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「八月の路上に捨てる」 [reading]

 面白かった。芥川賞ってみんな似てるな。淡白だ。さーっと駆け抜けていって後にあまり印象を残さない。軽い読み物だ。「蛇を踏む」とかも芥川賞だよね。ただ、それでいつも思うのは、芥川自身の作品に照らし合わせてこれが彼の名前を拝するに値するのかなと首をかしげる。つって私自身、芥川をよく知っているわけじゃないけど。なんとなく、これでいいのかなって思うだけ。こういう賞があってもいいとは思うけど。つまり、こざっぱりした読み物の大賞みたいのが。

 タイトルからは想像しない離婚自慢みたいなはなしだったけど、人生経験の浅い若い夫婦が小さな齟齬から躓いて、でも、相手に気遣って上辺だけ取り繕ろうから一歩づつ確実にお互いに乖離していって、しまいにゃそれを無理矢理埋めようとお互いに衝突して泥の上で取っ組み合って、最後は大雨が降って全てを流していってしまって後には何も残らなかったみたいなこの話は、はたから見たらかわいらしくもあったし、むしろすがすがしくもあった。

 愛でおなかはいっぱいにならないの典型みたいな顛末だった。男には包容力もなければ甲斐性もないし、女にはそれを鼓舞したり諭したりするだけの器量もない。お互いに愛してはいたんだろうと思う。だけど、その愛は現実に向き合っちゃうと全く耐性のないものだった。要するに幼稚だったんだね。お互いをどう大事にすればいいのか分らないみたいだった。それで結局愛をダメにしてしまったみたいな結末だった。

 愛ってさ、一緒に成長していけることだと思う。お互いに成長していけるから愛が育つんだと思う。ほっといて大丈夫な愛なんて存在しない。愛は生き物だから。この二人はうまく育てることが出来なかった。ただそれだけだと思う。その気がなかったんじゃなくて、育て方を知らなかったんだと思う。もしくはそういうものだってことすら知らなかったかもしれない。もっとも、育て方自体、二人で見つけなくちゃいけないことなんだけど。

 仕事仲間の水城さんに共感できるところはあまりなかったかな。特に、あからさまに下品なセクハラを受けても何も言わずにいるのは理解しがたかった。私だったら労災だとか警察だとか言って大騒ぎしてると思う。

 後半におまけみたいに付いてる話は、「生協の白石さん」をぱくって作ったような話で、なんか付け足さなきゃいけないから書いたのかなって感じだった。自分の実生活に近いのかもなと思って読んだ。フリーのライターが在宅勤務で感じる孤独を気の会う彼女との会話に安堵を見出すみたいな話だった。なんか世間離れした甘えた内容で、これ書いてるの男だったらちょっとやだなと思った。

八月の路上に捨てる


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「それから」 [reading]

 すんげーーーーーーーーーー読みづらかったーーーーーー。なんじゃこら。

 シリーズ中最もいけすかん奴やった。こんなに不愉快な気持ちになるなんてこれも本当にハルキ以来で久しぶりだった。ハルキの「僕」には暫く慣れてしまっていたんで、この時代錯誤なとんちんかんを読み下すにはかなりの努力を振り絞んなきゃダメだった。あーーー、疲れた。

 漱石自身も『「三四郎」のそれからという意味での「それから」』と言っているように、三四郎でのプロットを踏襲した話だった。多分、「三四郎」との大きな違いは不倫ていうタブーで社会に挑戦しているところだろう。社会に挑戦って言うのは、雰囲気からそう思ってるだけで、当時の社風に疎い私には単に代助は怠け者のすねかじりでいる理由を小難しく屁理屈をこねているだけに思える。でもその屁理屈が私にはひとっことも理解できない。代助の働かない理由はこうだ。

 「何故働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと大袈裟に云うと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本ほど借金を拵えて、貧乏震いをしている国はありゃしない。この借金が君、いつになったら返せると思うか。そりゃ外債くらいはかえせるだろう。けれども、そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以って任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方面に向かって、奥行きを削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く(ことごとく)切り詰めた教育で、そうして目の廻るほどこき使われるから、そろって神経衰弱になっちまう。話をしてみ給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より他に、何も考えてやしない。考えられないほど疲労しているんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴っている。のみならず、道徳の敗退も一所に来ている。日本国中何処を見渡したって、輝いている断面は一寸四方も無いじゃないか。悉く暗黒だ。その間に立って僕一人が、何と云ったって、何を遣ったって、仕様がないさ。僕は元来怠け者だ。いや、君と一緒に往来している時分から怠け者だ。あの時は強いて景気をつけていたから、君には有為多望のように見えたんだろう。そりゃ今だって、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於いて健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。そうなれば遣ることはいくらでもあるからね。そうして僕の怠惰性に打ち勝つだけの刺激もまたいくらでも出来て来るだろうと思う。然しこれじゃ駄目だ。今の様なら僕は寧ろ自分だけになっている。そうして、君の所謂(いわゆる)有のままの世界を、有のままで受取って、その中(うち)僕に尤も適したものに接触を保って満足する。進んで外の人を、此方(こっち)の考え通りにするなんて、到底出来た話じゃありゃしないもの――」

