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「坊ちゃん」 [reading]

 「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」

 「坊ちゃん」は悲しい物語だった。そして怖い。想像するとぞっとするくらいだ。そのくだりを読んでいる時に私の頭に浮かんだのは、"government can do."っていう"The Farm"のトム・クルーズの台詞だった。ジーン・ハックマンとランチを食べながらどうして弁護士を志したかと質問されてトム・クルーズはあるエピソードを話す。自分がバイトをしていたコンビニにある日移民局の人間がやって来てオーナーが捕まり自分は職を失った。その時「政府の出来ること(国家権力)」について始めて恐怖を覚えたと言う。唐突に生活を奪われた若者は、自分を横暴な権威から守るために法律家になることを決意する。
 「坊ちゃん」にはそれと同じ恐怖がありありと渦巻いていてて恐ろしいくらいだ。どうして誰もこれを取り合わないんだろう。それともそんなことは学術的な研究においては通説になっているんだけど、そういうことを言うと読者がとっつきにくいからわざと作品を単純に見せかけているんだろうか。発売当時ならまだしも、今この時代で作品をごまかすことに何の意味があるんだろう。宿題で読んだ子供が勘違いするじゃないか。一番驚いたのは、文庫の裏表紙にある作品の紹介に「近代小説に勧善懲悪の主題を復活させた快作」って書いてあったこと。私がそれを買うときは坊ちゃんの潔くってかたくななところしか知らなかったから、『ああ、そんなもんなのかな』と真に受けちゃったんだけど、読んでみたら、どこが勧善懲悪なんだよ。これじゃ「悪徳の栄え」だよ。悪を悪と分っていながら何も出来ない何も言えない坊ちゃんこそいい面の皮じゃんか。お父さんの言葉を借りるなら、完全に「正直者がバカを見る」話だった。

 大体、読んでみて坊ちゃん自身がかなりのバカだと言うことを発見してそれにもかなりのショックを覚えた。おめでたいっていうか。他の作品の主人公に比べたら学が低いせいなのかもしれないけど、すごい不器用。まず物事をうまく解決できない。自分が正しいと思うことを人に説けない。もしくは人が間違っていると言うことをちゃんと説明できない。影でこそこそ悪口言われているのを知りながらなにも言えずに胸のうちでぐずぐずしてる。気に食わないならなんで正面切って詰問しないの?子供の悪戯には自分の正義感振り回しといて相手が大人になるとなにも言えなくなる根性なしだ。あきれる。勘当されるわけだよ。
 こんなにせこい人間の癖して坊ちゃんには人を見下すような癖がある。田舎の者を「田舎の者だから」と言って一くくりにする。坊ちゃんに限らず、漱石の作品に出てくる主人公は東京の生活仕様に合わないことをする人たちを軽蔑する傾向にあるらしい。
もしもこれが漱石自身の考えだとしたら大した倫理観だ。でも今のところどの作品にもそれが共通して見つけられる。漱石の持ち出す差別は二種類あって、一つは職業的な差別観。大学出は立派で、田畑で働くのは卑しいみたいな。もう一つは性差別。女は押しなべて頭が悪いみたいな。マジあきれる。その理由は大体において女が自分を同じ教育を受けてなくて同じように考えられないからということのようだけど、それでいて自分が女のできることを出来るわけじゃない。多分女の出来ること、仕事も卑しいもんだと思っているんだろう。「坊ちゃん」を読んで、やっぱ教育って大事だなぁと痛切に感じた。私なんてお父さんがあんなに男性上位の信望者だって、男女の分け隔てなく、歳の上下にも拘らずに育てられたからこんな差別は私にとってはファシズムにも等しく見える。

