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「三四郎」 [reading]

 これはちょっと面白かった。冒頭にいきなり列車の中で田舎者の書生を誘惑する人妻なんか出してきて一体なんのつもりかと思ったよ。そうかと思うと、三四郎が上京してからの友達は身分を偽って女遊びをしている。身分がばれそうになって危うくなるとまた嘘の上塗りを重ね女を捨てて逃げる。全く恥知らずの権化みたいな男だった。そういう性のモラルって意味で驚かされることが印象に残る作品でもあった。漱石の作品でそんなテーマを扱っているとは思わなかったから。だって今まではどちらかと言うと、と言うかどう贔屓目に見ても恋愛に不器用な人たちしか出てこなかったから。こんな遊びなれた、しかもうぶな学生をかどわかすような人妻が出てくるなんて思ってもみなかったよ。

 漱石は寝ても覚めても恋の話で、漱石はなにか強く女性にに囚われている、もしくは取り憑かれているみたい。そのくせ主人公には女性を蔑んだ態度を必ずとらせる。で、一旦恋に落ちちゃうとすぐ「この人だけは特別なんだ」みたいな都合のいい勘違いをする。そして大抵その恋は一目ぼれに始まる。単純すぎるんじゃないの…。この矛盾はなんなんだろう。漱石自信が自由な恋愛をしなかったコンプレックスの発露なんだろうか。
 「三四郎」から始まる三部作は全部主人公が誰か他の男の女性に恋をする形態をとっている。「三四郎」は唯一その恋が成就しない話だった。漱石自信がそういう恋しか知らなかったのかもしれない。よく分からないけど。それとも不倫をテーマにすることが当時の社会批判として分りやすいものだったんだろうか。しかし、それがどんな社会へのどんな批判になっているんだかがさっぱり分らない。もっとも、「三四郎」では結婚前の女性に打ち明けないまま終わる恋だから、後に続く二作品に比べたら投げかけるメッセージは弱いかもしれない。むしろ無害なくらいだろう。結婚前に告白もせず終わる恋なんだから純愛って言ったっていい。

 当時の結婚は処世術だ。つまるところ、そこに自分の人生の全てがかかっていると言っていい。女が独立することのない社会にあって、誰かの扶養にならずに女が一人人生を生き抜くことは不可能に近い。三四郎でなく、イケ面のお坊ちゃんを選んだミネコに責めるべき点は一つもない。田舎者の三四郎ですらそれをもっともな発展として受け止めている。例え両思いであったにしろ、当時の三四郎にミネコを貰い受けるだけの社会的資格がない。大体まだ学生だし。素直に感情を表現することも、自分の恋を貫くこともままならない世の中で、自分たちの気持ちに正直に伝えることをしないで始まる前に終わってしまったこの恋の物語はなるほど青春小説だなと思った。

 またハルキの話になるけど、ハルキは「カフカ」の中で主人公に「抗夫」と「三四郎」の主人公を比べさせて、『三四郎はよくなろうよくなろうとしているけれど…』と語らせる。だもんで、私はてっきり三四郎は「よくなろう」という正義感のあふれる向上心の強い男なんだろうと想像していたんだけど、実際には漱石の他の作品のキャラ同様、経験の伴わない頭でっかちで、考えることばっかり尊大で、それでいて、それを口に出して言うことはついぞ出来ないという典型的な根性なしだった。
 ハルキの描く「僕」は大抵そのことを自分でもよく理解していて、社会とそりが合わなくたって、そりが合わないのは自分の方と大変謙虚にしているけれど、漱石の描く書生は大抵自分が何者だかまるで分っていない。素直でいい子なんだろうけど、なんていうか、頭悪そう。
 巻末の批評にも書いてあるけど、三四郎は徹底して能動的だ。ハルキで言うところの流されていくタイプ。単に意気地がないとも言うのかもしれないけど、それも私のそれまで想像してた三四郎像と違ってた。坊ちゃんタイプかと思っていたのに。