 …理解できる?甚だ、『はあ?』って感じでしょ?なんかもう外国語、それも第二外国語か、中世英語を読んでるみたいに意味不明だよ。私の意訳では、『オレ様が出て行って労働なんてものをするには、世の中も人間もどうにも下劣すぎる』ということになって、こいつも悪魔の一種だろと思うんだけど違うのかな。当時の世の中を知っている人なら代助の言っていることを理解できるのかな。そういう考えの人は珍しくなかったって。
 三四郎の大人版である代助は、大人であるだけになお始末が悪い。私が最も感銘を受けた代助語録で、最もこの男ってもんを端的に表しているなと思わせる台詞がこれ。

 「もし馬鈴薯(ポテトー)が金剛石(ダイヤモンド)より大切になったら、人間はもう駄目である」

 この人にとってダメでない人間がこの地球上に何人いるかね。
 もうほんと、こんな奴の人生観をつらつら並べられて、一体この話をどう受け止めればいいのと思って苦しんだよ。本当に漱石は何を伝えたかったんだろう。当時の経済発展に乗じて台頭してきてたブルジョワ階級の教育を批判したかったの?お前らが成金の文化が作り出すのはせいぜいがこんな程度の人間だって?そう?そういうこと?わっかんないな。あまりにも不愉快&不可解すぎて、読み終わったあと巻末の批評にまともに目を通す気力がなかったよ。

 不幸なのは美津子だ。本当に愛なんだろうか…。代助への気持ちは…。と思うのは私だけ?なんか結局誰でもいいんじゃないの?ポテトを食べさせてくれる甲斐性のある人なら。けどその甲斐性を見分けられるだけの分別もなさそうだった。愛も分らなければ、男を見る目もないこの棺桶に片足突っ込んだような人が気の毒だった。
 作品の良心は常に主人公以外に存在する。嫂(あによめ)や平岡や実の兄がそうだ。これだけまともな人間に囲まれていながらどうしてこんな人間になっちゃうかと首をひねりたくなる。これらの良心もそれぞれのやり方で代助に働きかけるけど、いかんせん同じ言語を解さないので分かり合えっこない。って言うより、嫂は女だし、平岡はダイヤモンドよりポテトの方が大事だし、また実の兄も「麺麭(パン)が得られればいいという(途中略)、堕落の労力」に就いているから、これらから発せられる言葉は代助にとっては聞くにい値しない。代助にとって労働とはこういうものだから。

 「生活以上の働きでなくっちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭を離れている」

 「だからさ、衣食に不自由のない人が、云わば、物数奇(ものずき)にやる働きでなくっちゃ、まじめな仕事はできるものじゃない」

 けど、それは何かを極めようって言う志のある人のことでしょう。君、志とかないじゃん。

 代助に三津子への気持ちを告白されて、それでも潔く「遣ろう」と言った平岡が、代助を遠ざけている間に父親にそれを言いつけたりしたのが、最初、らしくないなと思ったりしたんだけど、後から「君の家の事も書かずにいる」と言った言葉を思い出して、『ああ、この人は文屋だもんな』と思い直した。つまり、父親へ送った手紙は単なる腹いせ目的の大人気ない言いつけ状ではなくて、多分脅迫状に近いものだったんじゃないかと思って納得がいった。

 この話の中で一番小気味よかったのは、最後に兄から勘当されることを伝えられた後、もう外は夜だって言うのに血相抱えて、「門野さん、僕は一寸職を探してくる」と言って家を飛び出していく場面。だけど、次の瞬間、代助の気持ちを想像したら、それが痛いほど分って胸の詰まる思いがした。今まで持っていた全てを一瞬で失ったって言う膨大な喪失感と、これから先をどうやって自分一人で生きていけばいいのかと言うそれを上回る不安。代助自身、家を出ると言った後すぐに「焦る、焦る」と口に出して言っている。
 代助の人生が音を立てて崩れていくのが聞こえるようなラストで、それまで代助を不愉快にしか感じていなかった私でさえ、その光景にぞっとするほどだった。


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「三四郎」 [reading]