 そんなファシズムの権化みたいな校長や赤シャツのやってることはみんな狡い。まるで悪代官だ。気に入った女を娶りたくてその婚約者を陥れる。校長と申し合わせて辺境の学校へ左遷させる。人の許嫁を横取りしておいて、夜は夜で廓遊び。で、昼間は教育者風吹かして坊ちゃんの蕎麦屋通いをたしなめたりする。その卑劣さはあきれるくらい分りやすい。分りやすいからみんな知ってる。なのに誰も何も言わない。私はその沈黙が怖かった。権威に対して何も言えないっていうそんな社会が怖かった。そんな雰囲気の中で戦争に突入してったんだなと思って怖かった。そんな無口な人たちが、ファシズムにも似た思想の中で戦争に邁進して行く社会を想像した。そんな人々の戦時中の暮らしがどんなだったか容易に想像できる。恐怖政治だ。何がいいか悪いか自分で判断できたかどうかなんて怪しい。きっと権威に旗振ってそれを正義と信じて、その権威に他人が虐げられても目を塞いだに違いない。もしかしたらその様子に疑問すら抱かなかったかもしれない。そういう人たちって戦後の社会の変貌にどう折り合いをつけて生きてきたんだろう。自分の人生観、価値観、全部ひっくり返されて。しかもそのありようは否定されてるから同じように築き直すこともできない。

 それで結局坊ちゃんと山嵐は正義感はあっても頭がないから校長と赤シャツの腹黒い画策を見抜いていても口先に丸め込まれて征伐は出来ない。それを助ける者もいないし。そこのコミュニティー全体がこの悪代官とその腰ぎんちゃくの袖の下に生きているみたいなもんだから。最後には見てて悲しくなるくらい子供染みた挙に出て、廓遊びで朝帰りするところをわざわざ夜っ引いて待ち伏せする。そんなことして決定的なところを捕まえられるわけでもないから、赤シャツも子供染みたことを言い連ねてごまかそうとする。坊ちゃんが袖に隠し持ってた生卵を太鼓持ちに投げつけた日には閉口したよ。しかもそんなのを悠長に5個も6個も持ってたなんて。なんてバカなの……。程度が低すぎる。それとも当時の成敗ってそんな程度のことを言ったの?坊ちゃん……。こんな男に惚れる女はいなかろうね。

 漱石の小説に出てくる女性は気移りしやすい。でも私はそれを責める気にはなかなかなれない。だって彼女たちにはそこに生活かかってるからね。うらなり君の許嫁が赤シャツを選んだのも決定的には経済的な理由からなんだろう。あのままうらなり君のお父さんが元気でいたら約束をたがえてまで赤シャツになびくような、そんなファシスティックな社会の中で自殺行為とも取れるようなことはしないだろう。「体面」。それが当時の人たちにとってどれだけ重い事象を指すのか今の私たちには計れないと思う。それはあれだけ影では腹黒いことをしている赤シャツでさえはっきりとうらなり君とこの縁談が白紙になるまでは彼の許嫁をなんともする気はないと公言するくらいだから。人になんと見られるかということが最大限重要なことだったんだろう。お父さんならすぐに見栄張ってたってしょうがないって言うところだろうけど。
 あともう一つ読んでて驚いたことに、清のイメージが全然違ったということだった。小説をちゃんと読むまでは、清って奥ゆかしい女性なんだろうと思ってたんだけど、単に気に入りのやんちゃ坊主を贔屓にしているだけに見えた。坊ちゃんのお母さんが亡くなった後では余計にかわいがったというくだりは不気味にさえ思った。学のないおばあさんが不器用なりに生きてきて他人の子供を猫っかわいがりする。その子の成功ばかりを夢見て自分をその夢の中に一緒においてくれと押し付けがましくも本人に迫る。言っておくが清には自分の子供がいてそれなりに生活している。自分を面倒見てもくれるかなり出来た息子だ。にも拘らず自分は坊ちゃんと一緒に暮らしたいという。このおばあさんどういうつもり?坊ちゃんよりはるかに出来のいい自分の面倒を見てくれる甲斐性もある自分の子供の前で坊ちゃんの自慢にもならない話をつらつら話すおばあさんが私は空恐ろしかった。

 「坊ちゃん」は今で言うキャラクター小説なんだろう。ずっと坊ちゃんの一人称で彼のキャラクター自身が物語になっているのだから。 「坊ちゃん」は文体の歯切れがよくって快活ではあるけれど乱暴な感じも否めない。そこに坊ちゃんのキャラが出ているんだと思う。とても「夢十夜」を書いたのと同じ人物とは思えない。

 とにかく、「坊ちゃん」全体を読み通した感想は、私が事前に読みかじった部分から想像する内容とはかけ離れていて甚だ驚かされた。落胆したと言ってもいいくらい。


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