 不思議と出てくるこのハルキとの共通点はなんだろう。単に私がハルキしか知らないからだろうか。この作品じゃなかったかもしれないけど、会話の結果が『どこにもたどり着かない』という表現をしていて驚いた。こんな表現を使うのをハルキ以外に知らなかったから。でもこの前テレビ見てたらカトリーナだかの被災地にいるアメリカの女の子もそんな議論をしてても埒が明かないみたいなことを言うのに、"It's not getting anyware."って言ってたんだよね。それにもちょっとびっくりした。そう話した女の子がまだ幼そうだと言うこともそうだったし、そういう表現が世界的に通用しているとは思わなかったから。ないも決められないとか、なにも解決できない様子を『どこにもたどり着かない』と言うのはハルキ独特の表現かと思っていたけど、ひょっとしたら古い時代に使われていた表現なのかもしれない。もしくは英語っぽい表現なのかな。ハルキのなんの話だったかなぁ、『そいつは剣呑だぜ』とかって台詞があって驚いたこともあったなぁ。今時「剣呑」って使う人いないでしょう。ひょっとするとだからそういうことなのかもしれない。わざと前時代的な表現を気に入って使っているのかもしれない。

 「こころ」で言うところの「先生」が「三四郎」でいうところの広田先生だ。だけど広田先生の方が潔くって清々している。世の中から距離を置いてはいるけれど別に「先生」みたいに後ろ暗いところはない。厭世的って言う感じもしない。まあ、「こころ」のほうが後の作品だけど。ただ、これだけ見識のある人がなぜ与次郎みたいなのを書生にしておいて置くのかは謎だった。疫病神じゃん。広田先生を担ぎ出そうと本人に無断で活動して、その活動資金に広田先生のお金を使い込んで、その穴を三四郎に埋めさせるくだりには心底あきれた。引き受ける三四郎に。
 「こころ」の「私」もそうなんだけど、実家の仕送りに学費も生活費も頼ってる書生の身分で自分で稼ぎのある訳でもないのに友達の借金に一つ返事で応じるなんて、お前ら一体今までどういう教育受けてきんだっつーの。常識ないにも程があるだろ。で、そういう時は必ず田舎の両親という作品の良心が出てきて借金の正当性を追求する。この両親でなんでこの子供か。主人公が陰ながら恥じている人間の方がよっぽど良識があるということに当時どれくらいの人が気が付いただろうか。ただ、いつも借金の理由を問い質されても、主人公が自分がどれだけ理不尽な頼みをしているかまるで分っていないように思える。この自分で稼ぎのない主人公が友達の借金に応じて身内のものを煩わせると言うのはここまでのところ漱石の作品に共通したエピソードだ。当時、そうした借金があちこちで横行してたんだろうなと。今の状況からじゃちょっと想像しずらいけど。友達に借金するなんて。

 プライドの高いミヤコは三四郎に気があったかも知れないけど、今の三四郎では満足しないだろうし、三四郎ももてあましてたんだから、ミヤコがイケ面の資産家に嫁いだのは結局、誰にとっても最善なことだったのかもしれない。
 三四郎は自分が投身しなくてはいけない学問の世界と、ミヤコの住むそれとは真逆の世界との狭間で強く後者に引かれていることを自分で認識しているにも拘らず、これに「ただ近寄りがたい」と言っているところにミヤコの高潔さ、虚栄の輝きが見える。そしてその近づきがたさこそが何も持てないミヤコの唯一の武器のように思われた。

 これだけ漱石を読み重ねてもなかなか心に響く場面に出会えずに、漱石つってもこんなもんかとわだかまっていた中で、それでもラストシーンだけはとても気に入った。別人が書いているみたいだ。
 三四郎は主人公でありながら、その主人公の心の様を知るのがなかなか難しい話だったような気がする。分りやすく言って、なにを考えているのか分らない。全ての事象は三四郎の上を滑っていくような感じで、三四郎はただそれを眺めているだけでその景色を見て特に何かを考えているような気もしない。三四郎が能動的だって言うのはそういうことなんだろうと思う。
 けど、最後にミヤコが結婚すると聞いて、ある日思い立って借りていた二十円を一人返しに行く様子に不甲斐なくも胸を突かれた。それが唯一の繋がりであるが故に、つい返しそこなっていたお金を、ちゃんとミヤコが嫁に行く前に清算するつもりなんだなと思ってちょっと感心した。三四郎のその心持もまたすがすがしかった。
 最後に、ミヤコをモデルにした画の出ている展覧会に出向いて、三四郎がタイトルが悪いと注文をつけると、『なんだったらいいんだ』と言われて、胸のうちで『ストレイシープ、ストレイシープ』と唱える場面が一番私の印象に残った。


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