 これはちょっと面白かった。冒頭にいきなり列車の中で田舎者の書生を誘惑する人妻なんか出してきて一体なんのつもりかと思ったよ。そうかと思うと、三四郎が上京してからの友達は身分を偽って女遊びをしている。身分がばれそうになって危うくなるとまた嘘の上塗りを重ね女を捨てて逃げる。全く恥知らずの権化みたいな男だった。そういう性のモラルって意味で驚かされることが印象に残る作品でもあった。漱石の作品でそんなテーマを扱っているとは思わなかったから。だって今まではどちらかと言うと、と言うかどう贔屓目に見ても恋愛に不器用な人たちしか出てこなかったから。こんな遊びなれた、しかもうぶな学生をかどわかすような人妻が出てくるなんて思ってもみなかったよ。

 漱石は寝ても覚めても恋の話で、漱石はなにか強く女性にに囚われている、もしくは取り憑かれているみたい。そのくせ主人公には女性を蔑んだ態度を必ずとらせる。で、一旦恋に落ちちゃうとすぐ「この人だけは特別なんだ」みたいな都合のいい勘違いをする。そして大抵その恋は一目ぼれに始まる。単純すぎるんじゃないの…。この矛盾はなんなんだろう。漱石自信が自由な恋愛をしなかったコンプレックスの発露なんだろうか。
 「三四郎」から始まる三部作は全部主人公が誰か他の男の女性に恋をする形態をとっている。「三四郎」は唯一その恋が成就しない話だった。漱石自信がそういう恋しか知らなかったのかもしれない。よく分からないけど。それとも不倫をテーマにすることが当時の社会批判として分りやすいものだったんだろうか。しかし、それがどんな社会へのどんな批判になっているんだかがさっぱり分らない。もっとも、「三四郎」では結婚前の女性に打ち明けないまま終わる恋だから、後に続く二作品に比べたら投げかけるメッセージは弱いかもしれない。むしろ無害なくらいだろう。結婚前に告白もせず終わる恋なんだから純愛って言ったっていい。

 当時の結婚は処世術だ。つまるところ、そこに自分の人生の全てがかかっていると言っていい。女が独立することのない社会にあって、誰かの扶養にならずに女が一人人生を生き抜くことは不可能に近い。三四郎でなく、イケ面のお坊ちゃんを選んだミネコに責めるべき点は一つもない。田舎者の三四郎ですらそれをもっともな発展として受け止めている。例え両思いであったにしろ、当時の三四郎にミネコを貰い受けるだけの社会的資格がない。大体まだ学生だし。素直に感情を表現することも、自分の恋を貫くこともままならない世の中で、自分たちの気持ちに正直に伝えることをしないで始まる前に終わってしまったこの恋の物語はなるほど青春小説だなと思った。

 またハルキの話になるけど、ハルキは「カフカ」の中で主人公に「抗夫」と「三四郎」の主人公を比べさせて、『三四郎はよくなろうよくなろうとしているけれど…』と語らせる。だもんで、私はてっきり三四郎は「よくなろう」という正義感のあふれる向上心の強い男なんだろうと想像していたんだけど、実際には漱石の他の作品のキャラ同様、経験の伴わない頭でっかちで、考えることばっかり尊大で、それでいて、それを口に出して言うことはついぞ出来ないという典型的な根性なしだった。
 ハルキの描く「僕」は大抵そのことを自分でもよく理解していて、社会とそりが合わなくたって、そりが合わないのは自分の方と大変謙虚にしているけれど、漱石の描く書生は大抵自分が何者だかまるで分っていない。素直でいい子なんだろうけど、なんていうか、頭悪そう。
 巻末の批評にも書いてあるけど、三四郎は徹底して能動的だ。ハルキで言うところの流されていくタイプ。単に意気地がないとも言うのかもしれないけど、それも私のそれまで想像してた三四郎像と違ってた。坊ちゃんタイプかと思っていたのに。

 不思議と出てくるこのハルキとの共通点はなんだろう。単に私がハルキしか知らないからだろうか。この作品じゃなかったかもしれないけど、会話の結果が『どこにもたどり着かない』という表現をしていて驚いた。こんな表現を使うのをハルキ以外に知らなかったから。でもこの前テレビ見てたらカトリーナだかの被災地にいるアメリカの女の子もそんな議論をしてても埒が明かないみたいなことを言うのに、"It's not getting anyware."って言ってたんだよね。それにもちょっとびっくりした。そう話した女の子がまだ幼そうだと言うこともそうだったし、そういう表現が世界的に通用しているとは思わなかったから。ないも決められないとか、なにも解決できない様子を『どこにもたどり着かない』と言うのはハルキ独特の表現かと思っていたけど、ひょっとしたら古い時代に使われていた表現なのかもしれない。もしくは英語っぽい表現なのかな。ハルキのなんの話だったかなぁ、『そいつは剣呑だぜ』とかって台詞があって驚いたこともあったなぁ。今時「剣呑」って使う人いないでしょう。ひょっとするとだからそういうことなのかもしれない。わざと前時代的な表現を気に入って使っているのかもしれない。

