵責で自殺をしたんだろうか。文庫の最後についていた批評とは私はちょっと考えが違う。「先生」は、Kの自殺は自分に裏切られたことがきっかけではあれ、真の理由ではないと気が付いていたのに、そのために自殺なんかするだろうか。「K」が、つまるところ「先生」の裏切りに自分の矮小さを思い知らされて絶望したように、「先生」も本当は単に自分には甲斐性がないという現実から逃げたくて死を選んだんではなかろうか。まあ、本当のところはどうであれ、共に生きることよりも、一人で死んでしまうことを選んだってことは、「先生」が親友の命と引き換えに手に入れたものは結局その代償に見合わなかったと言うことだよね。なんちゅー失礼な話だ。まあ、あのまま二人で暮らしていくよりは奥さんにとってはそのほうがよかったのかもしれないけど。経済的にも社会的にもまだやり直せるだろうから。それともそこも計算してのことだったんだろうか。でもまあ皮算用だよねえ。
 奥さんの「静」は、「K」と「先生」をそそのかした悪魔みたいに描かれている。男二人を手玉にとって弄んだから早まったことになったと。娘時代の奥さんは若さゆえの、もしくは無教養ゆえの、もしくは単に思いやりのない性格ゆえの残酷さを振りまいて二人の間に立ちはだかる。そんな非情なお嬢さんが結婚したってだけでこんなに思慮深く奥ゆかしい人になるなんてちょっと首を傾げてしまう。女卑の視線はここでも顕になっている。「K」も「先生」も頭ごなしに女性は皆無教養で頭が悪いと決め付けている。そのくせ二人してまんまとその女の手玉に、それも同じ女の手玉に取らていいようになっちゃってるんだからあきれる。君らの方がよっぽど世間知らずでうぶだっつーの。あんな分りやすい駆け引きに引っかかるなんて。ひょっとしたら経験と言うよりも性格の問題かなぁ。私だったら、「K」がいいなら無理矢理それをどうにかしようなんて思わない。相手が自分の視線を避けるなら、むしろ私からも距離を置こうとするだろうな。努めて自分の視界に入れないようにすると思う。あんな幼稚な駆け引きに引っかかるなんて。さすが学生。その相手の幼稚さをむしろ憎めっつーの。
 しかし、考えてみれば、親戚に遺産を騙し取られて何の資産も持ち合わせない、将来を何も約束されていないまだ学生の身分の「先生」とよく結婚させたと思う。よっぽどお寺に嫁がせた方が親としては安心じゃなかろうかと思ったけど、きっとあの未亡人は最初から「先生」がお気に入りだったのよね。だから預ける気になったんだろう。自分の見込んだ男だから。
 この「先生」をかわいがる軍人の未亡人が私の好きなキャラだった。この人もまた作品中の良心の一端を担っている。潔くて、精神的に未成熟な自分の娘をたしなめるだけの良識もある。高潔な感じのするこの未亡人が私は好きだった。

 この作品は唐突に終わる。それも今まではハルキの専売特許だと思っていたけれど、久ぶりにそんな終わり方のしかも時代の古い作品を読んでびっくりした。なんでこんな終わり方と思ったけど、すぐにこれが一番いい形だったんだと考え直した。それから先の話はいくらでも考えようがあるけど、きっとどれもつまらないし、それ以上の話は必要ないんだと思う。ドラマはここで終わって、また別の話になるのだから。
 しかし一番驚いたのは、遺書を受け取って危篤の父親を黙って放り出して電車に飛び乗った「私」だった。何が「私」をそうさせたのか理解できなくてびっくりしたけど、今となってはきっと若くて向こう見ずで軽薄な「私」のことだから、そのときは父親の死に目に会えないのよりも、「先生」の死に目に会えないことの方が堪えたんだろう。私の思い描いた一番面白い後日談は、「先生」の遺書は狂言で実は「先生」は生きていたってことだった。で、「私」のお父さんが死んじゃったりしてたらもう目も当てられないなと思った。

 漱石は『人の心を知りたいならこの作品を読め』と言ったくらいこの作品で扱っているテーマの表現に自信があったみたいなんだけど、彼の言うほど私がその辺をうまく汲み取れてると言う自信はないな。巻末の評論によるとこの作品のテーマは「我執(エゴ)」なんだそうだ。エゴねえ…。「K」も「先生」も尊大だったから自殺を選んだと言いたいんだろうか。どっちも単に自分の不甲斐なさに絶望して安易に死を選んだまでだと思うんだけど。それは高潔だからと言うのではなく、ただ単に彼らがやわだったからという印象なんだけど。それだったらまだ素直に作品タイトルのまま、もしくは漱石の発言したように「こころ」がテーマであると言ってくれた方がいいような…。それにしたっていまいちピンと来ないんだけど…。まあ言われてみればそうなのかなぁという程度で。それを聞いて思ったのはアリストテレスの「こころについて」って論文はどうなってるんだろうと言うことだった。買って大分経つけどついぞ手に取ったことがない。表現の方法こそ違うけど、どっちも同じ主題でしょう?アリストテレスはなんていってるのか気になった。漱石を一通り読み終わったら読んでみようかと思う。

こころ


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