SSブログ

「門」 [reading]

 「門」は弟子に言われてつけたタイトルだそうで、で、タイトルがタイトルなんで仕方なくむりくり禅寺の門をくぐらせたと言う。そんなかよ。 もーーー、もーーー、本当に読むのが億劫だった。だって、面白くないんだもん。

 第一、何が言いたいのか分らないよ。この本なんで書いたん?「それから」には少なくともメッセージがあったし、「三四郎」には文学の一作品としてちゃんとした形になってる。けど、これって何か伝えたいことがあるんだろうか。怪しすぎる。
 作品としてかなり未熟すぎると思うのは私だけ?物語の構成がさ、『習作なんじゃないのこれ?』って言うくらいぎこちないっていうか、荒っぽすぎる。現在とそれを説明する過去が交互に出てきて読みづらい。特に章立てしているわけでもないから、隣の段落からいきなり過去に飛び移っちゃってることになるし、相関関係を説明するために過去に飛ぶので時系列的に整然としてないもんだから、『ここで話している過去はこっちで説明している過去の前で宗助と御米がくっついた後』みたいに話がこんがらがっちゃってて、読んでるほうで過去を並べ替えていかなくちゃいけない。しかも、この話で一番大事なドラマ、宗助と御米の馴れ初めの核心部分を全く掘り下げないで、話の上っ面をなめただけで終わりにしている。これには拍子抜けした。二人の関係がどのようにして持ち上がったかを説明しているのは作品全体でこのたった3行だけ。

 「大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上がった時は何処も彼処も既に砂だらけであったのである。彼等は砂だらけになった自分達を認めた。けれどもいつ吹き倒されたかを知らなかった。」

 えーーーーーーーー、そんな、抽象的過ぎる。こういう抽象的な表現は具体的なドラマの上に成り立つもんじゃないの?なんか、これじゃきれいごとだよ。こんなんじゃ、なぜ親兄弟に絶縁され、親戚にも顔が立たず、友達も失う羽目にまでなったのかが全然伝わって分らない。漱石には経験不足でそこんとこのドラマが書けなかったのかな。文字にして起こすには実際にそれがどんなもんか知りえなかった?人の家庭を壊して、自分の親も親戚も友達も、自分のそれまで住んでた世界の全てを捨ててまで一緒になることを選んだ二人の関係が、こんなたった3行で済まされちゃうなんて。それはそれですごいのかもしれないけど、ドラマにはなってないよ。しかも、この表現じゃ悪いのはお互いを選んだ自分じゃなくて、その時たまたまそこを砂嵐が通ったからだみたいな言い方じゃん。これもまた漱石特有の受身キャラなのか。それとも漱石自身がそうだったのかな?なんか自分で選んだり出来ない人生だったのかな?まあ、話を書くこと自体、神経症の治療にって人に勧められてだからなぁ。「気が付いたらそうだった」みたいな現象の方が彼としては理解しやすい人生のあり方だったのかもしれない。

 そしてこの夫婦は、そうやって自分の持ってる全てに代えても選んだ相手と一緒にいながら、なぜかちっとも幸せそうじゃない。お金がなくて日々の暮らしにキュウキュウしてるというよりも、いつもビクビクして暮らしてるみたいな印象だった。日陰を選んで暮らしてると言うか。だったらやめとけよって感じ。
 わかんない。なんなんだろう、その消極さ。なんでそんなにちっちゃくなって暮らしていなきゃなんない?いくら略奪愛だっつったって、天下の下に夫婦になったんじゃん。何を恥じることがあるのよ。お互い愛し合って選んだ相手なんじゃないの?なんでそんなにこそこそするかと思ってそれが不愉快だった。そんなんだから御米が弱っちゃうんだよ。ま、もっともこそこそしてるって言うのは印象の問題なんだけど。
 時代の違いなのかなぁ。そうかなぁ。当時は妾って市民権もあったんだから、そんな風に人から奪ったつったってちゃんと夫婦になってるなら、そんなに後ろめたく思って暮らすことはないんじゃないのかなぁ。親戚とか友達に顔を合わせずらいって言うのは分るけど、世の中全体に対してそんなに卑屈になることはないんじゃないかと思った。