 「こころ」で言うところの「先生」が「三四郎」でいうところの広田先生だ。だけど広田先生の方が潔くって清々している。世の中から距離を置いてはいるけれど別に「先生」みたいに後ろ暗いところはない。厭世的って言う感じもしない。まあ、「こころ」のほうが後の作品だけど。ただ、これだけ見識のある人がなぜ与次郎みたいなのを書生にしておいて置くのかは謎だった。疫病神じゃん。広田先生を担ぎ出そうと本人に無断で活動して、その活動資金に広田先生のお金を使い込んで、その穴を三四郎に埋めさせるくだりには心底あきれた。引き受ける三四郎に。
 「こころ」の「私」もそうなんだけど、実家の仕送りに学費も生活費も頼ってる書生の身分で自分で稼ぎのある訳でもないのに友達の借金に一つ返事で応じるなんて、お前ら一体今までどういう教育受けてきんだっつーの。常識ないにも程があるだろ。で、そういう時は必ず田舎の両親という作品の良心が出てきて借金の正当性を追求する。この両親でなんでこの子供か。主人公が陰ながら恥じている人間の方がよっぽど良識があるということに当時どれくらいの人が気が付いただろうか。ただ、いつも借金の理由を問い質されても、主人公が自分がどれだけ理不尽な頼みをしているかまるで分っていないように思える。この自分で稼ぎのない主人公が友達の借金に応じて身内のものを煩わせると言うのはここまでのところ漱石の作品に共通したエピソードだ。当時、そうした借金があちこちで横行してたんだろうなと。今の状況からじゃちょっと想像しずらいけど。友達に借金するなんて。

 プライドの高いミヤコは三四郎に気があったかも知れないけど、今の三四郎では満足しないだろうし、三四郎ももてあましてたんだから、ミヤコがイケ面の資産家に嫁いだのは結局、誰にとっても最善なことだったのかもしれない。
 三四郎は自分が投身しなくてはいけない学問の世界と、ミヤコの住むそれとは真逆の世界との狭間で強く後者に引かれていることを自分で認識しているにも拘らず、これに「ただ近寄りがたい」と言っているところにミヤコの高潔さ、虚栄の輝きが見える。そしてその近づきがたさこそが何も持てないミヤコの唯一の武器のように思われた。

 これだけ漱石を読み重ねてもなかなか心に響く場面に出会えずに、漱石つってもこんなもんかとわだかまっていた中で、それでもラストシーンだけはとても気に入った。別人が書いているみたいだ。
 三四郎は主人公でありながら、その主人公の心の様を知るのがなかなか難しい話だったような気がする。分りやすく言って、なにを考えているのか分らない。全ての事象は三四郎の上を滑っていくような感じで、三四郎はただそれを眺めているだけでその景色を見て特に何かを考えているような気もしない。三四郎が能動的だって言うのはそういうことなんだろうと思う。
 けど、最後にミヤコが結婚すると聞いて、ある日思い立って借りていた二十円を一人返しに行く様子に不甲斐なくも胸を突かれた。それが唯一の繋がりであるが故に、つい返しそこなっていたお金を、ちゃんとミヤコが嫁に行く前に清算するつもりなんだなと思ってちょっと感心した。三四郎のその心持もまたすがすがしかった。
 最後に、ミヤコをモデルにした画の出ている展覧会に出向いて、三四郎がタイトルが悪いと注文をつけると、『なんだったらいいんだ』と言われて、胸のうちで『ストレイシープ、ストレイシープ』と唱える場面が一番私の印象に残った。


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「こころ」 [reading]

 いまでも高校生の国語の教科書に載っているらしい。私もその頃この話を読んだ。教科書だから断片的にだけど。読んでいけば教科書に載っていたのがどの辺だったか思い出すかなと思っていたんだけれど、最後まで読み通してしまっても実感の沸く箇所を見つけられなかった。これのどこが載っていたんだろう。
 当時印象に残ったのは掲載された本文ではなくて、その脇にあった作品全体を通したあらすじの内容だった。記憶では、教科書には多分、先生の遺書部分が載っていたんだろうと思うんだけど、その中では先生の友達が自殺したことや、ましてや先生自身がそれを苦に結局自分も自殺したなんてことには触れていなかった。高校生の私に響いたのは、親友を陥れるっていう人の心の暗さと、自殺っていうスキャンダル性だった。「裏切り」と「自殺」。この二つのテーマは高校生の好奇心にかなり強烈に響いた。それが印象的だったのを覚えてる。

