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「ドアーズ/幻の世界 When You’re Strange」 [watching]

 実は、こんな映画があること自体、映画館に行くまで知らなかった。
 めずらしくごはん食べた後なんかに映画を観ようと言われて困ってしまったけど、近くの映画館を覗いてみたらかかっていたのがこれだった。他にも「遠距離恋愛 彼女の決断」とか言うのがあったけど、私的にはそれよりかははるかにこっちのが観たい気がするということですごく久しぶりにレイトショーに入った。

 ドアーズは私が高校生の時に少々聞きかじった。ロックが好きだと言うなら聞いておくべきものとして。というより、オリバー・ストーンの「ドアーズ」に出てるヴァル・キルマーがかっこよくて、そっから入ったんだけどね。
 もちろんドアーズの音楽は好きになんかなれなかった。ねちっこいメロディーラインに、間の抜けた電子音。確かに詩には興味をそそられたけど、当時の私にあの楽曲を好きになれって言うのは無理な話だった。今だって無理だ。理解はするけれど。当時の私が聞いてるのは、モトリーやエアロやガンズや、その対極のソウルアサイラムやサウンドガーデンやブラインドメロンだった。ドアーズを聞くには既に洗練された音楽を聞きすぎてる。
 とは言え、確かに魅力はある。ドアーズを初めて見聞きするツレも、カメラに向かっていたずらっぽく笑ってみせるジム・モリソンにそう感想を漏らしたくらいだ。だけど、退廃的に過ぎるんだよね。楽曲的に言えば単調すぎる。最初に聞いたのは20年前だけど未だにそう思う。でもその退廃的で単調でつまらないという行き詰った雰囲気こそが、60年代そのものだったんだろうと想像する。ヒッピーにブートニク。反戦運動で貧しいながらも一つになっていた気運も、みんなが望んだように敗北を認めた瞬間、アメリカ経済は後退の一途をたどっていく。停滞する社会の鬱憤の中から産声を上げたのはパンクであり、さらなる堕落とも言えるグラムロックだった。
 みんなベトナム戦争を責めるけど、ヒッピー文化は逆説的にその比護のもとで栄華を極めたような文化だ。戦争が終わった途端に経済がしぼんでいったのもうなずける話じゃない?アメリカの60年代って言うと私にはそんなイメージだな。国家権力による暗黒時代と言うか。この映画でも60年代を象徴する生々しい映像が使われてる。別にだからと言って今アメリカ政府がフェアでクリアでクリーンな組織になったなんてこれっぽっちも思っていない。けど、公民権運動や、反戦運動、特にたった一握りのアイドルの扇動によって国家体制がどれだけ揺さぶられるかと言うことを嫌と言うほど思い知らされた後なら、少しはやり方を考えるってもんだろ。

 話がずれたけど、とにかくドアーズはそんな60年代の雰囲気を全てまとった、まさに時代の申し子だったんじゃないかな。映画の中で"so much better than the Beatles!"というファンの声があるけど、分かる気はする。ビートルズはデビュー当時はアイドルの扱いだったしね。ドアーズは90年代で言うニルヴァーナみたいなもんだったんじゃないかな。彼らは時代の申し子で、だからこそ息が短かった。たとえあそこでジム・モリソンが死ななかったとしても、いずれにしろドアーズがあの空気の外で生きていけたとは思えない。後に続く新しい時代をドアーズとして生き抜けたとは思えない。
 ただ、ジム・モリソンの27歳で死んだと言うのが今の私には少々ショックだった。私そんなに長生きしてるのかと改めて思った。30前に死ぬのがロックなのかもな。ジム・モリソンなんかが生きたヒッピー世代では、"Don't trust over 30."って標語があったくらいで。それをアーティスト自らが体現してみせたと言うのなら、なんとストイックなプロ根性であることよ。しかし、生き続けてなおかっこよくいることの難しさは、生き残ったヒッピー世代自身が一番よく知っているだろう。