 漱石の主人公の条件にもれず宗助にも甲斐性はない。しかし働いてはいた。漱石の話で初めて働いている主人公にあたったよ。しかし、どうにもこうにも意気地がない。自分で選んで飛び込んだ人生なのに、それが及ぼした結果に対して潔く責任を取ろうとしない。その不甲斐なさはいっつも私にどうして奥さんはこんなのと一緒になろうと思ったかなぁと首をひねる。こんな男のどこに面倒を起こしてまで一緒になる価値を見出したんだか傍目から見てて分らない。例えばさ、新春にささやかな庭先に鶯がとまって鳴くのを御米が、
 「本当に有難いわね。漸く(ようやく)のこと春になって」
 って言うのに、
 「うん、然し又じき冬になるよ」
 って言うんだよ?つっまんねー男。こんなのといて楽しいのかな。
 この話で不幸なのは小六だ。宗助の怠慢は弟の小六の荒廃も呼ぶ。しかし宗助は、これを自分の関知しない所と思って、と言うか頼りにされるのを迷惑だくらいに思って、小六の悩めるのを見て見ぬふりを決め込んでいる。で、御米も御米でそんな宗助をたしなめるどころか、調子を合わせてしまう。なるほど、似合いの夫婦ってわけか。でも、あれだけ学校に戻りたいと、勉強したいと言っていた小六が最終的に自分は飼い殺しにされているんだと言うことを汲んでグレていく様子は痛ましかった。それでも、宗助には小六の将来の可能性を自分がダメにしていると言う責任を感じている様には全く見えなかった。この宗助って小さい人間が気にしているのはもっぱら世間の目であるようだった。そんなものを気にするほどの人としての誇りが君にあるとは思えないけどな。

 最悪なのは、御米の前夫が自分の大家の家に出入りすると聞くや否や、経済問題に直面している家庭を抱えているにもかかわらず仕事をほっぽりだして、御米すらも置き去りにして禅寺へ駆け込んでしまう。最低だな。断っておくがこの男に信仰心なんて高尚なもんがあってそんなことをするわけではない。文字通り目の前に降ってきた問題から逃げ出して駆け込んだだけだ。故に、そもそも真剣に何かを悟ろうと言う気も毛頭なく、どうしようどうしようと思っているうちに、やっと『御米があぶないかも?!』って事に気が付いて今度はまた慌てて帰る。何しにきたのかさっぱり分らん。と言うか、いざとなれば人から奪い取った妻でさえ置いて逃げるなんて、筋金入りのロクデナシだなと思って本気であきれた。
 家に戻ってみたところで、結局、宗助はこの局面に向き合うと言うような度胸はついに湧かず、頭かくして尻隠さずみたいにしてその場を何とかごまかしてやり過ごしただけだった。

 読み終わって、きっとこの夫婦はこのまま一生こんなふうに不幸な雰囲気の中に生活していくんだろうなと思った。そしてその不幸って言うのはただの勘違いなのだった。

 私にとって議論を呼んだのは、本文よりも巻末の批評だった。曰く、
 「われわれがある女(または男)を情熱的に欲するのは、彼女(または彼)が第三者によって欲せられているときである。もちろん、三角関係として顕在化しない場合ですら、恋愛はそのような構造を持つ。」
 えーーーーー、そーかなぁ?それってつまり、自分の彼女がモテればモテるほどより好きになるって構造?そんなロジック聞いたことねえ。しかも続いて、
 「しかし、相手を獲得したとたんに情熱は冷め、その後はなんとなく相手を腹立たしく思う。」
 とかぬかす。冷めねーよ。なに言ってんだ。これはあれか?男が浮気性なのを擁護するメモかなんかか?バカらしい。「その後はなんとなく腹立たしく思う」ってどういうことだよ。何の話してんだよ。ここで言ってる「情熱」って何のことだよ。性欲か?そんな低俗な話してたんじゃないだろう。愛情のことなんじゃないの?この世に不変なものなんてないけど、獲得したとたんに冷めるような愛情は愛情じゃないよ。それはただの勘違いだよ。まあ、この批評が書かれたのは私が3歳のときだから、今となってはあんまし通用しないのかもしれないけど。

 後半は現実からどうにか逃げようとする宗助よろしく、私も飛ばすように読んでしまった。今まで知らなかったけど、巻末の漱石の作品紹介を読む限り、漱石ってこんな話ばっか書いてる。批評にも書いてあったけど、漱石がこんなんばっか書くから実際本人がそういう関係にあるんじゃないかっていう見方もあるらしい。当然だろうね。私は漱石個人の歴史をよく知らないから実際のところはどうだか知らないけど、でも、私の作品から受けた印象では自分で相手を選ぶ恋愛に憧れていたんじゃないかって気がする。相手が既婚にしろ、未婚にしろ実際にその対象がいたかもしれないね。ただ、その相手と実際に関係を結ぶまでには行かなかったから自分の作品の中で二人がどういう風に砂嵐にはまったかと言う一番重要なドラマに肉付けすることが出来なかったんじゃないかな。と言うのが私の読み。

門


nice!(0) 
共通テーマ:

nice! 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。