 「こころ」は実際の内容とは裏腹に全編を通して世俗を離れたのどかな雰囲気で覆われていた。それは、「私」も「先生」も社会の一部として生きていないからだろうと思うけど、でも、この夢見たいな雰囲気は「三四郎」からの三部作に比べたら私にとってはよっぽど漱石らしいと思える世界観だった。
 話が海辺から始まる辺りなんかは好ましかった。鎌倉の海岸にひしめく観光客の賑わいとは対照的に「私」の視線はただ「先生」だけを追っていて、彼の思索が周囲のざわめきから遠く離れているように感じられる。「先生」も後で直接「私」に言ってるけど、その様子はまるで恋の始まりみたいだ。周りが見えてない。音が聞こえてない。自分の思考にだけ集中してて「先生」しか見えてない。「私」は鎌倉の海岸で「先生」を見て一目惚れをする。そんな感じだった。

 漱石の話を読むって言うのは、不思議とハルキとの共通点を見つけるって言うことでもあって、それが驚きだった。ハルキの話に出てくる人はみんな大抵経済的に余裕がある。仕事のあるないや、それの好き嫌いに関わらずそれで一応の成功を収めている。私の個人的な印象では、それはまるで経済的に逼迫していたら物語にならないとでも言う感じ。
 漱石の描く主人公もしかり。まず働かない。にもかかわらず経済的に逼迫してない。っていうか経済的な感覚がない。「先生」も働かない。万が一、自分が妻より先に死んだ場合を想像して、後に残された彼女の生活を心配して見せたりするわりにはそのために少しでも多く財産を残すために働こうとはこれっぽっちも考えない。「こころ」では何度も「厭世的」と言う言葉が出てくる。これは大なり小なり漱石自身の意見だろうなと思う。彼は世の中に出て働いてもいたけれど、最後は胃潰瘍で死ぬくらいだから、世の中とちょっと距離をとりたいという気持ちはあったんじゃないかな。それで、「先生」は全くこの「厭世的」であるために社会に出て働くことをしないんだけど、それってはたから見るとただの甲斐性なしじゃん。って言うかなんだろう、ニート?引きこもり?社会に出るのが嫌で働かないけど、趣味はあって、その趣味に浪費することは厭わないんだから。稼ぎもないのに季節毎にやれ避暑だ紅葉だって旅行に出かけて、旅先から流暢にハガキなんぞを送りつけてくる。「私」じゃなくても、働きもせずにどんだけ資産があったらそんな暮らしが出来るんだろうと思うだろ。
 働かずにいい暮らしができると言う社会のありようは、ウッドハウスの書く話を思い出させた。ちょっと考えてみると時代も合っているような気がする。片や貴族社会の延長線上に存在する気楽な荘園暮らし。片や旧体制を崩壊させて経済発展を遂げようとする新体制の中で台頭してきたバブリーブルジョア。ジョージ5世と明治天皇の時代。社会のあり方は違うだろうけど、その時代は特に社会的義務を果たさなくても生活を保障された人々がめずらしくなく存在したってことだろう。だって、そんなのがめずらしかったらそんな境遇のやつを主人公にしたって共感できる人なんかいないだろう。まあ、共感で出来る出来ないは別として、当時はイギリスでも日本でもそういう人のめずらしくない時代だったんだろうと思う。

 「私」は若い気持ちの赴くままに素直に自分の気持ちを「先生」にぶつけていく。漱石で驚くのはキャラの書き分け方のうまいことだ。露出がどんだけ少なくてもちゃんとキャラが伝わってくる。また、これだけストーリーが似てるのに書いててどうしてこれだけキャラがかぶらずにいられるんだろうと思う。すごい。実際のモデルって言うのが身近にいたんじゃないだろうか。それとも完全に才能なのか。
 「私」は本当に幼い。でも、坊ちゃんや、三四郎と違って、おっとりしたのんびりした素直な性格を思わせる。自分の気持ちに正直で、他人に対しても開け広げで、経験が浅く、それゆえに遠慮とか建前ということが分らない。恋も知らないし。自分が「先生」に恋をしていると言うことにも気が付かないくらいだから。そして幼くて経験不足な人間に適当な教育だけ与えてしまったありがちな結果として、東京での学業に憧れ、学問の素養のない人間を蔑むような安っぽい偏見を抱いている。自分の教育費や生活費を文字通り命を削って稼いでいる両親を無学だと決めつけてそれを恥ずかしく思っている。それでいて自分が何者だか、社会的な立場を反省してみることはついぞない。だけどこの概念は漱石の描く主人公にに共通だ。これが漱石自身の意見なのか、それとも当時の学生の一般的な考えを代表しているだけなのか。いずれにしてもこんな差別的な考えを主人公に代弁させるのにはぞっとする。特に母親に対する軽蔑的な視線が不愉快だ。生みの親に対するこの軽薄さはなんだろう。それでいて、無学なはずの田舎者である両親に正論を吐かせて良識が必ずしも学問に備わるものでないことを示している。漱石の作品では主人公以外のところに作品の良心が生きている。「坊ちゃん」で言えば山嵐みたいな。でも良心の立場はいつも弱い。その良心をどうするか、どう汲み取るかは主人公の器量に委ねられている。むしろ読者に委ねられていると言った方が正確かもしれない。漱石の場合、主人公は漱石自身の投影ではないと思う。