 ドアーズの引き合いに出したニルヴァーナだけど、このレビューを書くにあたり、改めて調べてみたら、実はカートも27歳で死んでるんだよね。なんと空恐ろしい偶然であることよ。しかし、カートのことを考えれば、それがほんとに偶然なのかどうかちょっと怪しい気もするけど。シャノン・フーン(ブラインドメロンのボーカル)は28で死んだ。リヴァー・フェニックスは23。その時私はまだ高校2年生だった。
 それから自分が彼らの年齢を超えるたびに、私は自分の生きていることを実感した。特に感傷的になったりした訳ではないけれど、彼らの死を悼み、その行為がおのずと自らの生を実感させると言う、人生の通過儀礼的なアイロニーだ。だけど、カートが死んだって聞いた時はほんとにショックで、以来ニルヴァーナを聞くのをやめてしまった。当時ニルヴァーナはライブを観てみたいバンドの一つだったし。ライヴ。死んでしまってはライヴは出来ない。
 今でもカートの死を知らされた時のことはよく覚えている。短大に入って初めての授業で友だちから教えられた。私は状況も顧みず、「うそ!」と大声をあげていた。何度も大声で「うそ!」と繰り返す私に、出稼ぎ英国人講師が「黙りなさい!」と一喝したけど、私は奴を睨み反した。以来、その講師とは折り合いが悪く、1年を通して成績が悪かったが、2年になって講師が変わった途端に私の成績は超優等生並みになった。
 次の授業の時、同じ友達がテレビでコートニー(カートの嫁)が読み上げたというカートの遺書と言うものを紙に書きとめて持ってきてくれて、それを読んでほんとにどん底に突き落とされた気持ちになった。手書きのメモにはこう書いてあった。

 「熱いものを失ってしまった」

 あの、ひざから崩れ落ちるような失望感をなんと言っていいのか分からない。しかし、これじゃ救えるわけがないとも思った。これじゃ死んじまうと。アーティストが情熱を失っちまったんじゃあ死ぬしかねえ。だけど、そうだけど、それでもなにか彼に思いとどまらせるものが一つでもなかったのかと思って、実際になかったことが私には一番ショックだった。子供のころから一緒に育った友達も、略奪愛の末に結婚した妻も(このbitchは後ほど暗殺容疑を噂される)、彼にそっくりな青い目の子供も、何もかも捨てて彼はいってしまった。この世の中に彼が生きる価値を見いだせるものが何もなかったという事実がショックだった。私たちは?待っている人がこんなに大勢いるのに。そんな風に思った。けど、冷静に考えれば、「ファン」て言うのは彼が忌み嫌ったメディア側の存在だから、ファンのために思いとどまるなんて最もあり得ない選択肢だったろう。
 アーティストが熱いものを失ってしまったんじゃあおしまいだから、2年くらい後にマイケル・ハッチェンスが死んだってまた友達に聞かされた時にはもうあまり驚かなかった。死んだ理由を当てさえした。「創造力の枯渇でしょ?」その通りの言葉が記事になっていた。

 私もマイケル・ハッチェンスの年に近くなり、最近はたと気がついた。私も熱いものを失ってしまっていることに。
 気が付いた時にはもう遅かった。それは、ショックと言うよりは、電車を乗り過ごしたような無気力感みたいなものだった。失いつつあるんじゃない。もう失ってしまった。だから気づいた時には私にはなすすべがなかった。乗り過ごした電車を、ホームで見送るしかできない。そんな感じだった。マイケル・ハッチェンスが死んだ時も、「想像力の枯渇」ってどういうことなのかまるで想像もつかなかった。なぜなら当時の私には考えなくてもそれは内側から溢れてくるもので、宇宙から降ってすら来るものだと思っていたから。でも、今ならわかる。それは本当に起こることなんだよ。自分で自分が同じ人間とは思えないくらいだ。
 途中、自分に欠けていくものを感じながらも、まだ代わるものがあると気に留めないでいたけれど、どの時点で私は後戻りができないほど深刻に失ってしまったのかが思い当らない。でも、もう次の電車に乗っても間に合わない。熱いものがないって言うのは、陳腐な表現になるけれど、すごく寒々しい気持ちの状態だと言うことを身を持って知った。

 しかし、この映画のエンディングに、さばけた口調でなんの感慨もなく早口にジョニー・デップが言う。

 「ジム・モリソンの最後は燃え尽きてしまったかのようだ」

 とかなんとか。
 そして、

 「しかし、情熱がなければ燃え尽きもしない」

 私は、目を覚まさせられた思いだった。

 確かに。

 熱いものがあったからこそ、燃えられもしたんだよね。
 この先、自分に熱いものが戻ってくるなんてことがあるとも思えないけど、でも、この言葉に私の気持ちは慰められた。あんなぶっきらぼうなナレーションに、少しだけ癒された。

 ツレがロック得意でないのはよく知っているので、この映画を観るのは気が引けたけんだど、でも、私は観れてよかった。私のために。偶然にしては稀にみる素敵な出会いだったんじゃないかと思う。気を遣って映画に誘ってくれたツレに感謝したい。
 そして、いつかまた私の心を温めてくれる何かに出会えることを祈って。


doors.jpg

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