 「先生」は本当に良心の呵責で自殺をしたんだろうか。文庫の最後についていた批評とは私はちょっと考えが違う。「先生」は、Kの自殺は自分に裏切られたことがきっかけではあれ、真の理由ではないと気が付いていたのに、そのために自殺なんかするだろうか。「K」が、つまるところ「先生」の裏切りに自分の矮小さを思い知らされて絶望したように、「先生」も本当は単に自分には甲斐性がないという現実から逃げたくて死を選んだんではなかろうか。まあ、本当のところはどうであれ、共に生きることよりも、一人で死んでしまうことを選んだってことは、「先生」が親友の命と引き換えに手に入れたものは結局その代償に見合わなかったと言うことだよね。なんちゅー失礼な話だ。まあ、あのまま二人で暮らしていくよりは奥さんにとってはそのほうがよかったのかもしれないけど。経済的にも社会的にもまだやり直せるだろうから。それともそこも計算してのことだったんだろうか。でもまあ皮算用だよねえ。
 奥さんの「静」は、「K」と「先生」をそそのかした悪魔みたいに描かれている。男二人を手玉にとって弄んだから早まったことになったと。娘時代の奥さんは若さゆえの、もしくは無教養ゆえの、もしくは単に思いやりのない性格ゆえの残酷さを振りまいて二人の間に立ちはだかる。そんな非情なお嬢さんが結婚したってだけでこんなに思慮深く奥ゆかしい人になるなんてちょっと首を傾げてしまう。女卑の視線はここでも顕になっている。「K」も「先生」も頭ごなしに女性は皆無教養で頭が悪いと決め付けている。そのくせ二人してまんまとその女の手玉に、それも同じ女の手玉に取らていいようになっちゃってるんだからあきれる。君らの方がよっぽど世間知らずでうぶだっつーの。あんな分りやすい駆け引きに引っかかるなんて。ひょっとしたら経験と言うよりも性格の問題かなぁ。私だったら、「K」がいいなら無理矢理それをどうにかしようなんて思わない。相手が自分の視線を避けるなら、むしろ私からも距離を置こうとするだろうな。努めて自分の視界に入れないようにすると思う。あんな幼稚な駆け引きに引っかかるなんて。さすが学生。その相手の幼稚さをむしろ憎めっつーの。
 しかし、考えてみれば、親戚に遺産を騙し取られて何の資産も持ち合わせない、将来を何も約束されていないまだ学生の身分の「先生」とよく結婚させたと思う。よっぽどお寺に嫁がせた方が親としては安心じゃなかろうかと思ったけど、きっとあの未亡人は最初から「先生」がお気に入りだったのよね。だから預ける気になったんだろう。自分の見込んだ男だから。
 この「先生」をかわいがる軍人の未亡人が私の好きなキャラだった。この人もまた作品中の良心の一端を担っている。潔くて、精神的に未成熟な自分の娘をたしなめるだけの良識もある。高潔な感じのするこの未亡人が私は好きだった。

 この作品は唐突に終わる。それも今まではハルキの専売特許だと思っていたけれど、久ぶりにそんな終わり方のしかも時代の古い作品を読んでびっくりした。なんでこんな終わり方と思ったけど、すぐにこれが一番いい形だったんだと考え直した。それから先の話はいくらでも考えようがあるけど、きっとどれもつまらないし、それ以上の話は必要ないんだと思う。ドラマはここで終わって、また別の話になるのだから。
 しかし一番驚いたのは、遺書を受け取って危篤の父親を黙って放り出して電車に飛び乗った「私」だった。何が「私」をそうさせたのか理解できなくてびっくりしたけど、今となってはきっと若くて向こう見ずで軽薄な「私」のことだから、そのときは父親の死に目に会えないのよりも、「先生」の死に目に会えないことの方が堪えたんだろう。私の思い描いた一番面白い後日談は、「先生」の遺書は狂言で実は「先生」は生きていたってことだった。で、「私」のお父さんが死んじゃったりしてたらもう目も当てられないなと思った。

 漱石は『人の心を知りたいならこの作品を読め』と言ったくらいこの作品で扱っているテーマの表現に自信があったみたいなんだけど、彼の言うほど私がその辺をうまく汲み取れてると言う自信はないな。巻末の評論によるとこの作品のテーマは「我執(エゴ)」なんだそうだ。エゴねえ…。「K」も「先生」も尊大だったから自殺を選んだと言いたいんだろうか。どっちも単に自分の不甲斐なさに絶望して安易に死を選んだまでだと思うんだけど。それは高潔だからと言うのではなく、ただ単に彼らがやわだったからという印象なんだけど。それだったらまだ素直に作品タイトルのまま、もしくは漱石の発言したように「こころ」がテーマであると言ってくれた方がいいような…。それにしたっていまいちピンと来ないんだけど…。まあ言われてみればそうなのかなぁという程度で。それを聞いて思ったのはアリストテレスの「こころについて」って論文はどうなってるんだろうと言うことだった。買って大分経つけどついぞ手に取ったことがない。表現の方法こそ違うけど、どっちも同じ主題でしょう?アリストテレスはなんていってるのか気になった。漱石を一通り読み終わったら読んでみようかと思う。

こころ


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「坊ちゃん」 [reading]

 「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」

 「坊ちゃん」は悲しい物語だった。そして怖い。想像するとぞっとするくらいだ。そのくだりを読んでいる時に私の頭に浮かんだのは、"government can do."っていう"The Farm"のトム・クルーズの台詞だった。ジーン・ハックマンとランチを食べながらどうして弁護士を志したかと質問されてトム・クルーズはあるエピソードを話す。自分がバイトをしていたコンビニにある日移民局の人間がやって来てオーナーが捕まり自分は職を失った。その時「政府の出来ること(国家権力)」について始めて恐怖を覚えたと言う。唐突に生活を奪われた若者は、自分を横暴な権威から守るために法律家になることを決意する。
 「坊ちゃん」にはそれと同じ恐怖がありありと渦巻いていてて恐ろしいくらいだ。どうして誰もこれを取り合わないんだろう。それともそんなことは学術的な研究においては通説になっているんだけど、そういうことを言うと読者がとっつきにくいからわざと作品を単純に見せかけているんだろうか。発売当時ならまだしも、今この時代で作品をごまかすことに何の意味があるんだろう。宿題で読んだ子供が勘違いするじゃないか。一番驚いたのは、文庫の裏表紙にある作品の紹介に「近代小説に勧善懲悪の主題を復活させた快作」って書いてあったこと。私がそれを買うときは坊ちゃんの潔くってかたくななところしか知らなかったから、『ああ、そんなもんなのかな』と真に受けちゃったんだけど、読んでみたら、どこが勧善懲悪なんだよ。これじゃ「悪徳の栄え」だよ。悪を悪と分っていながら何も出来ない何も言えない坊ちゃんこそいい面の皮じゃんか。お父さんの言葉を借りるなら、完全に「正直者がバカを見る」話だった。

 大体、読んでみて坊ちゃん自身がかなりのバカだと言うことを発見してそれにもかなりのショックを覚えた。おめでたいっていうか。他の作品の主人公に比べたら学が低いせいなのかもしれないけど、すごい不器用。まず物事をうまく解決できない。自分が正しいと思うことを人に説けない。もしくは人が間違っていると言うことをちゃんと説明できない。影でこそこそ悪口言われているのを知りながらなにも言えずに胸のうちでぐずぐずしてる。気に食わないならなんで正面切って詰問しないの?子供の悪戯には自分の正義感振り回しといて相手が大人になるとなにも言えなくなる根性なしだ。あきれる。勘当されるわけだよ。
 こんなにせこい人間の癖して坊ちゃんには人を見下すような癖がある。田舎の者を「田舎の者だから」と言って一くくりにする。坊ちゃんに限らず、漱石の作品に出てくる主人公は東京の生活仕様に合わないことをする人たちを軽蔑する傾向にあるらしい。
もしもこれが漱石自身の考えだとしたら大した倫理観だ。でも今のところどの作品にもそれが共通して見つけられる。漱石の持ち出す差別は二種類あって、一つは職業的な差別観。大学出は立派で、田畑で働くのは卑しいみたいな。もう一つは性差別。女は押しなべて頭が悪いみたいな。マジあきれる。その理由は大体において女が自分を同じ教育を受けてなくて同じように考えられないからということのようだけど、それでいて自分が女のできることを出来るわけじゃない。多分女の出来ること、仕事も卑しいもんだと思っているんだろう。「坊ちゃん」を読んで、やっぱ教育って大事だなぁと痛切に感じた。私なんてお父さんがあんなに男性上位の信望者だって、男女の分け隔てなく、歳の上下にも拘らずに育てられたからこんな差別は私にとってはファシズムにも等しく見える。

 そんなファシズムの権化みたいな校長や赤シャツのやってることはみんな狡い。まるで悪代官だ。気に入った女を娶りたくてその婚約者を陥れる。校長と申し合わせて辺境の学校へ左遷させる。人の許嫁を横取りしておいて、夜は夜で廓遊び。で、昼間は教育者風吹かして坊ちゃんの蕎麦屋通いをたしなめたりする。その卑劣さはあきれるくらい分りやすい。分りやすいからみんな知ってる。なのに誰も何も言わない。私はその沈黙が怖かった。権威に対して何も言えないっていうそんな社会が怖かった。そんな雰囲気の中で戦争に突入してったんだなと思って怖かった。そんな無口な人たちが、ファシズムにも似た思想の中で戦争に邁進して行く社会を想像した。そんな人々の戦時中の暮らしがどんなだったか容易に想像できる。恐怖政治だ。何がいいか悪いか自分で判断できたかどうかなんて怪しい。きっと権威に旗振ってそれを正義と信じて、その権威に他人が虐げられても目を塞いだに違いない。もしかしたらその様子に疑問すら抱かなかったかもしれない。そういう人たちって戦後の社会の変貌にどう折り合いをつけて生きてきたんだろう。自分の人生観、価値観、全部ひっくり返されて。しかもそのありようは否定されてるから同じように築き直すこともできない。

 それで結局坊ちゃんと山嵐は正義感はあっても頭がないから校長と赤シャツの腹黒い画策を見抜いていても口先に丸め込まれて征伐は出来ない。それを助ける者もいないし。そこのコミュニティー全体がこの悪代官とその腰ぎんちゃくの袖の下に生きているみたいなもんだから。最後には見てて悲しくなるくらい子供染みた挙に出て、廓遊びで朝帰りするところをわざわざ夜っ引いて待ち伏せする。そんなことして決定的なところを捕まえられるわけでもないから、赤シャツも子供染みたことを言い連ねてごまかそうとする。坊ちゃんが袖に隠し持ってた生卵を太鼓持ちに投げつけた日には閉口したよ。しかもそんなのを悠長に5個も6個も持ってたなんて。なんてバカなの……。程度が低すぎる。それとも当時の成敗ってそんな程度のことを言ったの?坊ちゃん……。こんな男に惚れる女はいなかろうね。

 漱石の小説に出てくる女性は気移りしやすい。でも私はそれを責める気にはなかなかなれない。だって彼女たちにはそこに生活かかってるからね。うらなり君の許嫁が赤シャツを選んだのも決定的には経済的な理由からなんだろう。あのままうらなり君のお父さんが元気でいたら約束をたがえてまで赤シャツになびくような、そんなファシスティックな社会の中で自殺行為とも取れるようなことはしないだろう。「体面」。それが当時の人たちにとってどれだけ重い事象を指すのか今の私たちには計れないと思う。それはあれだけ影では腹黒いことをしている赤シャツでさえはっきりとうらなり君とこの縁談が白紙になるまでは彼の許嫁をなんともする気はないと公言するくらいだから。人になんと見られるかということが最大限重要なことだったんだろう。お父さんならすぐに見栄張ってたってしょうがないって言うところだろうけど。
 あともう一つ読んでて驚いたことに、清のイメージが全然違ったということだった。小説をちゃんと読むまでは、清って奥ゆかしい女性なんだろうと思ってたんだけど、単に気に入りのやんちゃ坊主を贔屓にしているだけに見えた。坊ちゃんのお母さんが亡くなった後では余計にかわいがったというくだりは不気味にさえ思った。学のないおばあさんが不器用なりに生きてきて他人の子供を猫っかわいがりする。その子の成功ばかりを夢見て自分をその夢の中に一緒においてくれと押し付けがましくも本人に迫る。言っておくが清には自分の子供がいてそれなりに生活している。自分を面倒見てもくれるかなり出来た息子だ。にも拘らず自分は坊ちゃんと一緒に暮らしたいという。このおばあさんどういうつもり?坊ちゃんよりはるかに出来のいい自分の面倒を見てくれる甲斐性もある自分の子供の前で坊ちゃんの自慢にもならない話をつらつら話すおばあさんが私は空恐ろしかった。

 「坊ちゃん」は今で言うキャラクター小説なんだろう。ずっと坊ちゃんの一人称で彼のキャラクター自身が物語になっているのだから。 「坊ちゃん」は文体の歯切れがよくって快活ではあるけれど乱暴な感じも否めない。そこに坊ちゃんのキャラが出ているんだと思う。とても「夢十夜」を書いたのと同じ人物とは思えない。

 とにかく、「坊ちゃん」全体を読み通した感想は、私が事前に読みかじった部分から想像する内容とはかけ離れていて甚だ驚かされた。落胆したと言ってもいいくらい。


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